幕間1-1 1940年正月の土方家
幕間です。
仮想戦記らしからぬ、日常パートになります。
1940年1月元旦、日野町の土方勇志伯爵邸には、建築以来、初めてともいえる数の家族が住むようになっていた。
だが、これが三が日の間で終わる、ということも、土方伯爵邸に住む家族全員が痛感していた。
日野町の土方伯爵邸は、土方伯爵が終の棲家にするつもりで建てたものだが、将来、息子の土方歳一やその家族と同居する事態も考え、それなりの数の居室を備えて建てられていた。
そのため、第二次世界大戦勃発と息子と孫の欧州出征に伴い、息子の土方歳一夫婦のみならず、孫の土方勇夫婦が同居しても、部屋数に困ることは無かったのが救いと言えば、救いではあった。
まだ、実際には無いとはいえ、横須賀もソ連空軍の空襲を受ける可能性が絶無とは言えないこと、また、息子や孫が、1月4日以降、欧州へと出征することから、日本に遺される、その妻2人は、夫達が欧州出征後は、土方伯爵夫妻と同居することになった。
そのために、12月以降、荷物を少しずつ移動させ、大晦日の前日に最後の荷物を、土方歳一夫妻と土方勇夫妻は、土方伯爵邸に運び込み、引っ越しを完全に済ませた。
そして、土方伯爵からすれば、初の曾孫が、ここで産まれることが、ほぼ決まっていた。
孫の土方勇の妻、千恵子は妊娠していたのだ。
つまり、この三が日が終わるまでは、家族6人がこの屋敷に住み、3が日の後は、家族4人、更に暫く経てば、家族5人(初曾孫が双子等でないという前提でだが)が、この屋敷の中で、使用人と共に住むことになっていた。
土方伯爵邸に集った家族の面々は、色々と想いを巡らさざるを得なかった。
「正月だ。ま、一杯やろう」
土方伯爵は、お屠蘇を飲み、雑煮を食べて済んだ後、煮しめを肴に、息子や孫と酒を飲んでいた。
伯爵とはいえ、新華族である土方家は、小うるさい仕来りとは無縁である。
会津藩上士の末裔である孫の妻、千恵子の実家の方が、仕来りが遺っていた。
それに、北海道の屯田兵村で生まれ育った当主の土方勇志やその妻に至っては、厳しい自然条件から、餅の無い正月が、十代半ばまで当たり前だった。
未だに、その感覚が遺る土方伯爵は、正月を口実に、息子や孫と朝昼酒を楽しむつもりだった。
「いいんですか」
千恵子は、姑や大姑に、それとなく意見した。
千恵子からすれば、幾ら正月とはいえ、朝昼酒を呑むのは、どうか、という気がしたのだ。
「いいの、いいの。堅苦しいことは、正月に言いっこなし」
「はい」
大姑は大らかに、義理の孫の千恵子に言い、千恵子は、内心を押し隠してそう答えた。
だが、大姑は察したらしく、ささやくように言葉を継いだ。
「今生の別れになるかもしれないのよ」
千恵子は、胸を衝かれた。
大姑の横では、姑が、大姑の言葉に無言で肯いていた。
千恵子は、想いを巡らせた。
そういえば、そうだった。
自分の父も戦死している。
どうして、夫が戦死しないといえるだろうか。
更に、義父もかなりの高級将校になっているとはいえ、戦死することがないとは言えない。
土方伯爵自身、父、土方歳三提督が、西南戦争の際に戦死している身の上だ。
息子や孫が、そうなるかもしれない、と心配しているのだろう。
「お酒が少なくなってきているみたいよ。お酒を追加で持って行ってあげて」
「はい」
大姑は、千恵子に指図した。
本来なら、住み込みの女中が1人いるのだが、正月休暇という名目で、実家に帰らせている。
女中の兄も、欧州へと出征する身の上だったので、土方伯爵が、そう図らったのだ。
そのため、家の中のことを家族でやっている。
千恵子は、お酒を義祖父達の下へ運びながら想った。
そうよ、お正月だから、朝昼酒を呑んでもいいじゃない。
千恵子は、夫の戦死を考えたくなかった。
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