第3章ー17
そんなこととは半ば無関係に、帝都(皇居)に対する再度の空襲を阻止しようと、空軍関係の各所は動かざるを得なかった。
牟田弘國大尉は、成増基地に帰還した後、少しほっとする想いをした。
列機を2機、失ったと思っていたが、その内1機の操縦士は、無事に落下傘降下を果たしていたのだ。
その日の内に、基地にその操縦士は戻ってきて、しかも予備機があったことから、翌日には出撃可能ということになった。
しかも、補充用の予備機が、すぐに届くとのことで、その点も牟田大尉の内心を安心させるものだった。
これなら、再度のソ連空軍の空襲も阻止できる。
牟田大尉は、強気になった。
飛行第4戦隊長である林三郎少佐は、牟田大尉より少し上の視点から、今回のソ連空軍による空襲を見直していた。
思ったより、ソ連空軍のTB-3は、速度が遅く、巡航高度も低いようだ。
再度の空襲があった場合、飛行第4戦隊は、埼玉県内まで積極的に出撃していくべきだろう。
それにより、これ以上の民間人を防ぐ方向に進まねばならんな。
それにしても、操縦士の損害が少なくて助かった。
飛行第4戦隊は、出撃機64機の内10機が被弾、墜落しており、他に4機が何とか基地への着陸は果たしたものの、再出撃不能と判定される損傷を被っている。
だが、実際に戦死、または重傷を負った操縦士は、4人で済んだ。
しかも、損耗した機材の補充には1月も掛からないし、操縦士の補充も、さすがにすぐには無理だが、7日以内には何とかなるとのことだ。
林少佐にしてみれば、人員の損害が少なかったのが、最大の喜びだった。
第一次世界大戦で、大量の操縦士の損耗体験を教えられていた林少佐にしてみれば、部下が相次いで戦死していなくなることは、最大の悪夢、懸念材料だったからだ。
それより、更に上の視点から物事を反省せねばならなかったのが、後宮淳空軍中将だった。
確かに、皇居、帝都は守り抜けた。
だが、埼玉県内では、ソ連空軍の空爆により、それなりの損害が出ている。
さすがに天皇陛下から今回のことを懸念する御言葉は無かったが、米内光政首相から、内々の話として、山本五十六空軍本部長に、これ以上は民間に被害を出さないように、という釘をさす言葉があったと聞かされてしまった。
報道管制により、民間に被害が出たことは、新聞には載せられていない(ラジオニュースについては、言うまでもない。)が、こういうことについて、人の口には戸が立てられない、のは自明の事柄である。
ソ連空軍の空襲があったその日の内に、横須賀鎮守府内の末端の水兵の間にまで、埼玉県内でソ連空軍の空襲により家屋が焼かれ、死傷者が出たという噂が流れた、と聞かされては、国民の間の信頼を取り戻すために、空軍が、本土防空に力を入れないといけないのは、やむを得ない話だった。
後宮淳空軍中将は、様々な対策を講じることにした。
まずは、新鋭の99式戦闘機を、新潟飛行場にも配備することである。
96式戦闘機では、7.7ミリ機関銃2挺という弱火力から、ソ連空軍の重爆撃機を相手取るのには、やはり戦力的に不足していると、判断せざるを得なかったのである。
また、それによって、帝都(皇居)空襲を行おうとするソ連空軍の重爆撃機部隊に、少しでも打撃を与え、また、送りオオカミの役目を果たさせようと考えたのだった。
更に、至急、厚木等にも飛行場を建設して、防空戦闘機部隊を増やすことにした。
そして、今回の戦訓について、戦闘に参加した各部隊から報告書を提出させ、その報告書を、本土防空総司令部内等で検討すると共に、生の情報として、他の部隊にも流し、また、検討させることで、少しでも戦力の向上を図ることにした。
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