第十四話:手
侍女たちを追い払い、扉を閉める。が、人は締め出せても音までは遮断しきれないようで、今だ扉の前でしゃべり続ける女どもの声はくぐもった響きとなり、あわただしく行き来する人の足音が振動となって伝わってくる。
俺の予想は当たり、城内は死んだはずの将軍が戻ってきたことでかつてない大騒ぎとなってしまった。幸い、そのことで足止めを食うこともなく、準備ができ次第すぐに王に謁見することが許され、旅で汚れた格好のまま会うわけにもいかないので、着替えるために実に数カ月ぶりに自室に戻ることになった。
部屋は最後に出た時と何も変わっていなかった。戦死とされて数カ月経つというのに、掃除はいきとどいており、まるで俺が戻ってくるのを知っていたかのようだ。
「おい」扉の影に隠れるように、うつむいて立っている少女に声をかける。
「着替えを手伝え」衣装棚の服を取るよう指示し、自分は汚れた衣服を脱ぐ。本当は湯にでも浸かりたいが、そこまでの時間はない。侍女が用意したお湯に布を浸し、顔や体を拭う。布が黒いので、どれだけ汚れや垢が落ちたのかはわからないが、少なくともべたつきは無くなった。
黒地に赤い糸で刺繍が入れられている服に袖を通しているころ、ノックの音が響いた。
「準備ができました」侍女が端的に告げる。
「すぐにいく」パッと衣服に乱れがないか確認した後、扉に向かう。鎧を着ず、武器さえ携えていないのには些か手持無沙汰な、それでいて無防備な気にさえなってしまうが、仕方がない。鎧は、壊れて無くなってしまったのだから。
それに、俺の剣に鞘は必要ない。
扉を開けて、ふと振り返る。果たして、いつものようについてこようとしている少女の姿がそこにはあった。
「ついて来るな」言い残して、部屋を出る。扉が閉まるまで、俺を見つめている少女。
それが、いつもより儚げに見えた。
タペストリーはおろか、絨毯すらもない謁見の間。縦に長い部屋だが、広さにしてみれば広場ほどの広さもないであろう。これが普通であった俺にとって、サン国のあれは驚くほど豪奢であったことを認めざるを得ないのだが、あの広さは実用的でなく、装飾の一部であるのだと、再びこの部屋を訪れて考える。
その、無駄のない広さの奥。両脇に甲冑で身を固めた兵士をたたせ、王が鎮座していた。
背恰好は俺と同じほど。手こそ細いが、骨ばってはいない。栗のように大きな目に、線を引いたように細く長い眉。特徴的な水色の髪が、明るい印象を与える。
が、今は眉間にしわを寄せ、目を半月にしている。
「よくぞ戻った。余は嬉しく思う」おもむろに口を開く王。そこに表情の変化は見られない。
「ありがたきお言葉。」
「して、グラムよ。お前はどうやって生き残り、ここに戻ってきた?お前が槍で貫かれ、崖から落ちるのを確かに見たと証言する者が数多いるのだが。」
「その通りです。私は負傷し、崖から落ちました」
「ならばどうやって」
「魔剣を使って。今魔剣は私の体と一体化しています」証拠を見せるために、剣を出すように念じる。
体から黒い靄が陽炎のように漏れだす。それは右手に収束され、形を大きくしていく。
前触れもなく、靄がかき消える。右手には、実体化した魔剣が握られていた。
「おお。これは」王が思わず声を漏らす。
「魔剣と呼ばれることはあるな。どうやら、お前に授けた余の判断は正しかったようだな」
「それについては、感謝してもしきれません。これがなければ、こうしてもう一度故国の地をふむことはなかったでしょう」言いながら、過去を思い起こす。
ある日突然、王から呼び出され、幾重にも布に巻かれた上にバックルで止められていた棒状の包みを差し出された。王には褒美だと言われ、促されるままに包みを解いた。
この大陸では見られない、反り身の剣。鞘から柄、鍔にいたるまで黒一色。
刀身を確かめようと、柄を握る。手が滑らないようになのか、柄には奇妙な手触りの布が巻きつけられていた。薄く、ざらつく感触。異様なほど、気持ち悪いくらいに手に馴染む。
