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ヒルコの復活

         1 絶壁に行く、絶壁


 小学六年生の水泳の時間であった。

 もともと周りの風景に対して垂直に見える充輝(みつてる)の頭が、児童用の青い水泳キャップを被ることによって、さらに際立って垂直に見えたらしい。

 水泳キャップをつけた充輝の頭を見て、悪ガキどもが「おまえの頭、絶壁だな。やーい絶壁、絶壁」と、はやしたてたのだった。

 充輝は、それからずっと「絶壁」という個性豊かなあだ名で呼ばれ続けている。

 朝の全校集会の時でも、「おーい絶壁、歯を磨いてきたか」とか、帰り際のホームルームの時間でも、「絶壁、宿題忘れんなよな」とか、母さんがおめかししてやってくる授業参観の時でも、「おめえの母さんきれいだよな。絶壁」だとか……。

 そうやって何年も何年も「絶壁、絶壁」と言われ続けていると、どういうわけか、腹もたたなくなるらしい。

 青春真っ盛りの高校生になった充輝は、むしろ本名で、充輝と呼びすてされるよりも「絶壁」という愛称で呼ばれたほうがいいと思っている。「絶壁」というあだ名に、親近感さえ持ち始めているのであった。

 しかしである。いくら「絶壁」というあだ名が、親愛の表現だと理解できていても、必要以上に、はやしたてられると、やはり頭にくる。

「おーい、絶壁。これから行く御前の岬(おまえのみさき)って、おまえの親戚か。自殺の名所で有名なスポットが親戚だなんて、おまえも鼻が高いだろう。はっはっはっはは」

 今日も、轟三左衛門(とどろきさんざえもん)が、充輝をからかった。

「なんで、自殺の名所がオレの親戚なんだよ」

「だって、あそこ断崖絶壁だろう。断崖絶壁。絶壁ー おまえと同じじゃん」

「同じじゃあない!」

 充輝は、三左衛門の頭をポカリと殴った。

 三左衛門は、充輝の親友である。それゆえ、いつも充輝のことを気軽に「絶壁」と呼んでいる。けれど、これから行く自殺の名所が、おまえの親戚だなんて茶化されるとやはり面白くない。

「なんで、時代錯誤のおまえにそこまで言われなくちゃあならねえんだ」

 充輝はもう一度、拳を振り上げた。

 断っておくけれども、三左衛門という名前は本名である。なぜ親が、この平成の世の中に、そんな古臭い名前を付けたのか一向に分からんが、三左衛門はこの名前のせいで、この江戸時代とか、この時代錯誤とかと言われて、からかわれているのであった。

 からかわれて、黙っている三左衛門じゃあない。

「おっおっおお。言ったなあ~ 絶壁に……、自殺の名所が親戚の絶壁に、時代錯誤と言われる筋合いはないんだよ。やーい、絶壁ー 絶壁ー」

 と、反撃する。

「なんだと、この時代錯誤」

「時代錯誤なんて言うな、この絶壁」

「時代錯誤、時代錯誤」

 この二人は、いまどきの小学生でもやらないようなくだらない喧嘩を時々する。幼すぎると言えばそれまでだが、二人にとってこれが真の友情の表現らしい。じゃれあいの喧嘩をすることで、友情をはぐくんでいるのである。そういうことなので、充輝は親愛の情を込めて、三左衛門の頭を軽く殴った。

「また、叩きやがった。それも、グウーで」

 三左衛門が、充輝に抗議をすると、充輝は、また、(こぶし)を振り上げて、

「なに、もう一回叩いて欲しいのか。よし、じゃあもう一回……」

 と、三左衛門を脅かしたのであった。

 五月。日曜日の午後。天気は快晴。ポカポカと暖かい日差しが、周りの緑に溶け込む一日である。

 こんな日は、クラブ活動なんかほったらかしにして、可愛いガールフレンドなんぞ連れて、イチャイチャと戯れてみたいものだが、ここにいる四人には、残念ながら彼女と呼べる女の子はいないのである。

 本人たちは、「彼女なんかいらない。オレたちはクラブ活動に青春をかけているのだ。女の愛なんていう、そんなまやかしみたいなもんはいらないのだ」とか言って、笑ってごまかしているが、四人の生徒手帳の裏側を覗いてみると、好きなアイドルの写真が所狭しと、貼りついてあるのである。内心では、四人とも女の子に非常に興味を持っている。

 男というものは、そういうものなのだ。

 さて、ここにいる四人というのは、氷川高校(ひかわこうこう)超常現象研究部の面々である。

 メンバーを紹介すると、いつも持ち歩いているタブレットで、検索ばかりしている橋本隆(はしもとたかし)と、天ぷらが大好きな肥満児、及川博之(おいかわひろゆき)。充輝のことを、からかってばかりいるチビの三左衛門と、絶壁のあだ名を持つ本編の主人公でもある尾石充輝(おいしみつてる)の四人である。

 超常現象研究部、略して超研(ちょうけん)には、この四人の他に、超研の部長であり、占い師でもある吉家宰三(よしいえさいぞう)という男がいる。

 宰三だけが三年生で、残りの四人は高校二年生である。超研は、この五人のメンバーで活動しているのであった。

「一週間前も、自殺があったんだろう。そこで……」

 充輝の隣で、博之がぼそりと言った。

「就職活動に失敗した大学生が、崖から身を投げたと言われていますが……」

 隆が、銀縁の眼鏡に手をかけた。

「大学生!? 男か女か? どっちだ、ケンサク?」

 三左衛門が、鼻を擦った。ここでいうケンサクというのは隆のことである。

「女性ですよ」

 隆が、そう答えると、

「なぬ、女! もったいない」

 と、三左衛門が肩を落とした。

 女子大生といえば、きっと二十代であろう。ピチピチした若さ溢れる年ごろである。あっー、もったいない。

「今年に入ってから、もう十五人目ですよね」

 博之が言う。

「なぬ、十五人もの女が、身を投げたのか!?」

 三左衛門が、さらに肩を落とした。

「いやいや、そういうことじゃあなくて……。自殺者が十五人目だという話ですよ……。大変な事態ですよ、これは……」

 隆が腕を組み考え込んだ。隆は、何か疑問に思ったことにぶつかると、すぐに腕を組んで考え込む。考え込んで分からなくなると、いつも背負っているリックサックからタブレットを出して、検索する。で、そんなもんだから、隆と親しい友人たちは、隆のことを本名で呼ばないで“ケンサク”と呼んでいるのである。

 隆が検索している横で、博之がふっくらと膨れている頬に両手をあてて、

祟られ(たた)ているな。絶対、祟られているな。呪いがかかっているんだよ。御前の岬(おまえのみさき)は……。僕、聞いているんだ。二、三日前にも、ここで自殺した人の幽霊が出たって話し……。こ、怖い。怖いよー」

 と、言うと、充輝は……。

「だから、オレたちが調査にやってきたんだろう」

 と、笑い飛ばした。

「おまえはのんきでいいよな。幽霊、怖くないのか? 俺だって内心は博之と同じで、少しだけ怖い。少しだけどな」

 と、三左衛門が言う。

「怖くねえよ。オレら超研だぜ。超常現象を研究する超研。その超研が幽霊を怖がってどうする?」

「そりゃあ~ そうだけど……」

 三左衛門は言葉を濁した。言われてみれば確かにそうである。超常現象を研究する超研が幽霊を怖がっていては話にならない。

「でもよ、幽霊が出る時間帯は夜だぜ。それも草木が眠る丑三つ時と相場が決まっている。なのに、なんでいまなんだ? こんな真昼間から幽霊なんかでるのかよ」

 おまえ、怖いんだろうと、言われたのが悔しいのか、三左衛門が、そういう。

「夜だろうと昼間だろうと、出るときは出るんだよ。心霊写真、知っているだろう。心霊写真、昼間にもたくさん撮られているだろう。出るときには出る」

「しかし、こんな真昼間にいくらなんでも……」

「とにかく! オレは嬉しんだよ。こんな近くに幽霊スポットができてよ。そんでもって、オレたちが最初に幽霊の存在を世の中に知らしめてやるのよ。博之、カメラは用意してきているだろうな? スマホじやあ心細いぞ。博之が持っている高級なカメラじゃあないとな、決定的瞬間が撮れん」

 充輝が博之に用意してきたのかと聞いたのは、三千万画素の有効画素数を誇り、赤外線機能はもちろん、瞳フォーカス機能やら、一秒間に二十コマの連写などがついている高性能のカメラのことである。

「用意しておけと言われたから、持ってきてますけど……」

 博之は、肩から下げた黄色のショルダーバッグの中から、高性能の高価(たか)そうなカメラを取り出した。

「感心、感心。幽霊が出たらすかさず撮れよ」

「ぼ、僕が!?」

 博之は、思わず後ずさりした。

(幽霊の写真なんか、撮れるかよ。僕はみんなが行くと言うからついてきただけなのに……)

 博之は幽霊や超能力には興味がない。そんな博之が超研で活動している理由は、ただ一つ。この部にいれば、いつか必ず空飛ぶ円盤(UFO)が見れるかもしれないと思っているからである。異星人に逢いたいだけなのである。博之は、UFOオタクなのであった。

 そんな博之が、なぜ、御前岬までついてきたのか? 

 臆病で、幽霊と遭ったら卒倒するかもしれない博之が、なぜ、高性能カメラ持参でここまでついてきたか。

 仲間外れになりたくはない。同行するのを断って嫌われたくはない。ただそれだけであった。

「博之には無理だよ。お化けの話をしただけで震える奴だぜ。そんな奴に幽霊の写真が撮れるかっーの」

 と、三左衛門が言う。

「博之の代わりに、この三左衛門さまが写真を撮ってやるよ。それで撮った写真、どうするつもりだ? 雑誌に投稿でもするのか?」

 三左衛門が充輝に聞いた。

「雑誌に投稿!? そんなことはしねえよ。そんなことをしたって高く買ってくれるわけでもないし、謝礼がでたとしても、微々たるものさ」

「じゃあ、どうする?」

「知れたことよ。三流の雑誌に投稿したって金にならねえ。写真を高く買ってくれるマスコミを探して、そこに売ってな、大儲けするのよ」

 充輝は左手の親指と人差し指で、円を作った。

「まったく、もう……。絶壁はいつもそうだ。金儲けのことばかり考えてやがる」

「金儲けのどこが悪いのだ。お金があればなんだってできる。例えばそうだな……」

 充輝は、車窓から辺りを見渡した。

 申し遅れたが、充輝たちは御前の岬行きのバスに乗っている。他の乗客も乗っているバスの中で、四人は大声で、やれ心霊スポットだの心霊写真だのと、あれこれ話をしているのであった。

 はっきり言って迷惑である。乗客の中には、もろに顔をしかめて不快を装っている客もいるが、超研の連中にとっては、そんな客の反応も屁のカッパなのだろう。充輝たちは、大声で話すことを止めなかった。

「あそこに観光センターを見えるだろう。あれを建て替えしたりしてな……。そうすれば、ここにもっと観光客が増えるぞ。観光客が増えると、お客さんが、観光ついでにこの土地にお金を落としてくれる。するとオレたちの親の収入が増える。親の収入が増えると、オレたちの小遣いが必ずアップする……。いいことずくめじゃんか」

「観光客は増えているよ。観光センターの建て替えしなくてもな……。幽霊騒ぎで……」

 三左衛門が、口をへの字にした。

 御前の岬は、N県氷川市の東北部に位置する氷川湾にある風光明媚な観光名所である。が、いまや観光名所というより、自殺の名所、悪霊のたまり場として有名になってしまっていた。

 きっかけは、一年前に雑誌の特集でクローズアップされたことであった。

 著名な霊能力者が、『憑依霊の仕業か!? 御前岬の恐怖』という見出しで、雑誌に連載記事を書き、それに便乗する形で、テレビのワイドショーが大々的に御前の岬に乗り込んできたことで、一気にその名が全国にとどろいたのだった。

「充輝くん、知っていますか?」

 隆が充輝に聞いた。充輝が隆のほうを振り向く。

「ここに来る前、ちょっと御前の岬のことを調べてみたのですが……。実はですね。御前の岬には、もう一つ隠された秘密がありまして」

「秘密? 秘密ってなんだ?」

 充輝の代わりに三左衛門が、隆に聞いた。

「えっーとですね。御前の岬には、昔、ヤマト一族という有名な一族が住んでいたという言い伝えがあるのですよ」

「ヤマト一族だって!? なんじゃそれっ。宅急便の一族か」

 充輝がそう茶化した。

「たっ、宅急便じゃあなくて……。古代において祭祀(さいし)(つかさ)どった一族ですよ。ヤマト一族っていうのは」

「祭祀!? 祭祀を司る? なんじゃそれっ?」

「祭祀というのはですね……」

 隆の話によると、祭祀とは、神々や祖先に感謝し、祈りをささげる行事のことをいい、具体的な例として五穀豊穣を願い行われる新嘗祭(にいなめさい)神嘗祭(かんなめさい)、などの祭祀があげられる。「じゃあ、そのヤマト一族って奴らは、今でいう神主みたいなものなんだな」

 と、充輝が言うと……。

「いやいや、祭祀と言ってもいろいろありまして、ヤマト一族というのは、鎮魂(たましずめ)の祭祀を行う一族だったみいで、神主というよりは……」

「神主というよりは……。そのう~ 何者なんだ、そいつらは」

「……調べている途中なので、僕にもまだはっきりとはわかりませんが、神主とは、またちょいと違った人達だったみたいですね」

「神主とは、ちょいと違うか……。で、鎮魂ってなんだ? さっぱりわかんねえ」

「鎮魂とは、死者の霊を慰める儀式で……。ちょっと、待ってください」

 隆は、背負っているリックサックの中から、タブレット型の端末を取り出そうとした。

「よし、分かった! もういい」

 充輝は、隆の話を遮った。話をだらだら聞き続けていると、ちっとも前に進まない。時間だけが無駄に過ぎっていってしまう。オレたちは幽霊に逢いにきたんだ。ヤマト一族のことなどどうでもいいから、とにかく先に進みたい。現地に来たのに、ここでグズグズしていては話にならない。

「ようするに、ここはマスコミで取り上げられる前から、ここは、オカルトの香りがプンプンするところだったんだろう。ますますいいじゃん。幽霊に、滅びた古代の一族か……。ケンサク、そのヤマト一族、ここに出る幽霊と何か関連性があるのか?」

 隆の話の腰を、折った充輝だったが、思わず、そう聞いてしまった。

「よく分かりませんが……。昔、御前の岬に古い神社があったことは確かなようですが」

「その神社、なんで無くなった?」

「えっーと、ちょっといま調べてみますから……」

 隆は、リックサックからタブレット型端末を出した。

「祟りだよ~ 祟りだよ~ 祟られたから神社も無くなったんだよ」

 博之が、メソメソ泣き出した。

「泣くなよ。みっともない」

 充輝が慰める。

「そんなこと言ったって……。怖くて、怖くて……。部長~ どうにかしてくださいよ。部長」

 ここにはいない宰三に頼み込んだところで何も始まらない。始まらないのに、博之は辺りをキョロキョロと見渡していた。

「部長、来ないんだろう?」

 三左衛門が言う。

「僕には、叔母が亡くなったんで、どうしても参加できないと言っていましたけれど……。どうだか」

 隆が言葉を濁した。

 宰三は、前にも親戚に不幸があったという理由で、クラブ活動をサボったことがことがあった。が、本当のところ、その日は占いに女運が最高と出たので、町の中を、出会いを求めて、ブラブラと歩いていたのであった。

「親戚に不幸ねえ……。ふん、また占いに今日の女運、最高とでも出たんじゃあないの」

 三左衛門が、鼻をならした。

 ちなみに宰三は占い師である。占いというと、怪しげなカードを使って占ったり、いわくありげな竹の棒を使って占ったり、鈍く光る水晶玉を使って占ったりするが、宰三は犬と猫を使って占うのである。

 バスが、御前の岬の停留所に着いた。

「女狂いの部長は、無視、無視、先を急ごう」

 充輝が、バスのドアに向かって歩き出す。

「検索結果はですね……。えっ~と」

 隆が、まだタブレット型端末で、神社のことを調べている。

「そんなの後、後……」

 ぐずぐずとしている隆には、つきあいきれない。くどくどと神社のことを聞いている暇はないのである。

 充輝はバスのドアから外に出た。

「おい、待てよ。ひとりで行くなよ」

 三左衛門が充輝の後を追った。三左衛門の後に、隆と博之が続く。

 バスから降り、速足で歩いて十分。だだっ広い所に出た。観光センターに付属する駐車場である。整備され、清掃も行き届いる。観光客の自家用車らや、旅行会社の大型バスで一杯であった。

 人も溢れている。溢れている人たちの中には、単に観光目当てでここに来た人もいると思うが、充輝たちのように怖いモノみたさにここに来た人たちもいるのだろう。カメラ片手に、「幽霊スポット」なる連載記事が掲載された雑誌を、しげしげと眺めているグループが何組もいた。

「大学生が、自殺したというのは展望台だろう。どの展望台だ?」

 充輝は観光センターエントランスに立ててあった案内図を見ていた。隆が手に持っているタブレット端末で、さっそく検索する。

「えっーと、大学生が飛び降りたのは、第三展望台のようですね」

御前の岬には、第一展望台から第九展望台まで、九つの展望台がある。目指す第三展望台は、ここから見える第一展望台から北に向かって五十メートルほど降りた地点にあった。

 充輝たちはまず第一展望台に向かった。第三展望台は第一展望台を通過しなければならず、三分ほどして第一展望台に着いた充輝たちは、第三展望台に通じる北側の小路を歩き始めた。第一展望台には第二展望台に通じる南側の路と、第三展望台に通じる北側の路があるが、第三展望台に通じる北側の路は、第二展望台に通じる南側の路よりも幾分狭く、路も舗装されておらず、土がむき出しになっており、歩きにくかった。

 充輝たちは、小石に脚をとられながら先を急いだ。

「おい、何か感じないか?」

 三左衛門が言う。

「何か感じるのか?」

 充輝が応えると、三左衛門が、目を細め、

「薄気味悪い感じがする……。おまえ霊感強いんだろう。俺が、こんなに感じているのに、おまえが感じていないなんてありえない」

 と、言った。

 四人の中で、一番霊感が強いのは充輝である。ESPカードを使って行う透視能力のテストでは、八十パーセントを超える確率で、何のカードが、その場にあるか当てるし、身体の調子が良ければ、携帯電話のカメラに念を送り、念写という離れ業をやってのけるのである。

「何かにみつめられているような、感じがする。得体の知れないなにかに……」

 充輝の顔に緊張が走る。

「ここで自殺した霊か……。怖い……。僕、怖い」

 博之の膝が、ガクガク震えだした。

「怖がる必要なんかない。この感じ……。こいつはどうやら……」

 充輝が言うと、

「どうやら、なに?」

 と、三左衛門が片方の眉を上げた。

「こいつは、自殺した人間の霊なんかじゃあないような気がする。なんかその~う。すごく暖かい感じなんだ」

 充輝が感じているものは、暗く陰湿なものではなかった。どちらかといえば暖かく、明るい感じがするものだった。

「一般に自殺する人間は、自分の運命を嘆いたり、世をはかなんだりして、みずからの命を絶ちます。暖かい感じの自殺者の霊なんて、いないと思いますが……」

 隆は、首を傾げた。

「自殺した霊ではないんだよな。そうだろう絶壁……、そうだよな絶壁」

 三左衛門が振り向くと、そこにいるはずの充輝が消えていた。いままで一緒にそこにいたと思っていた充輝が、忽然とその姿を消していたのである。

「絶壁……。おーい絶壁、どこいった-」

 三左衛門は、大声で叫んでいた。



          2  絶壁、A級の主護霊と逢う。


 雑草が生い茂る藪の中。

 充輝は歩いていた小路から、十メートルほど下にいた。何者かが充輝の袖を引っ張り、藪の中に充輝を落としたのであった。

 何者が、充輝の袖を引っ張ったのだろう。

 辺りを見渡しても、姿は見えない。袖を引っ張られた感覚だけがそこに残っている。

 充輝たちを見つめていた何者かが、充輝の袖を引っ張ったのだろうか?

