第二日目 9
9
足音忍ばせて廊下に出た。かすかにがたごと人の声がするけれど、待ち合わせ場所の男子トイレ前には天羽しかいなかった。
五時集合というのは早すぎたかもしれないけれど、六時前には普通起きるだろう。旅館の従業員さんらしき人が通り過ぎるたびに戸の中へ隠れ、また様子を見計らって外に出る。天羽と顔を見合わせてただ笑い合う。
「難波も更科も、すっかり忘れてるよな」
肩をすくめて「あいどんとのー」とやってのける天羽。いつもの口調で、
「そりゃあしょうがねえじゃんかあ。お前みたいに、品山から毎日自転車漕いできているわけじゃあねえんだからさあ。ま、今朝は俺とお前、久々に連れぐ……」
「それ以上言うなよ」
僕は戸口でしゃがみこみ、襟元を深く合わせなおした。朝はまだ冷え冷えとしていた。調理室だろうか、かちゃりかちゃりと音がするのは朝食の準備だろうか。腹が空いて来た。 「便秘防止のためにな、これ、飲めよ」
取り出したるは、ミネラルウオーターの缶だった。二本両手に持っている。さっき僕の顔を見るやすぐに、百円分おごってくれた。ありがたく受取り、一気に飲んだ。
「あーあ、生きているって感じだよな」
つい、口に出た。身体の中の汚いものが全部洗い流されたって感じだった。
「じゃあ、じゃんけんで決めるか、立村」
「そうだな、グーとパーで」
一、二番の順番を決め自然なことをさっさと済ませることにした。
本条先輩の命令は、とりあえず僕たちふたりが守ったってことにした。
終わらせたら自分らの部屋に戻って三十分くらい布団に入っていてもいいんだが。なんとなく戻るのがかったるかった。もう一度、浴衣の帯を締め直すと天羽がにやにやと座り込んだ。
「お前、昨日、すごかったんだってな」
「なにがだよ」
──もうばれているのか。
しょうがない。寝ながらちょっと言い過ぎたかな、とは思っていた。目が覚めたらきっとクラスの連中からは「お前、ちょっと顔貸せよ、何様のつもりなんだ」くらい言われてもしかたないだろう。
──他の連中に目が覚めたら素直にごめんと謝らなくちゃな。
「短剣畳に突き刺して、『俺の女に手を出すな!』発言したんだってな」
──微妙に意味が違ってるような気、するよ、天羽。
しょせん、おもちゃのちゃちな短剣だ。頭を冷やせばそんな無駄なことしたって意味ないじゃないか、そう思える。でも、やっぱりなんか「溜まって」いたんだろう。あの時の自分の行動が、思い出すたびみっともなくて泣けてくる。
──まだまだ先は長いってのに、俺何やってるんだかな。
「勝手にそう思ってくれ。申しわけないけど、今俺は猛烈な自己嫌悪に陥ってる」
説明的な台詞を天羽に伝えた。
「そんなことねえよ。お前、男だな」
背中に手を回された。ふだんだったらその行動、気持ち悪くって手に一発噛み付いてやるんだが、なんだかそれすらどうでもよくなっていた。天羽はもともと「スキンシップ」を求めることが非常に多い。一年、二年の頃はその行動がどうもいらいらする元凶だったのだけれども、今の僕はだいぶ慣れてきたのかもしれない。
「変なこと言うなよ」
お礼を言うのはやっぱり、変だ。男子たちの返事は、照れ隠しだけれども、肯定でもある。
女子にはきっとわからないところかもしれない。
清坂氏のこと……いわゆる、女子のご機嫌がものすごく悪くなるある一週間……のことを聞いてから、僕なりにどうしたらいいか考えてはいた。
一応保健体育の授業はきちんと受けていて、あまり怪しまれないようにテストでは中途半端な点数を取るよう心がけたりしていた。だって、排卵日とか妊娠しづらい日とか避妊方法とかの内容を全部答えて満点なんて取ろうもんなら、男子女子関係なく何言われるかわからない。羽飛だけはしっかり勉強して満点取っていたし、それで叩かれることはなかったけれども、それは羽飛の立場がそれだけがっちりした足場のもとにあったからだ。僕なんか、どうなってたかわからない。
──うちの母さんと同じになったら怖いよな。
──とりあえず、二日目はあまり変なこと言わないようにしておこうかな。
