第4話 空白
油の切れかかっている扉をゆっくり押し開ける。キイーと耳に障る音を立てて扉が開くと、ばたばたという音と共に、白いシーツの群れがはためいていた。
「この天気だものな。もう誰もいないといいけど」そう一人ごちて、屋上へと出る。今日は少し風が強いようで、規則正しく並んではためくシーツが屋根みたいになっている。
洗濯物の列を抜けると、目の前が急に開けた。この病院は丘の上に建っており、ここから周辺一帯の町が見渡せる。僕は手すりに寄りかかり、眼下に広がる町並みをぼんやりと眺める。病院に向かって吹き上げてくる風が目にかかるまでになった髪をかきあげる。そういえば、そろそろ髪を切りに行くころだったろうか。なんだか自分がまだ日常に戻りきれていないように思う。実際、まだ日常に戻ったとは言いがたいのだが。
目が覚めたら、全く知らないところにいた。ありきたりかもしれないが、実際そうした立場になってみると、そうとしかいえなかった。そこが病院の病室であることはすぐ分かったが、ここがどこの病院で、そもそも何でここにいるのかが分かったのは、看護師さんがきて、お医者さんが来て、そして母さんが大慌てでやってきた後だった。大慌てだと分かったのは、母さんがサ〇エさんみたいな頭でやってきたからだ。天然パーマの母さんは、毎朝時間をかけてセットしないと大変なことになる。後で自分が意識不明だったと分かったが、それを考えるととてもじゃないが感動の再開といえる場面ではなかった。
一ヶ月以上の意識不明。お医者さんはすごい頭の母さんと僕に、それが原因で体が弱っているおり、また検査のためにもうしばらく入院が必要だと説明してくれた。父さんは説明の途中で来て、それを承諾した。
一度だけ、はるかさんがお見舞いに来てくれた。母さんが急かしたみたいで、夜にスーツ姿でやってきたはるかさんはなんだか新鮮だった。はるかさんは何度もお見舞いに来てくれていたらしく、僕をみて明らかにほっとした顔をすると、しばらくぶりのおしゃべりに付き合ってくれた。はるかさんは意識不明なったときのことなどは何も聞かずに帰っていった。仕事は新聞記者だったはずだから、いろいろ聞きたいこともあるはずなのに、気を使ってくれたみたいだった。はるかさんなら別によかったのに。
大変なのはその後だった。ゲームでの意識不明はかなりのニュースになっていたようで、しかも意識を取り戻したのは僕が初めてらしい。どこからその情報が伝わったのか、翌日はテレビに新聞、雑誌の取材が病院に殺到した。僕の病室はちょうど病院の入り口側に窓があったのでちらりとのぞいてみたが、入り口をふさぐほどのカメラと人が病院前に陣取っていた。記者たちは当然僕の家や近所、学校にも取材に行っており、連日テレビで見知った顔が僕についてあれこれ語っていた。最初は有名人になったかもなんておもったりもしたが、母さんがお見舞いどころか買い物さえ不自由しているのを見て、そんな気分はすぐに消えてしまった。
おまけに毎日のように検査がある。元々身体は丈夫じゃない上、一ヶ月寝たきりというのは思った以上に身体を弱らせているようで、一日がかりの検査だと、夜にはすっかりくたくたになって眠りにつく有様だ。家に戻っても取材陣に取り囲まれるだけだろうから、引き続き入院しているのは不幸中の幸いなのだが、病室にいてもどこからか忍び込んだ記者やうわさ好きの入院患者がやってくる。こういうのを辟易というのだろう。以前ゲームをしていたときにはるかさんが教えてくれた言葉の意味を、やっと理解した気がする。
そういうわけで、僕は屋上で暇をつぶすのが日課になった。ここには看護師さんが洗濯物を干しに来るくらいで、他に誰も来ない。そもそも患者は立ち入り禁止らしいが、僕の状況を考えてお医者さんがOKを出してくれた。ゲームもテレビも漫画も無いが、代わりに誰もいない。丘の上の病院は町の喧騒とは無縁で、考え事にはもってこいだ。
そう、考え事。ここに来るのはそれが理由だったりする。
何か忘れている。意識を取り戻してから、ずっと抱えているもやもやが、僕にはあった。意識を失うときは何も覚えていないのだが、眠っていたときのことを覚えている。いや、忘れてしまったことを覚えているというべきか。起きている時も時々ふっと頭に何かがよぎる。それは映像だったり、声だったりなのだが、それが何なのか分かる前に消えてしまう。同時に見えかけた、或いは聞いたそれも溶けるように忘れてしまう。後にはつかみかけた何かを忘れたというもやもやが残るだけ。
それはきっと夢なのだろう。僕はきっと、文字通り長い間見ていた夢を思い出そうとしている。夢なのだから、思い出せないのも当然といえば当然な気もする。第一、思い出しても何の意味も無い。なのだが、それが妙に気になって、胸の中がもやもやして、気づくと頭を抱えている自分がいる。頭の中に空白があるのがわかるのに、そこに埋まっていた何かが思い出せないのだ。
見た夢を忘れる。そんななんでもないことが、大事なことを投げ出したような気持ちを掻き立てる。
ため息をついて空を見上げる。今日は快晴で、空には雲ひとつ無く、澄んだ青がどこまでも高く伸びている。僕の気持ちと正反対な青空に、余計にため息が出る。
「もっかい意識不明になったら思い出すかな」
ふとつぶやいたそれは、随分と物騒で、不謹慎だった。僕以外の人はまだ意識不明なんだ。今の言葉をその人たちの家族が聞いたらどう思うだろう。
「手伝うよ」そんなことを考えていたから、人の声が真後ろで聞こえたときは本当に驚いた。あわてて振り返る。
「え」振り返ろうとした僕の身体が、傾く。
運が悪いことに、僕は手すりに寄りかかっていた。運が悪いことに、その手すりは音も無く壊れた。運が悪いことに、ここは六階建ての屋上だったけど、落下防止なんてものはついてなかった。
僕は屋上から落ちた。
どんどんいけたらいいなぁ。早く終わらせたい。