第十八話:決着
誰もがそれを目で追っていた。折れた剣の行き先を。それがもたらした結果を。
全員の目が、そこに注がれていた。
回転し、弧を描きながら飛んで行った刀身は、王の頭蓋を薪よろしく割り、眉間どころか鼻の頭まで切り裂いて止まり、顔の上半分を二つに分けていた。断末魔の悲鳴も上がらない。ふらついたりすることもなく、ただカクン、と頭を垂れた王の姿は、人形のようだった。
誰がこの展開を予測できたろうか。二国間での長期にわたる戦争が、本当に呆気なく、終わりを告げるだなんて。本来諸手を上げて喜ぶべきヘイルでさえ、呆気にとられて玉座に微動だにせず座っている王から目を離せない。
「ムヒャル!」グラムが王の名を叫び、駆けだす。その唐突さと速さに一瞬反応が遅れる。それは致命的な遅れであり、僕を殺すには十分すぎる隙だった。
が、グラムはただ、一直線に王の所へと向かっていた。風のごとく僕らの間を駆け抜けて。
「あーあ、やっちまった。完全に油断したなあ」グラムが足をとめた。
王の頭がおもむろに持ち上がる。折れた刀身を半ばまで埋めたままで。
誰もが言葉を失った。誰一人として、起きている事が理解できなかった。
なんで生きている?あれはどう考えても死んでいるはずだ。頭を割られて死なない人間なぞいない。それでもいきているのなら、それは。
「驚いたか?そりゃそうだよなぁ、これで生きてるなんて信じられないよなぁ? そうさ、俺はもう死んでいる。正確には、アングマル国王、ムヒャル・アングマルがな」先程までの重々しい響きとは180度違う。相変わらず低いのだが、その声には軽薄さと不快さしかない。目はいつの間にか暗い洞となり、表情もないというのにケタケタと笑っている。頬も動かさずに笑い声を上げている。その姿は不気味を通り越しておぞましく、鳥肌が立った。
「ムヒャル……?」茫然と、グラムが王の名前を口にした。表情なく笑う、自身の仕える王の名前を。
「違う違う、さっきも言ったろう、ムヒャルは死んだと。俺の名前は」われた頭の隙間からぞぶりと、何かが出てきた。
「By nobody(誰でもない者) 」
それは黒く、形も影のようにおぼろだった。
ムヒャルの頭蓋から出てきたそれは体の一部なのか、全身なのかはわからない。ただ、平面でゆらゆらと揺れる様は、海の中でゆらゆらと揺れる海草を想わせた。
あいつは、なんだ。人になり済ます魔物など、見た事もない。一体何だってムヒャルになんか……。
違う、肝心なところはそこじゃない。理由などはどうでもいい。
あいつは今、何と言った?
「ムヒャルを、どうした」疑問は問いとなって、口からこぼれた。
そいつは、黒いからだに裂け目のような笑みを浮かべた。
「喰った。これはあいつの皮だ」頭の割れ目に手をかけて、広げてみせられた。
何もなかった。頭蓋も、脳も、眼球も、歯も。肉も骨も臓器も、何もない。ムヒャル・アングマルを構成していた肉体はどこにもない。
あるのは皮膚だけ。奴が服のように被っている皮だけだった。
グラムが、雄叫びをあげた。それは鼓膜を破らんばかりの大音量で、窓を震わせ、腹の底を叩いてきた。それはただ声だけで人を圧倒できた。
言葉など要らなかった。ただ、その咆哮が彼の感情を語っていた。
「お前がグラムか」幼く、生意気な声が顔を上げさせた。
目の前に、自分より少しだけ背の高い、ひょろっとした少年がいた。この国には珍しく、身なりが立派で、金色のボタンが印象的だった。俺は武官の御曹司か何かだと勝手に決め付けた。
「お前は誰だ」
「兵士を殺したらしいな? しかも大人の、強い兵士だ」そいつは質問には答えないくせに、人に質問してきた。
「弱いからだ。死にたくなければ戦わなければいい」
「それは困る。そんな調子で毎回殺すようなら、お前を殺さなきゃならぬ」そいつは本当に困ったと眉を潜めた。まるで自分がその決断を下さなきゃいけないみたいに。子供のくせに。
生まれ育った村が魔物に襲われて、父も母も兄も妹も目の前で殺されて。家族を殺したやつらを全部殺して。気付いたら一人になっていた俺は、全部終わった後にやってきた奴らに首都へ連れて行かれた。そこで初めて兵士になるよう言われて、翌日訓練に参加させられて、気付いたら剣を持たされていた。刃は間引きされていたが、木剣ではなかった。
