第十三話:帰還
巨大な質量がうなりを上げて、一瞬前に地に伏せた頭上を掠めすぎる。それは勢いを緩めることなく岸壁を叩き、大地を震わせた。轟音は谷の中に重たく響き、別の崖から小石が転がって行くのが視界の隅に映る。
その視界のほとんどを、目の前の巨体が遮る。みた目は蠍そのものだが、大きさは家ほどもある。
「今だ!行け!」ガウェインの声を聞くより先に、僕の体は走り出していた。起き上がる時間も惜しくて、地に伏せたままの低い姿勢で相手の懐に入る。
剣を胸の前に構える。狙うはガラ空きの胴体下部、そこに剣を突き上げ……。
「な……!」突然、胴体から無数の刃が生え、僕に襲いかかった。胴体と思っていたところは、畳まれたハサミだった。突き上げた剣は鋏に阻まれて弾かれた。
ハサミが出たことであらわになった腹部は白い、やわらかそうな部分で、体表を覆っている硬い甲殻らしいものもなく、明らかな弱点ではある。だが、新たに現れた十数本の鋏が振り回されて、剣を突き出しても弾かれる。
「何をもたついてるんだ!」ヘイルの怒声が僕をせかす。彼は注意をそらせようと真っ向から敵に挑んでいる。結果、岩のように巨大なふた振りの鋏を、前後左右に文字通り飛びまわってかわしている。時折隙をついて剣を振りおろしているが、岩を叩くような鈍い音がするだけで全く切れるそぶりがない。
何とか一撃を加えようと鋏を打ち払う。だが、せっかく一本の鋏を反らしても、すぐに別の鋏が、別の方向から襲ってきて、攻めているつもりがいつの間にか凌ぐのが精一杯になってしまった。
「俺がやる」いつの間にいたのか、ガウェインが脇から現れ、僕に襲いかかった鋏の一本に斬りつけた。
鋏はあっけなく切れた。
別の鋏が飛んでくる。切る。鋏が地面に落ちる。
飛んでくる。切る。落ちる。
切る。落ちる。
切る。落ちる。切る。落ちる。
切る落ちる切る落ちる切る落ちる切る落ちる切る落ちる……。
鋏に合わせてガウェインの腕が、双剣が奔る。その度に鋏がひとつ、また一つと落ちてゆく。
気がつけば鋏は全て斬り落とされ、短くなった脚が虚しく宙を掻いていた。
「今だ!」剣を突き上げる。今度こそ剣は弾かれることなく胴体を貫いた。柄を握る手には肉を裂く時よりも柔らかな感触が伝わり、次いでぬめりとした温かさが手を湿らせた。
思わず剣を引き抜く。刺した個所から、見るからに粘度の高い白い液体がぼとぼとあふれ出し、僕らの上に降り注いだ。
「ぬわぁ!」ガウェインが甲高い悲鳴を上げる。視界が白に埋め尽くされ、魚が腐ったような生臭さが鼻をつく。僕らは体液の気持ち悪さをいち早く取りはらおうと、顔を拭った。その一瞬が命取りになった。
広がった視界の隅に、影が揺らぐ。
「あっ」
「やば」僕らの声とほぼ同時に、蠍の巨体がのしかかった。
「……臭い」化物の巨体から這い出てきた僕らに対して、ヘイルの第一声はそれだった。後ろで、クリスたちも顔を歪ませ頷いている。僕らは反論せずに黙ったまま、タオルでべたべたの体を拭いた。
「それにしても、君の剣はそんなにすごい業物だったっけ?」若干臭いが残ったものの、大方体液をふき取ると、動かなくなった巨大蠍とガウェインの双剣を交互に見比べた。
「ああ、これか?親父のと取り換えたんだよ」ガウェインは自慢げに双剣を掲げた。
それは、彼が使っていたものと刀身は同じくらいだった。だが、刃自体が黒く、よく見ると溝が彫ってある。幅が葉のように薄いのにもかかわらず、だ。
「すげえだろ?こんだけ薄いのに、強度は前のと比べ物にならないんだぞ。ちょっと重いのが難点だけどな」確かに、これだけ薄ければあっという間に刃毀れしてしまうはずだ。しかも、さっきの相手はヘイルの剣も入らない硬い甲殻を持っていた。だが、この剣は刃毀れするどころか鋏を切り落としている。
「見せてくれ」ヘイルが僕らの間に割って入る。
「いいけど。盗むなよ」
「するか!いいから貸してみろ」差し出すヘイルの手に、ガウェインは何やらブツブツ呟きながらも黒い短剣の一方を手渡した。
ヘイルは渡された短剣を両手で目の高さに持っていき、厚さを調べると、刀身を指でなぞり、軽く振って重さや重心のバランスを確かめたりした。
「ふむ……」何やら考え深げな表情をしたかと思うと、自分の剣を抜き出し、短剣で刀身を軽く擦るように切りつけた。
ヘイルの剣に小さな傷がついた。
「やはり。この薄さでこの重さ、鋼鉄の剣にあっさりと傷をつける切れ味。間違いなくアダマントだな」
「何だって!?」ガウェインは驚愕の声を上げると、ヘイルの手から短剣を取り上げた。