もちろん、それがかえっていやらしいと言われたらそれまでだ。でも僕の認識の中では、清坂氏の状態が決して楽なものではないだろうということは想像できた。あの、なんでも一人でちゃっちゃとやってしまう性格の清坂氏がだ。古川さんの手を全部煩わせるようなことをして、泣きじゃくっているというんだから。きっと僕に知られたこと自体、屈辱的だったんじゃないだろうか。もう少し僕も、風呂場で顔を合わせた時にうまいことを言えればよかった。難波と更科…… やっぱりあいつらが目の前にいたら、僕のことだ、嫌味をまた一発二発口走っているかもしれないな……の言葉でまた、清坂氏の感情に火をつけてしまったのは大誤算だった。ほんと、僕の頭の悪さ加減には、大失態、としかいいようない。
「お前のせいじゃあねえだろ、女子のことはさ」
慰めの言葉かどうかわからないけれど、天羽がひとりでしゃべってくれる。
「清坂のことはA組にも伝わってるな。ま、女子の方はどうかわからねえけど、うちの近江ちゃんは清坂のことを激愛しているからな。うまく守ってくれるだろ。D組だって古川がいるしな。ま、しばらくあいつのお下劣なギャグに付けねらわれるのはあきらめとけよ」
「慣れてる、大丈夫」
大きくため息をついてしまう。こういうみっともない顔を、まさか天羽の前でさらけ出せるようになるとは、一年前の自分は決して思っていなかった。
「うちのクラスのことは、なんとか俺が黙らせるように頼むかなんかするけどさ」
もう懐刀での脅しは通用しないだろう。わかっている。たぶん菱本先生に通告されて、旅行終わるまで刀は取り上げられる。
「でも、他のクラスのことまでは手が回らないしさ」
「お前、ほんっとに清坂のこと惚れてるんだなあ」
「天羽の近江さんに対する愛には負けるよ」
そういう恥ずかしいことを言えるのも、おとといの天羽に関する恋愛騒動が若干関係していたのは否めないだろう。天羽を挟む女子の三角関係に、終止符を打つ場所へ、僕はいた。当事者ではないけれども、すべてを知ることができた。言いたいこと、ちょっとひどいじゃないかとつっこみたいこと、いろいろあるけれども、今の天羽の態度を受取るとそれすら言えなくなりそうだ。
「ま、A組の野郎どもについては、俺もうまく手、回しておくからさ」
「助かる。感謝だ」
「それに難波も更科も、責任感じてるだろ。あいつらもあいつらなりに、反省して」
「ないよきっと」
清坂氏のことだけではない、と言わなくてはならないだろう。しかたなく僕は、昨夜の言い合い、難波と霧島さんとの男女評議対決を説明した。あまり互いの名誉にならない内容も話さなくてはならないけれど、今の天羽には、素直に話せる。
だいぶはしょって説明したけれど、天羽はすぐに頷いた。髪の毛をかき混ぜるようなしぐさをした。
「そうかあ。霧島もなあ」
「確かに言いたいことがあるのは認めるけど、古いことを持ち出すのは反則だと俺としては思う」
「女子のことはもう、放っておいた方がいいのになあ。なんでだか」
今度は天羽の方が深くため息をついた。
「俺が言うのもなんだけどなあ。なんで霧島はあそこまで男子を攻撃したがるのか、その理由わかっていれば、だいぶ違うと思うんだけどなあ」
「理由なんてあるのか? 単純に男嫌いなだけじゃないのか?」
「いや違う」
天羽は首を振った。くしゃみをひとつちいさくした。
「話に聞いたことあるけど、霧島のうちな、典型的な男尊女卑の家なんだと。とにかく異常なほど、男がえらい世界なんだと」
「それはうらやましい世界じゃないか」
なんとなく聞いたことがある。
「食事は父親弟、すべて二品特別なおかずが出るんだと。風呂は当然男が先に入るし、父親が帰るまでは食べることも寝ることもできないんだと。毎日三つ指ついて父親を迎えて、弟に対しても同じように振舞うことを要求させるんだと。あそこのうち、なんでも着物屋やってるだろ」
呉服屋の間違い、と言いたいのを我慢する。
「後継ぎはとにかく、ガキのころから大切にされるらしいんだ。けど嫁にいっちまう長女ははっきり言ってどうでもいい。むしろ言うこときちんと聞いて、玉の輿を見つけることができればそれでいい。と、まあ、現代日本においては信じがたい環境下にくらしてらっしゃるわけっすよ。霧島姉さんは」
