第3章ー1 日ソ激突
第3章の始まりになります。
9月1日の日本の対独宣戦により、速やかに、ソ連は、対日宣戦を布告した。
(事実上、独ソは防衛同盟を締結しており、独が第三国により宣戦布告を受けた場合、ソ連もその第三国に宣戦布告することになっていた。)
それに呼応して、韓国、満州国も、従前からの日本との条約に基づき、対ソ宣戦を布告した。
9月3日に対日戦争の一環として開始されたソ連軍の満州への侵攻は、重厚極まりないものだった。
極東に展開するソ連三軍は、極東総軍司令部の隷下におかれていた。
中でも陸軍は、満州に東部から侵攻する第一極東方面軍、北部から侵攻する第二極東方面軍、西部から侵攻する第三極東方面軍の三方面軍に編成された。
東部から侵攻する第一極東方面軍が、中でもその主力であり、約18個師団が基幹部隊になっていた。
北部から侵攻する第二極東方面軍は、約8個師団を基幹部隊としていた。
西部から侵攻する第三極東方面軍は、約14個師団を基幹部隊としており、中でも4個師団は、当時のソ連軍にとって虎の子ともいえる完全自動車化を果たした自動車化狙撃師団であった。
すなわち、合計約40個師団を基幹とする80万人余りの大軍だったのである。
これに対し、在満州の日本軍は、中国内戦に介入していたこともあって、約6個師団しかいなかった。
同盟軍として、満州国軍10個師団、韓国軍6個師団がいるとはいえ、合算しても日本軍約6個師団程度の戦力とであると、日ソ(米満韓蒙)双方が考えている有様だった。
(なお、日ソ双方の師団戦力は、ほぼ同等だった。)
つまり、表面上の戦力比は、ソ連側が、日本側の3倍以上に達していたのである。
だが、ソ連軍の誇るこの大軍には、大きなアキレス腱があった。
それは、シベリア鉄道である。
シベリア鉄道が完全に運行不能になれば、極東ソ連軍は、補給切れとなり、崩壊することになる。
日ソ双方が、それを熟知していた。
それを避けるために、万が一、シベリア鉄道を攻撃すれば、それは民間人に対する攻撃とみなし、報復として、帝都東京、皇居を爆撃する、とソ連政府は、TB-3重爆撃機が開発された当初から、極東にTB-3重爆撃機を重点配置して、日本を恫喝していた。
1930年代、日本陸軍、空軍が、電探開発等の日本本土の防空体制確立に勤しんだのは、こういった背景があったのである。
天皇陛下の御宸襟を安んじ奉るためには、米英に協力を仰ぎ、電探網を張り巡らすこと等により、日本本土の防空力を、予め高めねばならない。
1939年9月まで、日本が、対ソ戦の決断をできなかったのは、この防空体制整備の問題があった。
そして、日本の陸軍、空軍が見る限り、この時点で、日本本土の防空体制は確立されていた。
また、極東ソ連軍の侵攻を防ぐために、最善の手段が、シベリア鉄道に対する攻撃だった。
ソ連軍の満州侵攻を受け、日本空軍は、韓国空軍や満州国空軍とも協力して、容赦のないシベリア鉄道に対する攻撃を開始した。
この日本側の態度を見て、ソ連側も、全面戦争へのためらいを捨て去った。
日本、韓国、満州に対して出入港する軍艦、船舶に対しては、無制限潜水艦作戦を展開すると宣言した。
そして、実際、日本、韓国、満州に対する交易活動等に従事していた米国船籍の商船5隻が、無警告で攻撃されて沈没し、更に救助活動を行った船舶にまで、攻撃が行われた結果、更に1隻の商船が沈没、多大な死傷者が米国人に出るという事態が、9月上旬に起こった。
なお、これに対して、ソ連は謝罪を全面的に拒否した。
宣言を無視して、出入港を行った方が悪い、という論理である。
米国世論は、激昂することになり、これを受けて米国議会は、対独ソ宣戦を承認した。
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