相手が先に仕掛けてきた。それがあまりに遅くて、隙だらけだった。
伸ばした剣は眼球を貫いて、そのまま脳に達したらしい。即死だった。
その日、子供とでは相手にならないと大人に交じって訓練し、同じように一人殺した。そいつが話しかけてきたのは、ちょうどその折檻を受けた後だった。
「だったら俺を殺せばいい」
俺はうんざりしていた。ここの生活も、周りの人間も。嘲笑いながら近づいてきたかと思えば、今度は怯えた目で離れて行く。まるで化け物を見るみたいに。俺は化物を殺しただけだというのに。家族の敵を討っただけなのに。
そう、それだけ。あの地獄の中、夜が明けるまで、化物が動かなくなるまで殺し続けたのは、続けられたのは、復讐の為だけ。敵を取るまで、絶対に死んでやるものか、喰われてたまるかと、足を動かし、体をひねらせ、腕を振るい続けた。
それも今はない。死んでしまう恐怖を燃やしつくしてしまった怒りはどこにもない。今ここにある自分はその燃えカスだ。
そうさ、復讐の終えた俺に、生きる意味やら意義なんてものはどこにもない。このまま死んでしまおうが、どうでもいい。
あの時俺は、死んでも失いたくないものを、うしなってしまったのだから。
「それはもっと困る」だというのに。そいつは、首を縦に振ってはくれなかった。
「なんで」うつむいた顔を再度上げる。
そこには、
「お前を気に入ったからだ」宝物を見つけたみたいに無邪気な顔して笑っている奴が、座り込んでいる俺に手を差し伸べていた。
「ムヒャル・アングマルだ。友達になろう、グラム」
グラムが、怒鳴った。それは復讐の炎であり、逆鱗に触れたものを絶望させる怒りであり、失った者への悲哀であり、取り返せない事への絶望だった。
「グラム!」聞き慣れた声に振りかえる。俺はちょうど最後のトロールの頭から剣を引き抜いているところだった。周りにはトロールの死体がいくつも転がっている。
ムヒャル王子が馬を走らせ、猛スピードでこちらに向かってきていた。大勢の兵士を後方に置き去りにして。
普段めったに驚かない俺でも、これには驚いた。仮にも一国の王子が百以上の兵士を率いてくるなんて、一体何があったのか。
「無事か!?お前が一人でトロール退治に駆りだされたと聞いて飛んできたのだ!」俺の元にたどり着くなり、馬から文字通り飛び降りるムヒャル王子。乗馬が得意なのは知っていたが、まだ止まっていない馬から飛び降りるのは危なすぎる。それだけ彼は取りみだしていた。
「……それだけの理由で?」
「それだけとは何だ! 人がどれだけ心配したと、思って、るんだ」息を切らすムヒャル王子。馬は滝のように汗を流して、体から蒸気を吹き上げている。
「心配? 俺をか……ですか?」
「まぁ、幸い、助けは、要らなかった、みたい、だがな」相当疲れた様子だったが、それでも苦笑いを浮かべて地べたに座り込むムヒャル王子。直後、小さく悲鳴を上げて立ち上がった。地面が黒くてわかりづらいが、そこはトロールの血でぬれているところだった。
「どうして俺に心配なんか」
「どうして? 友達を心配するのは当たり前だろうが」濡れてしまった部分を確認して嘆きつつも、それでも真面目腐った口調でムヒャルは言った。
その時からだろうか。あいつを王子と呼ばなくなって、代わりにムヒャルと呼ぶようになったのは。
咆哮し、 わめき、 呻き 、喚呼し、 咆吼し、大呼し、 喚き立て、 叫喚し、嘯いた。
か細い返事に扉を開けると、書類に埋もれて顔の見えないムヒャルがいた。
「グラムか。悪いな、ちょっと待ってくれ」山となった書類の谷間から茶色がかった瞳が覗く。
「忙しそうだな」
「まったくだ。父上が死んで一月も経たぬというのに。これでは塞ぎ込んでいる暇もない」羽ペンを走らせる音が聞こえ、末尾にトン、と机をたたいてムヒャルが書類に埋め尽くされた机から立ち上がる。
「久しぶりだな。葬儀以来か?」前国王の葬儀は二週間前に執り行われていた。その間の仕事の山を消化していたらしいが、傍目にはその努力が報われているようには見えなかった。