鞘をつかみ、剣を引きだす。音さえ立てずに露わになっていく刀身。それは、常識で考えればあり得ないことだった。どれだけゆっくりと引きぬこうとも、必ず音は立つ。構造上、仕方のないことである。
だが、それすら俺には気づかなかった。
黒。混ざりものなしの、黒。
夜。
闇。
黒。
その剣は、全てが黒だった。
俺は、黒が好きだ。それは夜の色であり、闇の色であり、この国の色だ。何物にも染まらない、単一で変わることのない色。
それが黒。
気付けば、剣を食い入るように見つめていた。
同時に、ぞっとさせられた。思い返してみても、その一度しかなかったことだけれども。
確かに、剣が、脈を打ったのだ。
「……!」思わず、剣を取り落としそうになった。だが、落とさなかった。手を離さなかったのではない。
手が、離れなかったのだ。
それが、まだ、魔剣であるとわかる前のこと。それが命を吸い取る魔剣であるとその時知っていたとしても、俺は手放すことはなかったろう。
既に。俺は魔剣に、魅入られてしまっていたのだから。
「それで、数カ月もいたのだから、少しはみてきたのだろう」王の言葉で現実に引き戻される。
「はい」
「ならば話せ。できるだけ仔細にな。暗殺に失敗したことも聞き及んでいる。そのことも聞きたい」
扉の向かいに二つある大きな窓からは、どんよりと曇った空が見える。部屋にいた人たちが(あの人がすぐに追い出したけど)つけてくれたろうそくのおかげで、部屋は暗くない。だけど、そのろうそくは普通のと違うみたいで、真っ黒な煙を出すし、すごく臭う。窓を開けようとしたけど、窓も普通とは違って、上のところしか開かないし、わたしでは届かなかった。
おっきなベッド。一つきりの衣装棚。書き物机。低いテーブルに椅子が二脚。壁と一体になった、立ち見鏡。
それだけ。他には何もない。絵画も、置物も、本すらもない。あの人の部屋はがらんとしていて、ものというものがない。
ふと、旅に出てからずっと、あの人と一緒にいたことに、今更ながら気付いた。
寒い日も、暑い日も。
晴れの日も、雨の日も。
疲れた時も、眠る時も。
病気の時も。名前をくれた時も。
ずっと、ずっとそばに、いてくれた。誰よりもずっと、わたしのそばにいてくれた。ずっと一人だったわたしのそばに、いてくれた。
うれしかった。
でも、今はいない。出て行ったきり、帰ってこない。どうしていってしまったのだろう。どうして、わたしをおいていったんだろう。
「おいていかないで」って、いえなかったんだろう。
ふと、書き物机に積まれていたものに目がついた。
あの人が、脱いだ服。旅の間、ずっと着ていた服。わたしたちと一緒に旅をした、この部屋で唯一、あの人を感じることのできるもの。わたしとあの人の記憶。
手を伸ばす。あの時つかめなかった、袖をつかむ。そうっと、机から服を離す。
皺にならないように、優しく抱きしめる。砂埃が舞ったが、そんなことは気にならない。
まだ温かい。汗のにおいが鼻をついたが、嫌ではない。汗に混じって、あの人の匂いがする。
顔をうずめる。肘で挟むように、胸に圧しつけるように、ぎゅっと抱きしめる。
皺になっちゃう。頭の片隅で、そんなことが思い浮かぶ。
でも、いいや。怒られても、かまわない。こわいかおをされたっていい。
早く帰ってきて。
突然、扉がノックされて、思わず飛び上がった。慌てて服を後ろ手に隠す。
あれ、なんで隠しているんだろう、わたし。
「失礼します」その答えを考える間もなく、扉が開いて、人が入ってきた。さっき追い出された女の人たちの一人で、バケツや雑巾を抱えている。
「あら」その人は、すぐにわたしに気がついた。当然だ、こんなに何もない部屋で、目立たないはずがない。
「あなた、新しい子?勝手に入ったらだめでしょ。しかも、よりによってこの部屋なんて。ばれたらあなただけじゃない、私だって何されるかわかったものじゃないのに。」
