第七話:足止め
雨を嫌う人がいるが、その感情はよくないと僕は思う。なぜなら、雨は恵みだからだ。大地を潤し、海を満たし、作物を育てる。そして僕らはその恩恵にあずかって生きている。僕らは雨なしで生きていくことはできないのだから、むしろ雨を歓迎すべきなのだ。
そう頭では思っていても、旅人である僕らにとってはやはり障害となるもので。
「……」さっきから黙ったままその場をうろうろする人もいるのである。
「……もう、うろちょろしないでくれない!? 焦ったって雨は止まないのよ!」クリスは座っている僕らの中で一人、洞窟の入り口で歩きまわっているヘイルにどなった。
「焦らずにはいられるか! グラムは先を行っているというのに、我々はこんなところで足止めを食らっているのだぞ」対するヘイルも、同じ口調で食って掛かる。
「仕方ないじゃない。雨、降ってきちゃったんだから。こんな中歩いてたら風邪ひいちゃうわよ」
「そんなことはない。これくらいで風邪をひくような鍛え方はしておらん」
「私たちが風邪ひいちゃうの! こんな雨だもの、あっちだってどこかで足止めを食らっているはずよ」クリスは毛布の中から片腕だけ出して外を指差した。
ヘイル皇子の馬が何とか通れた、裂け目のような入り口から見える景色は、滝となって流れる雨によってぼやけて数メートル先も見通せない。風がないのが幸いだが、洞窟を見つけるまでのほんの少しの間にびしょ濡れになってしまい、さらに北の冷たい空気が冷えた体にまとわりつき、体温を奪っていく。カバンから取り出した毛布も少し湿ってしまっていて、体を温めるには至らない。マリアさんなどは頭から毛布をかぶって縮こまっており、先ほどから何もしゃべらない。しかも、洞窟が少し傾いているせいで、洞窟の淵に流れ込んだ雨が小さな川となっていて、そこから洞窟の空気が湿って行くのが肌で感じられる。その中でヘイル皇子だけが、毛布をかぶらずに行ったり来たりしていたのだ。
「それこそあり得ん。グラムが雨程度でその足を止めるはずがない。前にも話した通り、奴はアングマルの過酷な環境で育ったのだぞ」壁によりかって話すヘイルの口からは、言葉が白くなって出てきている。
「それで、その過酷な環境で育った相手と、こんな雨の中出くわしたら場合、あなたはどうするんだ?」隙間から入る冷気を防ごうと毛布を抱きよせながら、何気なく聞いてみた。
「当然闘う。貴様との約束を守ってからだがな」ヘイルは胸を張って答えた。
ずっと腕を組んだままでいるのも相まって、余計に自信過剰に見える。が、どうやら約束は覚えていてくれたらしい。
「目の前がかすむほどの雨の中で、ね。ついでにいえば、地面も相当ぬかるんでいる。重い装備のあなたには余計不利だと思うけど」
「ぐ……」痛いところをつかれたのか、反論しないヘイル。彼もわかってはいるのだろうが、焦る気持ちはそうそう抑えられるものではない。それが仇敵とあれば、なおさらだ。
「グラムは僕らとそう離れてはいないと思う。あ、いや、近づいてるかどうかが分かるわけじゃないんだ、僕にわかるのはグラムのいるだいたいの方角だから」目の色を変えたヘイルに一応断りを入れておく。
「でも、あいつは街道を通らないはずだ。極力人に会うのは避けるはず。そうすると、街にも当然入らないし、近づくこともないからかなり迂回する必要がある。先を歩いてはいても、あいつは僕らの倍以上の距離を歩くことになるだろうから、十分追いつけると思うんだけど、どうかな」
「確かに貴様の言うことも一理はあるが……」同意はするものの、納得はできないらしい。
「……ねぇ。そういえばあいつ、服着てるのかしら?」
「へ?」突拍子もない質問に、すっとんきょんな声を上げる。
「ほ、ほら、あいつって、逃げ出した時裸だったじゃない。人に会わないで、街にも入らないんだったら、どうやって服とか手に入れるのかな、って」
「ああ、成程。確かにそれは考えなかったな。裸でいるってことはないと思うけど……」
「奴は服を手に入れているはずだ。食料その他とな」
「どうしてそんなことが分かるのよ?」とクリス。僕自身、ここ数日でヘイルに対して遠慮のない態度を取るようになったが、彼女ほどではないと思う。というより、クリスは会ったときからこんな態度で接している。僕が知らないだけで、二人の間に何かあったのだろうか。
「それはだな――――――」ヘイルは簡単に自分の考察を述べた。
農村ラグに運ばれた死体の傷から、相手はグラムだということ。食料と服がなくなっていて、驢馬もいなくなっていたこと。
