春は夢を見せるだろうか
これは、僕がこの人生で一度だけ、本当に心を揺すぶられた出会いのお話。
初めて彼女を見たのは、高校に入学して間もない頃。麗らかな春の日の、帰り道だった。
歩くたび揺れる黒い髪。長い睫毛が彩る、星空のような瞳。白い肌は陶器人形かと思うほどに滑らかで、頬と唇だけがほんのりと桜色。
彼女の横顔は不思議だった。
あどけなさの残る少女のようにも、色香のある大人の女性のようにも見える。
そんな彼女を一目見た時、僕の中の何かが崩れる音がした。
当時の僕にはよく分からなかったけれど、今なら分かる。あれは多分、俗に言う、「一目惚れ」というものなのだろう。
それからというもの、毎日のように彼女の姿を見かけるようになった。授業が終わってすぐ帰る日も、部活で遅くに帰る日も、彼女は道を歩いている。僕が帰るのと同じ時間に、彼女は必ず歩いているのだ。
いつしか、帰り道に彼女の姿を見るのが、僕の楽しみになった。
でも、見るだけだ。
声をかけても、僕なんかが相手してもらえるわけがない。
だから、見るだけ。
そんなある日。
いつもと同じように、僕は高校からの帰り道を歩いていた。不思議な彼女は、今日も、真っ直ぐ前だけを見据えて歩んでいる。
風になびく黒い髪をぼんやり見つめていると、突然、彼女がハンカチを落とした。レース生地の白いハンカチを。
僕はそれを拾い上げ、勇気を出して彼女を呼び止める。
「あっ、あの!」
声は届いたようだ。
彼女の足はぴたりと制止した。
「ハンカチ、落としましたよ!」
すると彼女はくるりと振り返る。
肌の白と髪の黒——そのコントラストが、近くで見るとなおさら、印象的だ。
「……あ」
桜色の唇からこぼれ落ちた小さな声は、金平糖のようだった。小さくて、愛らしくて、脳も心も溶けるほどに甘い。
「これ、貴女のですよね?」
手に取ったハンカチを彼女に差し出す。すると彼女は、小さな手を伸ばした。強く掴むと壊れてしまいそうな細い指先。僕は思わず息を飲む。
「はい」
甘く繊細な声の粒が、またしてもこぼれる。
「私のです」
「あ、やっぱり。どうぞ……」
緊張気味に言うと、彼女は丁寧な言葉を返してくれる。
「教えていただけて助かりました」
レース生地の白いハンカチをそっと受け取る彼女は、恥じらっているのか、微かに俯いている。視線を合わせてはくれない。もっとも、僕も彼女に視線を合わせられずにいたのだが。
彼女はそのハンカチを、大事そうに、上着のポケットへしまう。
それから数秒後、彼女は初めて僕に顔を向けた。
僕を見つめる彼女の瞳は、満天の星空のようだ。夜のような黒色なのに、瑞々しく輝いている。大自然の中で見上げる星空を想起させるような、煌めく瞳。それは、僕の中の何かを崩した。
彼女の初めて見た時と同じような感覚である。
自分の中の何かが壊れる音がする。それなのに、どこか温かくて、言い表せないような幸せな気分になるのだ。
「ありがとう」
最後に彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
そして、僕と彼女は別れた。
耳に残るのは、金平糖のように甘く小さな声。心に残るのは、すぐ近くにいても手が届かないような気のする、儚い美しさ。
でも、また明日の帰りになれば会える。
明日からはきっと、今までより話せるだろう。一言でも二言でも、交わす言葉は増えていくはずだ。ゆっくりで構わない。ほんの少しずつでいい。徐々に距離を縮めていけば、いつかは親しくなれるに違いない。
その日の帰りは、いつになく軽い足取りだった。
——しかし、翌日、帰り道に彼女の姿はなかった。
晴れの日も雨の日も、夕方の時も夜の時も。いつだって彼女は、僕と同じ道を歩いていたのに。言葉を交わしたことはなかったけれど、いつだって彼女は手の届きそうな距離にいたのに。
ずっと見ていた。憧れていた。
だけど僕は、彼女のことをほとんど知らない。
僕が彼女について知っているのは、一瞬にして他人の心を奪う容姿と、白いハンカチを大切にしていることだけだ。
以降、彼女が僕の前に姿を現すことは一度もなかった。
もしかしたら夢でも見ていたのかもしれない——そう自分を疑ってしまうほどに、彼女は忽然と消えた。
僕は今でも、ふと思う時がある。
あれは暖かな春が見せた夢だったのではないか、と。
ただ、一度だけ聞いた彼女の声と微笑みは、この脳に鮮明に焼き付いている。夢とは到底思えないほど、しっかりと思い出せるのだ。
だから僕は信じている。
いつかまた、どこかで彼女に会えると。