部屋の様子も様変わりしていた。というより、机ぐらいしかなかった。背丈の二倍の高さがある本棚には本がぎっしり詰まっていたのに、今はがらんどうだ。元は寝室と一緒だったが、ベッドも撤去されている。それらの荷物は王の私室へと運ばれたのを、誰からか聞いていた。第一皇子であったムヒャルは、葬儀をもって国王になっていた。
「そうだな。お前は少し隈ができているぞ」ムヒャルは少しやせ、頬がこけたようだった。顔も少し青白い。が、浮かべている微笑は変わらず、顔全体が緩んでいるように見える。
「寝てないからな。何、溜まった仕事さえこなせば、後は部下に任せるさ。それよりも、見せたいものがある」片目をつぶって悪戯な笑みを浮かべるムヒャル。どれだけ成長しても、その表情だけは変わらず子供の時とおなじだった。
ムヒャルは机の下から何かを取り出すと、俺の前で広げて見せた。
それは、マントだった。表が黒で、裏地が赤の。色合いは地味だが、国旗と同じ模様が赤い刺繍で施されており、机越しに手渡されたそれが質の良いものだと、感触でわかった。
「昇進祝いだ」
「これを、俺にか?」
「そうだ。お前は装飾とか華美なのを嫌うが、これからは人を率いる身だ。自分の隊長がかっこ悪くちゃ部下の指揮も落ちるからな。着ないのは無しだぞ」何か企んでいる顔をしていたのはこれか。
だが、ムヒャルは重大な見落としをしていた。
「気持ちは嬉しいが……将軍以外はマントの着用は禁止だぞ?」
「え、うそ?」鳩が豆鉄砲を食らうとこんな顔をするのだろうか。阿呆みたいに口をぽっかり開けて、目が点になったムヒャルは、直ぐに表情を変えて飛んでもない事を言い出した。
「待てよ、なら規律を変えてしまえば」
「やめろ。お前が言うと冗談じゃなくなる」
喚叫び、 がなり、 疾呼し、張り上げ、 絶叫し、 大喝し、 吼え……。
火花が目の前で散り、視界を焼く。焼けた視界には頼らず、ただ本能が告げるままに剣を傾ける。果たして地面を這うような斬撃を防ぎ、返す刃で空いた胴を狙う。
「くっ!」身をよじるようにかわされる。が、それは動きに即した回避でなく、精密機械のように秩序だった動きをする相手に狂いが生じる。
それは瞬きにも満たない刹那の時間。が、こと仕合においてその間は致命的だった。
一瞬遅れの防御は、数を重ねるごとに狂いを大きくしていく。仮面のように表情を変えなかった相手に焦りの色がにじむ。今は防げていても、このままではやがて押し切られる事を悟っていた。
後退し通しだった相手が、弾かれるように飛び出してくる。打ち合いの中で、完全に意表を突く動きだった。
予想通りだ。前に飛び出してきた相手の横を抜けて、背後に回る。首だけを巡らして俺の動きを追った相手の首に、刀身をぴたりとつける。
「おれの勝ちだ」
相手は空を切り振り下ろしたままの手から剣を離した。地面に落ちる刀剣は静かな音を立てたが、いつの間にか歓声の止んでいた試合場にはやけに大きく響いたように思えた。
絶えていた歓声が、爆発する。口々に自分の名前を叫ばれる。
「お前を兵士にした時から、いつかはこの日が来るとわかっていたよ」相手は落とした剣を拾い、立ちあがって鞘に収めた。
「今この時から、お前はアングマル将軍だ、グラム」敗北を認めた将軍は、それだけ言うと、先に試合場を去って行った。ゆっくりと歩いて去っていく後ろ姿は、変わらず威風堂々としたもので、俺は唯一尊敬した剣士の背中に頭を下げた。
「ついに将軍だな、グラム」ムヒャルがグラスを手に差しだす。
「大変なのはこれからだ」差し出されたグラスに、自分のグラスをそっと当てる。ワインを波打たせて鳴る小さな音はなぜか気分を良くさせる。俺とムヒャルは王の私室で、二人だけの祝勝会を上げていた。
「いやしかし、アングマル始まって以来の快挙だぞ。兵士に正式になって十年、齢十八にして最高指揮官の地位にまで登りつめるなんて」机に腰掛け、ワインを飲むムヒャル。アングマル産特有の、赤黒い液体がムヒャルの喉へと吸い込まれ、あっという間にグラスを空にする。