──それ、西月さんから聞いたんだな。
だいたい清坂氏から、そのあたりの事情は聞いていた。大変なんだな、とだけ同情していた。裏を返せばその横暴さは、我が家では母がいた頃、日常的に行われていたことだが。
「その反動か」 「そ。けどあの性格だろ。霧島は一日中親に反発するなりなんなりして、家出したり、いろいろやったらしいぞ。ほら、殿池先生のうちに逃げ込んだこともあるらしい。噂だけどな」 「逃げ込んだっていうか、単なる泊りってことにしてだよな」
それも噂というか、清坂氏から聞いている。
「ところが、親は全然捜しにこなかったらしい。あとで聞いたことによるとだ」
「お前なんでそんな知っている?」
「なんか知らねえけど知ってるんだよ」
天羽はちらちらと視線をちらつかせながらささやいた。
「別にいてもいなくてもどうでもいい。いざとなったら養女に出したっていいって、おっぽかれたんだと。さすがにこれ、聞いた時は俺も哀れだなあって思ったぜ」
──確かに。
僕がもう一度ため息ついたのは、虐げられているらしい霧島さんに対してではなかった。
──天羽、やっぱりお前、評議委員長に向いていたはずだよな。
くったくなく笑う天羽に僕はいつも、思う。
今だから言えることだけども、僕の代、評議委員長になるのはたぶん天羽だと思っていた。 本条先輩に一年終り頃、
「いいか、立村、お前委員長候補だってこと、忘れるなよ」
とささやかれるまでは、僕が委員長指名されるなんて想像したことすらなかった。本当だ。一年の頃は当時の委員長、結城先輩からも、
「今年の一年野郎組、長男が天羽だろ、次男が難波、三男が立村で、末っ子が更科ってとこか」
と呼ばれていたことからして、僕の評価がいかに低かったかわかるだろう。自分と同じ認識だったし、それはそれでしょうがない。周りをお笑いののりで和ませて、さりげなく女子たちにも明るく「よっ、ご両人! いい雰囲気どすなあ〜」とインチキ関西弁で乗せていく。多少きついことを女子たち、先輩たちから言われても、「そりゃあどうも失礼いたしやした! 反省、反省だよなあ、男子一同はな」と笑って流す。すでに一年の段階で天羽の態度は他の連中にくらべてはるかに大人だった。こう言ったらまずいだろうが、天羽と二年まで女子評議としてコンビを組んでいた西月さんよりははるかに、頭が切れる奴、という認識を持っていたのは確かだった。
後で本条先輩以外の一年上先輩たちに聞いたところによると。当時の評議委員長、結城先輩は天羽を次期評議委員長として仕込むことを提案したという。それはそうだろう。本条先輩が僕のことを強く推して押し切ったらしい。あの頃の僕は、クラスのごたごたとか計画失敗による責任を背負ったりとか、とにかくみっともないことばかりやらかしていて、たぶん次期評議委員には選出されないだろうと覚悟していた頃だったのにだ。本条先輩がなんで、あの頃の情けない僕を評価してくれたのか、今だにわからない。
もっとすごいのは、天羽がその事実を知っても、全く僕に対して態度が変わらなかったことだろう。
本来、自分よりも格下の奴にトップの地位を奪われたら……トップったって結局は雑用係なんだが……、やっかんだりいやがらせしたりしても、何の不思議もないだろう。特に僕みたいに数字に弱くて女子たちからも受けが悪い陰気な奴だったら。それに本条先輩ときたら、僕たちが二年に上がってから当然のごとく、僕が評議委員長になるであろうという仮定のもとみんなに話をするようになったのだ。他の同期連中が受け入れてくれたのは、みんな思いやりのある性格だったから、と納得できるものはある。けど、もし天羽が僕に対して少しでもやっかみとか感じていたとしたら、僕の性格上必ず気が付くと思うのだ。ちょっとしたことでやたらと神経質、というのが僕の性格における最大の難点だ。直感で、悪意を強く感じてしまった時にはどうしてもうわっつらでしか話ができない困った性格なんだからどうしようもない。天羽は僕の悪意用アンテナに全くひっかからず、かえって一生懸命手伝いをしてくれた。
