プロローグ
机に置いていたスマートフォンがけたたましい音を鳴らしながら震える。
男はボロボロと涙を流しながら目を覚ました。
別に何か感動的な夢を見ていたわけではない。
部屋に据え付けられている強制覚醒装置が起動し、タマネギのような刺激臭をまき散らしたからだ。
男は抵抗して布団を頭からひっかぶったが、それを察して装置は機能を一段階上昇させた。
空気清浄機のような形をした覚醒装置は上蓋を開き、ノズルを布団に向ける。
次の瞬間、催涙ガスが放たれ、布団の隙間から男の粘膜を攻撃した。
「分かった!起きるよ、もう勘弁してくれ!」
くしゃみと咳と涙に襲われた男が飛び上がって降伏すると、ようやく装置は止まった。
彼はこの数ヶ月間、幾度となくこの装置を破壊してやろうと思ったのだが、装置を据え付けることが寮から出る条件だったので壊せないでいた。
時計を見ると時刻は午前4時。
恨めし気に電話に出る。
「もしもし」
『異世界案件が確認されました。至急、異世界庁第2会議室へ来てください』
凛とした若い女の声が聞こえた。
「……あと5分寝かせてくれないか」
『それは認められません。至急出頭して下さい。さもなくば減俸です』
非情にも相手は男を寝かせてくれない。
「あと5分……」
唸るような声を出し、男は布団から起き出した。
元はそれなりに整っている顔なのだろうがその面影は無い。
目に若干の隈と無精ヒゲがあるのみだった。
タンスとベッド、小さなテレビと机があるだけの生活感のない部屋。
もぞもぞとタンスから服を取り出してシャツに着替える。
久しぶりに家に帰って来たら即出勤とは。
過労死した転生者を回収する前にこちらが過労死するのではないだろうか。
そんなことを考えながら洗面台へ向かい、顔を洗う。
鏡に映った自分をよく見ると髪が薄くなった気がする。
憂鬱な気持ちで机に置いてあった生ぬるいミネラルウォーターを飲んだ。
「不味い」
冷蔵庫に入れるべきだったと後悔しつつ、八つ当たり気味にスマホに向かって
「バーカ!くたばれ異世界!!!」
と耳がおかしくなるような大声を出し部屋から出た。
スマホからは怒声が響いていたがそれは無視する。
壁が薄いので先ほど放った大声で隣人が起きたようだ。
ドシンドシンと壁を蹴る音が聞こえる。
錆だらけの階段を降りながら、やはり安いからといってこんなボロアパートを借りたのは失敗だったと後悔した。
最近ではほとんど仕事先の寮に泊まり込みである。
アパートの横に停めてある大型のバイクに乗り込む。
古いアメリカンスタイルの物だ。
電気自動車が主流となったこの時代にこんな骨董品を乗り回している人間も珍しいだろう。
彼はこれに乗りたいが為にわざわざ外へ出てアパートを借りたのだった。
とは言え仕事に忙殺されバイクに乗る暇は出来なかった。
今でさえ仕事場へ行くためにバイクに乗っている。
やはり近いうちに引っ越そう。
そう考えながら彼の乗るバイクは独特の排気音を出し、ゆっくりと都心へ向かっていく。
吐く息は白く、茶色のコートが風にたなびく。
空はまだ暗い。
しかしながら高層ビル群は大小様々な光を放ちながら都市を形成している。
不夜城と化したビルを背にバイクを走らせる。
少なくともこの都会の光が全て消えない限り自分の仕事は無くならないのだろう。
失業の心配はしなくて済むが、なんともぞっとしない話だ。
男はとある企業の地下駐車場に入った。
「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた大きな扉の前で原付を止める。
扉には電子ロックがかかっており、特定のコードを打ち込んでそれを解除した。
扉が開いたその先の小さな部屋にバイクごと入っていく。
『全身スキャン……確認』
天井から声が聞こえた。
彼は部屋の隅にある台に手を置く。
『掌紋認証……確認』
『声紋認証。マイクに向かって声を』
「あー、」
『「あー」……確認』
ガコンッという音と共に部屋が動き出す。
天井の声も自動音声から職員に切り替わった。
『パターン青。おはようございます。先程はよくもやってくれましたね』
その声の主は先ほど男を起こし、その腹いせに大声をぶつけられた職員であった。
「あぁ、おはよう。今日も素晴らしい目覚めだったよ」
男が皮肉たっぷりに言うと、相手は恐ろしいことを言った。
『気に入っていただけたようでなによりです。実はあの覚醒装置、こちらから出力を遠隔操作出来るんですよ』
「なに?」
『今度からは最大出力で起こしてあげますね♡』
「おい、ちょっと待ってくれ!確か催涙ガスはレベル2だったよな!? 5段階のうちの!」
こんなやりとりをしているうちに突然真っ暗なエレベーターに光が満ち溢れた。
男は思わず目を閉じ顔をしかめる。
目の前に広がるのは巨大な地下都市。