「飲み過ぎだぞ、ムヒャル」俺は窓辺に腰掛けて、一口含んだ。ワインはアングマルでは贅沢品で、飲んだことなどなかった。そも、そんなものになぜ金を賭けるのかと疑問に思っていたが、酸味と甘みが程良く舌をなぞり、喉元を通って行く感覚は悪くなかった。
「今日ぐらい大目に見ろ。お前こそもっと飲んだらどうだ?これはお前の祝勝会なのだぞ」空のグラスを突きつけるムヒャルの顔は朱色を帯びている。
「酒は適度が一番だ。飲み過ぎて翌日どうなるかは、よく解っている」ムヒャルが苦い顔をする。
「それを言うな。せっかくの酒がまずくなる」そう言いながらも、空いたグラスになみなみとワインを注いでいる。あの様子じゃ直ぐに空になりそうだ。
「まぁ、やっとあのマントを着ることができるわけだ」何気なしに呟いた。それを聞いたムヒャルが目を丸くする。
「お前、まさかその為に将軍になったのか!?」
「それだけではないぞ」理由の一つではあるが。少なくとも、あれを受け取らなければ、将軍になろうなぞ考えもしなかったろう。が、それをわざわざ言う必要も、つもりもない。
しかし、ムヒャルは赤くなった顔に喜色を浮かべると、そうかそうかと言いながらワインを一息に飲み干す。
と、その体が後ろに傾く。
「ムヒャル!」窓辺から飛びあがり、ムヒャルの体に手を伸ばす。幸い、俺の伸ばした手はムヒャルの手を掴み、床から転げ落ちる事はなかった。
「飲み過ぎだムヒャル。危うく怪我をするところだったぞ」冷や汗を拭う。仮にも一国の王が飲み過ぎで怪我をするなど。が、当の本人はのんきに笑って言った。
「大丈夫、大丈夫。危なくなっても、お前が助けてくれるんだろう? 今も、これからも」
「ムヒャル」
「グラム。父も母もいなくなった今、私にはお前しかいないんだ。お前しか」急にムヒャルは真面目な口調で語りだした。酔っ払って顔を赤くして、倒れかかった体を俺に支えられて。
でも、俺には聞き流す事が出来なかった。
「そのお前が、将軍になってくれた。こんなに嬉しい事はないぞ、グラム。私は今、嬉しくて仕方がないのだ」ムヒャルは笑う。子供みたいに笑う。王ではなく、一人の人間として。
「飲み過ぎだ、ムヒャル」俺の言葉に、ムヒャルは笑いながら頷いた。
泣きながら、頷いた。
「ムヒャル――」
彼の目から、赤い滴が一滴、頬を伝った。
グラムが駆け出した。王の皮を被った化物へ、弾けるように駆け出した。その手に死神の由来となった魔剣を握り締めて。
横顔は怒りに染まり、悲しみで埋め尽くされ、絶望に歪んでいた。それは正に死を象徴する死神であり。
最早人でなく。
故に、人でしか浮かべる事の出来ない表情だった。
巨兵が立ちふさがった。
同時に首が飛んだ。
巨体があおむけに傾く。その体を坂のようにグラムが駆け上がり、跳躍した。玉座までの数歩さえ惜しいと、柄頭に片手を添え、闇に浸かった切っ先を『誰でもない者』に定めて。そいつは笑みを浮かべたまま、片手をグラムにかざした。
手のひらから何かが付きだした。それはまっすぐに伸び、飛びかかるグラムを襲った。
それは、木だった。手のひらを突き破ってはえてきたのは枝葉のない樹木だった。それがねじれながら何本も絡まって、一本の樹木を作り出している。正確には、樹木の槍となっている。
グラムが刹那に剣で防ぐ。しかし、樹木の勢いはとどまる様子さえ見せず、グラムの体をくの字に折り曲げ、さらに伸び続けてグラムを天井に叩きつけた。
「がは!」樹木に押しつぶされたグラムの口から血が毀れる。吐き出された血の一滴が『だれでもない者』の顔にかかった。『誰でもない者』の裂けた口から真っ赤な舌が伸び、血を舐めとった。
「ころ、す……! お前だけは、お前だけは必ず殺してやる!」天井に縫い付けられたまま、グラムが吼える。途端にせき込み、さっきより大量の血を吐いたが、憤怒と憎悪に歪んだ顔を殊更に恐ろしくみせた。しかし『誰でもない者』は笑みをたたえたままだ。
「おうすごいすごい、今のを食らって死なないか? だが残念、今はお前の相手をしている暇はないんだ」グラムを押しつぶしている樹木の先から何本もの根が四方八方に伸び、天井に根を張ってグラムの体を磔にした。樹木はさらに根を増やし、腕やら足やら顔やらを覆っていき、ついにグラムの全身は木の中に埋もれてしまった。