注連縄(しめなわ)……。こんな所に……)

 尻もちをついている充輝の傍らに、腐りかけた木の破片と、切れた古い注連縄が、二つ、三つ、落ちていた。

 充輝は、注連縄を手に取った。転げ落ちてきた小路を仰ぎ見る。見ると、小路から五メートルほど下ったところに、小さな(ほこら)があった。壊れている。充輝が、小路から転げ落ちた時に壊れたのだろうか。坂を転げ落ちる途中、何かにぶつかった記憶があった。

「もしもし……。もしもし……」

 藪の中から女性の声が聞こえた。

「誰か、そこにいるのか?」

 充輝が目を凝らして藪の中を見た。

 人のいる気配はない。ただ、ただならぬ霊気が漂っていた。

「あたいがここにいるの分かりません? 霊感の強いあなたなら、あたいの姿が見えるはずですよ」

 藪の中の声の主は、充輝に生暖かい吐息を吹きかけた。

 見ると、藪の中に白いもやのような見える。白いもやのようなものは、二十センチぐらいの楕円形の形をしていた。やがて少しづつ大きくなり、人の形を形成していった。

 粗末な木綿の着物を着た江戸の町娘とでも言ったらいいのだろうか……。

 はっきり言えることと言えば、それは人の姿をしているが、人ではないものだったのである。

「ゆ、幽霊!?」

「はい、あたいは幽霊ですよ」

 町娘の姿をした幽霊が、明るく答えた。

「霊感の強いあなたさまなら、あたいの姿が見えると思い、こうしてお願いに参りましたのでございますよ」

「お、お、お、お願いって何だ? オレになんの用がある。オレの袖を引っ張ったのはおまえなのか?」

 霊感が多少あり、霊はたしかに存在すると思っていた充輝だったが、霊と話をするのは生まれて初めてである。混乱し、どもって、額から汗を流していた。

「はい、あたいが、あなたさまの袖を引っ張りました」

 町娘の幽霊は、悪びれずにこたえた。

「ひぇ~ 殺される」

 充輝はじたばたと這いつくばった。幽霊に袖を引っ張られたのだ。あの世まで連れてゆかれる……。かもしれない。

「殺すなんて……。あたいはそんなことはしませんよ」

町娘の幽霊は、口を尖らせた。

「おまえ、オレの袖を引っ張って、ここに引き落としただろう。オレを殺そうとしたんじゃあないのか」

「袖を引っ張ったのは、謝りますよ。だって、急いでいたんですもの」

「急いでいたっー オレをそんなにしてまで殺したいのか」

「もう、なんでそんなふうに思うのよ。あたいが怖いの? なにもそんなに怖がることは、ありませんよ。あたいは幽霊ですけれど……。悪霊ではないし……。ここにいる地縛霊でもありませんよ」

「悪霊? 地縛霊? 悪霊憑きの地縛霊!? おまえがそうなのか」

「違いますよ。あたいは、そんなものではありません」

「じゃあなんだ? そこに座っている霊とどこが違う」

 充輝は、大きな石に座っている初老の男を指さした。充輝の目には、先ほどから町娘とは違う霊が見えていたのである。

「その人こそ地縛霊ですよ。悪霊憑きの地縛霊じゃあないけれど……。ここは自殺の名所になってしまいましたから、自殺した人の霊がそこにもあそこにもいますよ。ほら、そこにも……」

「ひぇええ~」

 充輝は素っ頓狂な声を出した。

 確かに、自殺した人の霊が、そこにもあそこにもいた。

 町娘の霊は、六十代前半と思われるような男の霊を指さし、

「その人は、ここで三年前に自殺した人の地縛霊ですよ。自己破産して、ここの第一展望台から身を投げて、成仏できずにいまも彷徨っている可哀そうな霊ですよ」

 と、言った。

 貧相を絵に描いたような、見るからにうらびれた男は、怯えた犬のような眼をして充輝を見ていた。充輝に危害を加える気はないようだが、気持ちが悪い。きっと、この世に未練を残したままここに住み続けるのであろう。人をうらやんで……。

「大丈夫なのか……。なにもしないのか?」

 充輝が、町娘の霊に聞いた。

「なにもできません。ただそこに座って、ここに来る人をうらやむだけです」

「うらやむだけ?」

「はい、この人は自分が死んでしまっただと思っていませんから、自殺したときの恐怖をひきづったままで、ここにいますよ。ここにいて、なんでおまえらは俺がここにいるのに気づいてくれないんだ。怖い、怖い怖いんだ。俺をどうにかしてくれっと、痛切に訴えていますよ」

「訴えるだけ……。本当に、人に危害を加えないのか?」

「くどいですね。人に危害を加えるのは悪霊とか怨霊とかですよ。自殺し、地縛霊になった霊には、とても生きている人に危害を加えるような強い力はありませんですよ。自分の苦しみを訴えたくて、恨めしそうに、人を見つめるだけですよ。周りを見てください。ここで自殺した人の霊が、大勢いるでしょう。みんなあなたさまを見ていますよ」

「えっー!」

 充輝は、辺りを見渡した。

 町娘の霊が言う通り、辺りには、ここで自殺し、地縛霊になってしまった霊が大勢いた。中学生と思われる霊もいれば、四十代だと思われる主婦の霊のいる。若いサラリーマン風の霊もいれば、年配者の霊もいる。みな、恨めしそうに充輝を見ていた。

 充輝の身体に悪寒が走った。

(地縛霊がこんなにここにいるのに……。こいつは……。こいつは本当に悪霊じゃあないのか。地縛霊を操る……)

 充輝は思わず声に出して町娘姿の幽霊に言った。

「おまえ……。本当に悪霊じゃあないのか!?」

「なんで? なんで、あたいが悪霊なの?」

「だってよ……」

 充輝を、恨めしそうに見つめている地縛霊は十人以上いる。それだけの地縛霊に見つめられると、目の前の町娘の霊は、悪霊じゃあないのだろうかと思ってしまうのである。

「あたいが悪霊に見えます? さっきから違うって言っているでしょう。何度も言わせないでよ。こんな可愛い悪霊なんてどこにもいないでしょう」

「わ、分かるもんか。悪霊は可愛い女の子に化けるって言うし、嘘がうまいからな」

「あたいが、嘘をついているように見えます?」

 嘘をついているようには見えない。いや、感じない。

 町娘の霊は、屈託もなく、コロコロと笑っているのである。笑って自己紹介をしているのである。

「一体、おまえは何者なんだ?」

 充輝が、尋ねた。

「だから幽霊だって言っているでしょう」

「幽霊なら幽霊らしくしろよ。おまえは全然幽霊らしく見えないんだよ」

 幽霊といえば、暗くて、おどろおどろしいものだというイメージが充輝にもある。けれど、目の前にいる町娘姿の霊は、文献やテレビ、映画などで見る幽霊とはちょいと違う。

 少しも薄気味悪くないのである。

「おまえ……。幽霊じゃあないんだろう。本当は……」

「幽霊じゃあなければ、あたいは一体なんなのよ。なんで、幽霊だと認めてくれないの? 本人が幽霊だと言っているのに……」

 町娘の幽霊は、プリプリと怒り出した。 

「わーん、どうして認めてくれないのよ」

 笑い、怒り、悲しむ町娘の幽霊……。

 どうも調子が狂ってしまう。

 超研に席を置いているので、幽霊とは、ただ怖いだけの存在ではないということは知っている。けれど、感情豊かにその存在をアピールされると、何かまずいものを食べてしまったような気持ちになるのである。

「おまえ……。おかしい。絶対、おかしい」

 充輝が、そう言うと、

「幽霊は、幽霊でも、あたいはあるお方の守護霊なのよ。守護霊だから、人を怖がらしてはいけないし、しっかりとしなければいけないのよ!」

 と、町娘の霊は息巻いた。

「守護霊というと、その人間と一生を共にする霊のことだろう?」

「はい、あたいたち守護霊は、人がその道を外れないように指導したり、その人の現世でやるべき仕事を達成させるように手助けをしたりする霊よ。霊性の高い霊だけが、その役目を引き受けることができるのよ」

「守護霊さまね……。あんたが普通の幽霊じゃあないっていうことは分かった。けど……」

 充輝には、目の前の町娘の姿の幽霊が、守護霊という霊性の高い幽霊には見えなかった。繰り返すが、守護霊というのは、人を指導し、守る霊である。こんな華奢な姿の町娘の幽霊に、そんなことができるのだろうか?

「けど、なんですか?」

 町娘の幽霊が、充輝に問う。

「あんたに人を指導することなんて、できるのかい」

 充輝は鼻で笑った。

「失礼ですね。ちゃんと指導できるわよ。それこそA級の守護霊になるために、血の滲むような修行をしたんだから」

「血の滲むような修行? 全然そんな修行をしたようにはみえないが……」

「人を見かけで判断しないでくださいよ。あたいはA級の……」

 町娘の幽霊は、何かに気づいたのであろうか。大きく目を見開いた。

「いけない。ぐずぐずしていられない」

 町娘の霊は、充輝の手をとった。

美佳(みか)さんの自殺をとめなくちゃあ」

 充輝の手をとった町娘の霊は、いきなり走り出した。

「おい、どういうことなんだ。美佳って誰だ」

「あたいは、矢田美佳(やだみか)さんの守護霊で、お美津といいます。美佳さんは高校二年生の生の女の子です。その美佳さんが、絶壁から海に飛び込もうとしているのよー」

「なんだって!!」

 充輝は前につんのめりそうになった。




         3  絶壁、自殺願望の少女を救う


 御前の岬には、整備された九つの展望台がある。展望台以外の危険な場所には立ち入り禁止の立て札が立てられ、防護柵が張り巡らせてある。そうでもしないとが、本当に危ないのである。

 矢田美佳は、二メートルはある防護柵を乗り越えて、恐ろしく不安定な場所に立っていた。

(生きていたってしょうがない……)

 断崖絶壁に立った美佳は、身体を震わせた。

(いいことなんか、ありっこない……。これからなにを支えに生きてゆけばいいの)

 瞳から涙が溢れた。

 美佳は、裕福な家庭に育った一人娘である。なに不自由なく育てられ、些細な悩みなんか、どこかへ「どーん」と飛んでいってしまうような楽しい暮らしを送って来ていた。

 が、高校生になると自分の容姿にコンプレックスを持つようになってしまった。

 容姿は、はっきり言ってかなり綺麗である。が、普通の女の子よりも背が高い。かなり高いのである。

 中学二年生のころまでは、平均的な身長だったのに、中三の夏休みになるころから急に背が伸び始め、高校に入るころになると、一八五センチメートルを超えるまでになっていたのであった。

(なんで、大きな女は嫌いなの? 中一の時は、あんなに優しかったじゃあない)

 高校一年生の冬。凍てつく寒空の下で、初恋の人に振られた美佳は、自分の背の高さを心底悔やんだ。

(背の高さと、性格は全然関係ないでしょう。だから、私をちゃんと見てよ)

 父は市役所勤めの公務員。母はアパート経営をしていて、経済的になんの心配もなく、父母の愛情を一心に受けて育てられた美佳にとって、この失恋は、大打撃だった。いつも一緒に寝ているテディベアの縫いぐるみが、突如、まさかり担いで、寝ている美佳を襲ったような衝撃を受けたのである。

(ここから飛び込めば、一瞬で死ねるわ。苦しむの嫌だもの)

 美佳は、履いていた桃色のスニーカーを脱いだ。

 絶壁の下は切り立った岩盤である。波頭が荒れ狂い、風が吹きすさんでいる。身を投げれば、命の保証はない。完全に命を絶たれるだろう。

「待って、美佳さん! 自殺した霊は救われないのよ。自殺した場所で、ずっと苦しむことになるの」

 充輝とともに、断崖絶壁までたどり着いた美佳の守護霊であるお美津さんが叫んだ。

 美佳には届かない。霊感が全くないのだろうか? それとも守護霊の存在など、まるっきり信じていないから聞こえないのであろうか。

 美佳には、お美津さんの必死の懇願も無意味のようだった。

「なにボヤボヤしてんのよ。美佳さんを助けてよ」

 お美津さんは、後ろに控えている充輝にハッパをかけた。

「助けろって言ったって……」

 充輝は、少女の美しさに目を奪われていた。背こそ高いが、非常に綺麗なのである。

(おいおい、冗談だろう。こんな綺麗な()が自殺をするなんて)

 充輝は、立ちすくんでしまった。

 美佳が目を閉じた。いよいよ海に飛び込むつもりだ。

「ダメって、美佳さん、死んじゃあダメー」

 お美津さんが絶叫した。お美津さんの悲痛な思いとともに、美佳の身体が断崖絶壁から海に向かって落ちてゆく。

「ええっー! 本当に飛び込みやがった」

 充輝は腰を抜かしてしまった。幸か不幸か、充輝はこれまで、人が死ぬという場面に出会ったことがなかった。両親も健在だし、孫想いの祖父母も隣町で、のほほんと暮らしている。周りの友人知人もいたって元気だ。ペットの猫、クロも毎日つつがなく昼寝をしている……。

 変哲もない生活、ありふれた日常に、突然飛び込んできた人が死ぬという現実。

 ありえない……。

 人が、目の前で死ぬなんて、あり得ることではない。遭ってほしくない。

 充輝は、恐る恐るお美津さんを見た。

「お美津さん、お美津さんは、この娘の守護霊なんだろう。なんとかならないのか」

「そりゃあ~ あたいだってなんとかしたかったわよ。でも、美佳さんがあたいの存在を信じない限り、あたいの力は、美佳さんには届かないのよ」

 お美津さんは、声をあげて泣き始めた。

(泣きたいのは、こっちだぜ。まったく……)

 充輝は目を閉じ、顔をしかめた。

 路を歩いてていたら、いきなり引き摺り下ろされ、引き摺り下ろされた場所で、お美津さんという、ちょっとおかしな幽霊と出会い、この場所にたむろしている地縛霊の集団に囲まれてしまった。

 地縛霊の集団は、なにもできやしないから安心してもいいからと、お美津さんが言ってはいたが、薄気味悪い集団に囲まれるのは、あまりいい気持ではない。非常に不快である。

 暗鬱な気分でいると、今度は自殺を企てている少女がいるから、助けてほしいときたもんだ。お美津さんと、少女を助けに走ったが、現場に直行すると、目の前で、女の子が崖から下に飛び込んだのである。

「泣いたって、しょうがないだろう。身を投げてしまったんだから……」

 守護霊が、庇護する存在を守れなかった。さぞ、悔しいと思うが、しょうがない。時は止められないし。戻すこともできない。

「ん!?」

 お美津さんの肩を抱いた充輝は、そこに信じられないものを見た。

 美佳の身体が、宙に浮かび上がってきたのである。身体を支えているものなど何もないのに、空間に雲のように、ぽっかりと浮かんできたのである。

「お美津さん、お美津さんがやっているのか?」

 充輝が言った。

「あたいじゃあ、ありませんよ」

「じゃあ何で?」

 充輝は辺りを見渡した。

「オイラだよ。オイラがこの娘を助けたんだよ」 

 充輝とお美津さんの前に、ビーバーのような動物が現れた。宙に浮かんでいる。

「な、なんだ、おまえは!?」

 充輝が言うと、美佳の横に現れたビーバーのような動物は、

「オイラ、太助っていうんだ。よろしくな」

 と、微笑んだのであった。

 ビーバーのような動物に、いきなり「よろしくな」と、言われても、どう対処していいか分からない。そもそも動物が人の言葉を喋るなんて、馬鹿げている。

「聖獣さんの、登場ですよ」

 お美津さんが言う。

 A級の主護霊であるお美津さんは、霊が出すオーラーの種類で、そのものがどんな霊性に属する存在なのか見極める力を持っていた。目の前の動物霊は聖獣だけが持つ眩い金色のオーラーを出していたのであった。

「聖獣!? このビーバーみたいな動物が……」

 充輝の脳裏に、中国の神話に登場する、青龍、朱雀、白虎、玄武、麒麟などの有名な聖獣の名が浮かんだ。ここに現れた聖獣は、青龍、朱雀、白虎、玄武、麒麟などの聖獣には、似もしないし、威厳も持ち合わせていない。

 本当に聖獣なのだろうか?

「おい、おまえ、オイラを疑っているな。オイラが聖獣だと思っていないだろう」

 太助は、充輝の心を見透かしたのか人差し指を立てた。

「オイラは、まことの聖獣さまだぜ。この額の炎の(しるし)をみてみろよ。燃えるように真っ赤に輝いているだろう。聖獣さまの印さ」

 見るとこの動物の額の部分に確かに炎の形を模った印があった。

「聖獣さまは、人を禍から守る尊い霊なんだ。だからこの娘を助けたやったまでさ」

 太助は得意満面の顔をした。

「ビーバーの聖獣だなんて……」

 と、充輝が言った。

「太助さんは、ビーバーの聖獣じゃあないわよ。カワウソよ。二ホンカワウソの聖獣さまよ」

 お美津さんがそういう。

「えっ? 二ホンカワウソ」

「そう、二ホンカワウソ」

 二ホンカワウソは、すでに絶滅してしまったと言われている動物である。環境破壊の影響もあるが、保温力に優れている良質な毛皮を身に着けていたために、乱獲され、滅びたという。

「この俺さまをビーバーだなんて……。お目目が風邪でもひいて、くしゃみでもしているんじゃあないの。この美しい毛並み、つぶらな瞳、愛嬌たっぷりの口元……。どう見たってあんながさつな生き物にはみえやしないだろうが」

 太助は、ビーバーに間違わられたことが心外だったようである。鼻の穴を大きく開けて、むくれている。

「太助さん、ありがとう。美佳さんを助けてくれて」

 お美津さんが、お礼を言った。

「礼なんかいらないぜ。オイラにとって、こんなことは朝飯前のコンコンチキよ。……それよりよ。なんだ、ここは。ここはいつから地縛霊の巣窟みたいな所になってしまったんだ」

 太助は、辺りをキョロキョロ見渡した。つられて、充輝も、お美津さんも辺りを見渡す。

 さっきよりも地縛霊の数が増えたような気がする。陰鬱な目をした地縛霊が、充輝たちの周りに集まってきているのだ。

「御前の岬は、数か月前から自殺する人たちが後をたたない自殺のスポットとして、有名になっていますよ。太助さんは、聖獣さまでしょう。そんなことも知らないのですか?」

 お美津さんが、言った。

「へっ? ここが自殺の名所になっているって! おいおいおい、オイラがひと眠りしている間に、なんで、そんなことになっているんだ」

「眠っていたんですか?」

「ちっーとばかりな。おい、いま、元文(げんぶん)何年だ?」

「いまは江戸時代ではないですよ。いまは平成の時代。平成三十年という年ですよ」

「平成三十年! なんじゃいそれっ。吉宗さまはどうなった? 幕府は?」

「吉宗さまって、もしかしたら八代将軍徳川吉宗公のことなの?」

「そうよ、その吉宗さまよ」

「えっー! 太助さんは、そんな昔から眠っていたの」

 お美津さんは、辺りの樹々の葉っぱが、いっせいに、しなうようなとてつもない大声をあげた。

「いい、聞いて、今はねえ……」

 お美津さんは、江戸幕府の崩壊、明治政府の誕生、大正、昭和、平成と流れていった日本史を、短く、簡潔に、太助に説明してやった。

「オイラ、そんなに長い間、眠っていたんだ」

「およそ三百年よ。なんでそんなに長い間眠っていたのよ」

「いやぁ~ これには深い理由があってだな……」

 太助は、頭をボリボリ掻いた。

 どうやら太助の言う深い理由というのは、人には決して話せない(たぐい)のものらしい。頭をボリボリ掻きながら、ばつが悪そうにそっぽを向いた太助であった。 

「それで、なんで今頃になって目覚めたのよ?」

 お美津さんが、聞いた。

「誰かが、ぐっすりと眠っていたオイラを無理やり起こしやがったんだな。オイラが眠っていた(ほこら)の注連縄を、ぶったぎってな」

 太助は、腕を組みなおした。

「あっー」

 充輝は、口をあんぐりあけた。

 太助を、長い眠りから起こしたのは自分かもしれない。充輝は、小路から転げ落ちるとき、古い祠にぶつかっているのである。

「心当たりでもあるの?」

 お美津さんが、口を大きく開けて、動揺している充輝に聞いた。

「実は……」

 充輝は、祠を壊してしまったことを正直に話した。

「そうか……。おまえさんが、オイラを起こしてしまったのか。わざわざ祠にぶつかって、三百年近く眠っていたオイラを起こしたのだな。わざわざ祠にぶつからなくても、いいようなものを」

「わざとじゃあない。お美津さんが、オレを引っ張ったから、転げ落ちたんだ」

 充輝は、そう言い訳をした。

「このA級の守護霊がか?」

 太助は、ジロリとお美津さんを見た。

「A級の守護霊と……。それと浄魂(じょうこん)(つるぎ)の持ち主が、聖獣であるオイラを叩き起こしたわけだ。そういうことなら、わかるような気がするな。なにせこのオイラは浄魂の剣と、深い縁がある聖獣さまだからな」

 太助が、したり顔でいう。

「浄魂の剣の持ち主? オレのことか」

 充輝は眉を寄せた。浄魂の剣……。一体、何のことだろう。

「なんだ、その顔は? ははっあ~ん、どうやら何も知らないようだな。お美津さんとやら、こいつにちょっと説明してやれよ」

 太助が言う。

「あたいがですか?」

「あんた、A級の守護霊さまだろう。こいつの身に起こっていることぐらい分かっているだろう」

「そりゃあ~ わかりますけど……」

 お美津さんは、言いよどんだ。

「なに、迷っているんだよ。こいつが浄魂の剣の持ち主だから、袖を引っ張ったんだろう。美佳を助けるために……」

「そうですけど……」

「じれったいな。こいつに浄魂の剣のことを話しても、大丈夫だと思うぜ。あんたというA級の守護霊と、聖獣のオイラが、目の前にいるんだ。少々のことでは驚きはしないよ。そうだよな、おい」

 太助が、瞳を光らせて凄んだ。

 凄まれて、臆するような充輝ではないが、訳の分からないことを言われて、凄まれても困る。凄まれるいわれはないのである。

(一回、ぶっ飛ばしてやろうかー)

 充輝は右腕を後ろに隠して、拳を握りしめた。

「それじゃあ言いますけれど……。あなたさまの右腕、夜、光ることがあるでしょう」

 お美津さんが言う。

「ど、どうして、それを!?」

 充輝は、目を大きく見開き、握っていた拳を開いた。殴ってやろうかーと思っていたのに、誰にも言ったことない秘密を、唐突に言われたのである。衝撃を受けないほうがおかしい。

 夜、光る、充輝の右腕……。

 それは、充輝が十二歳のころから始まった。一か月に数度、必ず就眠中に金縛りに遭い、身動きできない状態の中、右腕が白く輝きだすのである。

「あなたさまは、選ばれた人なのです。浄魂の剣の持ち主の(うつわ)に」

 お美津さんが言った。

「オレが選ばれたって!? 浄魂の剣とはいったい何なんだ?」

「浄魂の剣とは、迷える魂を浄化し、あの世に送り届ける能力を持つ聖なる剣だぜ……。ここにいる地縛霊どもなんて、剣の一振りで、残らず成仏する」

 太助が充輝の問いに、答えた。

「オレが、その剣の持ち主ってどういうこと? 右腕は、確かに光ることがあるけれど、そんな剣、オレは持っていない」

「普通の人間の右手が光るかよ。おまえは選ばれたんだ。なんで、おまえみたいなものが浄魂の剣の持ち主に選ばれたんだが、分からないがな」

「おまえみたいなものとは、なんだ!」

 充輝は、憤った。

 上から目線でものを言いやがって。こいつはさっきから人を小ばかにした態度をとっている。聖獣ってそんなに偉いものなのか。

「この娘、自殺を企てたのは、今回が初めてじゃあないよな」

 太助は、宙に浮いている美佳を見た。憤っている充輝を全然気にしていない。

「分かるのですか?」

 お美津さんが、応えた。

「分かるよ。この娘の自殺願望の意識が周りの悪霊を呼び寄せている。悪霊が、この娘に自殺をさせようとしているといってもいい。このままだと、また自殺を企てるぜ、この娘は」

 美佳は、これまで三度自殺を企てていた。ガス栓を口にくわえて自殺を図ったり、学校の屋上から飛び降りようとしたりした。そのたびに美佳の守護霊であるお美津さんが、なんとか美佳の命を救ってきたのだったが……。

「今夜、亥の刻(午後十時ごろ)。美佳の身に変事が起きるぜ」

「変事!? 何が起きる?」

 充輝が言う。

「さあな。なにが起きるか分からんが、おまえがその時、美佳の側にいないと、美佳は命を落とすことになるぜ」

「なぜ、なぜオレがその時、そばにいないと命を落とすんだ」

 充輝には、まだ事情がよく呑み込めていないようだった。鼻をピクピク動かしている。

「美佳さんの命を救うには、あなたさまが美佳さんの側にいなくちゃあならないのですよ。今夜、亥の刻に美佳さんの側で、あなたさまをお待ちしておりますから、今夜、亥の刻に、美佳さんの側にいてくださいね」

 お美津さんが、充輝に向かって頭を下げた。

「おいおい、オレに何ができるっていうのだ」

「だ・か・ら。あなたさまには、大きな力があるのですよ」

 お美津さんが言う。

「浄魂の剣を操るという力がな」

 太助が、お美津さんのほうを見て、ニコリとほほ笑んだ。

 この場に集っている地縛霊などその剣の一振りで成仏させることができるという浄魂の剣。充輝の右腕に、その力が秘められているのであろうか?

