校外授業の一週間前
カーズ先生が滞在してから一週間が経っていた。
頑張って早起きするようになり、彼らと食卓で顔を会わす機会が増えた。と言っても、早すぎると食欲がないのは変わらないので、水だけ飲んでいる状態だけど。
「……カーズが来たから、ミーナは起きるようになったんですか?」
マルクからこの世の終わりのような顔で質問された。彼が注意しても私の寝起きの悪さは一向に改善しなかったのに、カーズ先生が来てから治ったと勘違いしたみたいだ。
「違うよ。マルクとせっかく再会できたのに、ほとんど会話できる時間がないから、頑張って起きただけだよ。ほら言ったでしょう? マルクだけに無理をさせたくないって」
意思疎通は重要だ。特に私は前世を思い出してから間もないから、まだ世の中の現状をきちんと把握しきれていない。彼と会えない機会が少ないせいで、何も分からなくて、彼にばかり負担をかけたくなかった。
だから、彼が忙しい分、私が時間を融通した方がいいと考えたの。
高度な魔導の会話もできるしね。
「ありがとうございます。そんな風に気にかけてくれて感無量です」
「もうマルクったら言い過ぎよ」
「あなたからの好意が、私には嬉しくてたまらないのです」
前世でよほど塩対応だったせいか、マルクの反応が大げさな気がする。
彼から後光が差しているみたいにキラキラしている。
「あー、この甘ったるいやりとりは、どこまで続くのかな」
カーズ先生が胃もたれしてそうな顔でぐったりしている。甘いと皮肉られたけど、私たちにそんな要素はどこにもないから、彼の具合が悪いだけじゃないのかしら。
「調子が悪いなら、詳しく診てあげるわよ?」
「どうしてそうなるかな!?」
「まぁ、いつもどおりです」
時々、彼らにしか分からない会話をするのよね。まぁ、初めはいがみ合っていた二人の仲が良くなったみたいだから、良しとするわ。
いつもマルクたち先生は、私よりも早く出かける。遅れて一人で登校したら、教室にいた男女五人の同級生たちの表情が明らかに暗かった。私よりも幼くて可愛らしい顔が、揃ってしょんぼりしている。
「みんなおはよう! どうしたの? 元気ないように見えるけど」
「それがさ、大変なんだよ! 校外授業がなくなるかもしれないんだって!」
一人の男子生徒が、すかさず答えてくれた。
クラスには、貴族など色んな家系の子が混ざっているけど、学校内では生徒同士は対等だと校則で定められているので、先生以外には基本敬語は使わない。マルクが校長になってから変わった規則みたいね。
魔導の素質があれば、出身にかかわらず同じ職場で働く可能性がある。それを察して、あからさまに身分を笠に着る人はいなかった。
「どうしてなの?」
楽しみにしていただけに残念な知らせをすぐに信じられなかった。
「それがさ、急に魔物が出るようになったらしいんだ。だから今、兵隊と魔導士がそこに行って調べているんだって。僕の家族が王宮で働いているから教えてくれたんだ」
「そっかー」
魔物くらいこっそり退治しちゃえばいいのかな。そう考えていたら、新たに教室に誰かが入ってきた。
知らない男だった。年は私より少し上に見える。制服を着ているので生徒のようだ。でも、顔が嫌いな奴に雰囲気がよく似ていたので、生理的に苦手な感じだった。頭は茶髪だけど、よく見ればまつ毛と眉毛が金髪なので、染めているのがバレバレだ。王族特有の色だ。
胸騒ぎのように気持ちがざらつく。
「ここにヘブンス先生の弟子がいると聞いたが本当か?」
教室は一瞬でシーンとなった。みんな顔を見合わせる。
「知らないでーす」
「分かりませーん」
黙っていればやり過ごせるようだ。
無視するのも悪いが、彼と関わりたくないので、口を噤んでいた。
「年は十六で、名前はミーナと聞いている」
えっ、そこまで情報が漏れているの?
