第五日目 36
36
ばつが悪くてもう南雲の顔を見てられなかった。僕は壁にもたれたまま、ずっと進行方向の海を眺めていた。うっすらと水色のかすれた山がちらついている。旅行の終りも近いってことだろうか。いろんなことがありすぎて、そのうち九割は絶対に文集の作文になんて書けなくて、しかもその半分は墓場まで持っていかなくてはいけない秘密ばかりだ。何が起こるかわからない修学旅行、と本条先輩はいつか話してくれていた。でも、僕の中からあふれ出る未知の感情は、自分で制御することができなくて、こぼしてしまうはめになる。
──なにが、評議委員長だよな。
「りっちゃん、もういいかげん、ご機嫌よかですか?」
どこの方言か知らないが、南雲は優しく声をかけてくる。幼稚園児に話し掛けるような感じだった。どうせそうだろう、僕の面倒を見るようにと本条先輩から頼まれたそうだしな。
「もう頼むから、ほら、許して、ほら」
「怒ってないからもういい」
そっと横目で睨んだ後、僕なりに返事した。
「どうせ本条先輩に報告するんだろう」
南雲は答えなかった。吐息だけ聞こえた。隣の壁に僕と同じく背もたれしたまま、どこか海を眺めているんだろうということだけはわかった。動く気もないのだということも。
──なりたいものになれない、理想の自分になれない。
本条先輩にはなれない。それは早い段階で割り切っていたけれど、修学旅行のような場所ではやはり、本条先輩の持つ能力が欲しくてならなかった。男女問わずどんどんひっぱっていけて、さらに表裏同時に物事を動かすことができて、チャンスがあればどういうものであってもしっかりつかんで本懐を遂げる。そういう評議委員長だったらと思う。
今隣にいる南雲も、A組評議の天羽も、僕が欲しくてならないものをすべて備えている。
たぶん南雲や天羽だったら、好きな女子と同じ部屋の中にいたら、必ず何かをしていたことだろう。僕のように情けない声だして「手首縛ってくれないか」なんて言うことは決してないだろう。清坂氏へもきちんと、納得させるまで話をしようとしただろう。僕みたいにいいかげんな形でもって物事を終わらせることはなかっただろう。本条先輩だったら絶対そうしてたはずだ。
何にもできない、周りに守られている自分。弱弱しい、みっともない自分。
「そうだ、りっちゃん、昨日さあ、売店で買物してただろ? 結構大きい鏡、あれ、誰かのプレゼント?」
自己嫌悪に浸る時間を南雲はすぐに邪魔してくる。ぱたと思考が止まると同時に、思い出した。
「そう」
「誰の?」
「後輩の」
「ふうん」
誰のだよ、とは聞いてこなかった。
「俺もさ、買っちゃったんだよねえ」
はは、と声をあげて笑った後、南雲はポケットから赤い印鑑のようなものを取り出した。水玉模様の小さなビニールに入っている、赤いもの。
印鑑ではなく口紅ケースだと気づいたのは、僕の母親が使っているのと同じものだったからだ。
「おい、これって」
「そ、リップクリーム。やっぱり一番身近に置いてほしいものをあげたいもんじゃあないですか」
口紅ということは、まず女子へのみやげであることは確かだろう。同時に、南雲が買ってあげたいと思う相手といえば、ふたりしかいないだろう。こいつの最愛なるおばあさんと、もうひとり。
「あのおばあさんじゃあないよな」
細いながらも可能性のある方の糸を切る。
「じゃあもうひとりの」
「大当たり。やっぱりさ、いつでも使ってもらえるものが一番かなあと思ったわけだけど、りっちゃんの見てて負けたと思った」
なにが負けた、なんだろうか。杉本への土産だとは、一緒に買った西月さんと昨日の夜話した清坂氏しか知らないはずだ。同時に南雲は、杉本への土産だということを知らないはずだ。ただ後輩に渡したいものだから、使ってもらえるもののほうがいいだろう、と判断して買っただけのものなのに、また何か想像しているんだろうか。
「鏡だったら、割ったりしない限り、ずっと使ってもらえるもんなあ。俺もそっちにすればよかったって思ったけど、まあいっかってとこでさ」
いや、リップクリームって唇に触れるものだろう。思わずまた身体がぞくりとする。
「これからまだまだ先かもしれないけど、いつか使用させていただくために、ですね」
こうやって聞くと南雲は、かなり際どい発言をしているんでないだろうか。そのリップクリームを使っていただき、唇を保護してもらい、その唇をいつかはわがものに……そういう発想に行き着いてしまい、また天を見上げたくなった。やわらかいんだろう、食べたくなるんだろう。そうしたらためらうことなく身体が動くんだろう、僕のようにびくびくすることなく、堂々と。またいじけた気持ちが生まれてくる。また女々しいって言われそうだ。