誰と間違えているのか、つかつかと歩み寄ってくる女の人。
「……その後ろに隠しているものは何?」突然伸ばされる手。
その手を、はたいた。唖然とする、女の人。
「なにするの、早くそれを渡しなさい」女の人はすぐに我に返り、服をつかむと、強引に取り上げようとする。
いやだ。取らないで。あの人を、取らないで。
「痛!」噛みついた。精一杯、掴んできた手に、噛みついた。
「なにするの!」噛みついたわたしのほほを、平手が打つ。おかげで服を離してくれたが、ぶら下がるように引っ張っていたので、勢い余って床に転がった。
生暖かい鉄の味がする。慣れ親しんだ、血の味。でも、自分のでないものも混じっていた。
女の人は、怒っているのか、驚いているのか、わからない顔をしている。多分どっちもだろう。噛まれた右手からは、ぽたぽたと血が垂れている。後ろに、扉があった。
扉に飛びついて、廊下に出る。
女の人が追ってくる。
怖い。
道は三つ、どこに行けばいいかわからない。
右の道を選ぶ。
女の人が部屋から飛び出す。次の角を左に曲がる。
女の人は追ってこない。あきらめたのか。わからない。振り返られない。
階段を下る。
鎧姿の、兜だけかぶってない人とすれ違う。目が合う。中途半端に髭を生やした男の人。わたしをじっと見ている。
脇を通り過ぎる。次の角を右へ。別の人とすれ違う。女の人。
右へ。左へ、右へ、前へ、上へ、下へ、後ろへ……。
これ以上走れなくなって、立ち止まった。前も後ろも、人はいなかった。女の人は、追ってきていなかった。
わたしはどこにいるのか、わからなくなった。
謁見の間を出ると、廊下の薄暗さに目を細めた。ぶすぶすと黒煙を上げているたいまつが等間隔につもされてはいるが、黒一色で統一された世界は闇と光の境界を曖昧にしている。暗がりにかくれれば、すれ違っても気づかないかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたせいか、突然陰から声が聞こえてきても、それが壁に寄りかかっている人物であると気づいていた。
「お久しぶりです」場所が違えば、快活であるとさえ感じさせるような、高く若い男の声。
「何の用だ」
「つれないですね。自分はただ、我が国が誇る将軍様が数カ月ぶりにお戻りになったと聞いて、わざわざ様子を見に来ただけなんだけどなぁ」わざわざ、をことさらに強調する。
ぬっと、人影が動く。松明が大きな影を作り、目の前を覆う。
分厚い胸板。擦れる鎧は重低音。逆光に照らされた頬に、深い切り傷が癒えた後も痛々しく残っている。
黒い髪を短く刈り込んだ、見上げるほどの大男。
「全くお変わりないようでなにより。もっとも、自分としてはいささか残念です。腕の一本や二本、失くしてくれると思っていたのですがね」器用に眉と頬を左右対称につり上げる。
「用が済んだのならそこをどけ、木偶。貴様とのおしゃべりに付き合っているほど、俺は暇ではない」目線を切り、脇を通り抜けようとする。それをふさぐように、男が一歩横にずれる。
「……何のつもりだ?」
「いや、まだ気になることがあって。将軍は崖から落ちたんですよね?しかもその前に手傷を負われて。その割には、大きな怪我も見受けられないし」大げさに首を横に振りながら、全身をくまなく観察する大男。
「何が言いたい」
「いや、だから何というか……」言葉を掘り出すように、右手で頭を掻き始める。ぼさぼさの髪が、余計に乱れる。
「あんた、本物?」その右手が、柄をつかんだ。
踏み込みが足元を揺らす。腰の回転に連動して突き出される肘。その先、暗闇に溶けている右手が掴むものが、火花を散らしながら壁を削り、その姿を垣間見せる。
ギロチンのように幅広の刃。照らし出されるは白い刀身。それはまごうかたなく剣の形をしている。だが、それを剣とよぶのは憚られる。
なぜなら。目前にして全容を明らかにしたそれは、剣という枠から逸脱した代物だったから。
