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ピアノソナタから〜消された彼らや彼女たち  作者: マリア・ラ・コーズ
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帰郷



 彼は少しの間、ガラス越しに雪原を見つめていたが、ピアノの音が駅構内に流れ始めると、微かに「ごきげんよう」という女性の声を聞いたような気がして、後ろを振り返った。ただ、声の主らしき人影はどこにもなく、少し離れた改札口付近では数人の乗降客らが行き交っているだけだった。不安定な和音が構内に流れ、9小節目に暗い主旋律が重なる。「この曲は?」「―ValSe Triste―」。彼は首を横に振る。―ばかげたことだ。彼女の、若い彼女の声をいまさらながら耳にするなどということは―。彼は腕時計を覗き込み、閑散とした構内に再び視線を戻す。「私はもう空っぽ。音符も読めないわ」。忘却の遥か彼方で彼女の面影が宙ぶらりんになっている。「もうこの写真は必要ないのよ。あなたにあげる」。当時の彼女が彼に囁きかける。―彼女は確かにそう言ったのだ。そして彼女は忽然と姿を消してしまった―彼は再び、駅裏の雪原に視線を向ける。

 恒星は既に隠れ、雪原が青白くうねっている。彼は再びここに戻って来たことを後悔し始めていた。駅はガラス張りの大きな箱に変わり、駅前のホテルはショッピングモールに取って代わっていた。通りを挟んで正面にあるはずの百貨店は跡形もなく取り壊され、いまは空き地となっている。一時、彼女と過ごした、彼の記憶の中にある駅前は、もうどこにもなかった。

 彼は床に視線を落とす。磨き抜かれた黒い御影石に自分の姿を探す。あの者がこの世に送り込んだミスキャスト―少なくても彼はいつもそう思うのだが、その顔はどこにもなかった。彼は視線を上げる。構内中央の裸婦像―張りの良い乳房、ふっくらとした下腹部、そして、肉付きのよい腰付き―。その神秘的なイメージを忘却のキャストの多くから拾い集めようとするのだが、該当する彼女や彼らはどこにもいなかった。

 きっかけは、専門医とのやりとりだった。彼は一カ月前の記憶をそっと拾い上げる。主診察室の二面の壁はガラス張りで、彼が向き合う側には、足元に見事な二本の欅の大木がある。そこから大学棟の方に銀杏並木が続く。師走間近とあって、大学構内を行き交う人影はまばらだ。「秋なら銀杏並木が見事なんですがね。いまの大学構内は殺風景なものですよ」とドクターがどら声の馴れ馴れしい口調で彼に語りかける。彼はそれには応えず、大学病院の中庭に視線を落としたままだ。しばらくして、そっと目線を上げると、目の前のガラス面に薄っすらと専門医の姿が浮かび上がる。黒皮の椅子に足を組んで座り、ファイルをさりげなくめくっている。ツイードのスーツに、ハイネックのセーター。白髪交じりの黒髪は、整髪料でかため、後ろになでつけていた。白衣は部屋の隅のハンガーラックにかけられたままだ。

「それで―、先生」と、彼は静かに言った。「死刑執行はいつなんですか? それともまだ、生きながらえるとでも」。部屋の中は静まり返っていた。病院塔を上昇する展望エレベーター内で、何度も練習してきたセリフだった。ただ、その冗談めかしたセリフは少しもウケなかった。

 外国留学時代にテニスをかじったという専門医は、背が高いというわけではないが、肩幅が広く、重量感があり、威圧的に見えた。専門医はいつも、彼の言葉を待った。「ということは?」という言葉を。医師はそのタイミングを常に逃さなかった。ドクターは決まりごとのように世界最先端の治療法や治療薬についての独演会に突入するのだ。時には席を立ち、有望な治療法や魔法の新薬、強力な化学兵器、そうしたものについて、畳み掛けるように演説を続ける。そうした最新兵器は武器庫にいくらでも保管されていて、医師の言葉を信じれば、あとはそれを使用する決断と、継続と、運だというようなことを延々と続ける―はずだった。