その巨大さは男が見渡しても都市の端が見えない程である。そして地上に負けない数のビルが乱立していた。
男が入った部屋はそれ自体がこの地下都市に行くためのエレベーターであったのだ。
「もう人工灯が点いてるのか。よくやるよまったく」
都市の壁にはギラギラと光る大きな電灯がついていた。
エレベーターからバイクを出し、都市の中でもひときわ巨大なビルへと走らせる。
「確か、第2会議室だったか」
入り口に「異世界庁」と書かれているビルに着くと白い無機質な廊下を何人かの男女とすれ違った。
「おはよう」
「六条さん、おはようございます。呼び出しですか?」
「ああ、案件発生だ」
「じゃあ私がオペレートするかもしれないですね」
「そうなったらよろしく頼むよ。おはよう田端。夜勤か?大変だな」
「おはよう。いやあ、君たちエージェントに比べるとたいしたことはないさ」
男は軽く挨拶を交わした後に彼らと別れ、会議室の扉を叩いた。
「遅いぞ!朝に弱い体質は変わってないな!」
「いや、4時に叩き起こされたんじゃ仕方ないでしょう……って下賀茂S級?」
「がははははは!今は司令と呼べ!」
会議室に着いた男に対し、大声で出迎えたのは銀髪に鎧姿の男だった。
男の名は下賀茂雷銘。
彼は60歳を過ぎているのだが、戦闘職では最上級のS級エージェントという地位にいる凄腕である。そんな人間がズカズカと此方に歩いてきて背中を強く叩いたので、男は咳き込んだ。
「随分久しぶりだな!俺が本部に呼ばれた時以来か」
「ゴホッ……そうですね。どうでしたか向こうは」
「異世界案件は日本ほどではないな。監視対象団体がアメコミばりに暴れたり、エリア51がきな臭いくらいか」
「何か動きがあるんですか?」
「さあな。12人委員会も沈黙しとる。俺らの領域とはちとずれるしな」
「外宇宙研の連中がいるじゃないですか」
「あれは対『異世界』機構として異なる存在に対応できると国連にアピールするためのものでしかない。活動はしているが本職には劣る」
「じゃあ、やはり当面は異世界対策ですね」
六城は下賀茂を見据えた。
ここでの異世界というのは限定的な言葉だ。
つまり魔法が使えて、城塞都市に人々が住み、王政で、ドラゴンやエルフがいたり、魔王や勇者がいて戦っていたりという─────────────そんな世界だ。
「うむ。俺もそのために戦術司令官として日本に帰ってきたのだからな。気張れよ」
「まあ、ガンバリマス」
男は下賀茂頼銘に付き従って訓練した地獄の日々を思い出した。
これからまた今日のような理不尽が降り注ぐのだろう。
現実は非情だと思った。
「それで、異世界案件が発生したんですよね?詳細は?」
「転移案件だ。昨日午後6時に埼玉県北部に魔術反応があったので部隊を派遣したが特に地球に影響はなかった。その後の原因調査で判明したのだ」
下賀茂から手渡されたタブレットで男は情報を確認する。
「転移ですか。タイプは?」
「魔法陣発生の形跡があったからA-2案件だ」
A案件は俗に言う異世界転移。
-2は「魔法陣による転移」時に割り振られる番号である。
魔法陣は異世界から地球人を呼ぶ時に使用されるので、これは人為的なものだ。
「誰が転移しましたか」
「部活帰りの高校生が一名。同級生の証言がある」
一人か。それならまだ楽な方だ。
学生で一番厄介なのはクラスごと飛ばされることだ。
人数が多いだけで大変なのに、大抵はイジメだの追放だの復讐だの、もう目も当てられない事態になる。
「それと、どうも魔力を大量に保持しているようだ。発生から時間があまり経っていない今ならまだ間に合うだろうが、対象が魔法を覚えたら面倒だぞ」
「了解しました。もう準備はできていますか?」
「ああ。第8棟の異世界転移陣へ行ってくれ。極超小型探査機による調査で情報は随時入ってきとる」
そうして下賀茂との打ち合わせはすぐに終わった。
再び白い廊下を通ってビルの隣にある、窓のない建物の一番奥へと向かった。
「こちらです!疲れが見えますが大丈夫ですか?」
「いつもの仕事だ。問題無い」
第8棟につくと既に職員が待機しており、一室へ案内される。
そこには青白く光る魔法陣の他にパイプやモニター、大量に点滅するランプや機械が配置されていた。
『転移システム作動。擬 似 召 喚式構築。全システムオールグリーン。目的地リングヘルン王都郊外。転移開始まで10、9、8……』
魔法陣の光は更にその輝きを増し、視界いっぱいに広がり何も見えなくなる。
「仕事の時間だ。返してもらうぞ、身勝手な異世界人ども」
異世界案件
第9215件目
異世界クラス「leaf」
リングヘルン王国
そうしてA級エージェント六城利生は異世界に送り込まれた。
初投稿です。稚拙な出来ですが読んでいただいてありがとうございました。
2023/4/18改稿。