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ピアノソナタから〜消された彼らや彼女たち  作者: マリア・ラ・コーズ
3/3

忘却のピアノ

 啓介は少し前から前方の円卓に座る初老の男と若い女を見つめている。老いた鶏の足が若い娘の腕に触れる。鶏は高慢な鳴き声で自己主張している最中だ。そして娘の背中に足を回したりする。鼻の中は副鼻腔炎に犯され、娘の匂いを嗅ぐことすらできない。僅かに残った歯は膿にまみれ、不快な悪臭を放つ。鶏は顔にどうらんを塗り、模造品の鶏冠を着用している。少なくても啓介にはそう思えた。鶏はそれでもビールを飲み、醜い悪臭を若い娘にふきつけ、いまや、娘の手を握ろうとしている。

 啓介は前方のテーブルから視線を外し、ビールを口に含んだ。壇上では、五分前に会場入りした代議士のあいさつが始まろうとしている。

「いやいや、実にすばらしい講演でした。私もいろいろと考えさせられましたよ。いろいろと―」

 市内の医科大学で教授をしているという男はそう言うと、啓介のグラスにビールを注ぎ込む。啓介は教授の黒光りするスーツ、エメラルドのネクタイピン、さらには、銀縁の眼鏡の奥に潜む野心的な眼差しへと視線を移し、「いえ、それほどでも―」と言った。

 鶏の足が、いよいよ若い女の太股を這っていく。

 教授は隣の女にもビールを勧める。赤いスーツの女は啓介の顔、正確にはネクタイを見つめ、「先生の講演で、AIが創造をするということが、いかにばかばかしいかということが理解できましたわ」と言った。

「だって、先生の言葉を借りれば、人生がテーマを押し付けてくるんですもの―AIに人生なんでありはしない」

 啓介は「そうですとも」と言った。

 鶏は明らかに酔っていた。いまや、異臭を放つ泣き声も忘却したように、神への冒涜を続ける。

「ーとは言っても、いま医療界でIT技術は欠かせないものであることも事実ですよ。遠隔医療や電子カルテ、製薬関係でも」と言って教授が女にビールを注ぐ。「これも人間が優秀な子孫を残していくための創造的な役割と思えるんですがね」。そういうと教授は挑戦的な目つきで啓介に同意を求めた。啓介がそれには応えないでいると、赤いスーツが「教授は遠隔医療が専門ですものね。学長選挙もめっぽう強くていらっしゃる」と言った。

「いやいや、これは手厳しい」

「学長、誤解なさらないで。私はなにもITを否定しているわけではないのよ」

「そうでしょうとも。医療のIT化は市民の健康にいまや欠かせませんし、優秀な官僚でおられるあなたのご子息のように健康な子孫を未来永劫繋いでいくものですからね」

「そういった意味では、女性のほうが一枚上ね。神秘的な創造、出産の権利を持ち合わせているもの」

 女は啓介に視線を向け、同意を求めた。エメラルドは「男性も一役買いますがね―いろいろな意味で―」と言った。啓介はビールを勧める教授を手で制して、「そうですとも。ただ、そうはならなかった多くの彼女や彼らもおられましたが―過去に」と言って、席を立った。赤いスーツは「なにか―失礼なことでも」と言った。啓介は「いえいえ、少し酔いが回ったようですので、風にでも当たってきますよ」と言って席を離れた。酔いつぶれた鶏はいま、若い女に支えられて会場を後にしようとしている。啓介はエントランスホールの窓際に歩み寄る。


 黒い氷の底がきらきらと輝いている。啓介は先ほどからエントランスホールの窓越しに、思い出の断片を拾い集めている。名前も忘れてしまった人々や、因果関係のはっきりしない出来事の数々。つかの間の出会い、別れた人々、写真の彼女や彼ら。それらは、いま目の前に広がる無数の光の粒のように宙ぶらりんに漂っている。

「この曲は?」

「Pavanc pour une infante defunte」

 鍵盤の上を彼女の白く細い指が流れていく。ひと気のない放課後の静けさは、なぜか、啓介の心を魅了して止まなかったが、いまは、ピアノの音色が支配している。西陽が僅かに傾き、彼女の手元に差し込む。

