第2章ー8
「秩序だって、ポーランド陸軍は、ルーマニア国境方面に退却しています」
1939年9月10日、独陸軍総司令部は、最前線からの戦況報告を、そのように要約して、ヒトラー総統に報告する羽目になっていた。
100万人以上のポーランド軍は、表向きは敗走に次ぐ、敗走を重ねていた。
だが、見える人には、それが擬態だ、と見えていた。
また、ソ連軍による東方からのポーランド侵攻は、遅々としたものだった。
これは、ある意味、当然の話で、長年の事情から、ソ連軍の補給を担当する自動車部隊は、日本軍に対処するために、多くが極東に送られていた。
(西方には独という半同盟国がいるのに対し、極東ではソ連自ら日本軍に対処せざるを得ず、更に日本軍が米国と共闘して自動車化を順調に進めているとあっては、ソ連も対抗上、数少ない自動車を極東に集めざるを得なかった。)
このため、ポーランド侵攻の際、ソ連軍の補給は、鉄路を基本にすることを、ソ連軍は考えていたが、鉄道の軌間の問題(ポーランドの鉄道は、いわゆる標準軌なのに対して、ソ連の鉄道は広軌である。)から、ソ連軍がポーランド領奥深くに進撃するには、鉄道の改軌が必要不可欠だった。
そういった事情から、ポーランドの首都ワルシャワの占領については、ソ連軍は、独軍に任せるしかなかったのである。
そして、独軍の進撃は表面上は好調極まりないものだったが。
例えば、ポーランド侵攻にいて、独軍の主力として期待されていた第10軍は、表面上は快進撃を行い続けたが、実際には多大な戦果を挙げているとは、とても言い難い有様だった。
何しろ、開戦以来の10日間で、独第10軍司令部が参謀本部に戦果として報告した、戦場に遺されていたポーランド陸軍の死者、及び負傷捕虜は、1万人にも満たない有様だった。
なお、無傷で捕虜になったポーランド兵はいない、と独第10軍は報告する現状があった。
他の独軍の各軍司令部の現状も似たり寄ったりだった。
ソ連軍も戦果を挙げているとはいえ、このまま行けば、80万人以上のポーランド兵が、ポーランドから脱出するのは必至と、独ソ両軍の最高司令部が共に考える有様だったのである。
そうなった場合、どのような事態が起こるか。
フランスからの英仏(米日)連合軍の1940年春の大攻勢を、独軍単独では阻止できない、と独軍は考えざるを得なかった。
それまでに独軍は、135個師団を整えられる予定だったが、一方、ポーランド軍を加えた英仏(米日)連合軍は、180個師団を越えるだろう。
更に、米国の航空隊の来援により、制空権を独空軍が確立することは困難だろう。
このような戦況において、独軍単独では、英仏(米日)連合軍の1940年春の攻勢を防ぐことは困難だ、とヒトラー率いる独政府、軍は考えざるを得なかった。
かといって、ソ連軍を独に進駐させ、独ソ共同で、対仏攻勢を行うというのは、独政府、軍としては感情的にも、その他、様々な面からも困難な話だった。
こういった事情から、9月10日現在、独陸軍総司令部は、ポーランド侵攻作戦を実際に担っている現場の各軍司令部を叱咤激励し、ポーランド軍の殲滅を図ろうとしていた。
そして、独陸軍総司令部が、目を付けたのが、ポーランドの首都ワルシャワだった。
ワルシャワに独軍が攻撃を仕掛ければ、ポーランド陸軍は救援に駆けつけるだろう。
実際、ポーランド陸軍の数少ない戦車部隊や自動車化歩兵部隊は、首都ワルシャワ防衛のために集められている、とのことだ。
そう、独陸軍総司令部は考えた。
だが、彼らは、この時、戦史を忘れ去っていた。
ポーランドは、ナポレオンのロシア遠征の際と同様、首都の放棄を既に決断していた。
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