「おおーい。絶壁。どこに行った」

 小路のほうから声が聞こえる。充輝を探す三左衛門たちの声である。

「おっ、誰かが来たみたいだ」

 太助が言った。

「あれは……。オレの仲間だ。超研の」

 充輝が答える。

「仲間。超研!? 超研ってなんだ?」

「超常現象研究部。やくして超研。オレの所属する超研っていうのはだなぁ、幽霊もそうだが、UFOとか雪男だとか、そういう謎に満ちたものを研究するクラブなんだ」

「あん? UFOだと!? なんじゃい、それっ?」

 太助は、首を傾げた。徳川吉宗の頃に活躍していた太助には、未確認飛行物体、すなわちUFOのことなど分からない。

「空飛ぶ円盤のことよ」

 お美津さんが、太助の問いに答える。

「空飛ぶ円盤ってかー それなら、しょうちゅう見ているぜ」

「こりゃあ、驚いた。UFOを見たことあるなんて」

 充輝が、大げさに手を叩く。

「で、どんなUFOを見た? 葉巻型か、お椀型か、それともウインナーみたいな奴か?」

 充輝が太助に聞いた。

「なんだい、その葉巻型だのお椀型だの、ウインナーみたいなものとか……。空飛ぶ円盤っていう奴は、せんべえのような白く輝くものと、決まっているじゃあないか。亡くなった人の霊魂を、あの世まで運んでくれる大切なものなんだぜ、空飛ぶ円盤は」

 太助が、そう偉そうに講釈すると、お美津さんが……、

「太助さん、この人の言っている空飛ぶ円盤っていうのは、霊送球(れいそうきゅう)のことじゃあなくて、エイリアンが乗っているかもしれない円盤のことよ」

 と、言った。

「エイリアン!! なんじゃいそれっ?」

 太助は、愛らしい瞳をクルリと一回転させた。

「絶壁、おーい、絶壁ー」

 三左衛門の声が、近くから聞こえてきた。

「おい、絶壁という奴。仲間が呼んでいるぞ。面倒くさいことなっても、オイラ嫌だから、オイラ、このへんでおいとまするよ。あとはよろしく」

 と、太助が言うと、

「そうですわね。あたいも一度姿を消しますわよ。今夜、亥の刻、美佳さんの側で待っていますからね」

 お美津さんが、ウインクして、手を振った。

「おい、待てよ。オレに力があるってどういうことなんだ!? 亥の刻に変事があるって、いったい何が起きるんだ」

 充輝は叫んだ。けれど、真っ青な空に吸い込まれるように消えていったお美津さんと、太助には聞こえやしない。青い空に、綿あめのようなおいしそうな雲が、二つ、三つ、浮かんでいるだけである。

 充輝は、青い空を見上げて、大きくため息をついた。

「こんなところにいたのか……。探したぞ」

 三左衛門たちが充輝を見つけ、充輝のもとに駆け寄ってきた。

「なに騒いでいたんですか?」 

 隆が充輝に聞く。

「別に……。なんでもねえよ」

 充輝は、三左衛門たちを一瞥して、そっぽを向いた。

「な、な、な、なんですか……。この女の子は」

 博之が、震えながら言う。

 宙に浮いていた美佳は、いつのまにやら充輝の足元に横たわっていた。

「死体ですか~ 自殺者の死体……」

 博之が、後ずさった。

 三左衛門が、美佳におそるおそる近づいてゆき、美佳の手をとった。

「大丈夫だ。この娘は生きているよ。絶壁、この娘は何だ?」

「この娘、ここから下に飛び込もうとしたんだけれどな。詳しいことは……」

 お美津さんに、聞いてくれっと言いたいのだが、お美津さんはもうここにいない。やれやれ面倒くさいなあと思いながらも、充輝は、これまでのことを、三左衛門たちに手短に話した。

 さすがに、超常現象を学んでいる超研のメンバーである。呑み込みが早い。守護霊だの、聖獣だのと聞いてはじめは戸惑っていたが、話が進むにつれて、なるほどと、相槌を打ちながら話に耳を傾けていったのだった。

「そのお美津さんというこの娘の守護霊の話によると、今夜十時に、この娘の身に異変が送るというわけですね」

 隆が、右手の親指と人差し指を眼鏡にあてた。

「命にかかわることらしい……」

 充輝が、視線を落とす。

「この娘……。美佳って言ったっけ。こいつ、もしかして、また自殺騒ぎを起こすんじゃあないのか?」

 三左衛門が、眠り続けている美佳の顔を覗き込む。

「太助の話によると、こいつの自殺願望の負の意識が、周りの悪霊を引き寄せているらしい。悪霊が、こいつを自殺させようとしているんだ」

 充輝が言った。

「悪霊……悪霊がですか……」

 隆が、リックサックの中にしまい込んでいたタブレット型端末を取り出した。

「おい、なにを調べる気だ」

 三左衛門が、言う。

「ひとくちに悪霊って言ったって、いろんな悪霊がいますからね。よく調べてから取り掛からないと、後で手ひどいしっぺ返しに遭います。美佳さんを自殺未遂まで追い込んでいる悪霊が何者であるか。まず、それを調べないと」

 隆は、タブレット型端末に、美佳の名前、御前の岬、悪霊、地縛霊……などの項目を打ち込んだ。

 検索をかけると、それらしき項目がでてきたが、どの記事も美佳と悪霊が結びつく記事ではない。過去に、ここで自殺した人々が、地縛霊になり果てたというベタな三文記事ばかりである。

「……ダメですね。データー不足です」

「データー不足か。それじゃあ、キーワードの中に、古い祠、カワウソっていう奴を入れてみろ」

 と、充輝が言う。

「なんですか、その古い祠、カワウソって?」

「いいから、そう入れてみろよ」

「分かりました。入れてみます」

 隆は、キーワードの中に。『古い祠、カワウソ』という言葉を足して、検索をやり直した。

「う~ん。やはりダメですね。そのキーワードを入れても、美佳さんにとり憑いている悪霊の正体は分かりません」

「ダメか。ダメなのか」

「ダメですね。でも、おもしろいことが分かりましたよ。ここに昔、神さまの使いだと崇められたカワウソが住んでいたらしいですよ」

「カワウソだって!?」

 三左衛門が、怪訝そうに頬を膨らませた。

「言い伝えでは、この断崖の上に河川があって、そこに住んでいたカワウソが、川で溺れた子供を助けたり、川のどこに魚がいるか、人々におしえていたようです」

 資料として、聖獣である太助の話は残っていた。その聖獣の太助が、今夜亥の刻に起こるであろう変事を予告し、そこに充輝がいないと美佳の命は保証できないと言っている。それがどんなことなのか、いまの充輝には見当もつかないが、人の命のかかわることなのだ無視はできない。

(金にはならんけれど、まっ、いいか)

 充輝は亥の刻に美佳の側にいる決心をした。




         4 絶壁、夜の病院に潜入する!


 前の氷川市総合病院は歓楽街にあった。駐車場が狭く、利便性が悪いうえ、夜になると騒がしいので、入院患者の家族から苦情が相次いでいた。その苦情が効いたのか、氷川市総合病院は、今年になって、郊外に場所を移して、建て替えられた。

 現在、氷川市総合病院は、星がきらめく夜空の下に悠然とそびえたっている。

 周辺に建物らしきものはない。緑豊かな丘と、よく整備された駐車場があるだけである。

 自然環境に恵まれた氷川市総合病院は、病気に罹ってしまったり、怪我をした人たちが、静養をとるには十分すぎるほどの施設だった。

 なだらかな稜線のふもとに建てられた真新しい白亜の病院は、日中見ると、清潔感溢れるおしゃれな建物に見えるが、夜になると白い大きな墓標のようにも見える。

 その墓標の中庭に、充輝たち超研一向がいた。(たけ)の低い樹々が植えられている庭園の中にいるのである。

「おい、なんでこんな藪の中に、身をかくさなけりゃあならないんだ」

 充輝が、三左衛門の頭をポカリと叩いた。

「おまえも見ただろうが、あいつを」

 三左衛門が、殴られた頭に手をおいた。

 数時間前……。

 自殺未遂の現場にいた充輝たち超研一向は、駆け付けた警察の人間からあれこれと事情徴収された。

 住所、氏名はもちろん、なぜ、この場所にいたのかねとか、自殺未遂をしたこの娘とは、どういう関係なのかねとか、君たちの親御さんの職業は何なのかねとか……、その他、事件に関係ないことまで、事細かく訊かれ、充輝たちは、その刑事の執拗な質問攻めに辟易したのであった。

 その刑事が、この病院にいる。

 充輝たちは、刑事の目から逃れるために藪の中に身を隠したのだった。

「あいつ、俺らが自殺未遂の原因であるかのような凄い目で睨みつけやがった」

 と、三左衛門が言う。

「美佳さんとは初対面なのに、全然信用していないようでしたね」

 隆が、ため息をついた。」

「だから、警察には知らせるなと、いっただろう」 

 と、充輝が言うと、

「俺が知らせたんじゃあない。救急隊員が知らせたんだろう。余計なことをしやがって」

 と、三左衛門が口を尖らせた。

 自殺未遂を起こした美佳の身体には、数ヵ所の打撲痕と、二つ三つの傷跡があった。傷跡を不審に思った救急隊員が警察に連絡したのであった。

「でもよ、美佳さんが同じ町内に住む高校生だとは、思いもしなかったな」

 三左衛門が、頭を掻いた。

 矢田美佳は、学校こそ違うが、充輝と同じ町内に住んでいる女の子だった。年も同じ、学年も同じで、高校二年生である。いわゆる花も恥じらう年ごろの娘さんっていうわけだ。

「聞くところによると、いいとこのお嬢さんなんだろう」

 超研の部長である宰三が言う。

「三丁目の矢田家はねえ。町内でも屈指の名家よ。お金だってたくさん持っているんだから」

 と、言ったのは、宰三が町で引っ掛けてきた亜希子(あきこ)ちゃんという女の子である。

「部長、その()のこと、ちゃんと紹介してくださいよ」 

 三左衛門が、にやりと顔を崩した。

「さっきも言っただろうが。この娘は大林(おおばやし)亜希子ちやんといってだな。後は秘密なのだ」

 と、宰三が言うと、

「後は秘密って……。それってどういうことですか?」

 と、三左衛門が唇を突き出した。

「秘密なことは秘密なのだ。とにかく、俺っちにも彼女と呼ばれるものができた。俺っちの占いはものの見事に的中したのであるからにして、俺っちは嬉しいのである」

 宰三は、本当に嬉しいのだろう。サルが大好物のバナナをもらったような顔をしていた。けれど、喜んでいるのは宰三だけのようだ。亜希子ちゃんは、ちぃーとも喜んではいない。

 迷惑そうな顔をして……。

「ちょっとー 彼女ってどういうこと? 私があんたの彼女なわけないじゃん。なんで俺っちとかいう奴の彼女にならなくちゃあいけないわけ? 俺っちだなんて、なんなのその言い方。私は、あんたが頼むからついてきただけなんですからね」

 と、言った。

「頼み込んだの? 部長が?」

 三左衛門が、眉を八の字にさせた。

 宰三は、超研の部長であるくせに、御前の岬探索という部の活動をサボって、町に繰り出していたのである。で、なんの成果もなく部活動に戻って来ては、面目がたたない。そんなもんで、たまたま偶然、町でひっかけた女の子“亜希子ちゃん”を拝み倒して、超研の面々と引き合わせたのであった。

「それで、この病院に今夜幽霊が出るって本当なの? これからその幽霊に遭いに行くのでしょう」

 亜希子ちゃんは、宰三には気はないが、幽霊話には興味津々らしい。好奇心丸出しで、超研のメンバーに尋ねた。

「部長、もしかして、お美津さんのことを話したんですか?」

 充輝が言う。

「おまえらから電話があった後、つい口を滑らせてな」

 宰三が、そう応えると、

「お美津さんって、美佳さんの守護霊なんでしょう。江戸時代の町娘で、いつも美佳さんの側にいる」

 と、亜希子ちゃんが言った。

「で、どんな感じなの? そのお美津さんっていう幽霊は?」

「どんな感じの幽霊だと聞かれてもだな……」

 充輝は、返事に困った。

 喜怒哀楽が豊かで、清楚で、かわいらしい感じがする幽霊なんだと言ったら、亜希子ちゃんは、どんな反応を示すだろう。

 えっー 清楚で可愛らしい幽霊なんているの!? ウソー 信じられない。絶対おかしいー 史上最大にへんてこだー とか、なんとか言っちゃって、素っ頓狂な声をあげるに違いない。

「やっぱりさ~ 手をこうやって垂らして、青白い顔をして出てくるんでしょう」

 亜希子ちゃんは、両手首を折り曲げた。

「額に三角形のハンカチを締めてさ、口元から真っ赤な血を流して、うらめしや~ うらめしや~ うらめしや~ あはっ、なにがうらめしんだろうね」

 亜希子ちゃんは、笑い転げた。

 どうも調子が狂ってしまう。会ったことないお美津さんを、完全に小馬鹿にしている。お美津さんはA級の守護霊で、美佳さんの自殺を防ぐのに、一役かったのに、そんなこと知らないと言わんばかりに笑い転げている

「お美津さんは、美佳さんの守護霊だ。そんな陳腐な幽霊なんかじゃない!」

 充輝が、声を荒げた。

「あれっ、怒ったの? 冗談よ、冗談。なんたってお美津さんは、美佳さんを守る守護霊だもんね。いわゆる正義の味方。正義の味方が、そんな恰好しているわけないもんね。で、美佳さんの身に大変なことが起きるってどういうこと? もしかして、悪霊とかが出てくるんじゃあないの?」

 亜希子ちゃんは、充輝の怒りなど全然気にしていない。あっけらかんと充輝の肩を叩いた。

「部長、そんなことまで喋ったんですか?」

 充輝が、宰三を睨みつけた。

「まっ、いいではないか」

 と、宰三が言うと、充輝が身に着けているフットボールジャージを叩きながら、

「よくないですよ。何が起きるのか分からないんですよ。ひょっとしたら、命にかかわることがおきるかもしれないし……」

 と、言った。

「そうだよな。だから、俺たちはこうしてこんな大そうなもので身を堅めているんだよな」

 三左衛門がうなずく。

 充輝と三左衛門は、フットボールジャージとフットボールパンツで身を堅め、宰三は、右手に木刀を持ち、懐にお守りを忍ばせていた。隆はサイクリング用の硬質なヘルメットを被り、背に催涙スプレーや携帯サイレン、高照度ライトなどをつめたリックサックを背負っている。

 亜希子ちゃんはというと、派手な赤色とピンクの縞模様のトレーナーに、黄色のジーパンといういで立ちなのである。

「部長、亜希子ちゃんに、美佳さんの命に関わることが起こるかもしれないって言ったんですよね」

 と、充輝が言う。

「ああっ、言った」

 宰三が頷く。

「そこまで喋って、なぜ、注意しなかったんですか? そんな軽装じゃあ怪我をするかもしれないぞって」

 充輝が眉をしかめた。

「大丈夫だわよ。きっと正義の味方であるお美津さんが守ってくれるわ。……それよりさ、悪霊が出てくるかもしれないって本当なの? 悪霊っていうからには禍々しい大蛇の姿をした化け物だとか、竜の姿をした身長三十メートルを超す、怪物だとか……。私、特撮映画って大好きなのよね」

 亜希子ちゃんは、危険な目に遭うかもしれないってことを全然考えていない。ちゃらちゃらと軽口を叩いている。

「あのですね、これは特撮映画じゃあなくて……」

 と、隆が言った。

「私、特撮映画も好きだけれども、オカルト映画も好きなのよね」

 亜希子ちゃんは、人の話を聞いていない。自分の世界に没頭している。

「だから、これは特撮映画でもオカルト映画でもないんだってば。現実なんですよ。本物の悪霊が出てくるかもしれないのですよ。映画館で、ポップコーンをほうばっている観客気分じゃあいられないんですよ」

 隆が心配そうに言った。

「そんなことはどうでもいいのよ。私は幽霊に逢いたいわけ。逢って話をしたいだけ。もしかしたら友達になれるかもしれないし」

「悪霊とですか?」

「お美津さんは、悪霊ではないでしょう」

「でも、悪霊が出るかもしれないし…………危ないですよ」

「つべこべとうるさいわね。さっきから悪霊、悪霊、悪霊って。悪霊なんか、お美津さんがあっという間に片づけてくれるわよ」

 亜希子ちゃんは、そっぽを向いた。

 宰三が連れてきた亜希子ちゃんという娘は、頭が足りないのか、それともよほど肝が据わっているのか、まったく悪霊など怖がっていない。超常現象を学んでいる超研のメンバーさえ、いざというときのために、用心してそれなりに武装しているのに、亜希子ちゃんは、あっけらかんとしている。

「絶壁、いま何時だ?」

 宰三が、充輝に尋ねた。

「九時半」

 充輝が、腕時計で時間を確認する。

「もうそんな時間か……。ぐずぐずしていられないなあ……。よし、俺っちに任せろ。いい考えが浮かんだ」

 宰三が、周りのいる充輝たちをまじかに引き寄せた。声を落として話し始める。

「あいつが、あそこにいたらマズイだろう………。だから俺っちと亜希子ちゃんとで、あいつをおびきよせてだなあ……」

 いま藪の中にいるには、宰三を含めて五人である。充輝、宰三、隆、三左衛門、亜希子ちゃんが、顔を突き合わせて、これからのことを話し合っている。

 もう一人の超研の部員、博之はというと、幽霊なんていうものには遭いたくもありません。すいません、今回は参加を遠慮しますと、家に帰ってしまっていたのであった。

「……と、いう作戦だ。どうだ、完璧な作戦だろう」

 完璧な作戦かどうかどうもいまいち分からない。が、ここは超研の部長である宰三の顔をたてて、宰三がたてて作戦で行くことに決めた。

「俺っちと亜希子ちゃんで、あの刑事を引き連れておく。幸い俺っちと亜希子ちゃんは、まだ顔を知られていない。美佳さんの親戚とかといって、時間を稼ぐさ。あの刑事さえ、こっちに引き付けておけば、おまえたちでなんとかできるだろう」

