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ピアノソナタから〜消された彼らや彼女たち  作者: マリア・ラ・コーズ
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例えば、バイオリストの場合

                      ◇


 車窓には海を象る丘陵地が連なる。熊笹に覆われた裸同然の丘陵地帯―その裾野や平坦部には、曲がりくねる枝を四方に伸ばす柏の低木帯で覆われている。海岸林と砂浜の間には原生花園が取り残されているはずだが、いまは黒々とかすんで定かではない。渡辺律子はタバコに火をつけると、再び、アクセルを踏み込んだ。そして、昨夜の不快な夢が再び、律子の脳裏をかすめた。こうしたときの彼女は常に慎重になる。そのかすかな糸口が再び深淵の中に埋没しないように、ゆっくりと糸を紐解いていくのだ。初めに現れたのはジャン・ミッシェル―。不快なキャストとしては申し分のない男だと律子は思う。そして沈黙。沈黙は糸のその先をいざなう。夢は彼女にとって、常に特殊なものなのだ。その夢がどんなに不快なものであっても、幼少時代から夢の解読が彼女の癖だったのだ。昨日の夢には何か特殊なメッセージが隠されているに違いない―といった繰り返しは、さほど重要な効果をもたらしたことはなかったが、それでも彼女は夢を引っ張り出し、解体し、記憶に刻み付けておくのだ。―焦ってはいけない。考えないふりをする。フランス人の御曹司。そばかすだらけの白い顔とブロンドの髪。目元の代名詞は軽蔑―人を見下すような目つき、ドイツ人やアジア系人種を見るときの、根拠のない灰色の冷たい目―音楽院時代の同期生がいま、律子の目の前にいる。

「それで、演目は決まったのかね?」。校長と、ピアノの教授が共演者を見つめる。その傍らには横暴な義母と、その息子である前夫が並んで立っている。―なんというミスキャスト。この者たちが、音楽院時代の自分を高みから見下ろしているなどということは―。「クロイツェルソナタがいいわ」と義母が校長に同意を求める。―演歌しか知らない義母がクロイツェル?―「ベートーベンを袖にしたクロイツェル―それは愉快だ」と前夫が陰湿な微笑を浮かべる。オーストリア人の校長がジャンの肩に手をかける。頭が禿げ上がり、大柄な男は「はじめのブレストは難しいが、どうかな?」とジャンの目元を見つめる。

「その後のアンダンテ、ヴァリエーション、そしてフィナーレ―怖いところはそうないでしょう」と、ジャンの教授が代弁する。

 夢の中の律子はジャンをにらみ、「本当はトリオが演奏したいんです。例えばヘンデルのパッサカリアとか、ブラームスのとか―」と皮肉を込めて言う。前夫は「この音楽院にはチェロ奏者はいないのだよ」と言って、義母の腰に手を回す。義母は律子の目元を見つめ、「あなた、まだピアノに嫉妬しているの?」と言って、律子の前夫を引き寄せると、口に強くキスをする。剥げ頭の厚い唇もいまやジャンの唇に触れようとしている。いや、オーストリア人の顔はいつの間にか、律子の実父に変わっている。白衣を着た実父の唇がジャンの唇に触れる。両ペアの異常に長いキッス―舌を絡ませて、それは続く。律子はピアノの教授に向かって「これは偽装されたソナタ形式だわ―」と言った。それは叫び声に近かったために、律子は突然、目を覚ましたのだ。夢によって引き起こされた不快感があまりにも大きかったので、律子はベッドから飛び起き、バスルームに飛び込んだ。

 それから十時間後、律子は車で海岸線を北上していた。4パートで分奏する静かな和声に、氷のようなニ短調が差し込んだときに夢が突然、蘇ったのだ。この曲を作曲した偉大な男がアレグロ・モデラートの展開部に野心的なカデンツァを置いたように、夢の演出家は、あの者たちをキャストに迎えた―律子はタバコをもみ消し、カーステレオの電源を切った。

 夢は未来の暗示、それとも警告?―その象徴的な映像は、過去の節目に起きた出来事も、それぞれの時代に関わった人々でさえも、なんの脈略もなく、平等にしてしまう。現在の特権的な地位を築くまでの、経緯などをまったく無視して、過去がしゃしゃり出てくる。―いまの私は無視されるのだ―律子は再びタバコに火をつける。

 音楽院で嫌われ者だったジャン。パリで幾つかの企業を経営していた男の次男は、ドイツ人の同級生のことを「ボッシュ」と言い、律子のことを「ニップス」と陰で呼んだ。そうした差別的な陰口が積み重ねられ、ピアノの技量に反して、院内では鼻つまみ者になっていった。音楽発表会では常に、律子にジャンが押し付けられた。「東洋人はフラッグ料理が好きなのかい?」。オーストリア人の同級生らがいつも律子をからかった。ジャンが律子の伴奏者に選ばれた数日後、二人で練習室にいたときに、ジャンが「イ長調ソナタ作品47は姦通を誘うんだ」と言った。律子が古く痛んだ復刻版の楽譜から目を逸らし、ジャンの口元をにらみつける。それは「だって、トルストイがそう言うのだから、多くの男女が熱中する偉大な音楽だって、親密に不貞を働くための」と言った。ジャンが目を細めて律子の体を嘗め回すように見つめる。「男女の、愚かな配偶者の嫉妬も同時に引き受けることになるがね」と、ジャンがにやける。歳をとりすぎた少年のように低い声だと律子は思ったものだ。