「りっちゃん、あの鏡なんだけど、どうして買おうって思ったわけ?」
また話し掛けられた。どうせ南雲は渡す相手のことをほとんど知らないんだから、本当のことを話したって構わない。横を向いたまま素直に答えることにした。
「買おうと思った相手ひとりしかいなかったから」
「へ?」
言葉を節約しすぎただろうか。まずうちの父さんに買ったってなんの意味もない。お付き合い上、うちの母さんとその関係……いわゆる日本伝統芸能関連の人たち……に渡すためせんべいを三箱、あとは後輩の評議委員たちへ、三年評議全員がお金を出し合って買うのが一箱。これは清坂氏にまかせてある。あと渡す相手といったら、評議から外れてしまい、評議委員に行くはずのお菓子が回らないであろう杉本しかいない。さらに言うなら杉本の味好みは僕と非常に似ている。すなわち、美味しいものは美味しいけれどもまずいものはまずい、下品なものは嫌い、といったきわめてお高い性格と味覚だ。それをものさしにして考えると、旅館の売店で売っているお菓子はどれも不合格ということになる。本当だったら自由時間中に探そうと思っていたけれども、いろいろなアクシデントが重なってそれもできなかった。他の女子たちに頼むのも考えたけれども、すでに杉本は評議から外れている以上、あまり巻き込むのもなんだろう。唯一、杉本の面倒を見てくれている西月さんとだったらそれほど変にも思われないだろうし、お菓子以外のもので、となると鏡しか思いつかなかったというそれだけだ。意味なんてない。
「清坂さんには? 買ってやろうとか思わなかったわけか?」
「だって一緒に旅行している相手になんでだ?」
「だって俺、帰る前からこれ買ったよ」
南雲も言葉を略しすぎる。補うと、つまり南雲は奈良岡さんが三日目の夜にひとりだけ帰る前に、「奈良岡さんのため」にプレゼント用として、物を買ったというわけか。けど旅行中に買ったもの渡したってどうするって気もする。要は南雲、なにかかしら理由つけて奈良岡さんへリップクリームをプレゼントしたかっただけなんじゃないだろうか。僕にはそう思えてならない。
「旅行してもしなくても同じだろ、買うのは」
「身もふたもない言い方しますなあ、りっちゃんは」
僕が杉本に買おうと思ったのは単純に、「評議委員会」のからみで渡せないと思ったからというそれだけだ。南雲とは違う。
「りっちゃん、あのさ、どうしようもなく、プレゼントしたいとか、そう思ったことって今までないんか? ねだられたとか、頼まれたとか、そういうんでなくてさ。こちらからこれをプレゼントしたい! どうかもらってくれ!とかいうような感じでさ」
「渡したことはあるよ」
一応、つきあっている以上はバレンタインデー、およびホワイトデーのやり取りはしている。もらい物にはきちんとお返しをするのが礼儀だろう。
「いや、りっちゃん、バレンタインデーは違うよ。俺も毎年もらって返したりするけど、あれは一種の『おつきあい』だろ。俺が言うのは、そういう義理のおつきあいではなくて、腹の奥からぐぐっと、渡したい、やりたい、抱き締めたい、っていうもの、そういう気、ねえの?」
「ないよ」
あっさり答えた。真夜中に身体の方が一方的に求め出すというのはまあ、もちろん、ないとは言わないけれども、南雲が言うのはそういうことじゃないだろう。もちろん清坂氏にプレゼントを渡したことがないとは言わない。去年のクリスマスにはちりめんのふくさを買って渡したことがある。あれは義理じゃないが、そんな激しく燃えたわけでもない。
「そうか、けどさ、りっちゃん」
波が少し大きく膨らんだ。揺れたけど気分悪くないのは話しつづけているからか。
「とりたててあげる必要のない人に、あげたくなったとしたら、それはやっぱし、そういう気持ちだと思うんだけどな。りっちゃん、たぶん自分で気がついていないと思うけど」
言葉を切った。僕が南雲の方を見るのを待っているような気がして、仕方なく首を元に戻した。
「りっちゃんが無意識のとこで、他の奴のこと一生懸命かばったり守ったりしているとこ、俺しょっちゅう見てるんだよな。ほら、さっきの鏡の相手みたいにさ」
だからその相手が誰だか知らないからそういうことがいえるのだろう。
「俺、あまりうまく言えないけどさ、他の奴はみんな認めてるんだよ」
「まさかだろ」
ちゃかしたくて、吐き出すように呟いた。南雲の言葉遣いは変わらなかった。やわらかかった。
