おっさんとあの日の婚約破棄
「ねえ、一緒に遊ぼう」
久しぶりに盆に田舎の祖父母の家に帰省した時、近くの神社で女子高生にそう声をかけられた。
毎日仕事とストレスばかりでヨレヨレな、金も魅力もないこのおっさんと遊びたいとは。
本来なら大人をからかうなと怒りたいところだが。その顔に面影を感じて、俺の呼吸は止まってしまった。
「もしかして、美雪ちゃん?」
名前を呼ぶ。すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「相変わらず、たっくん鈍すぎ」
そう言われても、ここにいたのは中学までだったから、高校生の彼女を俺は知らない。それでも、美人なのは相変わらずだった。
高校生の時、祖父母から聞いた、幼なじみの美雪ちゃんが事故で亡くなったという訃報。
「実は、たっくんにずっと会いたかったんだよ。これ、覚えてる?」
彼女が左手を掲げる。すると、その薬指にはシロツメクサで作った指輪がはまっていた。
『みゆきちゃん、けっこんしよう』
『いいよ、たっくん』
結婚の意味すら理解していない、遠い日の約束。忘れようとした大切な思い出。それを、彼女はずっと覚えててくれてたなんて。
「……ごめん、指輪なくしたんだ」
違う。本当は、叶わない恋だと勝手に決めつけて、彼女への想いごと物置にしまった。どうしても彼女の死を受け入れられなくて、最後のお別れにも行けなかった。
ズルい自分。そんな俺に、彼女は優しく笑いかける。
「気にしてないよ。相変わらずたっくんは優しいね。だから心配なんだよ」
「心配?」
「朝倉美雪は、河田貴弘と婚約破棄します」
そう言って、彼女は指輪を外した。そしてそれを俺に手渡す。
「これは、たっくんがこの先好きになる人に渡してあげて」
「そんな奴、今さら現れるわけないだろ」
「そんなことないよ。少なくとも私は好きだったし」
彼女の手が俺から離れる。そのまま、彼女は昔のように微笑んだ。頬に雪のような涙を流しながら。
「じゃあね、たっくん。ちゃんと幸せになるんだよ」
「待って、美雪ちゃん!」
俺の願いも虚しく、彼女は雪のように消えていく。残ったのは、懐かしいあの夏の暑さだけ。
彼女はずっと気にしていたんだろうか。この色褪せた約束が、いつか俺を苦しめるんじゃないかって。だからずっと、待っててくれたんだろうか。たった一人で、何年も、何年も。俺は、逃げ続けることしかできなかったのに。
「どっちが優しいんだよ……っ」
蝉の声がどんどん遠のいていく。
俺のその呟きは、シロツメクサの指輪だけが聞いていた。