そうだ、一年前、僕がとち狂って宿泊研修中にバスを脱出して大騒ぎとなった時だってそうだ。
あれには僕なりに言い分はあるし、やったことに後悔なんてこれっぽっちもしてはいない。
ただ、A組に絡んだ出来事でもあったし、次の日天羽と放課後顔を合わせるのが苦痛だった。
──天羽の奴、一言だけだもんな。
「立村、うちの担任の電話番号、どうして俺に聞かなかったんだよ」
もっと天羽に詳しい相談を持ちかければよかったのだと、あとあと反省したものだった。一年前の僕は同期よりも、一年上の本条先輩にばかり頼りすぎていて、天羽たち同期男子評議たちとは一線を引いていたきらいがあった。もっとつっこんだことを話しておけば、もっと要領よく問題を解決できたはずなのに。もっともその件については、数ヵ月後本条先輩の厳しいお言葉や制裁によって、いやおうなしに彼らを最高の盟友として受け入れられるようになったけれどもだ。
今だってそうだ。トイレの前で朝一番、待ち合わせ、の約束を守ってくれたのは唯一天羽だけだった。
一度約束したことは絶対に忘れない。義理堅い。やらねばならないことは必ずやり遂げてくれる。しかも、周りのご機嫌を悪くさせないようにして。これって、評議委員長に求められる最大の要素じゃないだろうか。
──俺はやっぱり、器が小さいんだよな。
評議委員長に正式任命されてから三ヶ月。毎日、クラスや委員会、他の中学のことなどで落ち込むこと多々有り。
やっぱり僕には向いていないのか、とも思い泣きたくもなる。
ただ一年前と違うのは、しんどくなって泣きそうになった時かならず、評議三人衆がいろいろと声をかけてくれたり、僕が頼みもしないのにどんどん仕事を進めてくれたりと、協力してくれることかもしれない。今までは本条先輩しか見てこなかった僕なのに、いつのまにか周りが僕の失敗を埋めて行ってくれている。憶測だけども、たぶん三人の中では一番仕切りのうまい天羽が、うまく難波や更科をまとめて僕につないでくれているのだろうと思う。
──影の評議委員長だといっても、おかしくないよな。天羽は。
──けど、なんでだろう。
めったに天羽とふたりで話をする機会はない。
こうやって廊下の炊事準備の音を聞きながら、臭い匂いのするトイレ前でしゃがみこんでいるだけだ。
「天羽、今、聞いていいか」 どうしても、これだけは聞いておきたくて、口走っていた。
「ああなんだ? もしかして、禁じられた愛の告白?」
「それは相手が違うよ」
茶化しておいた後、僕は尋ねた。
「お前、もっと上手に西月さんを振ることできただろう? なんであんな、下手なやり方したんだ?」
笑ってごまかされてもしかたないだろう。もう終わったことだと僕も思っていた。でも、聞かずにはいられなかった。
「天羽、お前だったら、もっと要領よく出来ただろ? いいか悪いかの問題じゃないんだ。どうしてあんなやり方した?」
天羽は答えなかった。ちらっと隣の僕を見つめ、唇をぎりぎり突き出すようにとんがらせて、小さく口笛を吹いた。
「要領よく、かよ」
「そうだよ。天羽だったらわかっていたはずだよな。西月さんの気持ちがお前に向いているってことわかった段階で、さらっと『実は好きな子がいるんだ』みたいにごまかして、友だち付き合いにしてしまうとかさ。お前が西月さんを嫌いな理由については俺自身、何も言えないけど」
「へえ、そうか。同感?」
それには答えなかった。
「でもさ、どんなに天羽の本音が限界だったとしても、相手が被害者になったらその段階でお前、勝ち目なくなるってこと、気付かないほどばかじゃないだろ? どんなにお前、西月さんにしつこく付きまとわれて限界に達してたとしても、口きけなくなるくらい傷つけた段階で言い訳できなくなるんだぞ。そのくらい、わかっていないお前じゃないよな。俺ならともかく、天羽、お前ならさ」
なんでだろう。こんなこと、南雲くらいにしか話したことなかった。
なんで、天羽になんだろう。
──なんで……。