「先輩、本当に大丈夫ですか?」

 三左衛門が、訊いた。

「ふっふっふっ、俺っちにはポチとニャンタがついていることを忘れたのか」

 宰三が声も高らかに言うと、三左衛門が……。

「先輩、もしかして、もしかしたらこれから起きることをポチとニャンタを使って占ったんですか?」

 と、目を白黒させた。

「そ、その占いになんと出た?」

「なんと出たと思う?」

「なんと出たんですか? 教えてくださいよ。もったいぶらないで」

 犬と猫を使った宰三の「にゃあ~わん占い」は、よく当たるらしい。いつも赤点ばっかりとっている宰が、前回の英語のテストで、八十点という高得点をとることも当てたし、三日前の宰三の昼のお弁当の中身が、日の丸弁当だということも、「ズバーッ」と当てた。

 宰三は、団子のような低い花を指で擦って……。

「それじゃあ、教えて進ぜよう。俺っちのポチとニャンタはなあ~ 博之が、今回の作戦に同行しないことも当てたし、あの刑事が、俺っちたちの前に立ちふさがることも、ちゃんと予測していたわい」

 小心者の博之が、幽霊を怖がっていることは、前々から分かっていたことだし、警察が今回の件に、不審を抱いていたのは、予測できたこと。わざわざ、そんな誰にだって予測できることを聞かされても、しょうもないのだが。

「いいか、おまえらよく聞け。とにかくやってみないことにはどうにもならんだろうが……。と、いうことで、俺っちは、先に行くからな」

 宰三は、亜希子ちゃんの手をしっかり握って、藪の中から出た。

「こいつは、おまえに渡しておくよ」

 宰三が、後ろを振り返り、三左衛門に木刀を投げてよこした。

「オレたちも行こうぜ」

 充輝が、三左衛門の肩を叩く。

「もうちょっと、計画的に行動したほうが良いと思うのですが……」

 藪の中から遅れて出てきた隆が、小石につまずいてコケそうになった。




         5、絶壁、悪霊と戦う。


 充輝、三左衛門、隆は、夜間専用入り口から、病院の中に入り、閑散としたロビーを通り抜け、誰もいない廊下に出た。灰色シャッターで閉ざされた売店の数メートル先に、エレベーターがある。三人はエレベーターに乗りんだ。

 扉の前に立った隆が、六階のボタンを押した。

「僕の調べによりますと、美佳さんの病室は六階の601号室です」

「北側の端だな」

 充輝が言う。

「ええっ、端の個人部屋です。かなりいい部屋ですよ。さすがは良家のお嬢さんですね」

 その良家のお嬢さんに、これから大変なことが起きるという。充輝が、いなければ命を落とすかもしれないという事だから、急いだほうがいい。

 エレベーターが、六階に着いた。そーっと廊下に出る。天井に付けられているシーリングライトが、極端に光源を落とされている。チカチカと淡い光を瞬かせているが、いまにも消えそうだった。

 やけに寒い。ライトイエローのリノリウムの床が、鈍く光る薄氷に覆われている。注意してみると、廊下のサイドに設置されている木製のサイド・バーにも、うっすらと白いものがこびりついていた。

「どうなっているんだ? 冷蔵庫の中にでも閉じ込められたようだぞ。ケンサク、何か分かるか? なんでこんなに寒いんだ」

 と、三左衛門が尋ねると、ケンサクこと隆が……

「僕に聞いても分かるはずないじゃあないですか。データーがあるわけでもないし……」

 と、腕を組んで考え込んだ。

「ふん、これぐらいなんだっていうんだ。先を急ごうぜ」

 充輝は足を滑らせないように注意して、そっと歩き始めた。

 601号室に行く途中にナース・センターがある。室内には灯りが灯っていた。医療用機材がコトコトと音をたてているが、人のいる気配はない。

 充輝たちは、用心深くナースセンターを覗き込んだ。

「誰もいないや。看護師に見つけられたらどうしようかなと思っていたけれど、こりゃあ運がいいわ」

 と、三左衛門が言った。

「なにが、いいんだ。ナースセンターに一人も看護師がいないってことありえるか! なぜ、いないのか考えてみろよ」

 充輝は、三左衛門の頭をポカリと殴った。

 通常、ナースセンターに看護師が一人もいないってことはありえない。いつかかってくるかもしれないナースコールを待ち受ける看護師や、日中にこなしきれなかった残務処理する看護師が、必ず、そこにいるはずだ。

「充輝くん、あれ」

 隆が薄暗い廊下の先を指さした。

 恰幅のいい中年の男の医師の姿がそこにあった。医師は、ひびが入った額帯鏡をだらしなく頭につけ、埃だらけの聴診器を首からぶら下げていた。目にかけている黒い眼鏡は、うつろに光る瞳を隠すようにいびつに割れている。白衣は、一度も洗濯をしたことがないのだろうか。使い古したぼろ雑巾のように、所々茶色に染まっていた。

 医師の周りに、人魂がおぼろげに浮かんでいる。およそ二十を数える人魂が、ゆらゆらと、八の字を描くように飛んでいた。

「出た!」

 三左衛門が、素っ頓狂な声をあげた。

「ゆ、ゆ、幽霊って本当にいるんですね」

 超研に所属し、常日頃霊関係の資料や写真を漁って、霊の存在を確信していた隆だったが、実際に本物の幽霊とは遭えると思っていなかったようである。目を、あっちこっちに泳がせていた。

「ケ、ケンサク……おまえもか……。おまえも見たことがなかったのか」

 三左衛門が、声を震わせる。

「ぼ、僕、幽霊なんて見たことがなかったです」

「おまえもか……実は俺もそうなんだ」

 三左衛門が、腰から、へなへなと崩れ落ちた。

 医師の幽霊は、蜘蛛の巣のようなボサボサの頭を掻きながら、ぶつぶつと何か言っていた。日本語のようにも聞こえるが、どこか遠い異国の言葉にも聞こえる。その耳障りな異音に同調するように、周りの人魂がフラフラと蠢く。人魂には、うっすらと人の顔が浮かんでいる。大小二十を数える人魂には、様々な年齢層の顔があった。

 二十に及ぶ人魂をはべらせ、憎悪の眼差しをこちらに向ける医師の幽霊は決して善霊ではないだろう。

 善霊じゃあないとすれば……。

「おまえ……。悪霊か」

 充輝が言った。

「気を付けてくださいよ。この悪霊は手ごわいですよ」

「その声は!?」

 充輝は声が聞こえた方向へ身体を向けた。

 そこに、お美津さんがいた。ストレッチャーの上にちょこんと腰かけている。

「お美津さん!」

 充輝は、お美津さんに声をかけた。

「絶壁、この人が……、お美津さん?」

 三左衛門が、口を大きく開けると、

「この方が、美佳さんの守護霊……。お美津さんですか?」

 と、隆が確認するように眼鏡に手をやった。

「お美津さん、こいつはどんな悪霊だ」

 充輝が、医師の悪霊に指をさした。

「この男は、生前、この病院で働いていた医者ですよ。死んでもこの病院に未練があるらしく、悪霊となって、祟りをなそうとしていますよ」

 お美津さんが、そう説明をした。

「僕、この人、知っています。この人、殺されたんです。三年前、この人に執刀を受けた患者の遺族の手で殺害されたのです」

 隆がお美津さんの言葉を受け継いで、補足する。

「ここに来る前に、この病院のことを調べてきたんです。詳しい情報を検索してみると……」

 隆は背負っていたリックサックの中から、タブレット端末を取り出した。素早く、タブレット端末で検索する。

「名前、大杉(おおすぎ)宗太郎(そうたろう)……職業……外科医……享年四十六歳……独身……執刀ミスを繰り返し、数人の患者をその手で殺している。三年前、退職直後、恨みをかった遺族の手にかかり死亡」

 隆は、画面上に記されている大杉の情報を読み上げていった。

「大杉の執刀ミスのせいで死んでいった患者の数は十人以上だと言われています。病院側は隠ぺい工作をしていましたが、後になって当局によって暴露された資料は、週刊誌によって……」

「おまえ……よく、俺のことを調べ上げたな」

 大杉が、言った。

「美佳さんの命にかかわることだと聞いて、いろいろ調べておいたんです。大杉さん、あなたの起こした事件は、とんでもない社会問題になったじゃあないですか」

 大杉の起こした事件は、社会全般を震わせた。

 事件当時、市長の弟でもあった大杉は、立場を利用し、病院長にとりいっていた。大杉は、病院長と懇意とあることを周りに見せつけ、手術中、大杉が無謀だと思えるような執刀をしても、周りの人間は、大杉の兄でもある病院長の陰に怯え、大杉に逆らうことができなかった。医師の中には大杉に逆らった者もいたが、逆らった者は、院長の手によって病院から追われたのであった。

「世間の奴らは、なにもわかっちゃあいない。俺の執刀ミス? 馬鹿言っちゃあいけない。俺は、患者の身体を使って新しい治療法を試していただけさ」

「手術という名目で、人の身体を実験材料にしていたのか」

 充輝が憤った。

 大杉が手にかけた患者の中には、高校生の女の子や、まだ幼い男の子もいた。高校生の女の子は、ただの盲腸炎だった。幼い男の子は、右脚を折っただけに過ぎない。

 その子たちを、大杉は実験材料にして殺していった。

 大杉は強烈な悪臭を口から放った。硫黄の臭いを特化したような悪臭だ。悪臭はたちまち廊下に充満した。

 充輝たちは、胃の中の内容物を吐きそうになった。

「なんなんだ。この臭いは!」

 三左衛門が口を左手で、押えた。

「僕、ダメです……。吐きます」

 隆が耐えきれなくなって、口から反吐を吐いた。

「おい、大丈夫か。お美津さん、なんとかならないのか」

 充輝が言った。

「ふん、その娘に何ができる? この俺さまに勝てるとでも思うのか」

 大杉が右手を横殴りに振った。人魂の群れが、充輝たちに襲いかかる。お美津さんが、ストレッチャーから飛び降りた。

「この人魂の群れにとり憑かれると、魂を食いころされてしまうわよ」

 お美津さんは、両腕を円を描くように回した。風が起こる。風は渦巻となり、廊下を漂う人魂を翻弄する。

「絶壁さん、こいつらをぶった斬って」

 お美津さんが言う。

「えっ、ぶった斬る?」

 充輝は武器となるものは持参していない。お美津さんは、素手で人魂をぶった斬れとでも言っているのだろうか。

「お美津さんは、おまえさんの持つ浄魂の剣で、そいつらを涅槃に行かせてやれって言っているんだよ」

 充輝がその声に振り向くと、声の主であるカワウソの聖獣太助がそこにいた。

「よっ、また会ったな。絶対ここに来ると思っていたぜ」

 空中に寝転んでいる太助は、鼻を指で擦った。

「早く、浄魂の剣を出せよ。これだけの数の人魂。オイラだけではこなしきれないぜ」

 太助は身を起こした。こちらに向かってきた人魂を一匹、その鋭い爪で引き裂く。

「伊達や酔狂で、右腕が光ると思っているのかい。おまえさんの右腕には浄魂の剣が宿っているんだよ」

 太助が二匹、三匹と人魂を爪で引き裂いてゆく。

 充輝は、戸惑っていた。

 浄魂の剣なるもにがこの腕の中から現れるとは、にわかには信じがたい。

 光り輝く浄魂の剣が充輝の前に現れるのだろうか? 迷える魂を浄化して、涅槃に導く浄魂の剣。

 このオレが、その剣の持ち主!?

 三左衛門が人魂の群れに襲われた。木刀で人魂を蹴散らしてはいるが、絶対絶命のピンチである。

 太助が素早く、三左衛門のところに行き、襲い来る人魂の群れを、その鋭い爪で引き裂いた。

「こっち、こっちにも来てください。とり憑かれる」

 隆が救いを求めている。

「おいおい、早く浄魂の剣を出さないと、仲間がやられるぜ」

 太助が三左衛門の所から隆の元に急行し、隆にとり憑こうとしている人魂の群れを蹴散らした。

「なに、やっているうだよ。早くしろ」

 太助が急かす。

「う、うるさい」

 充輝は思わず叫んだ。

「うるさいってなんて、言っていられないんだよ」

 太助が充輝の傍らまで飛んで行く。充輝のお尻に牙をたてた。

「いてっ! なにをしやがる」

「なにをしやがるじゃあない……。ん!! おまえ……。お前の右手に持っているもの、それ、なんだ?」

「えっ!?」

 充輝は右手に白く光り輝く剣を持っていた。

「これが、浄魂の剣か」

 ブレードは七十センチほどであろうか。ガードの部分はV字型になっており、グリップには毛皮のような黄色いものが巻かれている。質量はほとんど感じない……。

 忽然と姿を現したその剣は、まさしく不浄なる魂を浄化させるために生まれ出た神聖な剣だった。

「出せたな。よし、仲間を助けに行くぜ」

 太助が、ハッパをかける。

 充輝は、仲間のところに駆け付けた。浄魂の剣を中段に構えた。人魂の群れに向かって、中段の姿勢から横殴りに浄魂の剣を振り払う。すると、数十を超える人魂が一瞬にして消え去った。充輝の浄魂の剣が

三度ほど宙を斬った時には、すべての人魂が、その場から消え去っていた。

「ほう~ さすがは浄魂の剣だな。あっという間に迷える魂を浄化させて涅槃に導きやがった」

 と、太助が言う。

「み、み、充輝くん」

 隆が驚いている。

「絶壁……。おまえ……。スゲーじゃん。かっこいいぜ」

 三左衛門が感嘆の声をあげた。

「くくくっく……。やるじゃない。やってくれるじゃあない。その浄魂の剣ていう奴で、こいつらも倒してみろよ」

 大杉が、にやりと笑った。

 六階のすべての病室のドアが、音をたてて開いた。中から看護師と入院患者が出てきた。動作がぎこちない。ふらふらと歩いている。顔にも精彩がなく、首を垂らして歩いていた。

「お美津さん、この人たちは?」

 充輝が言う。

「完全に意識を大杉に乗っ取られているようだわよ。……太助さん、どうします?」

 お美津さんは、太助のほうを振り向いた。

「しようがないな……。生身の人間相手に手荒なことはしたくないんだが……。当て身でもくわらせて、眠ってもらおうか」

 太助は、指をポキポキ鳴らした。

「当て身をするのですか? そんな乱暴なことをしなくても、浄魂の剣を使えば、なんとかなるわよ」

 お美津さんは、片目を細めた。

「大杉から出ている躁糸(そうし)を叩き斬れっていうのか、お美津さん……。絶壁、おまえに操糸が見えるか」

「えっ?」

「えっ、じゃないよ。こいつらを操っている操糸が見えるかって聞いているんだよ」

 太助は、カチカチと歯を鳴らした。

「よく、見てみろよ。こいつらの頭の上に緑色の糸のようなものが、無数に絡みついているだろう」

 と、太助が言う。

「普通の人間には見えやしないが、浄魂の剣を持ったおまえさんなら見えるはずだ」

 太助の言葉に、充輝は浄魂の剣を力強く握りしめた。

 見える……。確かに看護師と入院患者たちの頭の上に、それらしきものが絡みついている。

 操糸は、大杉の口の中から吐き出されていた。口から吐き出されたそれは、大杉の胸元で枝分かれをし、そこから先は無数の触手となって看護師と入院患者たちの後頭部に絡みついていた。

「こいつらの後頭部に絡みついている操糸を、一つ一つ斬っていっても埒が明かない。……絶壁、根元を切り落とせ。大杉の口のなかにある根元をな」

 と、太助が言う。

「この人たちは、あたいと太助さんでなんとかするから……」

 お美津さんが、太助のほうを振り向いた。

「よっしゃー いっちょうやるかー」

 太助が、看護師たちの前に飛び出した。

「あたいも、負けていられないわよ」

 お美津さんが、看護師たちの頭上に飛びあがった。胸元から金色に輝く(さかき)を取り出した。

「ケンサク、俺たちもやろうぜ」

 三左衛門が言う。

「僕たちは、何をやればいいのでしょうか?」

「抱きつくんだよ。抱きついて止めるんだよ」

「えっ? 抱きつくんですか?」

「いやか? 憧れのナースに触れるんだぜ。うれしいことではないか。ひっひひっひひ……。俺、先に行くからな」

「ちょ、ちょっと待ってください。ぼ、僕もやります」

 三左衛門と隆は、看護師たちに抱きつこうとしたが……。看護師たちにパンチやキックを浴びせられてしまった。簡単にやっつけられてしまったのである。いやはや、悪いことはできないものだ。

 太助とお美津さんは、操糸によって操られている看護師と入院患者を、うまく牽制していた。太助は看護師たちの間を素早くすり抜けて、看護師たちの足を止めていたし、お美津さんは、金色の榊を入院患者たちの目の前で光らせて、入院患者たちの動きを止めている。

「絶壁さん、いまよ」

 お美津さんが、言った。

 充輝が一気に駆け抜ける。光り一閃。充輝は、大杉の口元から吐き出されている操糸の根元を、浄魂の剣でぶった斬った。斬り落とされた操糸の根元が、下に落ち、リノリウムの床の上で、のたうちまわる。

「う、うぎゃぎゃぎぁあ」

 大杉が、いびつな悲鳴をあげた。

 操糸に操られていた看護師と入院患者たちは、その場に倒れこんだ。再び立ち上がって、充輝たちを襲ってくるような気配はない。

 血が噴き出した口元を両手で押さえ、のけぞっていた大杉は、身をひるがえして、充輝を睨みつけた。

「おのれっ~ 美佳は渡さんぞ」

「狙いは、やはり美佳さんなのか」

 充輝は大杉を睨み返した。

 大杉は、リノリウムの床を這うように逃げ出した。充輝が追う。逃げる大杉の前に宰三と亜希子ちゃん、充輝たちを執拗に調べたあの刑事が現れた。。

 この病院には、東と西にそれぞれ二機づつ、計四つのエレベーターがあった。充輝たちが使った西側のエレベーターは、通常、来客者や入院患者が使うエレベーターであるが、東側は職員専用のエレベーターだった。宰三、亜希子ちゃん、美佳が自殺未遂を起こしたときに、充輝たちを執拗に調べたあの刑事が、その東側にある職員専用のエレベーターを使ってやってきたのだった。

「大杉……。本当に大杉なのか!?」

 刑事は、目を疑った。

(死んだはずの人間が、なぜ、ここにいるのだ?)

 刑事の名は、手塚秀樹といった。手塚は大杉殺害事件の担当刑事だった。

「どうしたんですか? 刑事さん」

 宰三が尋ねる。

「どうしたもこうしたもあるかい。こいつは死んでいるはずだぞ」

 手塚は声を荒あげた。

「死んだはずの人間が、ここにいるっていうことは、この人……。幽霊っていうこと」

 亜希子ちゃんが興味深々の瞳で、大杉を見つめた。

「絶壁、こいつ、幽霊なのか?」

 宰三が、大杉を追ってきた充輝に言う。

「こいつは、(たち)の悪い悪霊だ」

 充輝は、大杉を指さした。

「へえ~ 悪霊なの」

 亜希子ちゃんは、ジロジロと大杉を観察した。全然怖がっている様子はない。むしろ面白がっている。よっぽど、ホラー映画や怪奇ビデオを観てきたんだろう。神経がものすごく図太くなっているのだ。

「う~ん、どう見ても悪霊だわね。ホントに気持ち悪くて不気味だもの。映画に出てくる悪霊さんと同じだよう。笑ちゃうなもう~ あっははははっ」

 亜希子ちゃんは、笑いだした。

「悪霊!? 悪霊なんかいるわけないだろうが……」

 手塚が右手を伸ばして大杉の腕をつかもうとした。が、つかむことができない。手塚の手は、むなしく宙を彷徨った。

「手塚さん、実体のない幽霊をつかもうとしたって、無駄なことですよ」

 と、宰三が言う。

「バカモン! 幽霊なんかいるものか」

 手塚が、大杉を両手で抱え込もうとすると、大杉が手塚に向かって、口から悪臭を吐いた。

「おえっーーえっ。なんていう臭いだ。産気づいた猫の糞みたいなものをかがせやがって」

 手塚は胸を掻きむしった。

「どいてください! オレがこいつを倒しますから」

 充輝が言う。

「絶壁、その手に持っているものは、何だ?」

 宰三が充輝に問う。

「浄魂の剣……」

「浄魂の剣?  それって、どいういもの?」

「話は後。今はこいつを倒します」

 充輝は浄魂の剣を上段に構え、いきなりそれを振り下ろした。浄魂の剣が、金網を鉄のこん棒で叩いたような音を立てて、弾き返される。

 浄魂の剣を弾き返したものは、三メートルほどに伸びた大杉の手の指だった。両手の五本の指が瞬時に変形していたのだ。

「こいつで、おまえを切り刻んでやる」

 大杉は、機械油でも塗りたくったようなぬらぬらとした筋くれだった黒い指を、充輝の前にかざした。

「死ねよ」

 大杉は反撃を開始した。両手を振り回し、充輝に迫る。廊下に置きっぱなしになっていたストレッチャーを切り刻み、悪臭を、辺り一面に吐き散らした。充輝は浄魂の剣で応戦するが、大杉の無茶苦茶な攻撃の前に、次第に押されていった。

「苦戦しているぞ。助けてやらなくていいのか?」

 太助がお美津さんに言う。

「初戦ですからね……。苦戦するのは、当り前ですわよ。まだ勘所がつかめていないのでしょう」

「そんなのん気なことを言ってていいのか。み、見ろ。絶壁の服が切り裂かれたぞ」

 充輝の青いフットボールジャージが見事に右肩から左肩にかけて切り裂かれた。分厚い生地が幸いして、身体には損傷を与えていないようだが、ボヤボヤしていると、ちょいとヤバイ。