「いつもピアノを弾いているの?」

「そうよ。私のときだけ―」

「私のときだけ?」

「私じゃないときは弾かないわ」

 啓介は床が軋まないように、ゆっくりと彼女に歩み寄る。彼は窓から校舎裏庭のアジサイを見つめ、再び、ゆかりの指の動きに視線を戻す。彼女の黒く光る髪、鍵盤を見つめる目元、そして、弓形の、彼女そのものの眉―。彼はこのピアノの演奏が永遠に終わらなければ良いのにと思った。

「僕が怖くない?」

「どうして?」

 そうやって、彼と彼女の付き合いが始まったのだ。

 青いワンピースの女が啓介に歩み寄る。「先生、何か不都合でもございましたか。市長夫人が心配しておられるようで―」。啓介は青い女の首と耳の真珠を見つめ、その主に「少し酔っただけです。すぐに戻りますよ」と言った。会場から代議士の挨拶が漏れ聞こえる。それは「皆さんは不妊治療を支援するためにチャリティーを企画された。私も陰ながら応援させていただきたい」と言った。青い女は「先生には本当に感謝してますのよ。私たち女性の会のチャリティーで、まさか講演いただくなんて―」と言った。

 パーティー会場は「少子化の影響は実に深刻です。子供を産み、優秀な子孫として育てていく環境づくりはいまや、欠かせない」と言った。啓介は「あなたがたの社会貢献には敬意を表します」と言った。青い女は、「先生、なにか冷たいお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」と言った。啓介は「それには及びませんよ」言って、再び窓の夜景に視線を向けた。

 窓ガラスには会場に戻っていく青いワンピースの後姿と、どぶや汚物の臭いがふつふつと湧き上がる路地裏を映し出す。黒い板張りの長屋が両側に覆いかぶさり、雨上がりでぬかるむ路地に影を落としている。軒先でネグリジェ姿の女が髪を梳いている。女は怪訝な目つきで彼をにらみ、再び、髪を梳きはじめる。

 彼は水溜りを避けながら路地裏を進む。バラック小屋の暗闇から赤ん坊の泣き声や男の怒鳴り声が沸きあがり、通りの先のくたびれた歓楽街に反響している。歓楽街をやり過ごし、橋を渡り、手前の坂道を上れば、彼の帰りを待つ祖父母の家だ。彼を化け物と罵った実父は三年前に他界した。全身に回ってしまい、もう駄目ですな―というあれだ。子供ながらに啓介は、そう言い放った医師の言葉をなにか愉快に感じたものだ。その一年後に、啓介を事あるごとに懐中電灯で殴った実母が後を追った。

 陽が遥か西に傾き、突き当りから二軒目の長屋を照らし出す。入り口の横にはられた板―それはそこに座り、足をぶらぶらさせている。占領軍の姿は、いまやどこにもなく、疲弊する居住区と歓楽街、そして板に座る彼女がいる。遠くからでも分かる光る黒髪と、濡れた唇。黒く、透き通る瞳が彼を捉える。同級生たちとまったく違う目。彼は足早に彼女の前を通り過ぎ、再び、振り返ると、彼女はまだ、彼を見つめている。よく観ると、セーターのいたるところに毛玉が張り付き、サイズの不ぞろいなサンダルを履いている。

「しばらく学校で見ないね?」

「うん」

「いつも、ここに座っているの?」

「そうよ。あんたがここに座っていたら、ただの馬鹿に見えるだけだけど、私がすわっていたら、どう?」

「―――」

「まあ、いいわ。今日はピアノのレッスン日なのよ」

 彼女がそう言うと、突然、背後の引き戸が開き、花柄のワンピースが男を伴って出てきた。髪を後ろになで上げた大柄な男は、啓介とゆかりを上目使いに見つめ、そのまま、歓楽街の方に歩いていく。路地裏に相応しくない黒光りする革靴は前方の十字路まで行き着くと立ち止まり、その主はタバコに火をつける。花柄はゆかりに「しばらく帰らないから」と言って、お札を何枚か握らせた。啓介が花柄の顔を覗き込む。狐目の女は、啓介の顔を睨むなり、さらに目を細めて、「なによ―薄気味悪い」と言ってきびすを返すと、ひらりと男の下へ駆けていった。ユカリはしばらくの間、男に駆け寄っていく母親の後姿を見つめていたが、振り向きざまに、啓介をはっとさせるような笑みを浮かべた。天子がいたとしたらきっと、このような笑みを浮かべるに違いないと啓介は思った。

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