 ただ、この日ばかりは、椅子に座ったままだった。

 専門医はファイルを閉じて、しばらく、傍らのハイビジョンモニターを見つめていたが、彼に視線を戻すと、太い眉と唇、さらには迷路のようなひげを駆使して、「私はまだ、諦めたわけではありませんよ。ミスター佐藤」と笑みを浮かべた。「いや、本当に」とも言った。

 再び、沈黙が流れた。

 佐藤啓介は何も耳に入っていなかったように、医師のほうに振り返る。医師は腰を上げると、ハンガーラックから白衣を拾い上げる。そして、医師であることを忘れていたとでもいうように、白衣に袖を通し、しわを調えながら啓介に歩み寄る。そして「ご家族は?」と言った。啓介は「縁がなかったものですから―もっとも、このような私ではありがちな話ですが」と言いながら、ハンガーラックの方に歩み寄り、コートを手にする。さらに、医師の思慮深そうな目元を見つめ、「本当にありがとうございました。感謝しています」とも繰り返した。外国帰りの医師は肩をすぼめ、啓介に歩み寄り右手を差し出す。医師は「あなたが著名な知人らを通して私のところに来たように、私もいろいろな方面に顔が利きますから」と言って啓介の手を握った。啓介は「お気遣いなく―」と言うとドアに向かう。「僕はもう、この体に何も入れたくないものですから―」。そう言うと再び医師と向き合う。「それも選択の一つですな」というと、医師は再び啓介の手を握った。顔は微笑んではいなかった。

 エレベーターホールに向かう廊下には西日が差し込んでいる。「私はこの海岸の砂になるのよ」。そんな彼女の声が聞こえたような気がして、啓介ははっと息をのんだ。後ろを振り向くと、医師はまだ廊下に立ったまま彼を見つめている。

 帰宅途中、彼は自宅マンションに隣接する緑地公園のベンチに腰を下ろした。何のアクションもなしに、慣れ親しんだものの中に入っていくのが恐ろしかった。かといって、何をすれば良いのかも分からない。地下鉄駅からの帰り道、慣れ親しんだ緑地公園、20階の3LDK―当たり前であるはずの日常が、すべてよそよそしく感じられた。首都圏のざわめき全てが自分に背を向けたような感覚だった。「これらのことは全て、僕らに責任があるわけではないのだ」。啓介は幼少時代の数少ない友人のひとりだった博史の声を思い描き、裸同然のプラタナスを見上げる。―博史がそう断言するのだから、まず間違いはない。僕や彼女だって責任を負う必要はまったくない。それでは、どうしてこんなにも難問が多いのか―彼は縄でくくられたツツジに目を向ける。―僕らに責任はないとして、なぜ僕らは? 僕らが気付かないうちにこうなってしまったのだろうか―。公園の淵では刈り込まれたアジサイ群が眠っている。彼がマンションを購入する決め手となったアジサイの蒼はどこにもなかった。

 彼はベンチから腰を上げると、自宅マンションのエントランスに向かう。手入れの行き届いた芝生内のアプローチを啓介の足が歩く。歩いているなどとは知らなかったとでもいいたげに、啓介は眉をひそめて歩く足を見つめている。ふと、我に返ると、指が郵便受けのダイヤルを回している。指は啓介の前に一通の封書を差し出した。「僕らの周りには、あまりにも多くの難問が満ち溢れているため、こんな僕でも心が折れそうになることがある」。啓介は過去の博史の言葉を思い描きながら、封書を開いた。遥か過去に置き去りにしてきた街からの講演依頼だった。「もうアジサイの花を見ることもないわ」。過去の諸橋ゆかりは確かにそう言ったのだ―と彼は思った。