「おい、早く加勢しろよ」

 太助が、言う。

「はいはい、助けますよ。こんな所で怪我でもされたら困りますからね」

 お美津さんは、身をひるがえした。

「破の烈風、いざ、ここに」

 お美津さんは、両手の掌を合わせ、右手の人差し指を突き立てた。

 風が起こる。渦巻だ。お美津さんの周辺に突如現れた四つほどの小さい渦巻が、大杉に向かって走り出す。迎え撃つ大杉は、黒き指で破の烈風を切り刻もうとした。破の烈風と黒き指が激しくぶつかると、電撃が起き、きな臭い匂いが巻き上がった。

 大杉が、ふらつく。

「絶壁さん、いまよ!」

 お美津さんが、言った。

 充輝は跳んだ。空中で一回転し、大杉の背中を袈裟懸けに叩き斬った。

「うぎゃやぁぎゃあ」

 大杉が断末魔の悲鳴をあげた。だが、倒れない。右肩から左わき腹まで切り裂かれたのに倒れない。よろよろと、二、三歩歩いて踏みとどまった。

 601号室のドアが開いた。美佳が廊下に出てきた。寝ぼけているのか足取りがおぼつかない。

「うるさいわよ。人が気持ちよく寝ているのに……」

 美佳は、瞼を擦った。

 大杉が美佳の背後に回り込み、後ろから、美佳を羽交い絞めにした。

「この娘には、大事な役目があるんだ」

 大杉は美佳の喉に、鋭く尖った爪を突き刺そうとした。太助が疾走し、大杉の後頭部に噛みついた。聖獣である太助に噛みつかれた大杉の身体が、青い炎をたてて燃え上がった。お美津さんはその機を逃さなかった。大杉の手から美佳を救い出す。

「絶壁、いまだ。こいつの眉間に浄魂の剣を突き立てろ」

 太助が吼えた。

 充輝が浄魂の剣を、大杉の眉間に突き立てる。眉間がひび割れ、青白い炎が噴き出した。

「おのれっー こんなことで……こんなことで……ヒルコさま……」

 大杉は青白く燃えた後、塵となって消えていった。

「やったー やっぱり最後は正義の味方は必ず勝つのね。イタチが出てきて大活躍したのは意外だったけれども」

 と、亜希子ちゃんが言う。

「イタチの化け物って、誰のことだ。……もしかして…オイラのこと?」

 太助が亜希子ちゃんの方を向いた。

「いやだっー イタチが喋ったわ。イタチが話すなんて、まるでアニメね」

「アホっ! 言っとくが、オイラはイタチなんかじゃあねえ。カワウソだ。カワウソの聖獣太助っていうんだ」

「カワウソ!? なにそれっ。意味わかんない。あんた、イタチじゃあないの」

「カワウソを知らないってかー 冗談だろう」

「知らないよ。カワウソなんて……」

「本当に知らないのか……。よし、オイラが直々に教えてやるから、耳の穴を広げてよく聞きな。いいか、カワウソっていうのはな……」

 太助は、身振り手振りでカワウソの生態と暮らしぶりを話し始めた。

 河川や磯に住み、小魚やカニ、エビやカエルを食べて生活していることだとか、オイラが生きていたころは、カワウソは北海道から九州まで広く分布し、人間とは身近な存在だったと……。

「へえ~ 日本にそんな動物がいたの? 全然知らなかったわ」

「見たことないのか? カワウソを」

「見たことあるわけないでしょう」

「本当に見たことないのか?」

 太助の脳裏に、一つの疑問が浮かんだ。

 絶壁もオイラのことをビーバーだと誤解していた。亜希子ちゃんというこの娘も、カワウソのことを知らないという。

 と、言うことは……。

「もしかして、もしかすると……。オイラが住んでいる日本には、もうカワウソがいないってことか?」

 太助が鼻の穴をおっぴろげた。

「いないよ。そんな動物」

 亜希子ちゃんが口をすぼめる。

「えええっー!」

 太助は、その場ででんぐり返った。

「太助さん、カワウソはもう日本にいないのよ。絶滅したといわれているの」

 お美津さんが言った。

「絶滅した? どういうことだ」

「その~う……。言いづらいことだけど」

 お美津さんは、二ホンカワウソが絶滅していった経緯を、言葉に詰まりながら話し始めた。

 島国である日本のいたる所に生息していた二ホンカワウソは、生息地の環境破壊と、良質な毛皮を持っていたために、毛皮を狙った人間たちにより大乱獲され、一九七九年高知県で目撃されたのを最後に絶滅したといわれていることを。

「……するってーとなにかい。人間たちがオイラの一族を皆殺しに、したってわけかい」

 太助の瞳が大きく見開かれた。

「オイラが眠っている間に、オイラの可愛い子孫たちは、人間どもに根絶やしにされちまったというわけかい」

 魚や、エビやカニを追いかけ、清冽な川辺で、きままな生活を楽しんでいた二ホンカワウソ。

 その愛嬌のある姿は、もう日本では見られない。

「太助さん……」

 お美津さんが、瞼を伏せ目がちにした。

「オイラは、人間が大好きだったんだ。大好きだったから、死んだあと、苦しい修行をして、人を守る聖獣になったんだ。なのに……、人間が……、人間が……、人間どもがオイラの子孫を滅ぼしたって」

 太助の激憤は続く。

「オイラは、夢を見ていたんだぞ。いつか人とカワウソが、本当に理解し、一緒に暮らせる日が来る日が来るんじゃあないかなって……。それなのに……」

 太助の瞳がキラリと光った。

「ばかやろっー この、ばかやろうー」

 太助は叫んだ。叫びながら、泣いている。

 カワウソたちが、日本中の河川や磯にいた時代。カワウソは人を怖がり、人に近寄ることはなかったが、太助は人を愛していたし、人もまた、太助を愛していた。

「なにが、人を助ける聖獣だ。やっていられるかー」

 太助の額の中央にある炎を模った赤色の印が、色あせてゆき、青色になってゆく。

「やめた、やめたやめた。オイラ、この件から手を引くからな」

「太助さん、何を言うの。苦労して聖獣になったんでしょう」

 お美津さんが、叫んだ。

「オイラの子孫が皆殺しなされたんだ。人間の手によってな」

 太助の瞳から、涙がとめ止めなく溢れている。

「ちっきしょうー」

 太助は、右腕で涙をぬぐった。

「太助さん、二ホンカワウソはまだ滅んでしまったとは限らないわ。どこかで生きているかも」

 お美津さんが言った。

「気休めはよしてくれよ。滅んでしまったから、いまの人間は、二ホンカワウソのことをしらなかったんだろう」

「それは……」

「もう、いい。とにかく。オイラ、行くから」

 太助の姿が、足元から消えてゆく。

「そういうことだから、あばよ」

 太助は、充輝たちの前から、姿を消した。

「あいつが怒るのも無理もないよな。自分の子孫が人の手によって絶滅したっていう話を聞かされてしまってはなあ」

 三左衛門が言った。

「絶滅したかどうか、まだ、はっきり分からないのだろう。そうなんだろう、ケンサク」

 宰三が隆に言う。

「ちょっと、待ってください。いま調べてみますから」

 隆は、タブレット型端末をリックサックの中から取り出した。

 その時……。

「うぐっうぐうぐっ」

 手塚の顔が紫色に変色した。瞳が真っ赤に充血している。吐く息が荒い。二、三度頭を左右に振ると、手塚はその場に倒れた。

「あらら、倒れちゃった。どうしたんですか?」

 亜希子ちゃんが、倒れている手塚の顔を覗き込んだ。

「手塚さん、しっかりして」

 充輝が心配そうに、手塚を抱き寄せる。

「お美津さん、これは……」

 充輝が手塚の異変に気が付いた。

 手塚は鬼の形相をしていた。細い目は吊り上がり、こみかみに青黒い血管が浮かび上がっている。口元が醜く歪み、黄色い歯がむき出しになっている。血の汗さえ流していた。

「娘には……必ず自殺、してもらう」

 手塚ではない何者かが、手塚の口を借りて言った。

「憑依現象だわよ。何者かが、手塚さんの身体を乗っ取っているわよ」

 お美津さんが、皆に注意を促した。

「おまえだな、美佳の守護霊というのは……。なるほど、おまえがついていたから美佳は命を落とさなかったのか」

「あんたも美佳さんの命を狙っているわけ?」

「われだけじゃあない。異界に巣くう魔物すべてが美佳の命を狙っておるわ」

 手塚の身体を乗っ取った何者かが、口を歪ませる。

「なぜだ? なぜ異界のものたちが美佳さんの命を狙うのだ」

 充輝が言った。

「美佳は、死ななければならない。それも自ら命を絶つ(かたち)でな。あの娘は特別な娘。娘の人身御供が成就することによって、ヒルコさまが復活する」

 手塚の身体を乗っ取った者は、振り向き、窓の向かって走った。そのまま窓をぶち破り、身を投げ出す。強化ガラスが、派手な音をたてて割れ、ガラスの破片とともに手塚の身体を乗っ取ったと思われるものが、真っ逆さまに下に落ちた。

 下は氷川総合病院駐車場である。生身の人間が六階の高さから落ちたら間違いなく即死であろう。

 充輝とお美津さんが、窓に駆け寄り、下を覗いた。

 いない……。どこにも手塚の身体を乗っ取ったと思われるものの死体がない。

「絶壁さん、相手は容易ならぬ悪霊よ。覚悟しなくちゃ」

 お美津さんは、充輝の瞳を見つめた。




         6、絶壁、恋をする!


 氷川高校超常現象研究部の部室は、五階建ての氷川高校本棟ではなく、食堂や図書館、スポーツクラブの部室などが併設された氷川高校別棟にある。本校舎の隣に建てられてあるこの別棟は、二階建てで、超研の梁山泊は、一階の右端にあった。

 開けるときガタガタとなる安物の引き戸を開けると、八畳の広さの部屋がある。部屋の真ん中に丸いテーブルあり、窓際にパソコンが置かれた机があった。机の脇の大きなスチール製の本棚にはオカルト関係の書籍が所狭しと並べてある。椅子は五つ。逆三角形の背もたれ付きのパイプ椅子が四つと、部長がどこからか拾ってきたロッキングチェアがひとつが、丸いテーブルを囲むように置かれてあり、超研のメンバーは丸いテーブル周りに置かれたこれらの椅子に腰かけて、いつもあれこれと不思議な現象のことや、クラスの嫌な奴のことを話したり、やることなくなんとなく気分が落ち込んでいたりする時などは、カードゲームで遊んでいるのである。

 木曜日の午後四時過ぎ、超研の部室に集合したメンバーは、月曜日の夜、病院で起きた奇怪な出来事について、あれこれ話し合っていた。

「あれは手塚さんじゃあなかった。手塚さんにとり憑いた悪霊だった」

 と、隆が言う。

「ああああっ、悪霊だな、あれは……」

 宰三は、片手に持ったボールペンを指で弄んだ。

「あの悪霊が美佳さんをつけ狙っているわけですね。そうなんでしょう。充輝くん」

 隆が、充輝に話を振った。

「ああっ……」

 充輝は不安にかられていた。六階の高さから飛び降りても平気な悪霊。

 おそらく、あの手塚の身体を乗っ取った悪霊は、大杉とは比べ物にならないほどの強敵であろう。

 大杉に、あれだけ苦戦したのだ。聖獣の太助が戦線離脱したいま、あの悪霊に勝てるのだろうか?

「今度は、あいつが相手というわけね。また、エキサイティングな活劇が見れるというわけね。私、ついてるかも」

 亜希子ちゃんは、いつもハイテンションである。本日も元気印満開で、

「よっ、正義の味方。ここで、あの浄……浄……浄魂の剣という奴を出して見せてよ」

 と、亜希子ちゃんは、充輝に腕を絡ませた。

「浄魂の剣、浄魂の剣、浄魂の剣」

「うるさいな。放してくれよ」

 充輝は、亜希子ちゃんの腕を乱暴に振りほどいた。

「ケチ、減るもんじゃあないし、出して見せてくれたっていいじゃあない」

 駄々をこねる亜希子ちゃん。亜希子ちゃんは、楽しくて、楽しくて、しょうがないようである。

「あの~う。お美津さんっていう幽霊……。出たんですか?」

 と、博之が聞いた。

「出たわよ。出た出た。出てきて、お医者さんの悪霊と戦ったんですからね」

 亜希子ちゃんが答えた。

「お医者さんの悪霊!? はぁ~ 行かなくて良かった」

 博之が、胸を撫でおろす。白衣を着た医者の幽霊なんて想像しただけで、膝がガクガクしてくるのである。

「行かなくてよかっただなんて……。あんた、あんたなぜ、来なかったの? あんたも超研のメンバーなんでしょう?」

「そんなこと言われても、怖いの嫌だし……」

「はあ? 自殺の名所である御前岬の探索には参加したんでしょう」

「あそこは、UFOの目撃も多い所ですから……」

「UFOが目撃できるから参加したというのか」

 と、充輝が言った。

「悪いですか。UFOの研究も超研の活動の一部でしょう」

 UFOの観測という言い訳は、その場しのぎの言い訳では決してない。自殺の名所として、すっかり有名になってしまった御前岬だったが、言われてみれば確かにUFOの目撃も多い所である。UFOマニアのオタクが連日のように訪れても、おかしくはない所なのだ。

「手塚さん……。どこに行ったんだろうな」

 と、宰三が言った。

 手塚の消息は、あの夜を境にしてぷっつりと途絶えていた。

「手塚さんにとり憑いた悪霊は、美佳さんを狙っているんでしょう。だとしたら、美佳さんを見張っていればいいんじゃあないの。また美佳さんを狙ってあらわれるかもしれないし」

 亜希子ちゃんは、腕を組んだ。

「ケンサク、美佳さんは? いま、どこに」

 充輝が尋ねる。

「幸い傷も大したことがなかったので、いまは家に戻っています」

 万が一のことを考えて、氷川総合病院に収容された美佳だったが、軽い打ち身と擦り傷が、腕と膝にあっただけで、他に異常は見られなかった。美佳は、充輝たちが大杉を撃退した翌日、何事もなかったような顔をして氷川総合病院を退院し、家で静養していた。

「おい、手塚さんがいまだに行方不明っていう話は本当なのか?」

 部室のドアを乱暴に開けて、三左衛門が中に入ってきた。

「今頃、のこのこやってきて何を言っているんだよ。いま、その話をしていたんだ」

 宰三が、ため息交じりに応えた。

「すいません、補習を受けていたから……。ん!?」

 三左衛門が、部室の中にいる亜希子ちゃんに気が付いた。

「なんで、亜希子ちゃんがここにいるの?」

 目を丸くして驚くと、

「亜希子ちゃんは、氷川高校の一年生だった。それで……。今日からはだな、わが超研のメンバーとして活躍するらしい」

 と、宰三がためらいがちに答えた。

「ええっっー 一年生だって!」

 グラマラスで大学生にも見える大林明子ちゃんが、自分より一つ年下の一年生だったなんて思ってもみなかった。大体態度がでかい。三左衛門たち上級生に対しても平気でため口をきくし、いやになれなれしい。

(本当にこれで、一年生なの!?)

 三左衛門は、驚きを隠せないようであった。

「そういうことだからよろしくね、さんちゃん」

 亜希子ちゃんは、ウインクをして見せた。

「さんちゃん!? さんちゃんって何だ?」

 三左衛門は、三左衛門くんとか三左衛門とか、轟とかで呼ばれているが、「さんさんちゃん」って呼ばれたことは一度もなかった。年下の女の子からそういうふうに気安く「さんちゃん」って呼ばれるとは、まったくもって心外である。

 三左衛門は、むすっと顔をしかめた。

「一つ疑問があるのですが?」

 ケンサクこと、隆が言った。

「どうした、ケンサク?」

 宰三が問う。

「手塚さんは、なぜ、病院にいたのです? 美佳さんは自殺未遂ということでケリがついたんじゃあなかったんですか?」

 救急隊員から連絡を受けた警察は、現場に着くと、美佳の家族と連絡を取り、美佳がなんども自殺未遂を繰り返していることを知った。今回の事件も自殺未遂ということで決着がついたはずだったが……。

「刑事の勘だってよ。手塚さんがいうには、この自殺未遂には何か重大な事件が絡んでいるって思っているんだ」

 と、宰三が言う。

「勘ですか? 幽霊の存在をまるっきり信じていない男が、勘ですか……」

 隆が、腕を組んだ。

「病院のロビーにやってきた俺っちと亜希子ちゃんの顔を見て、いきなり、おまえたち矢田美佳のことで来たんだろうと、言いやがった」

「それも勘っていう奴ですか?」

「あいつたらさ~ わたしの顔をジロジロ見て、説教をしたのよ。お見舞いなら昼間にしろっ。昼間に……。若い娘が、夜遅く、男とこんな所をうろつくなんて、けしからん。親の顔を見たいものだなとかなんとか、言っちゃってさ」

 亜希子ちゃんが、むくれた。

「ほんと、いやになるほど説教されたわ。で、六階にいったら行ったら、あの有様だったもんな。びっくりしたぜ、絶壁」

 宰三が、充輝に視線を送る。

「前から、ただものではないとは思っていたが、おまえが霊能力者で、それも悪霊を退治する戦士さまときたもんだ。……まあ、ちょっと癪に障るけれどな」

 宰三は鼻をヒクヒクさせた。

 超研の部長である宰三は、占いはするけれども、人に勝る才能とか、霊感とか、そういう特別な能力がまったくない。オカルト話やUFOの話になると、聞き耳たて得意になり、そういう話はまかしとけ、俺っちが誰よりも詳しいと、横柄な態度をとる宰三なのだが、人がうらやむような能力は、まったくないのである。

「お美津さんという正義の味方の守護霊も現れたことだし、超研はこの事件に真っ向から取り組むことにしよう」

 宰三は、偉そうに咳をして言った。

「部長、ポチとニャンタで占ったらどうです?」

 と、三左衛門が言う。

「おう、そうだな。それがいい。ポチとニャンタのニャーワン占いで、今後のことを占って進ぜよう」

 宰三が、鼻高々に言う。

「絶壁、おーい絶壁。おまえはどう思っているんだ?」

 充輝は、宰三の声が聞こえなかったのであろうか。ぼんやりしていた。

 えくぼが可愛い、女の子。お美津さん……。お美津さんは、いまこの時でも、美佳さんの傍らにいて、彼女を守っているのだろうか……。

「絶壁……。部長が呼んでいるぞ」

 三左衛門が充輝の肩に手を置いた。

「ん!? なんか、ようか」

「なんかようかはないだろう。おまえ、何も聞いていなかったのか?」

「いや、オレ。ちょっと考え事をしていたんでな」

「お美津さんのことを、思っていたんでしょう」

 亜希子ちゃんが、ニヤリと笑った。

「バカ言うな。なんでオレがお美津さんのことを、思っていなけりゃあならないんだ」

「隠さない隠さない。顔にお美津さんが好きだって、ちゃんと描いているわよ」

「えっ!?」

 充輝は、両手で顔を隠した。

「照れない、照れない。よくあるパターンよ。戦いの最中、ヒーローとヒロインに恋が芽生える。けれど、互いに思いを伝えられなくて、いじいじしていて、みっともなくて……。それでも最後の土壇場になって告白して、想いが叶うってパターン。これって、お決まりのパターンよね」

「だから。お美津さんのことなんか思っていないって」

 心の中の想いを、よりによって亜希子ちゃんに見透かされてしまうとは、充輝、一生の不覚である。

 その時……。

「大変よ、大変! 美佳さんが、また自殺をしようとしているの」

 忽然とお美津さんが、超研の部室に現れたのだった。

「ええっー お美津さん」

 充輝は穴があったらそれこそ、そこに入りたかった。噂の渦中である想い人のお美津さんが、このタイミングで出現したのである。

「こ、この人がお美津さんですか? そんでもって幽霊って?」

 初めてお美津さんを見る博之の目にも、お美津さんは幽霊には見えないらしい。

「本当に幽霊!? 幽霊なの?」

 博之は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、たまげていた。

「お美津さんは、正真正銘の幽霊です。そして充輝先輩は、お美津さんに恋をしているのです」

 亜希子ちゃんが、そう茶化す。

「バカ、勝手なことを言うな。オレのこと、なにも知らないくせに」

「分かりますわよ。恋する気持ちは。女の勘をバカにしちゃあダメよ。先輩のことまだよく分からなくても、恋をしている想いは、ちゃんと分かるんですからね」

 亜希子ちゃんが、充輝とお美津さんの顔を交互に覗き込んだ。

 充輝の顔が赤くなった。お美津さんの顔も赤くなっている。

「あれ? あれあれあれ。お美津さんの顔も赤くなった。お美津さんも、充輝先輩に気があるわけ?」

 亜希子ちゃんが、追い打ちをかける。

「あたいはA級の守護霊です。恋をしている暇なんかありません」

「A級の守護霊さまには、人を愛する感情がないっていうわけ?」

「そういうことじゃあなく……」

「じゃあどういうこと? 愛がなければ守護霊という仕事はできませんよね」

「それは、そうですが……」

「幽霊と人間との恋……。どうなるんだろうね。にひっひっひ」

 亜希子ちゃんは、意地悪く笑った。

 お美津さんは、A級の守護霊である。風を自由自在に操り、悪霊たちを退治する。そのA級の守護霊が顔を真っ赤にさせて恥じらっているのである。

 この先、どういう展開になることやら……。




         7 太助の過去


 (ほこら)の下に、陶器でできた白い徳利が二つ落ちていた。徳利は赤土で汚れ、口の部分が所々欠けていた。このままここで朽ちてゆくのだろうか。雨風にさらされた徳利は、その役目を終えたかのように静かにその身を横たえていた。