「日にち的にも、グラムがやった可能性は高い。あれほどの芸当ができる奴など、そうはいない。いたとしたら、すぐにでも噂になるはずだからな」
「じゃあ、グラムはその盗賊が盗みに入っているところに偶然居合わせたってことか?」
「偶然かどうかはわからんがな。奴のことだから、何か異常があることぐらいは入る前に気付いていただろう」
「どっちにしても、その盗賊たちはついてなかったってわけか」老夫婦二人を殺す相手に同情するつもりはないが、何と間の悪いやつらだろうか。
「行方不明の女の子は? 確か、二人は小さな女の子を雇っているって聞いたけど」とクリス。
「おそらく生きてはいまい。盗賊に殺されなくても、グラムが見逃すはずはないだろうからな」淡々と語るものの、眉間には皺が寄っている。
「でも、どうして見つからないんだろう? その子だけ別のところに埋める必要はないだろう?」
「そんなことは私にはわからん。私は探偵ではないからな」
「案外、一緒にいるのかもしれませんね」マリアさんが毛布から頭だけをひょっこり出して言った。肩をすぼめて極力隙間を作らないようにしている。
「どうしてそう思うんです?」ぼくは単純な好奇心から尋ねた。そんな結論に至る考えなど、思いもつかない。
「えっと、盗賊が来たのに、家の中はきれいなんですよね? だったら、きっと誰かがお掃除したんですよ。それを見た彼が、『この子は使えるな』って、お供にしたんじゃないですか?」閃いた、という表情を浮かべ、親指と人差し指を顎にかけるマリアさん。その時のグラムを表現しているつもりなのだろうが。
「一緒に? 奴が少女を生かすメリットはない。何より、少女の手を引いて歩く姿など、想像すらできん」ヘイルのその一言で、この話題は終わった。これ以上続けても、答えなど出るはずはない。
何より、ヘイルの言う通り、僕らが追いかけている相手が、少女の手を引いて歩く姿を、誰も想像できなかったのである。
昼前に降り出した雨は、今や視界を遮るほどの大雨となって、針と化して体に突き刺さる。外套はもはやその意味をなさず、衣服はただの重りとなって体にまとわりつき、泥に沈む足にもっと深くというかのよう。吐く息は白く、寒さを通り越して、鼻や耳が痛みという器官に変わっている。
この国に来てからというもの、どうも水に運がない。あの皇子には崖から川に突き落とされ、城から脱出するために堀に飛び込み、川から這い上がれば迎えたのは雨。そして今、こうして大雨が俺を苦しめている。俺は水難の相でも出ているのだろうか。
それでも足取りは変わらず、ただ黙々と歩き続ける。楽とは到底呼べないが、慣れている。アングマルで育つということは、劣悪な環境で生き延びることが絶対条件である。大地が流れでもしない限り、足を止めはしないだろう。
「ん……?」その足を、とめた。視界をかすませる雨の先に、何かが見える。
目を凝らすと、下方に城壁が見えた。ここは小高い丘になっているらしく、ちょうど街を見下ろす格好になっている。この雨のせいで目指す方向より西寄りに進んだらしく、近付き過ぎてしまったようだ。
軽く舌打ちをして、進路を変える。無駄に距離を増やしてしまったことになる。それはつまり、この雨の中でさらに歩かねばならないことになる。
激しい雨音が鼓膜を満たす中、微かだが、音が聞こえた。ものがつぶれるような、べシャリという音。たとえるなら、トマトを地面にたたきつけた時のような。湿って、水気のあるものが跳ねた音。
後ろを振り返る。
地面に、いや泥に突っ伏している。驢馬の手綱も放したまま、少女はピクリとも動かず、顔を泥に沈める格好で、地面に倒れ伏している。
少女のもとへと歩く。靴が泥と絡み合い、音を立てる。その音が聞こえるほどの距離にいるのに、少女は動かない。俺が近づいてきても、顔を上げない。
足で小突く。少女は動かない。さらに力を加えて小突くも、起き上がろうとしない。
襟をつかみ、無理やり立ち上がらせる。起き上らせた少女の前面は泥につかってしまって、もはや泥を着ているかのようだ。
だが、そうしても少女の足に力は入らず、膝が折れたままぶらりとしている。
呼吸は荒かった。全力で走っているかのように速く、幼児のように微かだ。雨は冷たく、俺でさえ指先はかじかんでしまっているというのに、襟を掴んだ手に触れた首筋は熱く、焼き鏝のようで、思わず手を離しそうになった。
顔を覆っていた泥が雨で洗い落とされると、いつもは雪のように白い顔が、紅に染まっていた。眉は苦痛に耐えるように下がり、微かに開かれたまぶたから、虚ろな目で俺を見つめている。色違いの瞳もくすんで灰色にみえる。