 当時、律子はこうしたジャンの人を見下すような発言や性的勧誘に対し、憤りを感じるどころか、哀れみを感じたものだった。この青二才にとって、ピアノの探求―そうした学問の世界同様、感情の世界は謎だらけのものなのだろう―と心の中で嘲笑していた。だから、年老いた男―文豪などのたわごとに駆り立てられるのだとも。

―それにもまして、あの者たちだ―人の神経を逆なでする、バラの蔓のような義母の声が聞こえてきそうな気がして、律子は再びCDを差し込んだ。澄み切ったニ短調の独奏にクラリネットが絡みつく。律子はボリュームを上げる。コントラバスとティンパニの低音が重なり、クラリネットとファゴットが独奏の動機を模倣していく。―それにしても、なぜ、義母と前夫なのか? 夢はいま、自分が抱える課題に対するヒント? 警告?―独奏がオーケストラに引き継がれ、4分の6調子の不安定な調性を展開する。義母の声が変ロ長調から変ニ長調に変化し、重音奏法の独奏をクラリネットやファゴット、ビオラが模倣する。まるで、義母と住んでいた当時に見舞われた耳鳴りのようだと律子は思う。永遠に続く義父への呪い事、そして、口を挟ませない独奏―。人を不安にさせる沈黙。


 河口間近の川を小型フェリーで渡ることを予測していた律子は、前方に現れた巨大な斜張橋を確認すると、自分がこれから向かおうとしている寒村地帯はもはや存在せず、何もかもが近代化され、変わり果てた光景が、海沿いの丘陵地帯のその果てに広がっているのではないかと感じた。そうでなければ、繋ぐというニーズがなければ、このアイランドに点在する過疎地の人々をことごとく吸収し、何もかもが世界と連動しているような顔をしている左岸後方の都会と、当時としては、もはや住むに値しない右岸一帯が、あのような巨大な構造物で結ばれるわけがないと律子は思った。

 律子は橋中央の駐車帯に車を滑り込ませた。遠くに河口を望む展望スペースには数人の人影があった。彼女は車を降りると、橋中央に張り出す展望スペースに歩み寄る。欄干から川を見下ろす。右岸にあったはずの粗末なフェリー乗り場は既になかった。律子は河口から遡上してくる春風を浴び、遠くの光る海原を見つめた。すると、展望台のモニュメントを眺めていた女性が律子に気付き、もしかして―と語りかけてきた。もっとも、誰かが律子に怪訝な表情で話しかけることは珍しいことではない。彼女は仕事の傍ら、地元ローカル局にレギュラー出演していて、司会が注目に値するような出来事や人物を紹介するたびに、相槌を打ったり、もっともらしく微笑んでいたりしていた。最近では慈善団体のパーティーや地元企業のPR演奏にも頻繁に出向くようになっていた。そんな彼女に対し、眉をひそめる仲間も多かったが、楽団の経営状況を思えば、それもいたし方がないというのが彼女の考えだった。

「あら、ごめんなさい。よく声をかけられるんでしょ?」

 女性の髪はベリーショートにカットされ、絞まった体には黒いパンツにアイヴォリーのシャッツ、黒いジャケットが添えられている。生え際の白いものや目じりの皺を見る限り、自分と同じ五十代後半と律子は踏んだ。しかも、自分のほうが体系的に、まだ、メリハリがあるとも。左岸から二〇㌔後方の大都市ではないにしても、その手前の港町に住んでいるというので、右岸から一〇㌔ほど北上したところにある寒村について何か知らないかと律子は訊ねた。「海岸の丘陵地に教会のある町なんだけど」と言ったが、「教会に隣接する診療施設」については口に出さなかった。

「高台の上に教会のある町なら知っているわよ」と女性が答える。「ただ、教会はもう取り壊されて、老人ホームになっているけども。私たちそこから戻る途中なの。夫の義父が入所しているものですから」と言って、モニュメントの脇に立つ男に視線を向ける。陽がわずかに傾いたような気が、律子にはした。「失礼ですが―」と発した律子の口が「隣の診療所は?」と言った。思わず飛び出した自分自身の言葉に胸のどこかがたじろいだような気がした。女性は「診療所?」と言って、律子の顔を覗き込む。律子は「昔、あったと記憶しているんですけど、それで?」と重ねて訊ねた。女性は「仮にあれが診療施設だとしたら、私が嫁いできたときには既に廃墟になっていましたわね」と言って、男に再び視線を送る。男が待ってましたとばかりに、二人に歩み寄り、サングラスを取ると「よくテレビで拝見していますよ。定期演奏会も―」と言った。女性は夫に「お義父の望郷の施設の隣の廃墟だけど、あなた何か知っている?」と訊ねた。

 男は「あぁ、あの診療施設だね」と、律子の目元を見つめる。もうとっくの昔に廃墟になってしまったとも言った。

「その廃墟が何か?」

「いえ、大したことではないの。以前、知り合いの方が働いていたものですから」

「あなたと知り合いなんてうらやましい限りね」

 女は夫に歩み寄り、律子に微笑みかける。

 男は「今はもう何もありませんよ。昔は多くの子供たちが送り込まれていたけど」

 律子は、それには答えず、河口方面に視線を流す。

 男は「あっ、余計なことを言ってしまって」と気まずそうに律子の背中を見つめた。

 律子は「望郷」と心の中でつぶやいた。

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