第3章ー12
とはいえ、ソ連海軍も、その弱点は、重々承知している。
ペトロパブロフスク・カムチャッキーに、潜水艦基地を作っており、そこを出撃拠点として整備していた。
また、中国南部(海南島の三亜等)の数か所にも、小規模な拠点を、共産中国の協力によって作っていた。
(最も、中国南部の拠点では、食料品や魚雷の補給等が精一杯だったが。)
更に、商船を改造して作られた特設潜水母艦を数隻、太平洋上に放って、潜水艦の活動を支援した。
そして、1939年9月から、1940年春にかけての1年近く、ソ連太平洋艦隊の潜水艦部隊と、日本海軍と韓国海軍、更に応援に駆け付けた米国海軍は、虚々実々の戦闘を行う羽目になった。
なお、木村昌福大佐は、兵力不足に悩みつつも、「暁」と「響」(1939年11月以降は、米国海軍の来援により、護衛艦艇が増えたことから、「雷」と「電」も指揮することになった)を駆使して、この間の商船団を守り抜き、護衛中の商船団の被害が絶無であったとして、感状を賜ると共に少将に昇進した。
(最も、木村大佐自身は、1隻の戦果も挙げていないのに、過分の褒賞だと恥じらった。)
では、このような海軍が苦闘をしている時に、空軍は、どうしていたのかというと。
言うまでもなく、満州方面の陸軍の直接、間接の支援(その一つが、シベリア鉄道に対する攻撃である。)を主力が行っていたが、一部の最新鋭戦闘機部隊は、別の任務に当たらざるを得ない状況にあったのだ。
「佐渡の早期警戒部隊が、ウラジオストク方面からの敵機襲来を探知したとのことです」
9月10日昼、東京に置かれている本土防空総司令部内では、通信士官の声が響き渡っていた。
「やはり、来たか」
本土防空総司令官の後宮淳空軍中将は、来るべきものが来た、との想いがしていた。
「規模は、どの程度か、分からないか。また、目標は」
「恐らくですが、100機以上の可能性大、また、目標は、帝都東京の公算大とのこと」
後宮中将の問いかけに、第二報を持った別の通信士官が駆け込みながら、報告する。
「よし、全力を挙げて、迎撃するぞ。帝都防空任務に当たる立川と成増に至急、連絡。取り合えず、迎撃戦闘機部隊の半分を上げる。1時間、待っても次の情報が入らなかったら、残りも上げるぞ」
後宮中将の決断に、他の幕僚達も、賛意を示した。
ここまで、本土防空体制が整っていたのは、ある意味、当然のことだった。
当時、空軍本部長を務めていた山本五十六将軍に言わせれば、
「あれ程、喚かれて、本土防空の準備をしないのは、大馬鹿だけだ」
というレベルの話だった。
日ソ開戦という事態が勃発した際、日本側からしてみれば、シベリア鉄道に対する全面攻撃は、ソ連の攻撃を食い止めるのに、必須と言っていい、当然のことだった。
だが、シベリア鉄道は、当然、民生にも必要不可欠である。
それを理由に、ソ連が報復行為に走るのも当然だった。
その報復行為として、ソ連政府が公言していたのは、戦略爆撃機を用いた帝都東京空襲だった。
「シベリア鉄道を破壊すれば、ソ連の人民は報復として、皇居を焼き尽くす」
それが、日本政府に対するソ連政府の定型の脅し文句のように、当時はなっていたのである。
とはいえ、それが実際に可能である以上、日本空軍は、それに備えざるを得ない。
本土防空の為の戦闘機部隊、要地防空のための高射砲部隊等を日本空軍は整備すると共に、早期警戒のために、電探基地、人の目と耳に頼った防空監視哨を、日本各地に整備する。
そして、それを有機的に連携できるような人的、物的体制整備も不可欠である。
この直前に、それが、ようやく整ったと言っていい状況だったが、効力を発揮しつつあった。
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