「立って、歩け。でなければ置いていく」少女は微かに頷いた。
俺は手を離した。少女は倒れるように驢馬の体にもたれかかった。そのまま、カタツムリのようにゆっくりと驢馬の首筋に手を這わせ、手綱をつかんだ。
俺は踵を返すと、歩き出した。後ろで、少女が一歩目を踏み出す音が聞こえた。
だが、それだけだった。二歩目は聞こえなかった。代わりにトマトをたたきつけた音がした。
驢馬へと歩みより、荷物を取ろうと腕を伸ばす。驢馬は低くいなないて首をそらし、後ずさる。もう一度手を伸ばす。また後ずさる。手を伸ばす。後ずさる。
それを何度繰り返したか、結局俺は手綱をつかんだ。驢馬は首をふるって振り払おうとしたが、逆にこちらが驢馬の動きを封じる。
「動くな。荷物を取ったらお前はもういらん、どこへなりといけ」通じないと知りながら、驢馬に語る。当然、そんな言葉が通用するはずもなく、驢馬は何とか手を振りほどこうとやっきになっている。
不意に、それが不自然に感じた。なぜ、逃げ出さないのか。こいつは俺を拒絶しながら、この場を去ろうとしない。決して触れさせないくせに、離れてはいかない。こうして振り払おうとしている今も、動いているのは首だけで、足を踏ん張って逃げ出そうとはしない。
足元を見下ろす。地面には、俺の歩いた跡が泥にくっきりと残っている。それは円を描いて、一周して元の位置に戻っていた。
倒れた少女を中心にして。
予想できたことだ。こいつが俺についてきたときから、予想していたこと。俺の旅にはついてこれない。ただの少女が、行軍とも呼べる俺の旅についてこれるはずはない、と。確かに、思ったよりは長かった。もっと早くに音を上げるかと思っていたが、少女は存外にしぶとく付きまとった。それだけの精神力が、こいつには備わっていた。
なければ生きていけなかったのだろう。体に刻まれた傷の数がそれを物語っている。
だが、結局、こいつはこうして倒れ伏している。旅は少女を弱らせ、そこに病魔が付け込んだ。何の病気なのかはわからない。熱病か、ただの風邪か。どちらにしても、少女は動くことができない。放っておけば死ぬだろう。俺には関係のないことだが。
むしろ、好都合だ。こいつは枷でしかない。荷物持ちにとついてこさせたが、進む速度は遅くなった。国境を超えるにも、こいつは邪魔になるはずだ。
ちょうどいいのだ。そう、ちょうどいい。ここで置いて行くのが賢明だ。雨の中、見殺しにして置いて行くのが、正しい選択なのだ。
それが、死神グラムの取る行動だ。
扉をたたく鈍い音に、書物から顔を上げた。
「はて、誰かなこんな時間に」今日は閉めたというのに、一体だれだろうか。背丈より少し上に設けられた窓から外を眺める。真っ暗でなにも見えず、窓をたたく雨粒だけがろうそくの光を反射している。雨のために時間はよくわからないが、日はとっくに沈んでいるのだろう。
そんな時間に尋ねてきた誰かが、さらに扉を叩いている。先ほどより激しく、強く。
「今日はもうおしまいだよ。看板が見えなかったのかい」部屋から首だけ出して、廊下から扉に叫ぶ。しかし、扉をたたく音は変わらない。
「分かった、今あけるよ」
仕方なく部屋を出て、扉へと向かう。かんぬきを抜き、扉を開けようと取っ手に手をかける。
が、その手が取っ手に触れる前に、扉は弾かれたように開いた。
扉の前に立っていたのは男だった。擦り切れた外套は水をかぶったようで、ぽたぽたとしずくが垂れている。フードを深くかぶっている上、外が真っ暗で顔がよく見えない。
男は扉を開いたのと同じ速さで家の中へと入りこみ、素早く後ろ手に扉を閉めた。
「な、なんだいあんた。勝手に入らないでくれ」抗議をしながら、私は後ずさった。
いつかどこかで読んだことがある。達人は、見ただけで相手の強さが分かると。それは、人にはオーラのようなものがあり、強い者ほど、そのオーラが濃いのである。そのオーラは普通の人には見えないが、達人ともなると見えるのであると。
私は生まれてこの方武術には全く関わったこともないからそんなものは見えないし、信じてもいなかった。
だが、今は信じる。今、目の前にいる男は、一目で危険だとわかる。
オーラなんてものは見えない。だが、体が、心がこの男は危険だと訴えかける。抗議の声はしぼんでいき、最後には自分の耳にも聞き取れないほどだった。下がろうとする足は固まって動かない。
蛇に睨まれた蛙とは、今の私のことだろうか。逃げ出したいのに、体は全く動かなかった。
「おい」今まで黙っていた男が、おもむろに口を開いた。
「お前は医者だな」