 彼はガラスに映る自分の黒い影を見つめている。外はいよいよ漆黒だ。彼は持参した写真をバックから取り出す。モノクロの色褪せた写真。光沢の向こう側の彼女は、いつも暗い眼差しで彼を見つめる。無地のセーターに明るいスカート、素足にサンダル。黒髪が肩にそっとかかり、前髪が綺麗に切りそろえられている。黒く切れ長な眉は、紛れもなく彼女のものだった。写真には彼女のほかに、八人の同級生が写っている。誰もが、包装された小箱を手に持ち、暗い眼差しで笑みを浮かべている。写真の左端には明るい色のブラウスとスカート姿の指導者―博史の言う「ミセス良子」、綾野良子が、このときばかりは、僅かに微笑を浮かべて立っている。ミスキャストである彼は、彼女の横で、笑いともつかない、ほころびを顔に刻んでいる。少なくても彼にはそう見える。誰もがカメラに視線を向けているというのに、ただ一人の女の子である彼女だけは、どこか宙を、カメラを通り越して、その遥か後方を見つめているように彼には思えるのだ。

「なんで私が―」。記憶の中の彼女が彼の耳元で囁く。西陽の差し込むロビー。眼下の中庭には白衣姿の人影が行きかっている。彼女の好きなアジサイが花をもった―確か7月。当時の彼女はうつむいたままだった。新緑がまぶしい花壇。彼は記憶を手繰り寄せる。蝶を魅了するブットレアの開花はまだ先だが、ハーブ類―ああ、なんという名前だったか―今では定かではない。色彩ですらある。昆虫たちを狂わすアリキュミラモリスの発情した匂いが彼の記憶で漂う。

―このあと、少しして、僕らは、あの裸婦像の完璧なまでのものを奪われるのだ―

 彼は裸婦像から視線を外し、今一度、硝子越しに駅前を、期待を込めて見つめる。ただ、そこにはやはり百貨店はなかった。空き地があるだけ。

 彼は再び腕時計を覗き込み、駅構内を見つめる。改札口付近からベージュのロングコートを着た女が彼に手を振る。女は裸婦像の横を通り過ぎ、彼の目の前で立ち止まると「佐藤先生、もうご到着されてらっしゃったんですか?」と言った。

 啓介はベンチから腰を上げ、「駅周辺がどのようになっているかと思いましてね」と言って女に握手を求めた。

 女は一瞬、躊躇した。彼は笑みを浮かべ、「やはり、このような私とでは嫌ですかな」と言った。

 女は「ご冗談を―」と言って、手袋を外し、手を差し出すと「早く到着されるなら、ご連絡いただけたらよろしかったのに?」と切れ長な目元をさらに細めて笑みを浮かべた。

「それには及びませんよ」と彼は言った。

 女は「それにしても、驚かれたのではないですか。ここ十年でこの辺もずいぶんと変わりましたから」と裸婦像の方向に視線を逸らした。

 彼はそっけなく「そうですね」と言った。

 女は腕時計を確認すると「会場では先生のご到着を、みなさん楽しみにしていますわよ」と彼に向き直った。「車を待たせております」とも。

 彼は今一度、駅裏の雪原を、裸婦像を、百貨店八階空間を、そして鍵盤に触れる、または、夕暮れの砂浜でかすんでゆく彼女―諸橋ゆかりを忘却の彼方に見つめながら、ロングコートと連れ立って歩き始めた。そして、「ご家族は?」と言った。

 女は「長女と息子―もう社会人で、独立しておりますが」と軽く笑った。彼は「それは、それは良かった。生きていくうえで、もっとも重要なことですからね―ご子息がおられるということは勇気付けられる」と言って、コートの前を結んだ。女はそれには答えず、「先生、参りましょう」と言った。ピアノの旋律はラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調第2楽章」に変わっていた。過去の彼女がそう言ったのだから間違いないと彼は思った。

 駅前の気温計はマイナス20度を示していた。雪がちらつき始めた。「私は忘れ去られるわ」というゆかりの声を再び聞いたような気がした。彼は一瞬、後方を振り返り、ガラス張りの駅舎を見つめた。そして、ある言葉を呟いたが、白い息にかき消された。ロングコートは「先生、いま、何か?」と言った。彼は「いや、いいのですよ」と言って黒塗りに乗り込んだ。

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