「アダマントって何だい?」同じ驚き方をされるとわかりつつも、尋ねる。案の定、皆アダマントだとわかった時と同じくらい僕がそれを知らないことに目を丸くした。
「通称黒い金と呼ばれる希少金属だ。同じ重さの金と取引されることからそのあだ名がついた。最も強い金属の一つだが、加工が非常に難しく、通常の金属加工は行えないと聞く。以前一度だけ見たことがあるが、これほど精巧に作られてはいなかった。それをまったく同じのがふた振り、値をつけることができるかどうか……」言いながら、ガウェインの短剣に目を移すヘイル。
「な、なんだよ」ガウェインは短剣を腰の後ろに隠した鞘におさめた。
「お前の父親は、一体どうやってそれを手に入れたのだろうな。」
「さぁ。誰かから譲り受けたとは聞いたけど……。」言葉を途中で区切ったまま、ガウェインの視線が一点に固まる。巨大な蠍の死体の先、峡谷を登る坂に。
嫌な予感がしたのは僕だけではなく、誰も彼もが返事しないのを尋ねないまま、その視線の先を見る。
「……うそでしょ?」
「僕も嘘だと思いたい」
「奇遇だな、私も同意見だ」
「あんたと同じ意見になるとは思わなかったよ」
「ど、どうしましょう……?」
坂の頂上、曇天の空とかれた大地の境界に、蒼が立つ。それは群れを成して坂を下り、或いは崖を這い、こちらに向かってくる。巨大な鋏をカチカチと鳴らして近付いて来る。巨大な蠍が群れをなして迫りくる……!
「逃げるに決まってる!走れー!」叫ぶと同時に、一目散に来た道を逆戻りする。後ろから蠍がガサガサと地面を擦りながら迫ってくるのが聞こえる。
アングマルの地形は今僕らのいるような、下り坂と上り坂だけがあるような小さな峡谷が乱立している。うまくすれば、蠍を巻くこともできるだろう。だが、確実に旅の行程は伸びてしまう。
グラムとの距離はいつ縮まるのだろうか。息を切らして坂を駆け上がりながら、ふとそんなことが脳裏をよぎった。
くらいかぜが、荒れ地を泣いて吹き抜ける。歩くたびに削れていく地面も一緒に運び去って。前を歩くあの人の地面からも、エレンと同じように茶色い煙が舞う。
病気はどこかへ行ってしまった。きっと、苦いお薬が連れて行ってくれたんだと思う。久しぶりの元気な体は、羽が生えたように軽くて、どこまでも歩いていけそう。火みたいに熱かった頭もすっきりして、ちゃんと考えられるし、今が夢かどうかもはっきり分かる。空気は少し冷たいけど、そんなのはへっちゃら。知らないうちに、前に来ていたボロボロの服から、あたたかな、分厚い服を着ているから。
それなのに。それなのに、エレンは元気が出ない。病気が治って、体が軽くて走り出したい、って言っているのに、なんだか一歩一歩歩くのも嫌で、地面に座り込んでしまいたくなる。
どうしたんだろう、私。
削れる地面をぼんやりと眺めていた顔を上げて、あの人の背中を見る。
堂々とした歩き方。ゆったりしていて、すごく力強い。おじいさんはふらふら、ゆらゆらして歩いていて、風が吹いたら倒れそうだった。あの人の歩き方は一歩一歩に力があって、何があっても止まらない。どんなに重いものを背負ってたって、きっと同じ歩き方をするのだろう。
広い背中。あの背中が、エレンを背負っていた。今でも思い出せる。凍えそうな体に、背中のぬくもりが気持ちよかった。小さな揺れが、なんだか懐かしい気持ちにさせてくれた。あの人に触れているだけで、なんだかとっても……。
その背中が、遠い。
あの人はいつものように。今までと同じように、エレンの三歩前を歩いている。エレンは三歩後ろから、驢馬を引いて歩いている。
一歩が、重い。あの人が、遠い。
振り返ってくれないかな。またあの笑顔を見せてくれないかな。名前を呼んでくれないかな。
そんな思いであの人を見つめる。思えば叶うんじゃないか、なんて考えたりする。そんなことはあり得ないと知っているのに。
裾をつかんでみようかな。そしたら振り返ってくれるかな。
並んで歩いてみようかな。そしたら見てくれるかな。
手をつないでみようかな。そしたら温かくなれるかな。
背中に抱きついてみようかな。そしたら名前を呼んでくれるかな。「エレン」って、呼んでくれるかな。また笑ってくれるかな。
でも、できない。
伸ばそうとした手が、上がらない。
並ぼうとする足が、重たい。
あの人の手が、つかめない。
あの人の背中に、届かない。
あんなに近かったのに、どうしてだろう、今はこんなにも遠い。まるであの時のことが、エレンの夢だったみたいに。
もしかして、本当に夢だったのかな?柔らかなベッドも、苦い薬も、頭を撫でてくれた手の感触も、背中の温もりも、名前も、笑顔も。ぜんぶ、ぜんぶ夢だったのかな?ぜんぶエレンの夢で、エレンは私じゃないのかな?