「……は、はい、その、確かに私は、医者ですが…この街には他にも……」からからになった口からようやく絞り出した声は、かすれ、震えていて、とても自分の声には思えなかった。
男は突然家に上がりこむと、泥にまみれた靴で容赦なく廊下を歩き回りながら部屋を一つづつ覗き、診察室へと入って行った。
「だ、だめですよ! 靴の泥は落として!」あわてて男の後を追い、診察室に入る。男はベッドに屈みこみ、腕に抱えたものを横たわらせようとしていた。
その時になって、やっと気付いた。男は、両腕に女の子を抱えている。男と同じような、それよりもはるかにボロボロの外套を着ている、小さな女の子。
男は女の子をベッドに横たわらせた。それはとてもぎこちなく、慣れない手つきだったが、この上なくいたわりがあった。今まで飛び込みで病気の子供を抱えた親が来たことがあるが、その親よりも、ずっといたわりのある仕草だった。
その姿を見て、男への恐怖が薄れた。彼は、娘を案じる父親で、その鬼気迫る姿に圧倒されていたのでは、と。そんな幻想まで抱いた。
だが、それは脆くも崩れ去った。振り返った男は、先ほどと同じ恐怖で私を縛った。
「こっちに来い」私は呼ばれるまま男のところへといった。近付くのが嫌なのに、従わなかったなどうなるか怖かった。
男はベッドの少女をさした。横たわる少女は泥まみれで、男よりも濡れそぼっている。呼吸は浅く早く、せわしい。頬は赤いのに、顔全体は青ざめている。額に手を当てると、熱さに思わず手をひっこめた。間違いない。
「こりゃ炎の病だ。森の深いところに出る蚊に刺されるとこうなる。普通は平気だが、極端に体が弱っているとかかっちまう」
「そんなことはどうでもいい。治せるのか、治せないのか」
「さぁ、どうだろうね。薬は高価だし、この子が病気に耐えられるかどうか……」それ以上はしゃべれなかった。
血が、凍った。見えなかった。男が動くところも、それが出されるところも。
いつの間にか、男は黒い剣を抜いていて、それが私の首筋にぴたりと当てられていた。
「治すか、死ぬか。どっちだ、選べ」男は感情の無い声で告げる。触れているだけなのに、剣は私の肌を裂いた。そこから血が流れる。それと同時に、もっとほかの、はるかに大事な何かが流れ出す、いや、すいだされていく。その未知な感覚は、私の手足の力を奪って行く。
私は恐怖した。得体のしれない感覚に恐怖した。
それをもたらす黒い剣に恐怖した。
だが、何よりも恐ろしいのは、男だった。眼力とか、声とか、容姿、振る舞いなどではない。ただ男が怖かった。男という存在が怖かった。
「わ、わかった、治す、治すよ」しばしの沈黙の上、なんとかそう答えた。
「そいつが死んだら、お前を殺す」有無を言わさぬ声で付け加えると、男はゆっくりと剣を下げた。その間も、私から目を離そうとはしなかった。
男は腕をおろしきると、部屋を後にしようと歩き出した。剣はいつの間にか消えていた。
「ど、どこへ行くのかね」
「服とタオルを」誰の、とは言わなかった。おそらく、私のを勝手に使うのだろう。男には小さくてとても着れないが、女の子にはちょうどいいかもしれない。なにしろ私は、街の人に「小人」と呼ばれるほど小さいのだから。
男が廊下に消えて行くのを見送ると、急に部屋が明るくなった気がした。私は知らず握りしめていたこぶしをゆっくりと開いた。そして、疲れた足取りで薬が陳列されている棚に行き、炎の病に効く薬を探した。
薬は棚の奥で埃をかぶっていた。この薬は、今はもう出回っていない。この病にかかるものは、もういないからだ。だから高価。特別な材料で作られてはいないが、希少という点で高いのだ。
「それにしても、なぜそんな森の深くまで」考えようとして、やめた。好奇心は身を滅ぼす。世の中には、知らないほうがいいこともある。
それでも、考えてしまう。あの、尋常でない男にここまでさせるこの少女は、一体何者なのか。
どうも、じょんです。すいません、だいぶ更新が遅れました。
実は一週間ほど実家に帰ってました。残りの一週間は……すいません、さぼりです。
先日、友人から「小説書き終わった!」というメールが届きました。出版社に送る小説を一月末からかき始めていたそうで、文字総数約7万字だそうです。自分は「ひと月でできたらなんか祝ってやる」と言っていたのですが、まさか本当に終わらせるとは……。彼のペースでいけば、この小説はとっくに終わっているでしょうね。少しは見習わねば……。
次回はどうしようかちょっと考え中です。というより、どっちにしようか、というところなんですが。とりあえず、頑張ってみます。では、次回もお楽しみに!