「りっちゃんが他の評議の人のために一生懸命動いてるとことかさ、ほら、今みたいにさ、昨日の夜のこと誰にも言うなって言ったりさ、そういうの見てるんだもん、りっちゃんが一生懸命にやってくれてるってことがさあ、俺には丸見え。しゃべってることよか、ずっとわかりやすいもん」
僕が返事をしなかったので、南雲はさらに続けた。
「去年の夏にさ、りっちゃん言ったよな。恋愛感情感じないことって異常なのかとかなんとかさ。あれ、りっちゃんは大したことないと思って言ったのかもしれないけど、俺もちょっと気になっててさ。けど一年たって見て気づいたんだけど、好きとか嫌いとかそういう前に、身体で示してるなって思うようになったんだ。恋愛感情持ってるかどうか別にして」
「身体で示してるって?」
どきんとする。また身体の変化とかそういうものを、気づかれてるなんてことないのか? 学校ではできるだけ、そういう状態に陥らないよう気をつけてはいるんだが。
「ほら、水口いるだろ。あいつ、三年になってからさかりついた猫状態にやあらしいことばかりわめいてるだろ?」
ごもっとも。水口のエロ用語連呼については僕も頭が痛い。誰かなんとかなだめてくれと言いたい。南雲も同じなんだろうか、きっとそうなんだろう。
「けど、面白いことにさ、彰子さんには別なんだよな。目の前で一生懸命スケベな三文字叫んだり、いろいろ卑猥なこと言ったりしてるくせに彰子さんのためには、動いちゃうんだよなあ」
「動くって何をさ」
さびついた直感アンテナに電波が入る。奈良岡さんが帰った理由に繋がっているかもしれない。僕は言葉を選ぶことにした。
「ほら、動くというか、なんというか。あのすい君がだよ。一生懸命に自分のうちに電話してさ、すぐに入院させて、手術してくれとか頼んでるんだよ。もうとっくに救急車で運ばれてるって聞いてるのに、もう別の病院に移動されてるってのに」
「ちょっと待て、今の話、もしかして奈良岡さんの家族のことか?」
噂に肉付けした形で解釈すると、だいたい形が見えてきた。奈良岡さんは確か、家族の事情で帰ったといっていた。お父さんかお母さんが入院したという知らせという噂もあった。けれども、水口が絡んでいるなんて、それは初耳だ。南雲は言葉を切った。
「そう、だけど。まだわからない」
人のプライバシーにあまり突っ込まない方がよさそうだ。僕はこれ以上聞くのを差し控えた。
「そういうこと。つまり、あのお子様すい君でも、彰子さんのためなら何とかしようって行動するってこと。それ見てたら、どういうことか誰だってわかるよな」
「……確かに」
水口が奈良岡さんのことを、本気で好いているということ。 誰でもわかる方程式だった。
「そういうことなんだよ。りっちゃん。今俺がすい君の話を例に出したのと同じ現象が、りっちゃんにも起こってるってわけ。みんな、りっちゃんがどう思ってるかとかどれだけ努力してるかとか、評議委員長としてどれだけ仕事してるかとか、みんなお見通しなんだよ。だから、もうこれ以上、無理しなくてもいいと思うんだ、これ俺の考えだけどね」
──みんなお見通しってか。
僕の言葉よりも、やっていること、していることでか。今こうやって、南雲と話していることでもか。
「それともいっこ。念のため言っとくけど、別に今回のことで弾劾裁判やる気ないから、安心してちょうだいな」
肩をぽんぽんと叩かれた。去る気配はなかった。
しばらく何もしゃべらずにいた。なぐちゃんもあいつなりに考えたいことがあるようだし、そういうところは放っておくのがたしなみだ。最初心配していたようなことは何も起こらず、無事に青潟で解散することになるんだろう。僕の考えすぎか、とまた落ち込みたくなるのだけれども、それはなんとか我慢した。
──けど、やっぱり認められないだろう。
なぐちゃんは僕を慰めようとしてくれたのだろう。それはありがたいと思う。だけど、結局僕の欲しい評価というのは誰からも与えられていない、それも事実だ。青大附中に戻ればすぐに、水鳥中学との交流会直前準備が待っている。二年の評議たちにある程度手伝わせているのだが、状況を全部把握できないまま修学旅行に突入してしまったので、いったいどういうことになっているかわからない。また、外部の評価は僕よりも二年の新井林に流れているはずだ。一年前の本条先輩の時のように、委員長という尊敬の念なんて感じたことがない。僕はやはり、まだまだ頼りない奴なのだ。だから、だからここで。
自分でも意識していなかったもやっとしたものが、浮かび上がってきた。まるでさっき、波間から顔をだしたいるかの頭みたいに。どんなに努力しても、どんなに頑張っても、自分ひとりではなんにもできない自分がいる。精一杯考えるだけ考えても、最後の最後でしくじってしまうどうしようもない自分自身を海の中に投げ込み、いるかのえさにしてやりたかった。