私はエレンじゃないのかな?
確かめたい。あの人に聞いて、確かめたい。あの日あったことは本当だったのか。
私にエレンをくれたこと、ほほ笑んでくれたこと。
エレンに、私に聞く言葉はない。
聞くのが怖い。確かめるのが怖い。否定されたらどうしよう。並んでも無視されたら、掴んでも振り払われたら、抱きついて怒られたらどうしよう。
否定されるのが怖い。怒られるのが怖い。だって、それはあの日のことを否定されることだから。あれはただの夢だって言われるのと同じだから。
胸の中で何かが痛む。もどかしいくらいに微かな刺激なのに、痛みはじわじわと広がっていく。体はあったかいのに、中が冷たさに満たされていく。
じわじわ、ぱきぱき。じわじわ、ぱきぱき。
これが何なのか、私にはわからない。わかるのは、痛くて、寒いこと。
あの人は、わかるのかな?これが何なのか、知っているのかな?
聞いてみたい。あの人に伝えたい。私の痛みのこと、私の寒さのこと。教えてほしい。
私には聞く言葉がない。あの人を振り向かせる声がない。
私には、ただあの人の後をついていくことしかできない。
うつむいていたら、いきなり目の前にあしがあった。私はあわてて立ち止まった。危うくあの人にぶつかるところだった。
「着いた」一言、突然立ち止まったあの人が呟いた。私は何の事を言っているのか(そもそも、私に言った言葉なのだろうか)分からず、あの人の影から身を乗り出した。
数歩先は崖になっていて、ここからちょうど崖の下を見下ろせた。
そこには、見たことのない大きさの街があった。それは、夜には見えなくなってしまうのではないかと思うほど黒い街だった。黒い城壁、黒い屋根、黒い城。城壁の上や街を歩く人さえ黒く見える。大きな堀が掘ってあるのに、水はなく、空っぽだ。城壁は奇妙な形をしていて、何のためかいくつも出っ張りがある。門は開け放たれたままだ。夢うつつで通ったどこかの街と違って、門で見張っている人もいない。なのに、なんだかはいりづらく感じる。人だけじゃなく、全てのものを。どうしてそう感じるのか分からないけど、こうして眺めている間にも、入って行く人は一人もいない。出て行く人も、一人もいない。
何もかもを拒絶する、冷たい街。それが、この人の街。この人の故郷。
「フードを被れ」何日かぶりに少女に声をかけると、自らもフードを目深に下ろした。狭まったフードの視界には、見慣れた黒い壁が全体を覆い尽くし、正面に開け放たれた門が映る。崖から見下ろした時は、街にはいるものは一人もいなかったが、今は近隣の村から来たのか、細い影を伸ばした者たちがぽつぽつと門に吸い込まれていく。
門番はいない。正確には門の上にいるのだが、彼らは入ってくるものをいちいち見定めようとはしない。その必要がない。この国は、建国当初から一度も、人間に攻め込まれたことがない。
それでも、この街には堀が、城壁が、戦うための兵士が、武器が必要不可欠だ。それは戦時中だからではなく、もっと身近な問題のため。頻繁に現れる化け物から身を守るために、必要なのだ。
それは城壁にも色濃く出ている。いくつかある出っ張りは、城壁を這い上る化け物を拒むため。出っ張りで動きをとめているすきに、城壁の溝に油を流し込む。それは出っ張りに遮られずに城壁を伝うから、出っ張りに隠れた化物にも攻撃することができるようになっている。
影と共に門をくぐる。作物の見当たらない小さな農地を足早に通り抜けると、モノクロの世界に入り込む。
ユピテルの貧民街よりいくばくかましな作りの建物が、肩を寄せ合うように軒を連ねる。城までの一本道には露店が構えられ、少ないながらも人々が行き来している。
住居、露店、人々。それらすべてが、単一色に、黒に統一されている。家の壁も、屋根も、店の道具も、衣服も全て黒。濃さや若干の色合いはあれど、ここに色はなく、無機質な黒が支配している。