「さぁ、今度はお前たちの番だ」『誰でもない者』の目が、こちらに向けられる。
樹木の生えていないもう一方の手をかざす。
部屋の一隅、身を寄せ合う二人に標準を合わせて。
「避けろ!」誰かが叫んだ。時を同じくして、手のひらを突き破って、樹木の束が飛びだした。
それは標的へとまっすぐに伸びて行く。クリスは声に反応して避けようとしているが、マリアさんは茫然と立ち尽くして自分に向かってくる樹木の束を凝視している。
ヘイルが彼女を突き飛ばし、幅広の剣の平を盾にする。樹木の束がヘイルに直撃する。
「おおおおおおおおおおおおお!」ヘイルが声を振り絞って叫び、弾き飛ばされまいと足を踏ん張る。が、勢いは止まらず、ヘイルは足を滑らせてどんどん壁際まで追いやられていく。このままではグラムと同じように磔にされてしまう。
床を砕く音が響いた。
ヘイルの背中は壁に着いていた。しかし、樹木の束はヘイルを押し潰す事はなく、むしろ力を失って床に落ちた。
「ラキ、俺に逆らうというのか?」『誰でもない者』が王の声でラキを咎めた。
「うるせぇペラペラ野郎! 俺が仕える王様は、頭から気持ち悪いもん生やしてねえんだよ!」大剣を肩に担ぐラキ。それは彼特有の構えであり、つまり王であった者を敵とみなしたという事の表れだ。彼の足元には両断された樹木が転がっていた。
「すまない。助かった」ラキの背中に声をかけるヘイル。
「感謝するのはまだはええよ。あいつを倒したら、今度はあんただからな」ラキは振り返らずに答える。そうか、とヘイルは一言呟いて構えた。剣先を王だった者に向けて。
ラキとヘイルが最初に駆け出す。『誰でもない者』は先を切り落とされた木束の腕を振る。それはとても大木を動かしているとは思えない早さだったが、ラキは先程と同じように自分の間横から来た木束を切り落とした。
が、今度はその断面から枝が再生し、ラキの不意をついて腕に絡まった。枝はものすごい速度で伸び、ラキの腕をらせん状に絡み締めつけながら首をしめんと登っていく。
それを、ヘイルが断ち切る。ラキがばつの悪そうな顔でヘイルを睨んだが、ヘイルは鼻を鳴らしただけだった。
その間にガウェインが『だれでもない者』に迫る。ガウェインは誰よりも相手に近く、肩から木の枝が先端をとがらせて飛び出してきたのを頭だけ動かしてかわしたところだった。
「とった!」ガウェインが王だった者に詰め寄る。
と、突然ガウェインが転んだ。それはひどい転び方で、顔面から勢いよく倒れた。
「痛え、一体何が……」からだを起こして、自分の足を見るガウェインの表情が凍る。彼だけでない。それを見た全員が息をのんだ。
ガウェインの右足首。そこには手があった。鋼の小手をはめた、巨大な手だ。ガウェインは躓いたのでない、転ばされたのだった。
首のない巨人兵に、足首を掴まれて。
「なん、で」ガウェインの顔が引きつる。『誰でもない者』の口が朱に染まった三日月になる。
「おかしいと思わなかったのか? そんな巨大な人間などいるはずがないだろう」巨人兵が胸を起こす。まるでそこにあった頭を持ち上げるように。
頭のあった場所には、触角のように細い枝が二本、伸びていた。
ガウェインが息をのむと、足首を掴む手首から木が生えてきた。手からだけではない、首やら足やら、鎧の隙間から四方八方野放図に枝が伸びて行く。それらは直接僕らに向かってくるか、或いは壁に根を張り、部屋を覆って行く。僕らは伸びてくる枝をかわして、或いは切って防ごうとしたが、斬った先から枝は再生し、襲ってくる。その間にも蔦のように部屋を覆う枝はその数を増していった。
「足掻け人間ども。死ぬまで舞踏曲を踊ってみせよ」
ガウェインは枝にがんじがらめに巻きつかれて階段に転がっている。それはまるで蜘蛛の糸を巻かれた虫のようだ。
ヘイルとラキは、グラム同様巨木に潰される様な格好で壁に磔にされていた。
クリスとマリアさんは手足を細いツタに絡みつかれて床に縛られている。