みんな一斉に私を見た。なぜなら、この初等部一年の中で十六歳のミーナは私しかいないからだ。でも、その目は疑心暗鬼に満ちていた。
「でもさー」
「……うん」
「ちょっとあり得ないよねー」
私はほぼ毎日何かしら躓いて筆箱や鞄の中身をまき散らしているから、信用が全くなかった。
みんなの突っ込みに苦笑いするしかない。
「多分、ここにはいないと思うよ」
クラスメイトがそう答えると、訪問者は「そうか」と言ってすぐに消えていった。見えなくなった途端、どっと力が抜ける。安堵のため息をつくほど緊張していた。
「って答えたけど、本当に違うんだよね?」
「うーん、実はその、本当だったりするんだけど……」
友だちに嘘をつくのは心苦しいから、躊躇しながらも正直に答えた。すると、みんな後ずさるくらい驚いていた。
「ええ!?」
「一体どうして!?」
「えーと、私の実技試験が結構速かったからって聞いたよ? でも、他がちょっと未熟すぎて放置できないからって弟子入りの話があったの」
一応、そういう建前で彼の弟子になっている。
実技だけは下手さを演技できなくて、すんなりこなしていた。
「そっかー。確かに実技の成績は、ミーナは優秀だよね」
「うっかり魔導を発動しちゃう場合があるから、家族が魔導士じゃないと大変みたいだよね」
先日、高等部でそのうっかりがあって火災があったばかりだ。みんな納得してくれたらしく、うなずいている。
「それで、校長先生の弟子って、一体何をやっているの?」
「え? その、今は学校の勉強が優先ってことで、そこまでは」
「そっかー。入ったばかりだもんね」
「あの、それでね。弟子のことは知られたくないから、内緒にしてもらってもいいかな?」
「うん、いいけど……。でも、どうして内緒にしたいの?」
「あっ、わたし知ってる。お母さんが言ってたもの。女の子は魔導士として優秀だと、王様の愛人にされちゃうんでしょう? 特に大魔導士様と同じ黒髪の子が好みで、今の愛人も黒髪の女性らしいよ。校長先生の弟子ならなおさら目立って大変だよね」
急に国王の名前が出てくるから、ギョッと驚いてしまった。みんなも知っていたけど、口に出すのは憚っていた感じだった。
でも、この一人の発言がきっかけになったみたいだ。
「早くあの宣誓制度が変わればいいのにね」
「そうそう、アレのせいで国に逆らえないらしいね」
「うちの国だけみたいよ。いまだにそんな風に魔導士を押さえつけているのって」
「えー、そうなんだー」
みんなの口々から不満が溢れていた。
そうか。広く知られているのに未だに何も改善されていないんだ。
魔導士って、今は国にとって道具と変わらないんだね。
そもそも昔は違ったんだよね。魔導士ってだけで恐れられるから、脅威ではなく信頼の証として、魔導士から国に忠誠を示すために宣誓したんだ。国も魔導士に敬意を払ってくれたのに。
その関係は、今の国王のせいで壊れた。
暮らしを豊かにする素敵な仕事だと思っていたのに。
頑張った末にお偉い方の愛人って、私には理解できない。優秀な魔導士ってだけで社会的に評価されるのにね。
しかも、今の愛人も黒髪なんだ。ざらざらとした感じの悪い感情が胸にたまっていく。
「……うん。だから、弟子の件は内緒でお願いね」
小声で懇願すると、みんな深刻な顔で黙って了承してくれた。
ハッ、もしかしてマルクの好きな黒薔薇の人も黒髪で、国王の愛人になってしまったのかしら?
それなら辻褄が合うわ。既に人妻か故人って条件に。
「おはよう〜!」
考え込んでいたら、他に登校して来た子がクラスに入ってきた。
「おはよう! ねぇ聞いてよ!」
みんなの会話が再び校外授業の件に戻っていった。
放課後になり、呼ばれたので校長室に行くと、マルク以外にも人がいた。今日教室で見かけた男が立っていた。
わざわざ初等部のクラスを訪ねてきて、私を探していた人と同じだ。
男の面影は、若き国王にそっくりだった。たぶん血縁者。息子だろうか。
なぜ、ここにいるの?
「君がミーナか? 私は君の兄弟子のリスダムだ」
相手は友好的な表情をして声をかけてくる。あの男とは別人だと理解しているけど、あまりにも似ている。脳裏に嫌な記憶が否応なしに甦ってくる。胸が苦しくなって体が強張り、動けなくなる。自分でも驚くくらい狼狽していた。
「先ほど、初等部にいただろう? どうして名乗らなかったんだ?」
男が怪訝な顔を浮かべていた。
マルクに呼ばれたから来たけど、校外授業の件で魔物について尋ねたかったから私も彼に用があった。でも、今はこの目の前にいる男はいるせいで、それどころではない。
吐き気がする。忘れていたはずの、どす黒い感情が、戻ってくる。
前世で死ぬ直前まで私が正気を失うくらい酒を浴びるように飲んだのは、現実を見たくなかったからだ。
目を閉じたら、もう二度と目を開けたくないと願うほどだった。
生まれ変わっても同じ悪夢が続いているなんて、どんな罰なんだろう。
「ミーナ、どうしましたか?」
マルクが黙ったままでいる私を訝しんでいる。でも、答えられるほど余裕がなかった。
嫌悪感が膨れ上がっていく。これ以上ここにいたらヤバイ。爆発して手遅れになる前に部屋を出ようと数歩後ろに下がったときだ。
「待て」
男がいきなり私に近づいてくる。手まで伸ばしてきた。その動きはゆっくりだったけど、近づかれただけでゾワっと拒否感がきた。
「止めて!」
思わず悲鳴を上げ、近づいてきた彼の手を払いのける。相手が驚いた顔をしていたけど、なりふり構わず今度こそ逃げ出していた。