 祠ができた当時、徳利にはいつも新鮮なお神酒が湛えられていた。この近くに住む村人が、平安に過ごせる日々に感謝し、毎日新鮮なお神酒を入れ換え、拝んでいたのだ。

 いつの頃だろう。年月が経つにつれて、ここを訪れる人はいなくなった。風雪に耐えきれなくなった祠は朽ちてゆき、徳利も、また壊れていった。

 徳利とともに、このまま祠も朽ち果ててゆくのだろうか……。

 祠はウメズという悪霊を閉じ込めたものだった。ウメズは海に住む悪霊だった。漁に出る漁師を苦しめ、時には浜辺に上がり漁村を襲った。

 ある日、暴虐の限りをつくすウメズの前に一人の勇者と聖獣が現れ、ウメズは祠に封印された。ウメズによる破壊と殺戮は収まり、村人は勇者と聖獣に感謝した。

 潮風は、ウメズが現れたあの時と同じように御前岬をうっていた。

 太助は、御前岬の中腹にある自らを祀った祠の前にいた。白い徳利を拾い上げると、すぐにそれを藪の中に捨てた。

 潮の匂いが太助の鼻をくすぐった。時折吹く海風が太助の頬を打った。昔のままの変わらない佇まいが、太助の感慨を呼び覚ます。

(会いたいぜ……。長吉)

 太助と長吉が出会ったのは、嵐が吹き荒れた夏の日の夕暮れだった。

 ささいなことで仲間のカワウソと大喧嘩した太助は、柔らかい草が生い茂った川端に、傷ついたその身を横たえていた。

 身体のいたるところに噛み傷があった。噛み傷は、内臓まで届いているのだろうか。激しい痛みで、立ち上がることさえできない……。

 いや、立ち上がっても歩くことは無理だろう。歩くことができなければ泳ぐか? いや、それも無理だろう。吹き荒れる嵐で、川は氾濫を起こしている。川に身を任せたら、太助はいとも簡単に飲み込まれてしまうだろう。

 この川に生まれ落ちて何年経っただろう。

 楽しかったことも、悲しかったことも、なつかしい想いでとして消えてゆく。

(オイラ……。死ぬのか)

 死というものがどういうものなのか分からない。生まれてから、そんなこと考えたこともない。ただ毎日、精いっぱい生きてきた太助にとって、生きることだけがすべてだった。

 死んでいった仲間が、異臭を放ち、腐ってゆくのは知っていた。醜く得体の知れないものになってゆくのは知っていた。なんでそんなことになるのかわかりもしないが、死というものは恐ろしいものらしい。

(死にたくない。死ぬのは嫌だ)

 太助は大粒の涙を流した。涙が……大粒の涙が、この傷ついた身体を癒してくれたらどんなにいいのに……。

 太助は目を閉じた。

 意識がなくなる寸前、身体が軽くなった。誰かが太助の身体を持ち上げている。仲間たちの中に、こんなことができる奴などいやしない。こんなことができるのは……。

 太助は、閉じていた目を静かに開けた。瞳に映ったのは男の子の可愛い顔だった。カワウソである太助の縄張りに土足で踏み込んでは、荒らし散らす人間という忌まわしい人間の子供だった。

(子供が、オイラを持ち上げている……)

 太助は、最後の力を振り絞って必死の抵抗を試みた。けれど、強く太助を抱きしめている力に抵抗できない。

(よりによって人の腕の中で死んでゆくのか……)

 太助は絶望感に包まれた。

 何時間経ったのだろう。心地よい暖かさに包まれて目が覚めた。子供が愛しそうに、太助を見つめている。

「じいさま。カワウソ、目を開けたよ」

 男の子が微笑んだ。

「そうかい、良かったね。こりゃあ助かるかもしれんな。長吉」

 男の子の後方から年老いた声が聞こえた。

「うん」

 男の子は元気よく答えた。

 長吉は、村はずれにある粗末な小屋に、腰の曲がった老父と一緒に住んでいた。

 雨漏りがする粗末な小屋だった。あばら家ともいえるそんな粗末な小屋の中で、長吉は傷ついた太助の身体を洗い、深山から採ってきた薬草を一晩かけて膏薬にして、太助の身体に塗り付けてくれていた。

「ほら、お食べ」

 長吉は、太助の口に、すり鉢で叩き潰した食べ物を運んだ。

「慌てないで、ゆっくりでいいんだよ」

 太助は、おそるおそる(さじ)の上にある柔らかく、暖かいものを、一口噛んだ。

 小魚なだろうか。暖かく柔らかいその食物は懐かしい味がした。

(これは、何だ? 初めて食べたものなのに……)

 太助は、何度も何度も咀嚼した。

「食べた。食べたよ。じいさま」

「うん、うん、本当に良かったな」

 泣き出した長吉の姿を見て、じいさまも泣いていた。

(人とは、こんなにも優しいものなのか……)

 人とは自然を破壊し、動物たちを虐待しているだけの生き物だと思っていた。

 川で気持ちよさそうに泳いでいるお魚たちに石を投げつけたり、野原で休んでいる動物たちを棒で追い掛け回すだけの生き物だと思っていた。

(人の中にも良い奴がいるんだな………)

 優しい目で助けを見つめる長吉は、寝食も顧みずに看病をしてくれていた。腰の曲がった老父は、辛そうに自分の腰を摩りながら、太助に優しい言葉をかけてくれていた。

(オイラ……。いい人に拾われたな)

 太助は、再び目を閉じた。

 二、三日すると、懸命な介護が功をなしたのか、太助は次第に体力を取り戻していった。長吉に拾われてから一週間目、太助の体力は自分で食べ物を採れるまでに回復した。

 身体が元に戻った太助は、恩返しをしようと思った。

 言葉を話せない太助は、河川で採ってきた魚を小屋に運び込んだり、長吉の着物の裾を咥えて、魚が採れるところまで連れて行ってりした。老父に、めったに採れない薬草のある場所を教えてやった時は、老父が跳びあがって喜んだ。

 太助が、長吉と老父に恩返しをするようになってから一年。献身的な恩返しは、いつしか村の人たちにも知られるようになっていた。

 村の子供たちは、太助を見ると目を輝かせた。ひげ(つら)の男たちは豪快に笑いながら太助を褒め上げた。娘たちは愛くるしい笑顔で、太助を労わってくれた。

(オイラ、幸せだった。幸せだったから死んでから、人と自然を守る聖獣となる決心をしたんだ。人とともに聖獣として生きようと思った。なのに……)

 太助の胸に、お美津さんが言った言葉がよぎる。

 なんの罪もないカワウソの皮を剥いで殺したのも人。河川を汚し、カワウソの住処を奪ったのも人。人がカワウソを絶滅させた……。

(本当に……。人がオイラの子孫を滅ぼしたのかい)

 太助には、二ホンカワウソがもうこの地上にはいないということが信じられなかった。

(オイラたちが、何をした? 人を苛めたか? 人に危害を加えたか? なぜ、オイラたちが殺されなくちゃあならないんだ)

 身を焦がすような懊悩に、太助は震えた。魂を引き裂くような身の震えは、滅びていった仲間たちの慟哭が起こす震えなのだろうか。

 足音がする。誰かが祠の近くまで来たようだ。太助は、木の陰に身を隠した。

 狭い小路を通り抜けてやってきたのは、灰色のニット帽を被ったおじいさんだった。黄土色の地味なジャンパーを着て、おぼつかない足取りでこちらにやって来る。しわだらけの灰色のズボンが、藪から伸びている小枝にぶつかるたびに、身体が左右に揺り動いていた。

 五月の陽の光が、おじいさんの頬を打つ。しわが刻まれているシミだらけの頬が、陽の光を浴びて乱反射しているように見えた。

 長吉と出会った時も、そうだった。長吉を照らしていたのは、陽の光ではなく、かがり火の暖かい光りだったが……。

 おじいさんは、祠が壊れているのに気が付いた。屈みこみ、壊れた祠の破片をひとつづつ丁寧に拾い上げた。拾い上げた破片を柔らかい草の上に置き、手を合わせて拝んでいる。

 この祠には、長い間、人が訪れることがなかった。このまま自然に朽ち果ててゆくはずだった。その忘れられたはずの祠に、人が訪れ、参拝している。

「おい、おまえ! なにをしている」

 太助が、思わず藪の陰から声をかけた。

「なにをしているかって、聞いているんだよ」

 おじいさんは、突然現れた太助を見ても、驚きもしなかった。太助の様子をじっと見ていた。

「おまえさんが……。太助さんさんか……。いや太助大明神さまか」

 太助が、この世から身を隠してから二百五十年は経っている。太助を知る人などいやしない。が、目の前の老人は、太助のことを知っているという。

「お、おまえ、オイラのことを知っているのか?」

「知っていますとも。この巻物に描かれている姿と同じじゃて」

 おじいさんは、懐から巻物を取り出した。巻物を広げ、墨で描かれている動物の絵を指さした。

 二ホンカワウソらしき動物の姿がそこにあった。頭から紙垂(かみしで)を垂らし、右手に持った(さかき)を振り下ろし、左腕を上にあげ、片足で跳ねるその姿は踊っているようにも見えた。

 太助らしい二ホンカワウソの傍らには、とぐろを巻いた下半身がウツボ、上半身が人の女の化け物が描かれており、二ホンカワウソは、その奇怪な化け物に戦いを挑んでいるかのようだった。

 おじいさんが言う。

「太助さんは、使命を果たすために目覚められたのじゃ」

「使命って何だ?」

「おとぼけを……。太助さんは、青龍さまが予言された(わざわい)を、阻止しようと、再び現れたのじゃろ」

「青龍って……。もしかして、もしかすると、オイラたち聖獣の神。五神の内の一人である、あの青龍さまのことか」

「はい、その青龍さまです」

「冗談だろう。オイラ、青龍さまに会ったこともないぜ」

「嘘を言ってはいけません。我が家に伝わるこの巻物に、ちゃんと青龍さまと太助さまのことが書いてあります。わしは今日、ここに来れば必ず太助大明神に逢えると信じていましたのじゃ。これもご先祖さまのお導き」

 おじいさんは、手を合わせて太助を拝んだ。

「おいおい、拝むなよ。オイラ、そんな偉いもんじゃあないんだ」

「いやいや太助大明神こそ、大いなる(わざわい)からこの世を救ってくれる聖獣さま」

「大いなる禍? その大いなる禍ってなんだ?」

「大悪霊。大悪霊が襲ってくるのです。太助さまは、大悪霊を倒すために目覚められたのじゃ……。わしと太助さまがここで出会うことは、すでに決められたこと。わしは、そのために今日まで生き続けてきたのじゃ」

「ちょいと、待て。おまえさんの話によると、オイラが目を覚ますってことは、予定されていたことなのか?」

「わしらのご先祖さまは、しつかりとあなたさまのことをこの巻物の(しる)してありますのでのう。わしは、あなたさまの復活を信じて、ずっと待っていましたのじゃ」

「オイラが目を覚ましたのは、偶然じゃあなかったのかい?」

「偶然とは?」

「そこを見てみろよ。祠が壊れているだろう。絶壁という奴が、祠にぶつかって壊しやがったんだ。それで、オイラを閉じ込めていた結界の注連縄が切れて、オイラが目を覚ましたっていうわけ」

「太助さまは、自ら結界をはって祠の中に籠ったはず。閉じ込められたわけではありません」

「オイラはウメズに負けたんだぜ。負けて、祠の中に閉じ込められたのさ」

 太助は、記憶を探った。

 二百五十年前、長吉を人質にとられた太助は、ウメズの罠にかかり、ウメズとともに祠の中に封印されたはずだった……。

「ウメズの身体は四散しもうたが、魂は浄化されなかったのでのう。あんたさんは、ウメズの魂を閉じ込めるために、ウメズとともに長い眠りにつく決心をしましたのじゃ。そうでもしなければ、ウメズの魂は、また別な身体にとり憑き、新たなウメズが誕生しまうのでのう。あんたさまは、それを防ぐために自らを犠牲にしたのじゃ」

「オイラが、人を守るために自分を犠牲にてかっー」

 その当時の太助なら、自らの命を犠牲にしても悪霊を倒しに行ったかもしれない。

 人が大好きで、人のためなら、この命さえもいらないと思っていた頃の太助ならば……。

「待てよ。オイラが目覚めたっていうことは、オイラとともに、この祠に眠っていたウメズも蘇ったんじやないのか?」

 太助の胸に動揺が走った。




         8 絶壁、ウメズと戦う。


 船体を彩るライトブルーとクリアイエローが眩しい全長二十七メートル、総重量百二十トン(排気量百十トン)の双胴船すかしゆりは、氷川市の東側にある氷川湾を、気持ちよさそうに奔っていた。

 二階建ての双胴船すかしゆりは、氷川市が民間の会社に経営を任せている観光船である。定員、約二百二十人。乗務員約五名ほどで、大小様々な島々が点在する氷川湾を一日二回、二時間ほどかけて運航していた。

 金曜日の午後二時。二回目の運航に八十人ほどのお客が乗船していた。

 乗客の中に美佳がいる。自殺する場所を求めて街をうろついた美佳は、幼いころ両親に連れてもらったことがある、すかしゆりに乗り込んでいたのであった。

 もちらん、我が超研一向も乗り込んでいる。

 お美津さんから、また美佳さんが自殺を企てているわ、と聞いた超研のメンバーは、美佳がすかしゆりに乗り込むんじゃないのかという情報を得て、つい先程すかしゆりに乗り込んだのだ。

「見つけた!」

 三左衛門が、叫んだ。

 見ると、美佳は一階後方の座席に座っていた。船窓からぼんやり波間を見ている。

「博之、声をかけてこいよ」

 宰三が、言うと、

「えっー 僕がですかー」

 と、博之は素っ頓狂な声をあげた。

「いやなのか?」

「いやですよ。よく知らない女の子に声をかけるなんて」

 お化けが嫌いで、UFOオタクの博之は、女の子と話すのも苦手である。特に綺麗な女の子の前では、モジモジして声も出せない。で、そういう性格なので、でっぷりと太った身体を小さくさせて、隆の後ろに隠れてしまった。

「ケンサク、おまえが行け」

 と、宰三が言うと、

「僕が……、声をかけるんですか?」

 隆も気後れしている。読書とネットの検索が第一の友達である隆も、女の子が苦手らしい。へどもどして顔をしかめてしまった。

「だらしがないわないわね。いいわ、私が声をかけてくるから」

 亜希子ちゃんは、すたこらさっさと歩いて行った。美佳に声をかけると、超研メンバーに外に出るように指示を出した。

 甲板にでると、美佳は、

「あの~う、用って何かしら? 大事な話って言っていたけれど、私、あなたたちのこと知らないし……」

 と、言った。

「オレたちは、氷川高校の超常現象研究部、略して超研のメンバーなんだが……」

 充輝が言う。

「そして、俺っちが部長の宰三なのだ」

 女好きの宰三が、充輝を押し退け、美佳の前に出た。

「はあ?」

 美佳は、首を傾げた。

「なにそれっ。超研って? そんなクラブあるの」

 超研は、一応クラブ活動として認められてはいるが、校内でも超研というクラブがどんな活動をしているのかあまり知られてはいない。超研ってどんなクラブなのと、頭を傾げるくらいだから、他の高校の生徒である美佳が、怪訝な顔をするのも無理もない話である。

「あのさ、俺たち、ちょっとだけ君に用があって」

 三左衛門が、頭を掻いた。

 まさか、いきなり君が自殺をするのを止めにきたんだとは言えない。

 超研のメンバーと矢田美佳は面識はある。数日前の夜、総合病院の六階で会っている。しかし、寝ぼけ眼で病室から出てきた矢田美佳は、出てきた途端、悪霊と化した大杉に羽交い絞めにされ、気を失ったのである。超研のメンバーは、美佳のことを覚えてはいるが、、美佳はその場にいた超研のメンバーのことなど覚えてはいないだろう。

「私、あまり人と関わりたくないの……。用ないなら……」

 美佳は、顔を逸らした。

「ちょっと、ちょっと……。ちょっと待ってください。用というのはですね……」

 三左衛門が、その場から逃げ出そうとする美佳を止める。

「も~う、ハッキリ言いなさいよ。だらしがないんだから……。美佳さん、あんた自殺をしようとしているでしょう」

 と、男どもの不甲斐なさにあきれた亜希子ちゃんが、ずけずけと言った。

 美佳は、面食らった。

 ろくに話したこともない相手に、いきない心の中の葛藤を言われたのである。戸惑わないほうがおかしい。

「どうしてそれを……。あなたたち一体何者なの?」

 美佳は、唇を震わせた。

「だからっ、私たちは超研だって言っているでしょう。超常現象研究部。略して超研。私たち超研は、不思議なことを研究しているクラブなの。霊現象とかUFOとか、雪男。ちょいとベタだけれどもネッシー、失われた大陸だとかね。だからさ、あんたが自殺をしようとしているぐらい簡単に分かっちゃうだからね」

 亜希子ちゃんは、腕を組んで、身長百八十センチメートルの美佳を見上げた。

 同性である亜希子ちゃんが見ても、美佳は綺麗である。極端な美人顔である。なんで、こんなに恵まれた容姿のあなたが自殺をする必要があるのよーと、嫉妬にかられそうになる。

「意味分かんない分かんない。超常現象を研究しているっと言ったって、クラブ活動でしょう」

 美佳は後退った。

「お美津さんという美佳さんの守護霊が、オレたちに知らせたんだ」

 と、充輝が言った。

「お美津さん……。私の守護霊?」

 美佳には、自分のことを絶えず守っているという守護霊のことなど理解できない。目を白黒させていた。

「守護霊とは、人を指導し、守ってくれる霊のことだ。あんたの守護霊であるお美津さんはねえ、片時もあんたの側を離れずに、あんたを守っているんだよ」 

 充輝が言った。

「私を見守っているって! そんなの嘘よ。私を守ってくれているのなら、なぜ、いつも辛い想いばかりするのよ」

 美佳は、声を荒あげた。

「美佳さんは、いつも辛い想いばかりしているのですか?」

 三左衛門が言うと、

「そうよ、いつも辛い想いばかり……。私を守ってくれる守護霊なんていやしないんだから」

 と、美佳は悲しそうに言った。

「俺っちには、辛い想いを抱えているようには、見えないのだがな。あんた綺麗だし……」

 宰三が、鼻をひくひくさせて言う。

「人を見かけで判断しないでよ。私の胸は、もう張り裂けそうなんだから」

 美佳は、泣きじゃくり始めた。自分だけが不幸を背負って生まれてきたような顔をして泣いている。

「辛い想いってなによ。そうやって自分は不幸な女なんだーと、悲観するのが、あなたの趣味なの? あんた、世界で自分が一番不幸な女だとでも思っているんじゃあないでしょうね」

 亜希子ちゃんが、そう言うと、

「ひどい、ひどすぎる。何も知らないくせに……」

 と、声を張り上げて大泣きする美佳だった。

「いいえ、言わせてもらうわ。私、女のくせにグズグズメソメソする奴を見ると、虫唾が走るの。頭にくるわ」

 亜希子ちゃん、いうことが滅茶苦茶である。かよわい女の子だからグズグズメソメソするのである。

「先輩、お美津さんを呼んで」

「お美津さんが、どれだけあんたのことを心配しているか、お美津さんの姿を見れば、わかるかも知れない」

 「お美津さん、出て来いよ。ここにはオレたちしかいないから」

 充輝は、お美津さんを呼んだ。お美津さんがその姿を現す。

「この人が、あんたの守護霊のお美津さんだ」

「えっ!? どこ? どこにいるというの、その私の守護霊という人」

 美佳には、お美津さんの姿が見えていないようである。見当違いの方向を見ている。

「見えていないのですか?」

 と、隆が言うと、

「見えるわけないでしょう。そんなもの」

 と、美佳はそっけなくそっけなく言った。

「霊は万人(ばんにん)に見えるわけではありませんよ」

 お美津さんが言う。

「霊感のある人、霊の存在を強く信じている人は、低級霊、動物の霊、悪霊、あるいは神秘に満ちた妖精の存在まで感じることができますけど、霊感のない人、霊の存在をまったく信じていない人たちには、霊を見ることも、感じることもできませんよ。美佳さんには霊感があるのですが……」

「霊の存在をまるっきり信じていないのだろう」

 と、充輝が言う。

「それもありますが……。美佳さんの場合、美佳さんにとり憑こうとしている悪霊が、あたいの介入を防いでいるみたい」

 お美津さんは、悲しそうに睫毛を揺らした。

「悪霊? ここにいるのか。大杉みたいのが」

 充輝が言う。

「大杉ほどではないですけれど、低級な悪霊がいますわよ。うじゃうじゃと」

 お美津さんは、注意を促した。

 超研の一行には見えてはいないが、美佳の周辺には、奇怪な姿をした悪霊たちがたむろしていた。

 ナメクジの姿をした、人の子供ぐらいの悪霊、ナマコ皮膚に全身を覆われた女の悪霊、イナゴとムカデを合体させたような奇怪な姿の悪霊は、五匹で、お美津さんと充輝を睨みつけていた。

