第二話:坂
空は青く、突き抜けるほど深い。大雨から一転して、むかつくほどの快晴が枝葉の間から垣間見える。濡れた外套はとうに乾き、今は時折吹きぬける風に、薄っぺらな紙のように裾をひらつかせている。
物思いにふけりながら足を止めていると、激しい息遣いが耳にうるさく響いた。ちらと後ろを振り返る。
そこには、白い息を幾度も吐き出している少女の姿があった。
少女は額の汗を袖で拭いながら、歩こうとしない驢馬を力いっぱい引っ張っていた。俺が故郷をふと思い出すほどの寒さを感じているのに、少女は汗までかいている。
今俺がいるのは、階段が必要と思えるほど傾斜のきつい森の中だった。木々は日差しを隠すほど空を覆っており、森の中は湿っぽく、雨の中にいるようなにおいがした。地面はぬかるみこそしていなかったが、時折足の下の土がボロボロと崩れることがあった。それでも、俺にとってはなんでもない。故郷には、もっと険しい道がいくらでもある。そのおかげでアングマルの兵士たちは行軍に強い。この国の兵士たちよりもはるかに長い距離を一日に進むことができる。
だが、少女には険しいようだった。それに加えて、驢馬が足を止め始めた。重い荷物に、連日の行軍。年老いた驢馬には過酷すぎる旅だったのだろう。動物の感情などわからないが、俺でもはっきりとわかるほど、
「歩きたくない」といった顔を驢馬はしていた。妙に人間くさい顔で、眉を寄せている。
それでも少女は坂をのぼりはじめてからずっと、驢馬を引きずるように手綱を引っ張っている。一歩踏み出し、引き寄せる。一歩踏み出し、引き寄せる。それを何十回、何百回と繰り返し続けていた。その度驢馬は、仕方なさそうに一歩ずつ前に進んでいた。
と、少女の足の下の地面が崩れた。バランスを崩し、前につんのめる。少女は足を踏ん張ることもできずに、顔から地面にぶつかった。
少女がゆっくりと立ち上がり、湿った土が付いた服をはたく。服には、黒いしみが薄く広がった。汗と土が混じり合い、顔は汚らしく、浅黒くなった。
それでも少女は、泣きだすこともせず、不満も言わず、表情すら変えなかった。少女は驢馬に近付くと、荷物をおろした。既に自分のカバンを背負っているのに、さらに食料やらが入ったカバンも背負った。そして驢馬を引っ張り始めた。
驢馬はさっきよりも踏ん張らずに歩くようになった。その分少女の負担はいや増した。五歩歩いて、少女はまた転んだ。しかし、少女は先ほどより素早く立ち上がると、また歩き始めた。息を切らし、驢馬の手綱を背負うように引っ張りながら。また少しも進まないうちに転んだ。起き上ってみると、服はもう真っ黒で、顔も泥を浴びたような色になっている。
少女は、黙々と歩き続けた。俺も上り始めた。転ぶこともなく、息を切らすこともなく、平坦な道を歩くように。
少女が倒れこむようにして坂の上まで登ってきたとき、日はすでに傾いていた。少女より少し遅れて、驢馬がゆっくりと登ってきた。俺は一本の木に寄りかかっていた。少女は歩き出そうとして、転んだ。ゆっくりと立ち上がったが、足は生まれたての子羊のように震えていて、今にも倒れそうだ。
俺は木から背中を離すと、先へと進んだ。少女がふらつきながらついて来るのが分かった。
数歩歩いて俺は足を止めた。大した差はないが、他と比べると木がまばらで、多少開けた場所だった。その中心ともいうべきところに、俺のカバンが置いてある。カバンへと歩いていく。
「今日はここで野営する」少女に振りかえりもせずに言うと、カバンから水筒を取り出した。まだ半分以上残っているそれを、少女に向かって放る。少女はよろめきながらあわてて受け止めた。
「水を汲んでこい。ついでにその汚らしい顔を洗ってくるんだな」俺は右手のほうをさした。かすかに水の流れる音がする。少女は疲れきった顔でゆっくりとうなづくと、ふらつきながら音のするほうへと歩いて行った。
少女の疲れ切った後姿を見送ると、なんとなしに上を見上げた。日は傾いていた。だが、夕ぐれにはまだ時間がある。完全に沈むまで進もうと思えば、まだそれなりの距離を稼げるはずだ。
だが、しなかった。いつもなら、俺一人なら確実にそうしただろうに、俺はここでとまることを選択した。なぜか。そんなことはわかっている。これ以上少女は歩けないと判断したからだ。あの様子では、立っていることすらやっとだろう。
違う。問題はそこではない。少女が歩けないのなら、置いてゆけばいい。待つ必要などない。少女など、俺の旅には必要ないはずだ。
そう、なぜ俺は、少女がついて来ることを許したのだろうか。少女がついてきたとき、俺は拒絶したはずだ。なぜ許した。あの時、野犬に囲まれたあいつを、放っておけばよかったのに。
俺は、憐れんだのか? そういう感情はすべて捨ててきた。なのに、なぜ……。
ふと、少女が手綱を木に結び付けた驢馬に目がいった。俺が近づいたとき、驢馬は怯えて逃げ出そうとしていた。今は、俺と距離があるとは言っても、のんびりと雑草を食んでいる。まるで警戒している様子がない。
俺に馴れたのだろうか。それとも、実際は警戒しているのだろうか。
ゆっくりと驢馬のほうへ歩く。驢馬は気にすることなく食事を続けている。さらに近寄る。西日で伸びた影が驢馬にかかる。驢馬が顔を上げ、俺を見た。逃げ出そうとは、しなかった。
驢馬になめられているのか、と。一瞬、怒りがちらついた。ほんの少しの怒り、そう、たとえるなら、銅貨一枚をなくしたような、ちょっとしたいらつきだった。
突然、驢馬がいななき、手綱を激しく引っ張って逃げ出そうともがいた。周囲でさえずっていた鳥が一斉に飛び去り、辺りが急に騒がしくなったかと思うと、次には死んだように静まり返った。驢馬はまだ狂ったように土を掻いて手綱を引きちぎろうとしている。それだけの力があるなら、少女の力がなくても登れただろうに。
驢馬の手綱に手を伸ばし、その手が中途でとまった。振り返ると、少女がいた。息を切らし、目を見開き、顔をこわばらせて。
それは、まぎれもない「恐怖」の表情だった。
少女は水を汲んだ革袋を落とし、こちらに走ってくると、驢馬と俺の間に割って入った。そして、ロバをかばうように両手を広げた。そのころには、少女の表情に恐怖の色はなかった。
俺は何も言わず、驢馬から離れ、少女の落とした革袋を拾い上げた。革袋は少し汚れてしまっていた。だが、咎めようとは思わなかった。
俺は満足していた。少しの怒り、かけらほどの殺意が、獣を、人を恐怖させる。そう、俺は望んだとおり、恐怖の存在となったのだ。
誰もが畏れる存在。俺の呼び名にふさわしいじゃないか。
突然、笑いの発作に襲われた。声を抑えようとしたが、たまらず押し殺した笑いが口から洩れる。押し殺した笑いは、くぐもった音となり、不気味な響きとなった。
すいません、今週頭に上げたと思っていたら上がってませんでした。