刃渡り百五十、柄も含めれば百八十を超える、槍にも匹敵する長さを持ちながら、普通のものには持ち上げることすら困難な肉厚の刃。
クビカリ。トロールの首すら両断した片刃の剣。それを軽々とふるう膂力の持ち主。
トロール殺しのラキ。千人長を務める、アングマルでも一、二を誇る将である。
「どうやら、偽物ではないらしいな」無精ひげを生やした口から低い声が漏れる。本来の声と口調を戻したラキが、薄笑いを浮かべる。
首には黒霧の剣。蛇の舌のように明確な意志を持って伸びようとする靄が、太く筋肉質な首筋を舐める。
対する俺の首にもギロチン。重さだけで鎧ごと人間を切り裂く刃が、鋼の匂いを感じさせる位置に制止している。
動けば互いの首が飛ぶ。完全な膠着状態で、同じ顔をする。
「貴様も、腕は落ちてないと見える」
その言葉を合図としたのか、剣を引くラキ。俺も剣を引く、もといかき消す。ひゅう、とラキが口笛を吹く。
「便利だな。どういう仕組みになっているんだ」心底羨んだ声を出す巨人。自身はクビカリを留め金に嵌める。
剣の枠から外れたクビカリには、鞘はない。鍔に取り付けられた留め具を、専用の留め金につけているのだが、剣の重みに耐えられるようかなり丈夫に造られている。そのため、それ自体も大した重さらしい。以前、ラキがぼやいていたのを覚えている。
「教えるつもりはない。知ったところで、貴様ができることではない」
「そうかい。旅行は楽しかったか?」
「眩しくて目が痛む。澄んでいて喉が渇く。そんなところだ」
「あんたには合わないのがよくわかった。……それで、二人のことは聞いているのか?」
「ああ」誰、とは聞かない。俺にとっての二人とは、他にはいない。
グルンベルド。
デリシュ。
アングマルの将、俺の腹心の部下。
戦死した、二人の戦友。
「なら、わかっているな、お前の立ち位置を?元々お前を快く思わない連中はたくさんいる。王と幼少から付き合いがあると言っても、それがどこまで通用するかどうか。実際、あの方は表立ってあんたを擁護したりはしない。ぼうっとしていると足元すくわれるぞ」
「問題ない。誰が将軍に相応しいか力で示すだけだ。忘れたというのなら、思い出させてやるまで」
「相変わらずだな。あんたらしい。後でいない間にたまった書類を届けておく。感謝しろ、あんたがやらなかった仕事の大半を、俺が終わらしておいたんだからな」道を開け、俺とは反対方向へと歩き出すラキ。
と、何かを思い出したかのように足を止め。
「なぁ、あの女の子はなんだ?」一番触れられたくない話題を振ってきた。
「ついてきた。それだけだ」端的に答える。
「特別な感情は何もないと?噂になっているぞ、『将軍は特殊な趣味をお持ちだ』とな」ほくそ笑むラキ。妙に癇に障る顔だ。
「あんな小娘にもならん子供に湧く感情などない」
「そうか?なかなか可愛い子じゃないか。不吉な容姿をしちゃいるが、今時あんな迷信を信じるものもいないだろう。将軍様の特殊な趣味を考えますと、連れて帰ってきたのも頷けるというか」先ほどの慇懃無礼な部下を演じるラキ。
「だから違うと……なぜエレンを知っている?」異常に気付く。ラキがエレンを知っているはずがない。ラキとすれ違って気付かないことは絶対にないし、そもそも彼女はずっとフードを被って俯いていた。顔を知っているはずがない。
「へぇ、エレンね。可愛い名前じゃないか」
「質問に答えろ。何故貴様がエレンを知っている」
「何故って、さっき階段ですれ違ったからだよ。侍女に聞いたら、あんたの部屋にいたっていうから。違うのか?」
最後の言葉を聞く前に、体が既に動き出していた。ラキが呼びとめている気がしたが、仮にそうだとしても止まる気はない。
手すりを飛び降り階下へ。もう一度降下し、自室へと向かう。
扉を開け放つと、部屋で掃除をしていた中年の侍女が小さく悲鳴を上げた。右手に包帯を巻いている。
「す、すいません、すぐに退室致します」侍女がそそくさと道具をまとめ、部屋を出ようとする。