天羽はしばらく唇をとがらしたまま真っ正面の壁を見つめていた。僕の方をちらりとも見なかった。
冬休み明けに頭を丸刈りにしてきてから、だいぶたっているせいか髪の毛もだいぶ伸びている。
かき回してぼさぼさにするのも、さまになってきている。
「立村には世話になったもんなあ」
ひとりごちた。
「わかった、言うわ」
ジャージ下のゴムを伸ばし、へそのあたりで手を重ねてぐいと押した。
「去年の八月な、お前が電話をしてきた頃な」
──宿泊研修の時か。
次に続いた言葉に、僕は息を止められた。そのまま、視線は同じ一点、真正面だけ見据えていた。
「俺、童貞、捨てたんだ」
──童貞、って、つまり。あの。
保健体育の中では一切出てこないけれども本条先輩と一緒に見た、アダルトビデオの世界。いや、雑誌の中でからみあっている男女の身体。妙になまなましい、重なり合い。
天羽の横顔にはちっとも曇りなんてなかった。汗もかいていない。いつも見慣れた天羽のままだった。
「やっぱし、驚いたか? 立村」
「いや、あの、去年の夏?」
「そうだ。お前がうちのクラスの女子のことで、電話かけてきたあの一週間くらい前なんだ」 僕は浴衣の裾を直して、ぺたんと座りこんだ。トイレの前の床なんて汚いと分かっていても、そうせざるを得なかった。腰が抜けた、というんだろうか。頬が熱い。一緒に全身、血が駆け巡っている。
「捨てたって、誰と」
「抜けた団体のおばさん」
もういちど「おばさん」と繰り返した。なんだか「何食べてるの?」と聞かれて「おにぎり!」と答えた時のようなのほのほとした感じだった。
「ほら、俺、去年の八月まで、宗教団体に入ってたって言っただろ? そこの人」
「おばさんって、歳、幾つくらい」
尋ねるのにもぶっきらぼうになってしまう自分がいる。
「三十五って言ってたな」
──うちの母さんと同じくらいじゃないか。
「二回やって、それ以降は会ってねえよ。だから二回だけ」
「けど、やったんだろ」
やる、という動詞が妙に生々しく聞こえた。自分で言葉を叩きつけるために「やったんだろ」とか言っているのだけれども、実際の行動とが言葉にかさならない。「やる」といえば、自分ひとりで写真集を見て処理をしたりするのもそうだし、ものを渡したりプレゼントしたりするのも、そうだ。でも、今の天羽は「やる」イコール、あの行為を意味している。
「誰かにそれ、言ったのか?」
「まさか。俺だってそこまで変態じゃねえよ」
「けど、お前うちの学校で一番最初かもしれないのにさ」
なんかまぬけなことばかり僕は口走ってしまっている。腰のあたりからずうっと冷えてきて、また熱くなったりして頭の中がごちゃごちゃしてきている。天羽の相手が三十五のおばさん……うちの母さんと同年代……というだけでも信じられないのに、全然変わることなくしゃべっている隣の天羽も僕には化け物に見える。
「南雲はまだなのかなあ」
「わかんないけど」
──ゴムは持ち歩いてるけどな。あの頃から。
何度か袋を破いて、伸ばしてみたことのある、薄いゴムの指ざわりを思い出した。また、妙に身体がほてってくる。天羽に「立村はまだなのか?」と聞かれたらどう答えたらいいんだろうか。もちろん、まだもなにも、始まってなんていないと言うしかないのだろうけれども、そんなことしたら、一層天羽が遠くなりそうだった。コンドームの薄く伸びる感覚が、どこか一線を引いた世界にも似て震えがきた。
天羽は僕自身のことについてはなにも、質問してこなかった。
「けど、お前、中学生とそういうことしたら、そのおばさん、未成年者を連れ込む犯罪者ってことになるかも」
認めたくない。法律にかじりつく。
「俺も、向こうも無理やりやったわけじゃねえよ。ただ、やれたからやった、それだけだ」
──やれたからやった?
恐る恐る、僕はひとつの質問をした。
いくら口にしても、僕と天羽が同じ位置に立てない、わかりきっていても。
「その人のこと、気に入っててか」
「まさかだろ。俺、更科と違って年増ごのみじゃねえよ」
「じゃあなんで」
「やらざるを得なかったし、やるようなかっこうになったからなあ」
──かっこう?
