第2章ー9
ポーランドの首都ワルシャワに、最初に独陸軍部隊が迫ったのは、9月10日のことだった。
だが、これは独第10軍の一部の部隊が、威力偵察の末に到達したものであり、この時は、待ち構えていたポーランド首都防衛軍の前に、ほぼ壊滅といってよい損害を被り、這う這うの体で退却というよりも、敗走をする羽目になった。
ポーランドの首都防衛軍は、フォン=ボック大将を総司令官とし、ポーランド陸軍が保有するほぼすべての戦車部隊と自動車化部隊を集めたポーランド陸軍の精華ともいえる部隊だった。
ワルシャワを拠点として、自動車化歩兵師団2個、(徒歩)歩兵師団2個を中心とし、各種独立部隊を含む首都防衛軍は、約5個師団余りの部隊となっており、ポーランド全軍の1割以上に達していたのである。
独陸軍が、本格的なワルシャワ攻撃を始めたのは、9月16日になってからのことだった。
首都ワルシャワを攻囲することで、ポーランド陸軍に首都救援作戦を発動させようと、故意にゆっくりと独陸軍は、ワルシャワの包囲網を縮めたが、ポーランド軍主力のルーマニア方面への退却は続くばかりであり、これ以上、攻撃開始を遅らせては、ワルシャワ陥落が遅れるだけだ、と独陸軍総司令部は判断して、ワルシャワを本格的に攻撃することになったのである。
「遂に始まったか」
9月16日午前5時、フォン=ボック大将は、(この日1日で最終的に延べ1000機以上が投入された)独空軍が、本格的なワルシャワ市街地への無差別爆撃を始めた旨の各種報告を受けて、腹を決めざるを得なかった。
空軍からは、首都防空の為の戦闘機部隊を残すという提案もあったのだが、貴重な操縦士を少しでも国外へ逃がすために、フォン=ボック大将は謝絶していた。
そのため、対空砲火で迎撃するしかなく、防空効果は上がっていないようだ。
何れは、独陸軍のワルシャワへの本格攻撃が始まることは分かり切っていた。
そして、その前触れとして、独空軍の爆撃があることも。
だが、独空軍の市街地への無差別爆撃は、半ば想定外だった。
「ドイツの騎士道も地に堕ちたか」
ユンカー出身者として、フォン=ボック大将は嘆きつつ、更に内心で思った。
「最も、祖国独を裏切った私も、騎士道の裏切り者と言えるかもな」
なお、この時、独空軍が、ワルシャワ市街を無差別爆撃した、というのは、ポーランド側の主張である。
実際、この時、フォン=ボック大将率いる首都防衛軍司令部は、そのように無電で世界に訴えているが、そのような証拠は全く残っていない、あくまでも軍事目標に限定された戦術爆撃である、と独側(特に空軍関係者)は、戦後、主張している。
とはいえ、当時、120万人以上いたと推定されるワルシャワ市民の苦難の始まりに、この無差別爆撃がなったのは確かだった。
この時、フォン=ボック大将以下、首都防衛軍司令部は、ワルシャワ市民に市外への脱出を勧めたが、故郷を愛するワルシャワ市民のほとんどが脱出を拒否して、独ソ両軍から挟撃を受けるというこの事態において、約3割を占めるユダヤ系住民を中心に、積極的に女性や少年までが武器を取った。
また、フォン=ボック大将が総司令官だったことから、ヒトラー総統の直命により、ポーランド首都防衛軍の投降が拒絶されていたことも、ワルシャワ市民の犠牲を膨大にした一因だった。
(フォン=ボック大将を憎悪する余り、ポーランド軍の捕虜やワルシャワ市民についても、独軍には殺害命令が、ポーランド侵攻時にはヒトラー総統から出ていた、という説もある。)
第二次世界大戦、いや、世界の戦史上においても、最も凄惨な戦闘の一つとして数えられるワルシャワ攻防戦の始まりだった。
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