「エレンはどこへ行った」その前に立ちふさがる。侍女の顔が引きつる
「エレン?誰のことでしょうか、私は存じ上げないのですが」
「ここにいた少女だ」心当たりがあったのか、目を大きく見開く侍女。
「し、失礼しました!所、将軍様がお連れした方とはつゆ知らず……」侍女はしどろもどろで、目線を彷徨わせながら汗をかき始めた。
「何処に行ったと聞いている」
「は、はい!あの、えと、この部屋を飛びだして下の階に行ったまではわかるのですが、みうしなってしまい」
「ここが俺の部屋で幸いだったな」
「え?」侍女の疑問は悲鳴に変わる。
首を鷲掴みにし、振りまわす。遠心力をそのまま投げる力に相乗させ、廊下に叩きつける。
「エレンに何かあってみろ。どこであろうと貴様を刻んでやる」侍女は頭から血を流しながらうめいた。それが返答なのか聞いている暇はない。部屋を飛び出し階段へ向かった。
「俺が思う以上にご執心でしたか。噂も何もあったものじゃないな」風のように走りぬけて行った将軍を見送り、呟く。階段に差し掛かったところで彼の姿はふっと消えた。
城の階段は廻り階段(踊り場で折り返して下る階段のこと)なので、確かにやろうと思えばできることだが、それは一階分を飛び降りるのに等しい。
それをわかっての上か、それともそんなことを考える余裕もないのか。将軍は手すりを飛び越え、階段も踊り場も通らずに階下へ移動した。
「御伽噺も馬鹿にできないかもな。死神をあそこまで魅了するあたり、魔女といったほうがいいかもしれないが」次はどうからかってやろうか。あいつのことは好きではないが(むしろ嫌いだ。あいつのせいで俺は将軍になれないし、頬の借りもある)、珍しくからかうネタができたのだから、それを逃す手はない。焦るあいつは思ったよりも面白いことが分かった。
あいつは元々無愛想だったが、二年ほど前からか、前にも増して残忍になり、人を寄せ付けなくなった。そのころからだ、『死神』などと呼ばれるようになったのは。
その名は、褒め称えていたのでも、称賛していたのでもない。
忌み嫌われていたのだ。
そのあいつが、一人の少女に取り乱している。誰かのために走っている。
「エレンちゃんには感謝しないとな」今度菓子でも持っていくとしよう。あいつをからかうついでにでも。
湿った丸い空気。獣と糞尿、餌と藁の入り混じった何とも言えない臭いが鼻を突く。頭だけを突き出してくる馬たちが、小屋に入ってきた見知らぬ者の匂いを嗅ごうと鼻を押し付けてくる。
身をよじりながら厩舎の奥へと入っていく。
みつけた。一番奥の個室に、のんびりと飼葉を食んでいる。周りより一回りもふた回りも小さいのに、やたらと堂々としているその子は、間違いなくお爺さん驢馬だ。
臭いに気付いたのか、飼葉桶から頭を出す驢馬。近付いて手を差し出すと、湿った鼻を擦りつけた挙句に涎だらけの下で舐めてきた。
柵を潜って個室に入る。臭いが急にきつくなった気がするけど、気にならない。元々厩舎に住んでいたのだから。
そう。あの人と出会うまでは。
一生ああやって暮らしていくんだと思っていた。朝早く起きて、畑のお仕事して、水を汲んできて、驢馬の世話をして、叩かれて、食べ物を探して、掃除して、蹴られて、食べ物を探して、放り出されて、腐りかけた藁の中で眠る。
不幸だとは思わなかった。普通だと思ってた。比べることはできなかった。バケモノだから、あきらめていた。
あの日、全てが変わった。わたしの狭い世界を、こわした。
オブロクさんたちが死んだ。襲われた。汚されそうになった。目の前で人が死ぬのを見た。
あの人に、出会った。
初めて、家を飛び出した。
初めて、暴力に抗った。
初めて、助けられた。
初めて、病気になった。
初めて、お薬を飲んだ。
初めて、看病してもらった。
初めて、おんぶしてもらった。
初めて、名前をもらった。
初めて、誰かと一緒はうれしいとおもった。