いくら鈍い僕でも、その意味は通じる。
「かっこうって、けど相手、好みじゃなかったのにか?」
「あのな立村」
少しあきれた風に僕の名を呼んだ。一年の頃と同じ調子だった。
「嫌いな奴でもそうなっちまうんだよ。一回覚えたら、そうなんだ」
一瞬、頭の中が思いっきりちーんと鳴った。
「嫌いな奴でも、ってもしかしてそれ」
「立村、お前清坂のこと好きだろ。なら絶対そうなるよ。けど、俺の大っ嫌いなタイプの女だって、やりたくなったらそうなっちまうんだ。なっさけねえよなあ」
以下、僕の中は完全に凍り付いていた。そのフリーズ状態に気付いて、天羽は言葉で溶かそうとしてくれたのかもしれないけれど、逆効果だったのは否めない。僕はただ、天羽が話してくれた事実と例の事件とを絡めてみて、ああそうか、と認識するのがやっとだった。学校に戻れば僕の方が評議委員長としての肩書を持ち上に立っているのだろうけれども、やはり天羽とは差がありすぎる。
──どうしてだよ、天羽。
つぶやく声を聴きつづけながら、僕は天羽の話を無言で聞いた。
「俺が去年の夏まで、宗教団体に入っていたってのは聞いたよな。なんで俺が夏冬休み通じて全く評議委員会の合宿に参加できなかったのかとか、なんであそこまで人づきあいよさな顔をしていたのかって、変なところあっただろ。いろいろあって俺もその団体から家族一緒に抜けることが決まって、いろいろと後準備をしていたんだ。準備ってなにか、まあ経典を捨てるとか、一緒に活動してきた連中にバイバイしたりとまあいろいろとさな。けど、生まれた時から一緒につるんできた連中なんだ、そう簡単に別れられるわけねえよな。で、去年の夏、いつも面倒見てくれていた女の先輩に呼び出されたんだ。そこの集会場の中でふたりきりで。脱会、絶対させないっていうつもりで説得しようとしたんだろうなって今になれば思う。けど俺もその先輩女としていまいち好みじゃなかったし、絶対ふたりっきりで部屋に入ってもそんな気になるわけねえって思ったから、そのまんま、一緒の部屋に泊ったってわけだ。もちろんうちには、結城先輩の家に泊っているって事にしてごまかした」
──一緒の部屋に泊るだけなら、好きでもない人に、そんな気になるわけないよな。そうだよな。
「けど、いろいろ話をしているうちに、俺もだんだん、一回くらいならいいかなって気になってきたわけなんだ。女子だったらなくすものもあるし、妊娠してしまう恐れもあるけど、男子が童貞なくして損することってほとんどないだろうって思ったからさ。筆おろしをさっさと終わらせて、はいさよならでいいかなって、ガキだった俺は思ったわけなんだ」
──損、することはない、か。
「終わった時はそんなたいしたこともなかったんだ。言っとくけど、変なことされたとか、縛られたとか、たたかれたとかそういうわけじゃねえ。本条先輩と同じようなことをしたってだけだ。結局終わって後、俺はやっぱり脱会の意志が変わらないってことを言って、本当にバイバイしてきたわけなんだけどな」
天羽は具体的な行為の説明を一切しなかった。
「やっぱし、男になったなあって感動はあった。俺知っている限りだと、やったことある中学生って、本条先輩くらいだろ? まああの人は数がすげえからな。比較対照にはならないってわかっているけど、やっぱり俺の方が一歩早く男になったよな、って自慢したくてなあ。そのこと誰に話そうかってわくわくしてたんだ。一週間くらい。もう水着の写真なんてばかばかしくて見てられねえし、実際みた生のものをもう一度見たくなったりと、かなりエロな妄想ばっかりしてた」
──わくわくするんじゃないって言いたいよな。色々裏事情あるのはわかっているけどさ。
天羽の言葉には、相手の女性に対する感情がほとんど感じられなかった。一年前のことだし、忘れてしまっているのかもしれない。もともと天羽は切り替えの早い奴だった。
「で、一週間後。評議の用事があって学校に行って、たまたま当時の女子評議とふたりっきりになった時な」
──西月さんか。
苦そうな顔をしてつばを鳴らしたのは、気のせいだろうか。
「もともとあの頃から俺、あの女子評議のことが好きになれなかったってこと、認めていたんだ。もうこのあたりもお前は知っているからわかるよな。立村、お前の言う通り、最初は別に好きな子がいるって建前にして逃げるつもりだったんだ。向こうのいかにも恋人気取りなアプローチをどう避けようかって考えたら、それがベストだなって気がしてな。それに、うちのクラス当時、お前の知っての通り女子でひとり退学者出してただろ。なんとかクラス、なんとかせねばなあって思って頭が痛かったんだ」
意味ありげに僕を見つめ、また目をそらした。わかっている、僕の「前科」だ。