「絶壁さんには見えるでしょう」

 充輝の右腕が光った。右腕を左腕で押さえて、美佳の周りを見た。

「こいつら、いつからここに」

 充輝は、浄魂の剣を構えなおした。浄魂の剣を突き付けられた悪霊たちは、恐れをなして、あたふたと逃げ出す。

「待ちやがれー」

充輝は追おうとした。

「追わなくてもいい、いいですわよ。それよりも美佳さんを説得してくださいよ」

 お美津さんが、充輝を止めた。

「そうだな……。美佳さん、あんた自殺をしたいのかい?」

「えっ!」

 美佳が眉を寄せた。

「違うだろう。あんたは本当は自殺なんかしたくないんだ。悪い霊にそそのかされているだけなんだ」

「死にたいわよ。死にたくてたまらないわよ」

「本当に? 本当に死にたいのか」

「死にたい……。死にたいはずなのに……」

「どうした?」

 充輝は。泣き崩れる美佳の肩に右手を置いた。

「私……。私、なんでこんなことをやっているのか分からなくなってきている」

 自殺未遂を繰り返すたびに、間違って汚物を飲み込んでしまったような気持ち悪い感覚が、美佳を痛めつけていた。最初に自殺を企てた時には、こんなことはなかったのに、自殺未遂の回数が増えるたびに、その感覚は酷くなり、美佳の精神を蝕んだ。

「そいつには、自殺をしてもらわなければならないのよ」

 男が現れた。くたびれた背広と皺だらけのズボンをずぶ濡れにし、こちらを恨めしそうに見ている。

「手塚さん……。いや、手塚さんの身体を乗っ取った悪霊だな」

 充輝が構えた。

「美佳を、この船に誘導したのは、われだ」

 と、手塚の身体を乗っ取った悪霊が言った。

 手塚に憑依している悪霊は、さっきまでここにいた、なにもできない低級な悪霊ではない。おそらく、美佳に家族旅行の想い出を回想させたのも、こいつの仕業に違いないだろう。

「そいつには、、必ず人身御供になってもらう。なってもらわなくちゃあ困るのよ」 

 手塚に憑依している悪霊は、そう叫ぶと、海に飛び込んだ。

 超研のメンバーが、甲板に駆け寄った。身を乗り出して波間を見ると、悪霊を飲み込んだ海は渦を描き、ゴボゴボと音をたてていた。やがて、それは次第に大きくなり、五つほど分かれた。五つほどに分かれた渦は、生き物のように移動し、双胴船すかしゆりを取り囲んだ。

 双胴船すかしゆりが、大きく傾いた。右や左に傾くたびに、船内から悲鳴があがった。甲板上にいる充輝たちは、振り落とされないように、手すりや、ビットにしがみついた。

 ひときわ大きな渦潮の中から、身長二十メートルを超す化け物が現れた。化け物は右手に手塚を握っていた。手塚は失神しているように見えた。ピクリとも動かない。

「船幽霊ですか!?」

 隆が言った。

 船幽霊とは、海で遭難したり、溺れて死んでしまったものが怨霊と化したものである。その呼び名は、各地によって様々で、ボウコ、アヤカシ、海坊主、ムラサなどと呼ばれ、姿も巨大な坊主の姿だったり、髪が胸まで垂れた幽鬼漂う裸の女だったりする。

 いま、充輝たちの前にいるのは、腰から上が人の女、腰から下が、ウツボの化け物だった。

「おまえには、われが船幽霊に見えるのか」

 化け物は、しわがれた女の声で言った。

「船幽霊じゃないと」

 充輝が言う。

「この化け物は、船幽霊じゃあありませんわよ。もっと禍々しいもの……」

 お美津さんが言った。

「われは、ウメズ。ヒルコさまの願いを成就させるもの」

 化け物と化した悪霊の声が、辺りを震わせた。

「絶壁さん、気をつけて! この化け物は危険すぎる」

 お美津さんが、注意を促す。

「分かった」

 充輝が、右手を空に向かって突き出した。

「いでよ、浄魂の剣」

 充輝の右手から光り輝く剣が現れる。

「おまえ……。われと戦う気か? おまえごとき小さな者が、われと戦う!? 笑止なことよ」

ウメズは、左手の親指と人差し指で、握っていた手塚を充輝たちの前にかざした。投げ捨てる気なのだろうか。左右に揺らしながら、すかしゆりのかん甲板を眺めていた。

「この男は返してやるよ。もう、必要がなくなったのでな」

 ウメズは、手塚を放り投げた。弧を描いた手塚の身体がすかしゆりの甲板に落ちてくる。宰三、隆、三左衛門が機敏に反応した。落ちてきた手塚の真下に行き、手塚の身体を受け止める……。いや、受け止めたというよりも手塚の身体の直撃をくらったと言ったほうがいいだろう。宰三たちは、手塚の身体の下敷きになって、あおむけに倒れたのであった。

「いてててっ……。この、おっさん見かけにどうりだな。八十キロはあるぞ。大丈夫か、ケンサク」

 宰三が下になっているケンサクに言う。

「僕は、大丈夫ですが……。三左衛門が……」

 三左衛門は、一番下になっていた。「オウオウオウッ」と、北極海に住んでいるセイウチのような声をあげていた。

「だ、大丈夫か。三左衛門」

 宰三が、三左衛門を抱きかかえた。

 三左衛門は、腹を押さえてニヤリと笑った。笑いが漏れるということは、大したことがないのであろう。やれやれである。

「おまえが、美佳の守護霊か」

 ウメズが、お美津さんを見ていった。

「なるほどね。ヒルコ様の復活のカギを握る美佳の守護霊ともなると、それ相応の力を持っていそうだな。おまえが、いつも美佳の傍らにいたおかげで、美佳は悪霊どもの完全な憑依から逃れていたわけだ」

「憑依って? なに」

 美佳が問う。

「美佳さん、あんたは悪霊たちから狙われていたんだ。そいつらが、あんたに自殺させようとしているんだ」

 充輝が言った。

「私……。そいつらに暗示をかけられていたの?」

 美佳は崩れるようにして、その場に座り込んだ。

「おい、ウメズ」

 充輝が言う。

「これから、おまえを、この浄魂の剣で封じ込める。覚悟しろっ」

 充輝は、ウメズに向かって浄魂の剣を突き出した。

「おまえごときこわっぱが、われを閉じ込める? 面白いことを言う。おまえごときに封じ込められるわれではないわー」

 ウメズは、波に濡れた長い髪を振り乱した。

 突風が起こった。船上の充輝たちは、突如起こった突風に振り飛ばされるそうになる。

「飛んで」

 お美津さんが、言った。

「飛んで。浄魂の剣の力を信じて。剣を強く握りしめて、空を飛ぶイメージを思い描くのよ」

 充輝は、渾身の力を込めて浄魂の剣を握りしめた。浄魂の剣から熱くたぎるものが伝わってくる。浄魂の剣が緑色に輝いた。充輝の身体が、浄魂の剣から放出された緑のオーラに包まれた。

「こ、これは……」

 充輝は、身体が軽くなったのを感じた。

「飛んで、飛ぶのよ」

 お美津さんが、叫んだ。充輝が浄魂の剣を空に向かって突き出した。充輝の身体が、浄魂の剣とともに空に向かって飛んで行く。

 ウメズが、髪を振り乱す。強烈な突風が次々と起こった。空にいる充輝は、牛をも吹き飛ばす突風に翻弄された。

「破ノの烈風、いざ、ここに」

 お美津さんが、両手を合わせて右手の人差し指をたてた。渦を巻いた強烈な風が、お美津さんの前に現れる。

「ゆけっ」

 お美津さんが、右腕を振ると、破の烈風がウメズが起こした凄まじい突風に向かって行った。破の烈風が突風を遮る。充輝は体勢を立て直し、浄魂の剣を横一文字に構えた。

「お美津さん、どうしたらいい?」

 充輝が言う。

 ウメズは、虎視眈々と次の攻撃の機会を狙っている。まったく隙を見せない。

「ウメズの狙いは、このあたい。あたいがなんとかするから……。うなれ、雷神ノ鉾」

 お美津さんは、手を組み直し、両手の小指を立てた。

 天空に電撃がきらめく。幾筋の電撃が、すかしゆりを取り囲むように走った。幾筋の電撃は一か所に集まり、古鉾の形を形成する。

 お美津さんの最強の技、雷神ノ鉾だ。

 雷神ノ鉾はウメズめがけて降り注いだ。スパークするウメズ。ウメズの身体から安物のプラスチックを燃やしたような臭いが立ち上がった。

「おのれっ、われの身体に電撃を喰らわせるとは」

 怯むウメズ。お美津さんは続けざまに雷神ノ鉾を、ウメズに浴びせる。

「まだまだ、雷神ノ鉾の力はこんなものじゃあありませんよ」

 ウメズの皮膚が所々焼けただれ、黒い煙が、ウメズの身体から立ち上がった。

「破ノ烈風、いざ、ここに」

 お美津さんが、人差し指をたてて、再び、強烈な風を起こした。破ノ烈風がウメズの動きを押さえ、雷神ノ鉾がウメズにダメージを与え続ける。

「おのれっ、こしゃくなまねを」

 雷神ノ鉾が、ウメズの顔を直撃した。

「絶壁さん、いまよ。浄魂の剣で」

 充輝が空高く飛び、頭上からウメズに襲い掛かった。浄魂の剣が金色に輝く。剣の先端からこの世のすべての悪を浄化するような神々しいオーラがあふれ出た。充輝はウメズの額に浄魂の剣を突き刺そうとしたが……。

 渾身の力をこめた浄魂の剣の一撃は、間一髪のところで交わされた。

「われを、ここまで追い詰めるとは……」

 ウメズは、髪を掻きむしった。怒りに我を忘れている。ウメズは大音量で吼えた。空を飛ぶ充輝の後を追い、闇雲に暴れ始めた。ウメズが暴れるたびに、すかしゆりの船体が大きく傾く。すかしゆりの甲板にいる超研のメンバーたちは、ビットにしがみつきながら充輝に声援を送った。

「絶壁、頑張れ!」

 三左衛門が大声で叫んでいる。

「充輝くん、そいつの弱点、検索できるといいのですが……」

 隆が、ビットにしがみつきながら、充輝にエールを送った。

「俺っちは、君の勝利を信じているぞ」

 と、宰三が言うと、

「正義の味方は必ず勝つんだからね」

 と、亜希子ちゃんが声を張り上げた。

 博之はというと……。

 博之は、甲板上のへこんだ部分に、うまい具合に挟まってしまっていた。なんとかそこから抜け出そうと、手足をバタバタさせているが、抜け出すことができないらしい……。

(こんな時に、太助がいてくれたならば……)

 充輝は、太助に思いを馳せた。

 二ホンカワウソの聖獣太助。人をくったような言動で、充輝やお美津さんの側にいつもいた太助は、ここにはいない。あいつが、ここにいてくれたのなら……。

「危ない」

 お美津さんが叫ぶ。が、一呼吸遅かった。隙を見せた充輝にウメズの長い髪が絡みつく。海水を吸ったワイヤーのようなウメズの髪が、充輝を締めつける。骨がきしむ音が聞こえ、充輝は手に持っている浄魂の剣を離してしまった。波間に真っ逆さまに落ちてゆく浄魂の剣を、お美津さんが追う。お美津さんは、浄魂の剣が海の中に落ちる寸前、それを拾い上げた。

 気のせいか、お美津さんが浄魂の剣を手に取った時、お美津さんの身体がよろめいたように見えた。お美津さんは体勢を立て直し、ウメズの背後にまわった。ウメズの背中に浄魂の剣を、突き刺す。

「ぐぇぇえっ」

 ウメズが苦痛に顔をしかめた。

 お美津さんは、ウメズの背中から浄魂の剣を引き抜き、充輝のもとに駆け付けた。充輝の身体に絡みついているウメズの髪を浄魂の剣で切断する。

「大丈夫?」

 お美津さんは、心配そうに充輝を見た。

「大丈夫だ。なんともない。これぐらいのことでまいってたまるか」

 充輝が言った。

「さうがですね。浄魂の剣に選ばれた人は違いますわよね」

「そうさ、オレは選ばれた人物なんだ。こんなの屁でもねえぜ。……ちょっと、痛いけれどな」

 充輝は強がりを言ってはいるが、充輝が受けたダメージは相当なものである。あと数分、ウメズの髪に締め付けられていたら、骨の二、三本は折れていただろう。

「後は、任せたわよ……」

 お美津さんは、消え入りそうな声で言った。

「後は任せたって!? お美津さん」

 お美津さんの顔は青ざめていた。肩で息をし、額に大粒の汗が滲んでいる。

「浄……。浄魂の剣は選ばれたおひとだけが使用が許される諸刃の剣。いくらあたいがA級の守護霊でも浄魂の剣を手にすることはできない。無理に使えば、それ相応のダメージをくらう……」

「お美津さん……」

「あたい……。ちょっと疲れたみたい……」

 お美津さんは、充輝に浄魂の剣を手渡した。お美津さんの身体が足元から消えてゆく。

「美佳さんのこと……。頼みます……」

 美佳の身を思いながら、お美津さんが、そこから消えていった。

「お美津さん!」

 充輝が絶叫する。

「おのれっ、ウメズ」

 後を託された充輝が、ウメズを睨み据える。お美津さんの一撃は、ウメズに大きなダメージを与えていた。ウメズは口から緑色の血を流し、血走った瞳で、充輝を睨み返した。

「美佳の守護霊……。お美津は消え去ったようだな」

 ウメズは、口からゴボゴボと血を吐き出しながら言った。

「美佳を守り続けてきたお美津は、もういない。われの勝ちじゃ」

 ウメズは嬌声をあげて嗤った。

「見るのじゃ」

 デッキ上の美佳を指さす。

「守護霊お美津を失った美佳の行く末を」

 焦点の定まらない虚ろな目をした美佳が、トボトボと歩き、デッキ上の安全柵を乗り越えた。

「もう、誰も美佳を助けることができぬ。自ら命を絶つことによって人心供儀は成り立つのじゃ」

 美佳が海に飛び込む。

「美佳さん!」

 充輝が、美佳の後を追おうとする。

「俺たちに任せろ」

 三左衛門と宰三が美佳の後を追って海に飛び込んだ。

「無駄なことを……。美佳の魂はもうヒルコさまのものじゃて」

「なにが、無駄だぁ」

 充輝が、ウメズの頭上に舞い上がった。

「おりゃあぁ~」

 充輝は、渾身の力を振り絞って、浄魂の剣をウメズの額に突き刺した。大気が振動し、ウメズの額にひびが入る。無数に刻まれたひびはガラスが砕けるように粉々に割れてゆく。

「なにぃい~ おまえに、まだそんな力が残っていたとは……」

 断末魔の悲鳴をあげながら、もがくウメズ。身体にも無数のひびがゆく。

「ヒ、ヒルコさまっ!」

 ウメズの身体がひび割れた。ひび割れた肉片が細かく砕け、波間に落ちる。ウメズは跡形もなく滅していった。

 美佳の後を追って、海に飛び込んだ三左衛門と宰三は、気を失っている美佳の身体を抱き寄せて、波間に浮かんでいた。

「やったー 倒した」

 三左衛門が、歓喜の声をあげる。

「それでこそ、超研のメンバー。俺っちは誇りに思う」

 宰三が、目頭を押さえた。

「おーい。大丈夫か」

 スカシユリの船員が救命胴着を、海に投げ入れた。三左衛門と宰三は、海に浮かんだ救命胴着を美佳に取り付けた。美佳の身体を二人で抱えて、甲板にあがる。甲板にあがり、濡れた上着を脱いだ。

「やろーう、やりやがったぜ。一時は、どうなることになるのやらと心配したんだがな」

 宰三が、喜色満面の笑顔を浮かべた。

「私は、必ず勝つと信じていたわよ。正義の味方は絶対的なピンチに陥っても、負けない。たとえ倒れてしまっても、ゾンビのように甦ってくるのだ。あっはははっはははっ」

 亜希子ちゃんが、ガッツポーズを決めると、宰三が眉をしかめ、

「ゾンビっていうことはないだろう。いくらなんでもその例えは酷すぎると思うんだが……」

 と、言った。

「別にいいじゃん。正義の味方がゾンビでも。地獄からの使者が正義の味方。う~ん、こりゃあ大ヒットするかも」

 断っておくけれども、充輝はゾンビではないのである。それに話の辻褄が合わない。大ヒットってなんだ? 大ヒットって……。亜希子ちゃんは、映画の撮影現場にでも来ているつもりなのだろうか……。

「絶壁、戻って来いよ。いつまでそこにいるつもりだ」

 三左衛門が、空にいる充輝に会釈を送る。充輝は、うなずき、空から甲板上にいる三左衛門たちのもとに戻った。

「充輝くん、さすがですね」

 隆が、充輝の労をねぎらった。

「なあ~に、これくらい……」

 充輝は、よろめいた。足元がおぼつかない。

「どうしたの? 絶壁さん」

 亜希子ちゃんが、心配そうに、充輝の顔を覗き込んだ。

「絶壁、しっかりしろっ」

 三左衛門が、充輝の右肩に手を置いた。

「オレは大丈夫だ。……それよりお美津さんが……」

 充輝は、そのままそこに倒れこんでしまった。





         9 太助、青龍と逢う。


「この巻物は、長い間蔵の中で眠っていたものじゃ」

 八島家の屋敷で、現当主のである信吉が、太助に向かって古い巻物を差し出した。巻物は、軸に紫檀を使用した見るからに高級そうなものだった。大切に保存されてたらしく、傷や汚れなどは見当たらない。

「わが矢島家には、代々言い伝えられてきたことがあった」

 信吉が、湯飲み茶わんの中のお茶をごくりと飲んで、一呼吸した。

「いつの日か、一人の乙女がお告げをつげに八島家にやってくるだろう。祠で眠り続けている太助大明神をもとに行き、太助さまの手助けをせねばならぬと……」

「オイラを助けろと?」

「さよう……」

「あのな……。ちょいと言っておくけれど、オイラに助けなんていらねえぜ。オイラを誰だと思っていやがるんだ」

 太助が、鼻をすすってそういう。

「太助さまが、偉い方だということは十分わかっえおります。なにせ、聖獣さまですから」

「聖獣ねえ……。そんなもんはもうやめたよ」

「聖獣をやめた!?」

「ああっ、やめた、やめた」

「聖獣をやめただなんて……」

 信吉は、手に持っていた湯飲み茶わんを落とした。

「なんていうことをおしゃるのです。太助さまはこの平成の世に現れるという大悪霊を倒すために目覚めた聖獣さまでしょう。そんなことを言ってはいけません」

「大悪霊を倒して、人間どもを救済しろってかー やだよ。絶対いやだ。オイラの仲間たちは、人間どもに皆殺しにされたんだぜ。オイラが眠っているうちによを~」

「仲間といういと……」

「二ホンカワウソのことに決まっているじゃん……。オイラは二ホンカワウソの聖獣だったんだぜ。仲間が人の手によって絶滅したという話を聞いて、どうして、人を守る聖獣ができるんだ。やってやれねえぜ」

「二ホンカワウソは、まだ絶滅したとは……」

「絶滅したんだろう。だから、誰も二ホンカワウソのことを知らなかったんだろうが」

 太助は、握りしめていた湯飲み茶わんを、思い切り床に叩きつけた。

「だいたいよう~ オイラが目覚めるのをまっていたって? いい加減なことをいうなよ。祠は腐ってボロボロだし、雑草がそこらへんじゅう生え放題。徳利は転がったまま……。大事な祠を長い間ほったらかしにして、それでオイラのことを待っていただとー 」

「祠は、さっそく新しいのと取り替えます……」

「ばっきゃろ~ オイラが言いたいのは、そんなことじゃあねえ」

 太助にとって、自分が祀られていた祠が朽ちてゆこうが、腐ってゆこうが、そんなことはどうでもよかった。二ホンカワウソが人間たちの手で全滅したかもしれないという事実が許せなかった。

 人以外の動植物は、他の種族を全滅まで追い込むことなど絶対しない。人間だけが、自分自身の欲望を満たすために、食べもしない動物や植物を乱獲する。利を追い求め、毛皮を剥ぎ、牙や角を抜き取り、土地を開拓するために森林を焼き払う……。

「太助さまが眠っている間、祠は、その場所が分からなくなっていたのじゃ」

 信吉が、おもむろに言った。

「場所が分からなくなっていただと……。どういうことだ」

「詳しいことは分かりませぬが、先代の当主……わしの父ですが……父の話によると、太助さまと一緒に封印されたウメズの呪いにより、祠の場所が人目から隠され、太助さまのことが書かれたこの巻物も、行方が分からなくなってしまったということですのじゃ」

「この巻物は、蔵の中にあったのだろう」

 太助は、卓袱台の上に置かれている巻物に目をやった。

「蔵の中にあると教えてくれたのは、お美津さんという娘さんの霊じゃ。三ヶ月前、眠っているわしの枕元に立ち、祠の場所と巻物のありかを示してくださったのじゃ」

「お美津さん!? 乙女というのはお美津さんのことか。その娘は、えくぼの似合う可愛らしい女の子だったろう」

「はい、とても可愛らしい娘さんでした。娘さんはこれから起きるであろう大惨事に備えなければならないと言われました。自分では力不足だから、聖獣さまの助けが必要。太助さまの力を借りたいと言っておりました」

