第3章ー3
とはいえ、米陸軍中将の地位では、米軍の総指揮は取れても、日満韓等の他の国の軍隊まで指揮を執るのには、問題がある。
ダグラス・マッカーサーは、ルーズベルト大統領にまで働きかけ、1940年早々に、米陸軍大将に昇進することに成功する。
だが、ほぼ同時に、小畑敏四郎も陸軍大将に昇進し、結果的に、満州に派遣されている日米両陸軍の総司令官が同格ということになった。
そのため、一時、かなりのゴタゴタが起きた。
最終的に、1940年春、マッカーサーは、フィリピン軍元帥でもあるから、という理由で、日米(満韓)の調整の末に、マッカーサーが満州方面における連合軍総司令官に就任することになる。
そのために、日満韓の各国士官の間では、陰で完全な独立国ではないフィリピン軍の指揮下に我々は入った、というブラックジョークが流れる事態になった。
その陰口を気にしたマッカーサーは、更に激しく動くのだが、それは後で語られる話だろう。
ともかく、マッカーサーが、満州に派遣される米軍の総指揮官になったことは、日本にとっては、全体的に見れば、有難い話だった。
マッカーサーは、米陸軍参謀総長を務めたこともあり、米政界等に人脈を持っていた。
日本が、満韓と連携して、ソ連と戦うには、米国の軍事力だけでなく、物資等の援助も不可欠である。
(自分の自尊心を満たすために、)マッカーサーが、米国の国力を、対ソ中戦にも力を入れるように運動してくれたのである。
対独ソ参戦当初には、対独戦に8割、対ソ中戦に2割という戦力配分で行く方針が、米国内で決まっていたのだが、マッカーサーの猛烈な運動等により、対ソ中戦に3割が割かれることになった。
満洲に派遣される米軍も、第二次世界大戦開戦前に決められていた日米間の事前計画では、12個師団を基幹とする約30万人規模の予定だったのが、マッカーサーの運動により増えることになった。
また、日満韓に対し、軍民を問わず、米国から膨大な援助も行われることになるのである。
だが、それは先の話で、日本陸軍は、在満州の在留邦人のみならず、在満州の米国民間人も保護しながらの後退戦闘を、1939年9月から10月に掛けては、繰り広げる羽目になった。
(満州国人や在満州の韓国人の保護については、満州国軍に、日本軍は全面的に委任していた。
率直に言って、日本軍の規模では、満州国人や韓国人の保護には、手が回らなかったからである。
だが、このことで、韓国国内では、21世紀まで、第二次世界大戦時、韓国人差別から、日本軍は、韓国人を見捨てたという主張が横行することになった。)
幸か不幸か、ソ連軍の第一作戦目標は、分かりやすいものだった。
まずは、いわゆる旧東清鉄道本線(満州里からハルピンを経て綏芬河まで至る路線)を、完全に確保しようとするものだった。
確かに、これによって、ソ連からしてみれば、シベリア鉄道のみに頼る補給路を、大幅に改善することができることになる。
更に、南満州から朝鮮半島への進撃を行うのにも、この作戦目標は、妥当と評されるものだった。
とはいえ、この作戦目標だけでは、ソ連軍の行動が容易に読まれてしまい、日満韓軍の対応も容易になってしまう。
第三極東方面軍に、虎の子の4個自動車化狙撃師団が投入されたのは、いわば助攻を行うことで、第一作戦目標の達成を容易にするためだった。
この4個自動車化狙撃師団は、複数の戦車旅団と共闘することで、新京、奉天方面を急襲する役目を担っていた。
ソ連軍の自動車化された補給部隊をかき集めて、大興安嶺から砂漠地帯を越える急襲作戦を成功させようと考えられたのである。
だが、これに対し、日満軍は激烈な抵抗を展開する。
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