「ほうら、次はどうかわすんだ?」耳障りな、高く擦れたような声とともに巨木が伸びてくる。避けようとして、足がもつれた。躓きよろめいた僕の腹を、意志を持つ植物は容赦なく殴り飛ばした。胃が喉元までせり上がり、胃液が口から押し出される。自分の意思に関係なく体が宙に浮く。
勢いを殺すすべはなく、受身を取ることもできずに床にたたきつけられる。折れた剣が手から離れて床を転がった。
鈍痛が横腹から、じんわりと全身に広がっていく。痛みは毒のように立ち上がるだけの力と、戦うための精神を奪っていく。折れた剣を探すと、僕から随分と遠くに転がっていた。
「もう終わりか? もっと俺を愉しませろ」肘をつき、ゆっくり立ち上がろうとする隙だらけの僕を攻撃することなく、『誰でもない者』が嗤う。相変わらず暗闇に赤色を塗ったような大口を開けて。
生かされている。あいつはいつでも僕を殺せる。僕だけじゃない。ガウェイン、ヘイル、クリスやマリアさんも、ラキやグラムでさえあいつがその気になれば殺されてしまう。
だが、あいつはそれをしない。ただ、僕らをいたぶっているだけだ。
それが、屈辱だ。僕らを手玉に取るあいつが、仲間を助けられない自分の力のなさが、悔しい。
「一体、何がしたいんだ……」それは、悔し紛れの一言だった。
「ん?」暗闇が、歪に形を変える。それは首をひねっているようにも見えた。
「一体、何が目的でこんな事をするんだ!?」言葉を吐き出して、立ち上がる。足は疲労と苦痛に震えている。今すぐにでも地面に横たわってしまいたい。下手に長々苦しむより、さっさと降参して殺された方が楽だと、僕の中の弱さが囁く。だが、それは嫌だった。そんな事で、自分の命を、仲間を諦めることなどできなかった。
「目的? 何の事だ」膝を震わせる僕を嘲笑う『誰でもない者』。
「なぜ王の振りなんかする!? こんな回りくどい事なんてする必要はないだろう。お前の目的は何だ!」
「ここまでたどり着いた褒美だ、一つだけ教えてやる。俺は、あるお方に仕えている」
「あるお方?」
「そうだ。俺が仕える主。唯一無二の存在。人であって人でなく、魔であって魔でない、神に等しき方だ。いや、あの人こそが神だ!」『誰でもない者』が熱を持って語る。それはどこか敬虔な信者を連想させ、人間臭さを感じさせた。
「人であって人でなく、魔であって魔でない? それは一体」
「お前が知る必要はない。ここで死ぬのだからな」『誰でもない者』の右手が、震える僕にかざされる。手のひらからは既に木が穂先のようにとがって突き出ている。
「理由なんて、どうでもいい……」不意に、くぐもった声が天上から割り込んだ。
見上げたまさにその瞬間、グラムが自分を拘束する木から顔を出した。口にかじりとった木切れを咥えて。
「お前がムヒャルを殺した。お前の事なぞ、それだけ知れば十分だ」噛みちぎった木切れを吐き出してグラムが睨む。彼の口からは血が毀れており、木を無理やり食い破ったせいであろう、口の端も切れて血が滴っている。
グラムは低いうなり声を上げると、縛られた四肢に力を込め始めた。グラムを縛る気が小さな音を立てて軋む。だが、破れる気配は一向にない。
「無理だ。たかが人間がそれを破れるわけがないだろう」『誰でもない者』が呆れて言う。
グラムは耳を貸さず、さらに声を大にして木を引きちぎろうとしている。内臓を傷つけたのか、叫ぶ口からは血が吐き出される。
それでも、グラムはもがくのをやめずに、『誰でもない者』を睨み続けていた。
「呆れたな。じっとしていれば生きながらえる事が出来たろうに」理解できない、というように頭を振る『誰でもない者』。
その右手が、グラムに向けられる。
「目障りだ。死ね」
影の顔がゆがむ。ギリ、とグラムが歯を食いしばる音が響いた。
と、突然『誰でもない者』が僕に目を向けた。
正確には、僕の後ろ、本来は扉があった出入り口に。
僕は『誰でもない者』が僕を見てない事に気付き、視線の先を目で追った。他の皆も、思わず視線の先に注目していた。
入口には、少女が立っていた。
松明の光を受けて輝く長い髪は銀色で、左右の瞳は色が違う。そのとき不意に、いなくなった少女の事が想い出された。
少女は眼を見開いて部屋の光景を眺めていた。その目が、『誰でもない者』と合う。
「来るなエレン!」