初めて、ひとりはさみしいとおもった。
初めて、『あの人』と一緒だからうれしいのだと、きづいた。
握りっぱなしでしわくちゃになった服を、引き寄せる。よく見なくてもわかる、染み付いた汚れ。同じ汚れが、わたしの服にもある。
わたしとあの人の、一緒に旅をした証。つながり。そう思うだけで、ただの汚れが失い難いものに感じる。
「ついてくるな」と、あの人は言った。あの人についていこうとして、初めて言われた時と同じ言葉だった。
わたしとあの人は、あの日から何も変わっていなかった。変わったと勝手に思い込んでいただけだった。自分に都合のいいように解釈していただけだった。
もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。あれはただの白昼夢で、わたしはただついてきただけで。
看病も、おんぶも、名前も、本当は何も貰ってなかったのかもしれない。わたしがただそう思いたかっただけで、そんなことは何も起きていなかったかもしれない。
わたしにあるのは、これだけ。旅の間についた服の汚れだけ。あの人と共にしたのは、そんなちっぽけなものだけ。
物音に目を覚ます。知らない間に眠っていたらしい、辺りは真っ暗で、そばにいるはずのお爺さん驢馬でさえ輪郭がぼやけている。
厩舎が何やら騒がしい。馬が興奮していななき、落ち着きなく足音を荒くする。
厩舎の入口が明るくなる。誰かがろうそくをつけたらしい。わたしが入ってきたときは頭を突き出してきた馬たちが、後ずさりして個室の壁に腰をくっつけている。
明かりが移動する。闇をかき分けて、奥へ、わたしのいる個室へと近づいて来る。
あの女の人だろうか。それとも別の人?どちらにしても、見つかったらいけない気がする。隠れないと。
でも、わたしの体は動かない。怖くて足がすくんだわけじゃない。動けないわけでもない。動く必要がない。
この足音を知っている。この歩調を知っている。動物が怯えるのを知っている。お爺さん驢馬が怯えないのを知っている。
わたしは、あの人を、知っている。
夜を被ったような髪。闇より黒い瞳。誰もが畏れる人。
「エレン」わたしを、呼んでくれる人。
あの人が、目の前に立っていた。
どうしてここが分かったんだろう。どうしてわたしを探しに来てくれたんだろう。どうしてわたしを呼んでくれたんだろう。
どうしてがいっぱい。全部知りたい、聞きたい、教えてほしい。でも、わたしにはそれはできない。
わたしに声はない。わたしに言葉はない。
だけど、今はいい。いつものそのことに悩むけど、今はそんなこと、気にならない。
だって。だって、あの人は、手を差し出している。あの時つかめなかった右手を、わたしに差し出している。
エレンを呼んでくれて、エレンの手を掴もうとしている。
エレンは右手を差し出した。あの人がエレンの手をしっかりと握った。
「もう離れるな、エレン」歩き出したあの人が、一言つぶやいた。
返事ができないエレンは、暖かい右手を、握り返した。
エネルギー切れです。どうもこんにちは、じょんです。
復帰二回目、でも前のはある程度書いておいたものなので、厳密には今回が復帰一回目といった感じです。
……なんか、キャラ崩壊してねぇ?書いていて、こいつこんなキャラだったっけと、何度頭をひねったことか。わたしの頭が崩壊しているのかもしれません。
今更ながら西尾維新にハマりました。前々からアニメは見ていたんですが、原作はノータッチでした。読んでみて後悔、もっと早く読めば、いや読まないほうがよかったのか?オタク度を加速させる本ですね、まったくもってけしからん。
ブログじゃないので、本の話はここまでにして。久々に書くと、全然進みませんね。ここまで苦痛を強いられるとは。でも書くのは楽しい、そんなジレンマ。
次回はやっと主人公たちに戻りますよ。私の中でもどっちが主人公なのかわからなくなりつつありますが。
では、次回もお楽しみに!