第4章ー7
1940年1月当時、ソ連との開戦を契機として、韓国陸海空軍との連絡役として、日本陸海軍からは軍事顧問団が送り込まれていた。
日本軍(及び米軍)の本音としては、満州事変等の苦い記憶から、韓国軍の統帥権を握りたいくらいだったが、さすがに独立国である韓国に対して、そんなことはできず、軍事顧問団による指導に留めざるを得なかったのである。
その軍事顧問団長としては、板垣征四郎中将が就任して、職務に励んでいた。
板垣中将は、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らを輩出した陸軍士官学校第16期の卒業生だった。
また、母校の盛岡中学の先輩として、在学中には面識がなかったが、米内光政首相がいる。
そういった人脈から、板垣中将は、韓国軍に対する軍事顧問団長に任命されて、韓国の首都に赴任していたのである。
とはいえ、赴任早々、板垣中将は、韓国軍内の半ば無責任な噂に振り回される羽目になった。
「今度来た板垣という軍事顧問団長は、昔、征韓論を呼号した板垣退助という政治家の縁者らしい」
「俺は、板垣は満州事変の果実を韓国から横取りして、日本にもたらした首魁だとも聞いたぞ」等々
こういった噂が、韓国軍内では乱れ飛ぶ有様だったのである。
「酷い誤解もあったものだ」
板垣中将は、この噂を知った当初に、嘆かざるを得なかった。
確かに板垣退助と、自分は同姓であり、遥かな縁者でもある。
(板垣氏の始祖といえる、源平合戦時に活躍した甲斐源氏の板垣兼信の遥かな末裔に、板垣退助と板垣征四郎は当たる(尚、板垣征四郎については、本人には咎は無いが、先祖が仮冒したという疑惑が強い。)。)
だが、こんなレベルまで縁者扱いされては、日本人皆が縁者ということにされてしまいかねない。
また、満州事変について、確かに策謀の一端を、板垣中将は担いではいるが、首魁扱いは誤解も極まれりというレベルの話だった。
満州事変の日本での首魁は、敢えて言うなら、東京での謀略参加者の面々(林忠崇や梅津美治郎等々)だというべきで、板垣中将は、満州での現地担当者と言っても過言ではなかった。
(見る人によっては、違う意見があるだろうが、少なくとも板垣中将自身は、そう考えていた。)
とはいえ、誤解を解くのには、時間が掛かるし、ソ連対日米満韓の戦争は、悠長に誤解を解く時間を与えてくれる余裕がない激戦を展開している。
板垣中将自身は、噂を半ば無視して、韓国軍の指導に当たらざるを得なかった。
板垣中将としては、韓国軍に求める役割は、基本的に二つだった。
まず一つ目が、韓国海軍については、日米に援軍を求めないのなら、その言葉を護り、韓国の沿岸航路を死守してくれという役割だった。
二つ目の役割の方が、板垣中将にとり重要だった。
ウラジオストク軍港等を目指しての韓国陸軍の進撃を成功させることで、満州からソ連陸軍を引き抜いてくれ、という役割である。
とはいえ、それが難事なのも、板垣中将は熟知していた。
「量はともかく、質的には韓国陸軍は話にならないからな。我が日本陸軍1個歩兵師団をもってすれば、韓国陸軍3個師団と対等に戦うことができる。ちなみに、日本陸軍1個歩兵師団とソ連陸軍1個狙撃師団とは同レベルと考えられている」
板垣中将は、気心の知れた日本軍士官のみがいる席では、そのように語っていた。
「つまり、韓国陸軍12個師団は、ソ連陸軍4個狙撃師団と同じレベルということですな」
部下の一人が、確認のためもあって、そう発言すると、板垣中将は大きく肯いた。
「厄介ですな。そんなレベルでは、ウラジオストク軍港等への韓国陸軍の進撃は難事です」
「全くだが、それをさせねばならない」
板垣中将と部下は、そうやり取りをした。
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