「向こうは意識してたかしてねえかわからねえけど、ノーブラでさ。まあそれほどたれてないのは見てとれたし、別にそれくらいたいしたことなかったのかもしれないしな。けど、見たとたん、一週間前の『祝・チェリーボーイ卒業!』って映像がばばばって頭の中を、駆け抜けたって感じになっちまったんだ。うまく言えねえけどさ、立村わかるか」
──わかるよ、すっごく、よくわかるよ。
頷いた。聞いているし、理解している証拠として。
「俺、慌ててしゃがみこんで、してもいねえコンタクトレンズをなくした振りしてしばらく這いつくばってたんだ。わざとらしい甘ったるい声、俺なりに出して『小春ちゃーん、悪いけど、先に行ってて待っててえなあ〜』とか関西芸人の真似。冗談じゃねえよ。まさか、あいつにまで、ああいう反応しちまうなんて、俺としては思ってなかったんだよ。わかるか、立村」
「健康な男子」としての自然な反応。
──あの頃から、天羽は西月さんのことが大嫌いだったんだよな。
「わかるところと、わかんないところがある。それが本音だ」
僕にはこれしか答えることができなかった。
やっぱり照れもあるのだろう。天羽はところどころにお笑いを入れて話をしてくれた。話だけ聞いていれば、ささいなこと。そんな風に思えてしまう。本当は宗教関係の複雑な事情とか、口には出せないくらいの修羅場を乗り越えてきたはずの奴なのに、天羽の言葉にはそんな汗臭さがみじんも感じられなかった。
「ま、今まで信じてきた神さまの前で破廉恥なことやっちまったってことで、とっくに破門になったっていいような気するけど、これも運命ってやつかしらんねえ、立村ちゃん」
けど、僕の顔があまりにも暗かったのと、そろそろ部屋から顔を出し始め……男子は特に、僕たちと同じ目的でもって……トイレの様子をうかがおうとする奴が結構いたこともあって、途中尻切れトンボで終わってしまった。
「立村の質問にはまだ、答えてねえな」
僕が問い詰めようとする前に、天羽はさっさと先回りしてさらっと言ってのけた。
「どうせ今夜、男子評議連中と部屋で溜まるだろ。続きを話す余裕はあるって。そんなすねんなよ」
──すねてなんていないさ!
──俺はただ。
言葉がうまく出てこない。浴衣の襟と帯をいじりながら僕は立ち上がった。スリッパの足裏がべたべたしていた。
「けどな、立村、お前清坂のこと、本気だな」
「本気もなにも、一応は付き合っているさ」
意味不明な言葉で返してしまった。平然としている天羽にどうすればいいか、僕だって困る。
「だったら、チャンスがあれば、いいじゃねえか」
「なにが、だよ」
さすがに他人様特に大人連中に聞かれるのを恐れたんだろう。声を潜めて天羽はささやいた。
「女みたいなこと言うようだけどさ、やっぱし、いっちゃん最初は惚れた子とした方があとあと気が楽だぞ」
「そんななに考えてるんだよ!」
「俺、はっきり言って、三年になるまでずっと後悔のしっぱなしだったんだぞ。せっかく『卒業』したのにさ」
「ええ?」
男子にとって、経験済みという印は男子限定で高い評価に繋がるけれども、天羽は反対のことを言うのが不思議だった。
「だってな、嫌いな女にもむらむらきちまうのは、やっぱり変だろ」
──それは写真だって一緒だろ!
「軽蔑されるかもしれないけどな、立村、俺がもしあのまま西月さんと付き合っていたとしたら確実に」
──まさか!
D組の男子大部屋前で立ち止まった。どくりと血が下に溜まっていくのがわかる。天羽が僕の肩を軽く叩いた。
「一ヶ月以内に嘘つきまくっておせじ言いまくって、とにかくやらせてもらおうとしてたって、断言できるんだ」
──天羽、それがまさか。
「……答えか」
自分でも浴衣の胸元あがりがべたべた汗をかいてきていることに気が付いた。歯ががたがた言っている。そんな僕は天羽にどう映っていたんだろう。声を荒げることもなく、かといってふざけているわけでもなくて、ただ本当のことなんだってことを伝えようとしてくれる。僕が去年の夏、宿泊研修の時に天羽宛に泣きつきの電話を掛けた時も、こんな冷静さで答えてくれた。やっぱりこいつには人を掴み取る何かがある。
「やっぱし立村、わかるか。ほら、中さ先に入れ。俺も戻る」
言われた通り、素直に戸へ手をかけるしかなかった。すでにD組連中の一部は布団をぐるぐる巻きにして起き上がっているようすだった。閉め際に後ろを振り返った。天羽の姿はもうなかった。
──天羽がなぜ、あんなへまな形で西月さんを振ったのか。
僕の中に働いている言葉作りの機械ががたがた動き出している。
──好きでなくても、やれるってほんとうかよ。
──しかも、うちの母さんと歳そんなに変わらない相手とだぞ?
