第5章ー3
ベルギーが、英仏米日等の連合側に味方した影響は、当のベルギーが考えた以上に大きかった。
このことは、その後の世界大戦に、様々な影響を与えたのである。
独ソ中、いわゆる枢軸国は、中立国が本当に中立を保ち続けるのか、と疑心暗鬼にかられるきっかけに、このことはなった。
また、英仏米日等、いわゆる連合国が、中立国、伊、スイスやスウェーデン等に味方するように、公然と働きかけるようになった。
そういった国際情勢のうねりを、半ば無視するかのように、日本海軍の遣欧艦隊、第三艦隊は、輸送船団と共に欧州へと向かっていた。
空母6隻、戦艦2隻を基幹とし、駆逐艦24隻を保有して、空母、戦艦、輸送船団を護衛しつつ、欧州へと向かっている第三艦隊は、掛け値なしに世界有数の強力な艦隊であることは間違いなかった。
その第三艦隊司令長官である小沢治三郎中将は、色々と考えつつ、第三艦隊の指揮を執っていた。
第三艦隊は、見事な初陣を飾ったばかりだった。
世界史上初ともいえる空母艦載機による大規模空襲での軍港にいる軍艦の撃沈に成功したのである。
小沢中将は、その際に戦艦「比叡」に届いた電文の幾つかを、鮮やかに脳裏に刻んだままだった。
「我、ウラジオ上空に到達。敵戦闘機数十機の迎撃を受けつつあるも、我が戦闘機部隊は圧倒中」
「巡洋艦キーロフは撃沈確実と判定。完全に着底し、弾薬庫の弾薬が誘爆したのか、艦橋は完全に倒壊」
「第二次空襲完了。ウラジオ軍港内に行動可能な艦艇無しと認む。繰り返す、ウラジオ軍港内に行動可能な艦艇無しと認む」
1939年12月8日の早朝から、第三艦隊所属の空母「伊勢」、「日向」、「龍驤」、「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」の6隻の航空隊は、総力を挙げての2派、延べ600機以上に及ぶ空襲を、ウラジオストック軍港に対して行った。
その結果、ソ連太平洋艦隊の水上艦は全滅と判定される大損害を被ったのだった。
巡洋艦や駆逐艦の損害以上に、実質的にソ連にとって痛かったのは、掃海艇の大損害だった。
これによって、ソ連にしてみれば、ウラジオストク軍港等を封鎖するための機雷敷設に対する手段が、結果的に大きく損なわれることになったのである。
第二次世界大戦勃発当初から、ソ連太平洋艦隊の水上艦部隊は戦艦を保有しておらず、戦艦を保有しようとするなら、欧州から戦艦を回航する必要等があるのに対し、日本海軍は戦艦6隻を保有し、高雄級戦艦や大和級戦艦を建造中にある等、ソ連側が水上艦の戦力では、日本に対して圧倒的に劣勢だった。
こういった状況から、潜水艦部隊の活用に、活路を切り開こうと、ソ連太平洋艦隊は考えて、これまで行動してきたのだが。
ウラジオストック軍港等が、機雷で封鎖されては、潜水艦部隊の利き腕が切り落とされたに等しい事態が起きてしまう。
そのために、掃海艇は重視されていたのだが、日本海軍が行ったウラジオストック軍港への空襲は、ソ連太平洋艦隊の掃海艇を全滅させた、と言っても過言ではない大戦果を挙げたのだ。
勿論、漁船等を徴用して、特設掃海艇にして、機雷除去に活用することは可能である。
だが、ソ連太平洋艦隊にしてみれば、機雷除去の効率は大きく落ちることになってしまった。
実際、日本海空軍の機雷敷設に、ソ連側の掃海が追いつかなくなり、ソ連太平洋艦隊の潜水艦の触雷、沈没が徐々に多発するようになるのである。
こういった観点からしても、第三艦隊が行ったウラジオストック軍港への大空襲は、太平洋方面の戦局の大きな転換点の一つになったと評価されるだけの出来事であったのは間違いなかった。
そして、この大戦果を胸に刻み、日本空母航空隊の搭乗員は欧州へ向かっていた。
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