第1章ー2
1939年8月のこの時、ヒトラー率いる独政府は、英仏両国政府、更に日米等の各国の連合国政府の世界大戦への決意を、そう重くは考えていなかった、という有力説がある。
確かに、ポーランドの独立を、英仏のみならず日米も保障しているが、ポーランド回廊のみ、独からポーランドへ割譲するようにとの要求に対しては、英仏(日米)は、ミュンヘン会談の時の対応から考えて、ポーランドに対して、正当な要求だから、応じるようにと勧告するだろう。
だから、世界大戦にはならない、と考えていたというのだ。
それ以前から、ポーランド回廊を、独に割譲するようにとの独の要求は、不当だ、と英仏両国政府は訴えていた、という通説からの反論に対しては、それは外交上、言っているだけ、と独政府は考えていた。
だから、ヒトラーには、世界大戦を起こすつもり等、全く無かった。
第二次世界大戦の原因は、主に英仏(日米)側にある、という主張である。
しかし、幾ら正当な要求だ、と自国が考えているにしても、相手国が応じないからと言って、戦争を引き起こすのが許されるわけがない。
ヒトラー率いる独政府の考えは、どう見ても通らない考えだろう。
また、第二次世界大戦が起きても、それはすぐに終わると独政府は考えていた、という有力説もある。
第一次世界大戦と違い、ソ連という有力な同盟国が、独にはある。
更に、英仏日米各国にいる多くの民主主義者は、民主主義国である独ソとの戦争に反対するだろう。
ポーランド全土が、独ソに占領された時点で、英仏日米各国政府に、講和を呼びかければ、各国国内の民主主義者は、それに賛同し、各国政府は講和せざるを得なくなるだろう、と考えていたというのである。
実際、ポーランド侵攻時点で、英仏米日各国政府は、独に宣戦を布告、それに対して、独ソ同盟に基づき、ソ連も参戦して、第二次世界大戦に発展するのだが。
既に中国内戦に介入していたことから、戦時状態にあった日本はともかくとして、英仏米の国内では、何故にポーランドの為に、自国民の血を流さねばならないのか、速やかに独ソと講和し、世界を平和にすべきだ、という大規模な反戦運動(その背後の一部には、独ソの様々な動きがあった、という。)が起こる。
特に深刻だったのは、フランスで、1940年春に行われた独軍の仏侵攻作戦発動時でさえ、戦いよりは平和を、と訴える反戦デモが、首都パリで(当時、既に非合法政党となっていた)共産党主導の下、組織されて、パリ警視庁の弾圧にもかかわらず、実行される有様だった。
1939年秋に、ポーランド崩壊を、遠く離れていた日米はともかく、英仏は何故に見過ごしたのか、という非難が、21世紀の現代でも行われているが、このような国内の状況があっては、独領への英仏両国軍の侵攻等、実施はとても不可能な話だった。
このような英仏米日各国の内部事情から、ポーランド侵攻から世界大戦が起きたとしても、第一次世界大戦と違い、すぐに講和が成立するだろう。
だから、大丈夫だ、とヒトラー率いる独政府は考えて、独軍のポーランド侵攻、という決断を下した、というのである。
だが、実際には、そうはならなかった。
第一次世界大戦より遥かに大規模な世界大戦に、第二次世界大戦はなり、第一次世界大戦では陥落しなかった首都ベルリンは陥落し、独全土が英仏米日等各国軍に占領されるという結末を、独は迎えることになる。
ヒトラー率いる独政府は考え違いをしていた。
第一次世界大戦と違い、米国が積極的に早期から参戦しており、日本も英仏救援に駆けつけた。
このことが、英仏等の継戦を後押しすることになり、更に容易に講和を成立させなかったのである。
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