──無理やりじゃなくて、ちゃんとできたって、ほんとかよ。
もちろん僕だって、もう少し場所とシュチュエーション、あと相手が違っていたら別の切り返しができただろう。難波や更科だったら、「今後のために詳しい事情聴取をさせてほしいんだが、いいか?」と言い返し、相手を照れさせたりおののかせたりすることが可能だろう。けど、天羽の家庭事情をすでに詳しく聞かされている身としては、軽く冗談めかした形にはどうしても納められなかった。
天羽一家がとある宗教団体に去年の夏あたりまで、家族で入会していたということは、先日の件で聞いている。
しかもそこではいろいろと因縁があって、やめるのに一騒動あったということも。その宗教団体はその二ヶ月後に新聞の社会面へでかでかと載るような事件を引き起こし、結局はなりを潜めたと聞いている。ぎりぎりセーフで天羽たちは抜け出した、それはよかったな、で済ませられると思う。
三十五歳女性との初体験は、そのごたごたの流れで起ったことなのだと判断するのはたやすいだろう。天羽も「祝・チェリーボーイ卒業!」とふざけていたけれども、一番最後に「三年になるまでずっと後悔のしっぱなし」だと言ったところみると、決して幸せな経験ではなかったんだろう。残念ながら全く未経験の僕には想像がつかない。ただ、男子にとって一刻も早く童貞から卒業できることは、誇りであることも認めるしかない。本条先輩がふたりの彼女と均等に付き合い、数限りないその経験を重ねてきたことについてはいろいろ意見があるかもしれないけど、僕の本音としては「すごい、やっぱり本条先輩はすごいんだ」という誉め言葉になってしまうだろう。僕にはまだ果てしない先の経験を、日常的にこなしているのだ。うまくいえないけれども、男子にとって初体験が早いことは恥ずべきことではない、というのが認識としてあるわけだ。僕だってそのくらい、わからないわけではない。クラスでももう済ませている奴はきっといるだろうし、そのことにとやかく言うつもりもない。ただ、すごいな、それだけだ。
けど、天羽の話によると、早く経験したからといって、「男」の誇りを持つことができる以外の副作用もかなりあったみたいだ。半年以上も後悔するしかなかったというその結論。天羽が西月さんをとことん嫌っていたことはすでに判明している。そんな相手でも、身体がしっかりと体勢を整えてしまう。それに、
──俺がもしあのまま西月さんと付き合っていたとしたら、確実に一ヶ月以内に嘘つきまくっておせじ言いまくって、とにかくやらせてもらおうとしてたって、断言できるんだ。
そこまで、そんなにまでして、したくなってしまうものなのだろうか。
グラビア写真集では間に合わないくらいに。
わからないとは言わない。僕の身体の中にもその機能や衝動はしっかり埋め込まれているし、日々罪悪感を感じたりもしているわけなんだから。でも、そこまで激しい欲望、欲情っていうのが湧き出てしまい、嫌いな女子でもかまわない、やらせてくれる相手だったら誰でもいい、そんな気持ちに天羽を追い詰めてしまうようなものってなんなのだろう。
──やっぱし、いっちゃん最初は惚れた子とした方があとあと気が楽だぞ。
本条先輩は全く反対のことを言っていたっけ。
──立村、お前、初めての筆下ろしはな、教えてくれるお姉さんにしろ。俺みたいにゴムのつけ方もわからねえうちにやっちまうと、あとあと苦労するぞ。それに初めてだってことが惚れてる相手にばれると、一生尻に引かれるからな。
関心ないなんて、絶対に言えない。今ももう、着替えしながらも頭の中には天羽の言葉が繰り返し走りつづけている。言葉だけで天羽と謎の三十五歳女性…… さすがに母さんと重なるのはおぞましいので顔を想像したりはしないけれど……の、写真で見るような怪しい絡み合いがうごめいている。消したくても、どんなに忘れたくても、言葉の端で蘇る。
──だからか、天羽。
布団を畳み、隣でまだ寝ている羽飛を懐剣で軽く叩いて起こし、南雲に昨夜の謝罪……もちろん一礼程度で笑顔が返ってきたので一安心なんだが……をし、すっかり布団をはいで寝ている水口が地図を描いていないかとかをチェックし、いつもの僕の振りをした。できるだけ細かい作業を片付けることで気を紛らわせるしかなかった。だってどうして言えるだろう。
──嫌いな女子にすらそうなるんだったら、俺はどうなるんだろう。
少なくとも嫌いじゃない女子と、これから顔を合わせなくてはいけない僕の身にもなってくれ。その時僕は、また怪しい天羽の言葉を思い出すのだろうか。理性でなんとしても押しとどめたい。また思い出すたびどくどくと耳元で鳴る血の流れるような音を、清坂氏の前で聞きたくない。