第3章ー19
北満州を失陥し、更に南満州までも失おうとしているという戦況について、米内光政首相率いる日本政府は事実を淡々と発表することに、基本的に務めていた。
勿論、埼玉県内の空襲被害等、全ての事実を発表して、報道をさせている訳ではない。
だが、虚偽の事実の発表や、戦意を高揚させるような誇大な発表は、後々で、却って国民の戦意維持等について害を招くと考えて、そのように務めていたのである。
また、新聞にも号外合戦のような行動は、厳に慎むように、内々に要請をしていた。
米内首相(というより、それより主に上の世代、鈴木貫太郎枢密院議長)らには、苦い思い出があった。
日清、日露戦争で、景気のいい新聞報道が、まかり通った結果、戦争を終わらせる際に、過大な要求を当然視する世論が横行し、講和の際に苦労した、という思い出である。
更に扇情的な報道は、例えば、旅順要塞攻略戦時において、乃木希典将軍や林忠崇提督(何れも日露戦争当時)に対して、無能のレッテル貼りをして、それに煽られた民衆により、自宅に対する投石等の行動が行われる始末になった。
(ちなみに、第一次世界大戦中も、ヴェルダン要塞攻防戦や地中海の通商保護任務等に際して、似たような報道が行われ、林提督や鈴木提督、八代六郎提督らの自宅に対し、民衆が投石等の行動を起こすことになった。
亡くなる直前の林侯爵曰く、
「生きている間に、何回、家に石が投げられて、何か所、家に被害が出たか、思い出したくもないが、小さいとは言え、数えられない数の石が投げられたのは間違いない。味方撃ちで4隻の戦艦を沈めて、元帥に昇進した無能な提督だから仕方ないが」)
このため、日本国内の新聞報道は、静かと言えば、静かなものだった。
もっとも、口の悪い一部の新聞記者に言わせれば、
「景気のいい、玉砕とか、転進とか、そういう文言を記事に使うことまでも規制して、内務省が口を挟むんだ。全員戦死とか、退却とか、そんなふうに記事を書かされたんじゃ、新聞が売れないのに。内務省の人間は、公務員だけあって、新聞の経営が分かっていない」
という批判が為されるものでもあった。
とはいえ、このまま単に退却行を続けることは、日本の国民の戦意を低下させる。
また、ある程度の反攻、攻勢防御は取らねばならない。
こういった考えから、日本の機甲師団3個が10月下旬に、ようやく満州に駆けつけられたことから、関東軍司令官の小畑敏四郎中将は、参謀本部に対して、機動防御を提案した。
外蒙古方面から助攻任務を行っているソ連の自動車化された4個狙撃師団に対して、この3個機甲師団をぶつけることにより、助攻任務を完全に失敗させ、ソ連軍の攻勢の勢いを削ごうという提案である。
小畑中将としては、これにより、ソ連軍の戦車に対して、完全に日本軍の戦車が優位にあることを、立証することで、日本陸軍や、それ以外の国の陸軍、米国や満州国、韓国の陸軍に対して、継戦意欲を高める効果を挙げることも考えていた。
実際問題として、満州にいる小畑中将の耳には、満州国陸軍や韓国陸軍の戦意、士気が失われつつあり、このままでは、米陸軍の本格的な来援を待って、来春に行われる予定の反攻に際して、満州国や韓国の陸軍が役に立たない可能性すらあり得る、という情報が入るようになっていた。
確かに、こう退却に次ぐ退却を繰り返していては、満州国陸軍の戦意が低下するのは必至だし、韓国陸軍も、ソ連軍が基本的に国境防御に徹しているから、何とかなっているだけで、ソ連領への韓国陸軍の攻勢は完全に失敗しているという戦況があった。
こういった状況を打破するために、日本軍は反攻を行う必要が生じていたのである。
4隻の戦艦を味方撃ちで沈めた、という林忠崇元帥の言葉ですが、半分事実です。
史実のワシントン海軍軍縮条約では、日本は10隻の戦艦を保有していますが、この世界では、第一次世界大戦で欧州派兵した結果、6隻の保有しか認められませんでした。
この世界では、日本が第一次世界大戦で欧州派兵しなければ、日本は、対英米6割海軍を保有できたのに、林のバカのせいで、4割海軍の屈辱を舐める羽目になった、という批判が21世紀でも横行しています(念のために書きますが、一応、この世界でも世界第三位の海軍を、日本は保有しています。)。
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