それは鉄の色。鉱山資源は豊富にあるアングマルは、生活に鉄を大量に使っている。住居の壁や屋根、城壁でさえ、鉄鉱石が使われている。
それは獣の色。紡績産業が存在しないこの国の衣服のほとんどは、獣皮をなめしたものだ。この国の生き物は黒色をしているものが多い(聞いた話では、弱い日差しを少しでも体に取り込もうとした結果らしい)。自然服も黒くなる。
外套のひもを締める。下にきている服は白地も混ざっている。目立つようなことはしたくなかった。
後ろを振り返る。少女が黙したまま、驢馬を引きずり歩いている。俯いているので表情はわからない。
白銀の髪に蒼と碧の瞳だ、否応なしに周囲の視線をかき集めてしまうだろう。それらが隠れてしまっているのは、非常に都合がよかった。
……なぜ、俺はこんなに見つかることを気にしているのか。ここは自国だ、もう敵地ではない。胸を張って町中を歩いていいのだ。こそこそと罪人のように振舞う必要などない。
だが、俺は今もこうして隠れるように通りを歩いている。何故、と問えば、答えはすぐに返ってくる。
それは、できる限り早く城に戻りたいから。死んだはずの男が帰ってきたとなれば、大騒ぎになる。そのせいで王への報告が遅れるのは困る。
単純な羞恥でもある。仮にも一国の将軍である自分が味方に何も告げないまま敵国に長期間潜りこんだ挙句に何の結果も上げられないまま、おめおめと舞い戻ってきたのだから。
それらの気持ちは嘘ではないと断言できる。だが、つらつらと理由が頭に浮かんでくるのが、まるで何かをごまかすために言い訳をしているように思えてならない。誰に……?他人に?自分に?
露店通りに入ると、道行く人も増えた。イグリスほどではないが、絶え間ない人の流れがある。なのに、活気はなく、どこかさびしささえ覚える。行き交う人々は俯き、雨も降っていないのにフードを被っている。商人さえ言葉少なにものを売っている。子供はいなかった。
まぶしい太陽。人の熱と呼気で満たされた息苦しさ。絶え間ない掛け声、値切りの論争。走り回る子供たち。絶え間ない笑い声。活気ある市場。灯の絶えない街。騒がしい酒場。満天の星空。
広大な高原。命溢れる森。緩やかな丘。馴らされた道。和やかな朝。穏やかな夜。
襲われることのない、敵への恐怖におびえることのない日々。
名は体を表すとはよく言ったものだ。サン国は、その名の通りまぶしい国だった。憎いほどに。
露店通りを抜けると、目の前には目指すものがそびえたっていた。黒く、飾りのない四角い建物。王が鎮座する、不落の城。数か月ぶりにみるそれに、感慨を沸かせている余裕はなかった。
「止まれ」城門よりもはるかに小さな、それでも馬車が通れるほどの門にいる門番が二人、槍で壁を作るようにして立ちふさがる。顔全体を覆っている兜の隙間からのぞく目からは、殺意しか感じない。
その視線に、誇りを覚える。兵士とはかくあるべきだ。あの弛緩しきった国に、ぎらついた目をした兵士は一人もいなかった。そんな国に負ける道理はない。
「王に謁見したい。通してくれ」
「何者だ。顔を見せて名を名乗れ」門番が有無を言わせない口調で命ずる。逆らえば、敵対者とみなされるだろう。そう訓練されている。そう訓練したのだから。
フードを取る。門番は予想通りの反応をした。殺意は驚愕に代わり、口が大きく開かれる。
「サー・グラム、ただいま帰還した」
皆さん、お久しぶりです。長いようで短い夏を乗り越え、戻ってきました。予定していたより遅い復活になってしまいました。たいしてうまくない腕も鈍ってしまいましたが、以前に増してガリガリ書いて、皆さんが楽しめる小説を書いていきますので、よろしくお願いします。