「ということは、お美津さんは最初からオイラのことを、知っていたということか」

 太助は、腕を組んで考え込んだ。

 お美津さんは、美佳の守護霊である。悪霊どもから美佳の命を守っているが、それだけの理由で、美佳の守護霊をやっているわけではないのだろう。A級の守護霊が普通の女の子の守護霊をやるわけない。

 A級の守護霊が美佳を守る理由……。

(とてつもない秘密が、そこにある)

 太助は卓袱台の上の巻物を手に取り、見入った。

「こには、オイラとウメズのことしか記されていない……。大悪渦を起こす悪霊のことなど……一言も記されていないけど」

「太助さま、気づかれましたか? 大悪渦を起こす悪霊を知るためには、太助さまが蔵の中に行かなければなりません。蔵の中のある石板が、太助さまの聖獣としての道しるべを記すのじゃ」

「だから、聖獣なんて……」

「やめたとは言わせませんよ」

 信吉の瞳がキラリと光った。


 八島家の蔵は、本屋敷から歩いて十分ほど場所にあった。鬱蒼とした杉林に囲まれたそれは、太助が想像していたものとまるで違っていた。それは蔵というより……。

「これは? これって蔵ではないだろう」

 と、太助が言う。

「わしらはこれを八島家の蔵として使っていました」

「この古墳をか!?」

 古墳とは、古代に造られたお墓の一種である。その昔、権力者や津法の豪族が、権威の象徴として造らせたもので、全国に十五万以上あると言われている。古墳としては仁徳天皇のお墓とされている大仙陵古墳が有名であり、宮内庁によってしっかり管理されている。が、管理されている古墳はまれで、たいていの古墳は雑に扱われている。

 江戸時代の後期、肝いりまでその地位を高めた八島家は、八島家の敷地内にある小高く盛り上がった丘にある古墳を、蔵として使い、代々にわたって守り続けていたのであった。

「いま、鍵をあけます」

 信吉は、後年になって作られた樫の木の扉に鍵をさした。古い舟板がきしむような音をたてて、観音開きの扉が開いた。

「ご先祖様が、あなた様に導かれてこの古墳を発見し、石棺のふたを開けた時には、いくつかの埴輪と、埃りにまみれた髪飾りがあっただけだと聞いておりますが、よく下の方を覗いてみると埴輪の下に石板の入った箱と、巻物がありました」

「オイラがあんたのお先祖さんを導いただと!?」

「はい」

「嘘をいうな。オイラ、こんな古墳なんて知らないぞ」

 太助の記憶の中には古墳というもにはなかった。目の前にある古墳は、初めて見るものだった。

「ちょっと、待ってください。いま明るくしますから」

 信吉は、手探りで壁に掛けてあったと思われる手ごろな大きさの懐中電灯を探り当てた。辺りを照らすと、室の真ん中に大の大人が一人納められられることができるくらいの石棺があり、四方の壁には、後から運び込まれたのであろう、年代物の桐のタンスと、埃だらけの粗末な棚があった。

 信吉は、石室のふたに手をかけた。ふたは一枚岩の石でできており、中を見てみると、表面に龍の彫り物が浮き出ている六角形の青い石板があった。石板の中の龍は、右手に赤い球、左手に黄色い球を持ち、大空に向かって吼えている。

 太助は、青光りする石板を手に取った。

「この石板のどこに、大悪禍のことがかかれてあるんだい?」

 太助は、石板を裏返してみた。裏には甲骨文字のような得体の知れないものが描かれてあった。

「こ、これは!?」

 聖獣として修業を積んでいだ太助には、そこに何が記されていたのか分かった。

「聖獣様には分かりますじゃろ」

「ああっ、ここに記されてあることが事実とすれば、大変なことが起きる」

「大変なこととは?」

「ここには……」

 太助は、石板に描かれてある大悪渦のことを、かいつまんで説明した。

 混沌の昔から闇の世界に潜んでいたという“ヒルコ”という大悪霊が一人の少女の人身供儀(じんしんくぎ)によって、復活し、この世界を闇の世界に変えるということを。

「人身供儀? 人身御供(ひとみごくう)のことじゃな」

 信吉が、太助に質す。

「ああっ……」

 太助は目を伏せた。

 古の昔、人々は、日照りが続けば続いたで空のお日様がお怒りなっていらしゃると言っては、慄き、川が氾濫すると、川の神様がお怒りだ、川の神様のお怒りを鎮めなければならぬと、小高い丘に壇を造り、神への祈祷をし、お供え物をした。

 お供え物は、山の幸、海の幸、川の幸などだったが、神のお怒りがしずまなければ、人がお供え物として神に捧げられた。神への供物とされた人間は、その命を神にささげなければならなかった。

「昔は、村に禍が起こった時、神の怒りを鎮めるために人身御供は行われていたようなんだ……。オイラが生身の身体で暮らしていた頃には、そんなもん、とうに廃れてしまっていたがな」

「お美津さんは、その人身供儀を防ぐために、太助さまの力をかりなければならないこもしれないと、言っていたのじゃ」

 信吉が言った。

 太助の身体に戦慄が走った。

 美佳の周りには常に美佳の自殺を促そうと、多数の悪霊が付きまとっていた。自殺願望の負の意識だけであれだけの悪霊が集うだろうか。集うわけがない。

 なぜ、普通の女の子である美香が、“ヒルコ”復活の鍵となる人身御供に選ばれたのか分からない。が、美佳の自殺を阻止しなければ、“ヒルコ”は復活するだろう。A級の守護霊であるお美津さんが、美佳を守っている理由も、これで説明がつく。

「太助さま、いまこそ立ちあがる時です。人身御供になるべく娘を探し出し、先に手を打つのです」

 信吉が言う。

「その娘ならもう会ったよ。……けどな、オイラ、悪いがこの件から手を引かせてもらうよ」

「手を引く!? どういうことじゃ?」

「だから、さっきも言っただろう。オイラ、もう聖獣じゃあないんだ」

 太助のその言葉に石板が反応した。太助の手の中から飛び出し、宙に浮く。宙に浮いた石板は勢いよく回転した。金色の(あくた)が無数に舞い上がる。芥の向こう側に青い竜が浮かび上がった。

「太助よ。使命を果たすまでは聖獣の座から降りることは許されぬ」

 青龍は厳かな声で言った。

「おいおい、なんだよこれっ! なんで青龍さまが、こんな所に現れるんだ?」

 太助は、前に一度だけ五神のひとりである青龍と会ったことがあった。

 厳しい修行の末に、はれて聖獣として認められた時に、他の三神“白虎”“朱雀”“玄武”麒麟”ともに会っていたのであった。

「太助よ、わたしはここでおまえをずっと待っていた。おまえから奪った本当の記憶をおまえに返すために」

「本当の記憶って……。なんだ?」

 太助が問う。

「三百年前……。おまえと先代の浄魂の剣の持ち主であるタケルが、悪霊ウメズと戦った記憶だ」

 三百年前、聖獣太助は、村を苦しめていた悪霊ウメズ戦った。太助の記憶では、太助はウメズとの戦いに敗れ、ウメズとともに祠の中に閉じ込められたはずなのだが……。

 青龍が言う。

「おまえは、強敵であったウメズに勝ち、得意になった」

 ウメズに勝った太助は、驕った。いい気になり、ともに戦ったタケルに敬意を払わなかった。タケルをバカにし、これくらいの悪霊など、オイラひとりで十分だぜと言い放ったのだった。

 タケルはおもしろくなかった。

 ウメズにとどめをさした太助の力は、認めよう。しかし、ウメズが操っていた周りの雑魚をタケルがひきつけていなければ、ウメズにとどめをさせなかったはず。それに浄魂の剣でウメズの魂が浄化されなければ、いつの日か、ウメズは甦るかもしれないのに、太助は余計なことはしなくてもいい。こいつはもうくたばったからいいんだよと、言い放ったのである。

 タケルは浄魂の剣で魂の浄化をしなければならないから、そこを退いてろと、太助に言った。

 が、太助は、タケルの言葉を聞き入れなかった。慢心していた太助は、しつこいくらいタケルをからかい続けたのだった。

 その結果、太助とタケルの仲は険悪となり、タケルはその場から去っていった。

「もし再びウメズが復活しても、すぐに対処できるようにわしは、おまえの記憶を奪い、ウメズとともに祠の中に封印することにした。そうでもしなければ、思い上がったおまえが、ウメズとともに祠の中に入らなかったからだ」

「するっーと、オイラ、勝ったのに負けたと思っていたわけ……。青龍さま、酷いじゃあないですか。オイラ、三百年もの間、あんな暗い祠の中に、ウメズともに閉じ込めておくなんて」

「おまえが、タケルを怒らせるから、そんなことになったんだ」

 タケルが、その場から去った今、ウメズの魂を浄化をさせるものはそこにはいなかった。ウメズの肉体は太助によって滅されたが、魂は浄化されていない。いつ肉体を取り戻して復活するかもしれないのだ。

 青竜は、ヒルコ復活のカギを握るウメズを閉じ込めるために、聖獣である太助の記憶を奪って、太助と共にウメズを祠の中に封印した。後の憂いを防ぐために。

「ヒルコの復活のために、ウメズが復活することは、すでに予言されていた」

「祠は、絶壁の奴が、間違って壊したんじゃあないの?」

 と、太助が言う。

「祠が壊され、ウメズの封印が解かれることはすでに決まっていたことなのじゃよ。それをやってしまったのが、現世(いま)浄魂の剣の持ち主とは予言されてはいなかったのだがな」

 ウメズは、最強の相手だった。三百年前、タケルとともに|数多(あまた)の敵を葬ってきた太助だったが、ウメズとの戦いは、まさに死闘だった。タケルがウメズが操っていた雑魚どもの相手をしていなければ、太助はやられていたかもしれない。

「ウメズが甦っているとすると……」

「慌てるな、太助。ウメズは絶壁と、お美津の手によって、先ほど浄化された」

「絶壁ってー 青竜さまは、絶壁をご存知でえ?」

「わしは、なんでもお見通しだよ」

 五神のうち東を受け持つ青竜は、東の浄魂の剣の守り神でもあった。絶壁というあだ名を持つ少年に浄魂の剣が委ねられることは、東西南北の中央を司る神“麒麟”によって告げられていたのである。

「太助よ、絶壁と協力して、ヒルコと戦え」

「人を助けろってかっ……。オイラの仲間を滅ぼした人を……」

 太助は、そっぽを向いた。

「人間が嫌いか……」

 青龍は目を細めた。

「ああっ、人間なんか大嫌いだね」

 このまま、人なぞに関わらずに、勝手気ままに暮らしたほうがいい。人なんぞに関わって嫌な思いなど、もうしたくはない。

 青龍が問う。

「太助よ……。なぜ、神が人をこの地球上の支配者にしたのか分かるか?」

「あん? そんなこと急に聞かれても、オイラに分かるわけねえよ」

「わかるわけないか……。この地球上には数百万ともいう多種多様な生き物が溢れている。その数百万ともいう生き物の中で、神がこの地球上の支配者に人を選んだ理由……、その理由は」

「もしかして、知恵というものがあったからかい?」

「知恵だけでは、選ばんよ」

「するってーと……。神様は……」

「太助よ。人には欲望にまみれて殺戮や破壊を繰り返す愚かな面もあるが、他の者を慈しむ博愛の精神もあるのだよ」

「博愛の精神だと!?」

「博愛の精神とは、肌の色の違い、考え方の違い、風習、宗教、などを乗り越えて、すべてのものを愛してゆこうという気持ち……人の良心のことだ。人はこの世にいきているもの、動物や鳥、魚や虫さえ愛することができるのだよ」

「すべてのものを愛するだって!! じゃあ、なんでオイラの仲間たちが、人の手によって殺されなければならなかっただい。オイラの子孫は……。オイラの子孫たちは、人間どもに根絶やしにされたんだぞ」

「人間たちの中には、確かにおのれの欲のために、生き物の命をもてあそぶ者のいる。けれどな、太助」

「なんだよ……」

 太助の瞳に涙を浮かべていた。

(オイラ、人間が好きだった。なんでオイラの好きな人間が、オイラの子孫を滅ぼしたんだ)

「太助、どんな苦しい生活をしても、惨めな思いに苛まれても、良心を信じ、博愛の精神を忘れずに、他の種の命をけっしておろそかにしない人間もいる……。おまえがそのことを一番わかっているじゃあなかったのかい? おまえは忘れたか? 瀕死のおまえを抱き、温めてくれた人のぬくもりを」

「オ、オイラ……」

 忘れるはずがない。忘れることなどできやしない。

 冷たくなったオイラの身体を抱き、夜も寝ないで介抱してくれた長吉のぬくもりを……。

「ヒルコが復活しようとしている……」

 青龍が、目を閉じながら言った。

「ヒルコが復活!? どういうことだ。お美津さんは……。絶壁は一体何をしていたんだ。美佳の自殺は防げなかったのか」

「美佳は、まだ死んではおらん。生死の境をさまよっている」

 守護霊お美津さんの加護を失い、すかしゆりの船上から海に身を投げた美佳は、一時的にその魂を悪霊どもに乗っ取られた。しかし、息を引き取る寸前に宰蔵や三左衛門に海の中から助けられたのである。

「おまえにこれをやる」

 青龍は濃い緑の榊が生い茂った杖を咥えていた。全長一メートルほどの杖だった。生い茂った緑の榊の下には紙垂がまかれていた。

「受け取るがよい」

 青龍は、咥えていた杖を宙に放った。宙に舞った杖の傍らに銀色の縄が現れた。銀色の縄はそれ自体生きているように動いて、杖を太助の背中に杖を縛り付けた。

「この杖は?」

 太助が聞く。

「みそぎの杖という。おまえは、これからおまえたちの前に新たに現れるひとりの少女にこの杖を渡さなければならない」

「お美津さんか!?」

「いや……」

 青龍は否定した。

 太助と充輝の前に、もうひとり別の少女が現れると言う。もしかしたらそれは……。 

「御前の岬に行け。ヒルコが復活する」

 青龍は、そう言い残すと、白いもやのようなものに包まれて消えていった。




        10、絶壁、前世の自分と逢う


 充輝は夢を見ていた。藍染の火事装束に身を包み、(まとい)を振りかざして、勇ましく駆け抜けてゆく自分がそこにいた。

 ここはどこだろう。火事場なのは分かるが、燃えている木造家屋は現代のものではない。道を往来する人たちの様子もおかしいし、なんと言えばいいのだろうか、人も街並も、古臭い感じがする。

 昭和……。大正……。明治……。いやもっと昔のものだ。頭頂部を剃り上げる月代(さかやき)で歩いている武士の姿も見えるし、前髪を後ろに流し、側頭部を膨らませて走っている着物姿の女の姿も見える。

 テレビで見たことがあるこの光景。これはもしかすると江戸時代……。江戸時代のものなのか?

鉄蔵(てつぞう)さん、しっかりおやりよ」

 夢の中で、充輝は鉄蔵と呼ばれていた。

「てやんでぃ。このオレさまを誰だと思っていやがる。ご利益がある宝山(たからやま)の霊泉のほとりで、生まれ落ちた鉄蔵さまだでぃ。火事なんか屁とも思わねえや」

「はいはい、分かりました。こんな火事くらいで、ビクビクしていたら笑われますからね。背中の鳳凰さまに」

「おうよ。だてに鳳凰さまを背負っているわけじゃあねえや」

 鉄蔵が身に着けている火事装束の裏地には、丹念に刺繍された豪華絢爛な鳳凰の姿があった。

 赤青黄色、金色の糸で縫い上げられた鳳凰の刺繍は、鉄蔵の想い人であるお美津さんが、鉄蔵が見習い火消し人足として採用されたお祝いに、一週間かけて縫い上げたものだ。

「鉄蔵、なに、もたもたしていやがる。さっさとこい!」

 臥煙(がえん)と呼ばれる火消人足が、鉄蔵を急かす。鉄蔵は振り向き、

「お美津、待っていろよ。火を消し止めたなら、すぐにおまえのところに飛んでゆくからな」

 と、言った。

「火を消し止めたら、あたいよりも真っ先に行くところがあるでしょう」

 と、お美津がいう。

「あん?」

 鉄蔵が足を止めた。

「もう、おっかさんに無事な姿をみせなくちゃあいけないでしょう」

 母の(よし)は、いつも病気がちだった。この時も身体を壊して()せていた。

「ちげえねえ。なにせ。このオレを生んでくれたお方さまだからな」

「そうよ。おっかさんは大事にしなくちゃ。芳さんがいなかったら、あんたはこの世にいなかったんだからね」

「そりゃあそうだ。あはっはっはっはは」

 鉄蔵は豪快に笑った。

「じゃあ、行ってくるからな。お美津」

「あいよ」

 と、えくぼが可愛らしい女の子が、笑って答えた。

 鉄蔵を呼び止めたのは、平成の世で美佳の守護霊になっているあのお美津さんだった。黄八丈の着物を清楚に着込み、笑顔を振りまくお美津さんは、背格好から察すると、十六、七の娘だろう。

「鉄蔵さん、待って」

 お美津さんが鉄蔵を呼び止める。

「これっ、持ってって」

「何だ、これっ?」

 鉄蔵はお美津さんから渡されたものを、手の中で転がした。

「勝栗よ。縁起物だから、持ってって」

「こんなもの渡されてもな……」

「いいから、持ってって」

 お美津は、勝栗を持っている鉄蔵の左の掌を両手で握り、ニコリと笑った。

 鉄蔵とお美津は、お救い小屋で出会った。お救い小屋とは、火事や地震で住む場所を失った人々や、行く当てのない人々が一時的に避難する所で、お美津はそこでお炊き出しを避難民に配っていたのであった。

 鉄蔵は、お炊き出しをしているお美津さんに言った。

「一人に一日三合の米か。足らねえな~ 」

「しょうがないでしょう。お役人が決めたことなんだから。予算の関係で、それしか出せないって言っているのよ」

「ケチ! お上に銭ないっていうことないだろう」

「本当に銭がないらしいわよ。さっき、ここの偉い人が、お上の台所事情を察してくれっと、なげいていたわ」

「本当に銭がないのか。くそっー 銭があれば、銭さえあれば、もっとこいつらに食わせることができるのによう~」

 鉄蔵は涙を流していた。

「あんた、泣いてんの?」

 お美津が言った。

「ばっきゃろう~ 男はおっかさんが死んだときしか泣いちゃあいけないんだ。これが涙に見えるか。ただの汗。ただの汗だ。隣町からここまで走ってきたから汗をかいたのさ。汗だよ汗」

「汗じゃあないだろうに……」

 お美津は、そう言って孤児を抱きしめている鉄蔵を見つめた。

(なんだろう……。この人は……)

 子供を抱きしめてオイオイと泣く大の男の姿など、お美津は見たことなかった。

「あんた、この子を知ってんの?」

 お美津が言った。

「知らねえよ。けど、ガキはガキだ。可愛くてしかたがねえ。見ろよ、こいつこんなに痩せこけていてよ。うまいもん腹一杯、食わせてやりてえよな。まったく」

 鉄蔵は、そういいながら涙を拭った。

(どこの誰の子供かもわからないのに、涙を流して嘆いている。そんな男の人がいるの?)

 お美津は鉄蔵に興味を持った。鉄蔵もまたお救い小屋で、てきぱきと働くお美津に関心を持っていた。

 着ている着物の汚れも気にせず、汗まみれになって懸命に働く少女になど、鉄蔵も会ったことがなかった。

「おい、あんた。米は足りてるのか? 銭がなければここにある米も、すぐに無くなってしまうだろう」

 鉄蔵が言う。

「えっ!?」

「えっ? じゃあないだろう。米、足りているのか。これだけの数のガキに食わせる米はあるのかと聞いているんだよ」

 お救い場に集まった子供の数は、すでに三十人を超えていた。時が経つにつれてますます増えてゆくだろう。

「あたいに聞かれたって……」

 丑三つ時に発生した火事は、神田明神付近から東本願寺まで広がり、焼け出された被災者はみなここのお救い場に来ていた。怪我人も多いが、焼け出されて途方にくれている大人も多い。このぶんでは、じきにお米が無くなってしまうだろう。

「おめえさん、名をなんていう」

 鉄蔵が尋ねた。

「お美津よ」

「よし、お美津さん。おいらが役人に掛け合ってくるから、ここで待ってろ」

「掛け合ってくるからって!?」

「ぶんどってくるのよ。お粥も用意しなくちゃあなんねえだろう。じゃあ、行ってくるからな」

 鉄蔵は無我夢中で駆け抜けてゆく。

(銭さえあれば……。銭さえあれば……。銭さえあれば、こんな苦労はしねえし、うめえもん、たらふく、ガキたちに喰わせることができるんだ……。五郎だって……銭さえあれば……)

 鉄蔵には五郎という弟がいた。可愛い弟だった。いつも鉄蔵の後に、金魚の糞のようについてきた弟だった。鉄蔵と三つほど歳が離れていた五郎は、いま生きていれば一五になっていただろう。身体が弱く病気がちだった五郎は三年前に亡くなっていた。

(医者は高麗なんとかというものを飲ませれば、たちどころに治ると言っていた。銭がないばかりに、その高麗なんとかっていう奴を買えなくて、五郎は死んだんだんだ。銭さえあれば五郎は死ぬことはなかったんだ)

 鉄蔵は走る。銭さえあれば、銭さえあればと思いながら……。



           守護霊 お美津はオレの彼女である  後編に続く 


 

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