グラムが突然叫んだ。エレンはハッとしたようだが、動けなかった。
『誰でもない者』が喜色に顔を歪めたのが見えた。右手は少女に向けられていた。
「逃げろ!」グラムが叫ぶと同時、木の枝が触手のように『誰でもない者』の手のひらから伸びる。立ちすくむ少女に向かって。
止めなくては。理由もなく、そう思った。僕の体は少女を貫こうとする枝へと飛び出していた。
脇腹に、鋭い痛みが走った。木が横腹をえぐり、血肉が弾けた。
それでも、木の槍は止まることはなく。
少女の体を貫いた。
少女が悲鳴を上げる事はなかった。単に驚いて声を発せなかっただけかもしれないし、即死だったのかもしれない。他の理由があったかもしれないが、僕にはわからない。
ただ、小さな体が床に倒れる音だけが聞こえた。
誰かの笑い声が耳に障る。何か言っているようなのだが、僕には聞こえない。聞こえているのに、言葉として理解できない。
誰かが僕の名前を呼んでいる。自分が呼ばれているのはわかるのに、誰が僕を呼んでいるのかわからない。とても、とても慣れ親しんだ声なのに。
脇腹に手をやる。記憶より幾分細くなった腹部からは、生ぬるい血がわき水のようにこんこんと流れだしている。視界は白く霞み、ちりちりとした何かが舞っている。頭がぼんやりとする。体が震え始めた。寒い。凍えそうだ。なのに、傷口だけは熱く、焼けついたような痛みを頭に送り込んでくる。
意識が飛びそうになっているのが感覚でわかる。眠くないのに、目を開けているのがつらい。視界はいよいよもって白に埋め尽くされる。言葉は水の中にいるみたいにくぐもって、音がする事しか僕にはわからない。
ただ。たった一つだけわかるのは。
グラムが叫んでいる事だけだった。それは単に彼の叫び声が大きいからなのか。それとも彼が僕の起源だからなのか。理由はわからない。
頬に、何かのかけらが落ちてきた。それが何かを理解する前に、白に塗りつぶされて狭くなった視界を、強い光が埋め尽くした。
エレンが貫かれた。体は部屋の外へと弾きだされた。クッションも何もない、硬い床に転がった音が聞こえた。
「エレン……」返事はない。
「エレン……」じわりと。小さな体から、赤黒いものが毀れて行く。
「エレン――」血は広がっていく。処女が動く事はない。ピクリとも、痛みにもだえる事もない。
それが、どういう事なのか。理解するのに、時間はいらなかった。
「そうだ!その顔だ!その絶望に打ちひしがれる姿こそ、見たかったのだ!」化物が嗤う。ムヒャルを殺した化け物が、ムヒャルの顔で嗤う。俺の顔を見て嗤う。
エレンを殺した化け物が、嗤っている。
殺す。あいつは殺す。何を犠牲にしてもいい。体が引きちぎれてしまってもかまわない。あいつを殺せれば、どうなってもいい。だから。
だから魔剣よ、力を寄越せ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
叫び声と共に、こめかみから血が噴き出した。視界が真っ赤に染まり、嗤うやつの顔が良く見えない。喉が裂けて口の中で唾液とどろ付いた者が混ざり合う。鉄の味で舌が壊れる。
腕の筋肉がちぎれていくのが聞える。張り詰めた糸が切れる音が、体のそこかしこでする。
痛みが体を痺れさせる。感覚器官は活動を放棄し、痛覚だけを感じる生きものとしての俺が出来上がる。
だからどうした。壊れるなら壊れてしまえばいい。奴を殺せるのなら、どうでもいい。奴を殺せないからだなぞいらない。
最初は小さな罅だった。それが、線を引いて行くように伸びて行き、亀裂になった。
俺を押しつぶしている樹木が、小さく割れ始めた。
「ば、馬鹿な! そんな事があっていいはずがない!」化物が狼狽する。その間にも、亀裂は広がっていく。
バキ、と。樹木は乾いた音を立てて、二つに裂けた。俺の体が自由になり、落下を始める。化物に向かって。
化物が右手を俺に向ける。エレンを貫いた手を。触手じみた木はいつの間にか手の中に戻っている。
それがまた手のひらから伸びる。俺を刺し貫こうと先端を槍のようにして。そこにはまだ、赤い血が付いていた。
落下する俺には避ける手立てがない。
