第4章ー14
何でこんな事態になったのか?
単純に言うと、戦艦は対ソ戦争において、そんなに使えないからである。
ソ連との戦争において、日米ともに最前線でもっとも身を張らねばならないのは、ソ連潜水艦に対処する必要上、駆逐艦だった。
そして、少しでもこのために新しい駆逐艦を投入したい、というのが、日米両海軍の本音だった。
だからこそ、吹雪型や朝潮型といった日本海軍の精鋭駆逐艦は、まずは船団護衛任務、次の任務が欧州へ派遣される空母が主力の第三艦隊へと回された。
そのために日本本土に遺された戦艦、重巡洋艦群と共闘する駆逐艦には、峯風型、神風型といった旧式化した駆逐艦が当たらざるを得なくなっていたのである。
(もっとも、第三艦隊は欧州まで赴く以上、それに所属する駆逐艦は、少しでも航行能力が高く、航続距離の長い朝潮型駆逐艦でなければならない、という事情があったのも否定できない話だった。
なお、朝潮型駆逐艦は、第一次世界大戦等の戦訓から、戦時急造をある程度は考慮されており、同型艦は全て起工から1年以内に竣工にこぎつけている。
ロンドン海軍軍縮条約脱退後、日本海軍が、ソ連海軍の潜水艦部隊に対処可能な駆逐艦の急造に成功したのは、朝潮型が戦時急造可能なように設計されていたこともある。)
また、中国に派遣されている日米両陸軍への補給、満州国軍への物資供与が、日米両海軍にとって、重要な課題だったのも問題だった。
1939年秋から1940年春に掛けて、米本国や日本本土から、中国にいる軍隊への補給であるが、主に4つの港に依存していた。
韓国の釜山港、遼東半島にある大連港、中国本土の天津港、上海港の4つである。
釜山港については、関釜連絡船と博釜連絡船が、その任務に主に当たっていた。
そして、この航路は、日本空軍の航空支援もあり、夜間航行が禁止されていたとはいえ、ほぼ安全と見なされている航路でもあった。
だが、残り3つには、問題が付きまとった。
黄海、東シナ海、南シナ海は、ソ連海軍の潜水艦部隊にとって、重要な狩場と化していた。
米本国から運ばれる物資は、輸送船の航続距離の問題等から、ハワイからグアム、フィリピンへと運ばれて、そこで一旦、集合した後、フィリピンから天津港、上海港を目指すのが通例だった。
また、日本本土から運ばれる物資は、日本の主要港から上海港、大連港を目指すのが、基本だった。
つまり、大連港、天津港、上海港へ向かう日米の輸送船団は、ソ連海軍の潜水艦部隊にとって、格好の的だったのである。
とはいえ、この航路の護衛任務についての航空支援は、その航路の性質上、日本=シンガポール航路や、日本=トラック航路よりも、困難だった。
日本=シンガポール航路や、日本=トラック航路の場合は、航路の途上に、複数の航空基地があり、それによる効果的な航空支援が可能だったのに対し、大連港、天津港、上海港を目指す航路には、そのような航空基地が不足していたために、航空支援が事欠く有様だった。
そのために、輸送船団の護衛艦隊は、苦闘する羽目になっていたのである。
日米両海軍首脳部の本音としては、ウラジオストク軍港等を、一刻も早く占領してくれ、というところだったが、現在の日米満韓の陸空軍の戦力では、現状におけるウラジオストク軍港等の占領は困難であり、まずは南満州の回復を第一として作戦を立てざるを得なかった。
奉天以南の南満州を回復して、陸空軍の戦力の再編を完了した後で、あらためて、ハルピン以南の満州の回復を目指す。
その際の助攻任務の一環として、ウラジオストク軍港等を目指す、というのが、陸空軍側の一致した見解であり、日米等の海軍は、不承不承受け入れた。
朝潮型と、日本の新型駆逐艦を呼称していますが、厳密に言えば、この世界の朝潮型なので、酸素魚雷を装備していない等、史実の朝潮型とは、色々と異なっているのを、予めお含みおきください。
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