構わない。避けられないなら、突き進むだけだ。
突き出した魔剣が、樹木の先端を捕らえる。先端が二つに裂けて行く。俺はそのまま落下する。魔剣をただまっすぐ突き出して。中心を捕らえた魔剣が樹木に穴を開けるように進んでいく。俺は樹木の中をつき進むようにして化け物に落下していく。
それが、止まった。樹木の中を突き進んでいた俺は、化物まであと少しの所で、落下の勢いを失って止まってしまった。
「は、はは、はははははははは!! 残念だったな! 貴様がどれだけ足掻いたところで、俺を殺す事などできるわけがないだろう!」化物が笑う。先程の焦りをどこか残しながら、勝利を確信した笑いだった。
瞬間。目の前を、閃光が焼いた。
何が起きたのかわからなかった。だが、俺以上に化物は何が起きたのかわかっていなかった。
閃光は、奴の樹木を吹き飛ばした。
それが、何によるものかはわからない。だが、俺にはその事はさして重要じゃない。
奴が、目の前にいる。それだけ分かれば十分だ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」全力で、剣を振るう。かつてのムヒャルだったものを斬る。その事にためらいはない。あいつもきっと、それを望んでいるはずだから。
「GIYAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!」化物が悲鳴を上げる。両断されたムヒャルの体の中は、黒い靄が詰まっていた。魔剣は、それを容赦なく吸い取っていく。
突然、奴は体を切り離した。頭部とも呼べる部分と、ムヒャルの体をぶっつりと。
「い、いやだ! 死にたくない! 俺はまだ死にたくない!」化物が俺から逃げながら、何もない空間を斬るしぐさをした。
すると、中空に黒い穴ができた。紙の真ん中をナイフで切ったみたいな裂け目が、何の前触れもなく生じた。
化物はそこに飛び込んだ。真っ暗で何も見えない裂け目の中に。
俺はためらうことなく飛びこんだ。
そこは暗闇だった。上も下も右も左も闇。光はなく、しかし不思議と化物の姿だけは見える。
一度だけ、後ろを振り返った。化物が作り出した裂け目は、できた時と同じようにあっという間に閉じて行った。
何が起きたのか。一部始終を目撃したにもかかわらず、私は起きた事を完全に理解する事が出来なかった。
少女が現れた。その少女をかばってイェリシェンが倒れた。
少女はイェリシェンの奮闘も虚しく貫かれた。
グラムが叫んだ。そして、樹木を引きちぎった。奴の所まであと一歩で届かなかった。
クリスが放った矢が、爆発した。
グラムは奴を追いつめ、そして……。
「奴らは、何処に消えたのだ……?」私は思わず疑問を口にした。
そう、あの『誰でもない者』とやらが、黒い穴を作り出した。あれは何だったのか? あれも魔法なのか?
それよりもクリスだ。あれこそ魔法ではないか。あれを魔法と呼ばずして何と呼ぶ?
頭の中が疑問でいっぱいになる。今クリスはイェリシェンの所へ駆け寄っている。意識を失っているようだが、マリアが治療にかかっている。彼女の治癒能力は私も聞き及んでいる。死んでいない限り、じきに目を覚ますだろう。
「おい王子サマ。頼みがある」皆と同じように樹木から解放されたラキが、隣に立っていた。腕に血まみれの少女を抱えて。
「なんだ?」
「この子を助けてくれ。まだ息がある」
お久しぶりです。皆さんお元気ですか? じょんです。
これにて、第二章は完結です。な、長かった……。こんなにかかるとは予想だにしなかったです。まあ、それもこれも僕が書くの遅いからなんですけど。本当はクリスマスに上げたかったんですけどね。最近家の中が寒過ぎて……いいわけです、ハイ。ガンバリマス
ともあれ、何とかおわれたのも読者のみなさんのおかげです。改めて、感謝を!こんな小説を読んでくれてありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
次回更新は、年明けになります。年内はどうあっても無理です。できれば、一月にはうpしたい。今後はひと月ペースを目指します。
それではみなさん、よいお年を!