「あのさ、りっちゃん」
どのくらい海を見つめていただろうか。身体がだんだん潮風で冷えてきていたけれど、船室へ入ろうとは思わなかった。ぬるぬるしたあの空気と匂いが我慢できない。あとで風邪ひいたとしても、酔ってグロッキーになるよりはましだ。僕は南雲へ顔を向けた。相変わらず、さっぱりした表情だった。腹も立てていない、クールなままだ。
「せっかくだし、ご相談なんだけど、いいかなあ」
僕の顔を見ればだいたい、いつものいじけ癖でめげていることくらいわかるだろうに。それでも全然平気な顔をして、僕に接してくれる。出来た奴だ。僕なんかよりはるかに、男だ。
「なんだよ」
下手すると涙声になりそうで、少し低めの声で答えた。
「今日さ、これから青大附中に戻るだろ?」
「そうだな、バスに乗って」
船の次は長距離バスだ。しかも途中休憩が入るとくる。着くのはたぶん、昼すぎだろう。
「その時にさ、俺、一足先に抜けたいんだよな。諸般の事情があってさ」
「事情ってなんだよ」
突き放した言い方したつもりはないのだけど、自分でもうまく調節できない言葉の響き。なぐちゃん、いやな気分になってないかな。全然気にした風でもなく、南雲は続けた。
「たぶん、全員整列して、先生の挨拶やって、それから解散になるだろ? 俺、できればそれも無視してさっさと脱出したいんだ。みんなくたびれ果てて、俺がいようがいまいがどうでもよくなるとは思うんだけど、羽飛あたりがぎゃあぎゃあ言わねえかな、とかそのあたりが少々心配だったんだ」
「どうしてそんな早く帰りたい……?」
返事はない。僕はもう一度南雲の顔を見上げた。奴の手元には、ビニールに包まれたリップクリームがしっかりと握られていた。目に入っているのに、どうして僕は気づかなかったんだろう。そうだ、きっとそれしかない。
「奈良岡さんとこに、行くのか?」
理由は聞かなかった。たぶん、南雲しか知る必要がない内容だろう。
僕は部外者だ。南雲以上に詳しい事情を掘り起こす必要はない。だいたいの情報は耳にしているし、もし家族の大病とかそういう問題だとしたらなおさら、余計な噂で奈良岡さんを傷つけるようなことをしてはならない。
「うん、すぐにさ」
「行って、いいのか?」
家族の事故か病気かわからないが、「水口病院」の長男が懸命に奈良岡さんの家族を入院させたがっていたところみると、かなり大変な状況なんだろう。もっと南雲から深い事情を聞き出せば、いろいろわかるかもしれないし、話してくれるんじゃないかとも思う。でも僕にはそれができない。今、南雲ひとりの胸の中に納めているものを、引っ張り出すのは拷問だ。
だから、状況だけ僕なりに想像して尋ねた。見舞える状況なのか?と。
「わかんないけど、とにかく動かないとだめだと思うんだ。俺、頭悪いからなあ、どうしてかってわかんねえけど、とにかく、早く、行きたいだけ」
南雲はゆっくりと僕の顔を見返した。
「だからさ、今回のこと、俺は一切言うつもりないし、りっちゃんたちをつるす気もない。ただもし、俺に貸しがあるのがやだったらさ、俺が規則違反なことちょこっとやっても、大目に見てくれって羽飛たちに言っておいてくれないかなあ」
「規則違反って、しょせんエスケープするだけだろ? 学校でだろ?」
「ほら、俺だけじゃなくてさ、すい君も同じこと考えてる可能性、大だからさあ」
前髪をかきあげ、ぶるんと振り、南雲は唇を一瞬だけへの字に曲げた。
「あいつもさ、今回の一件で、『愛』に目覚めたらしいからさ」
「『愛』?」
僕なりに推論を立てていくと、どうやら南雲とすい君との間で、奈良岡さんを巡るトラブルが起こったらしいというところにたどり着いた。非常に不機嫌だった南雲の顔からして、騒ぎが起こったのは三日目の夜あたりだろう。あの日、僕もかなりナーバスだったのでさっさと寝てしまい、南雲が戻ってきたかどうかすら気づかなかったけれども。奈良岡さんが先に帰る原因が家族の病気だったとすると、そのあたりが原因で言い合いかなにか、したというんだろうか。
いや、下種の勘ぐりだそんなことは。南雲が言いたくないなら、それ以上尋ねてはならない。
「そ、彰子さんは偉大だよ。あのがきんちょすい君をだよ、『男』にしたんだからなあ」
「『男』にした?」
僕がひとりで想像たくましくしているだけだ。すぐに頭の中のイメージを訂正した。誰もが『愛』でもって天羽みたいなことになるとは限らない。
「とにかく、一刻も早く、俺はとんずらさせていただきたいと、そういうことなんだけど、どう、りっちゃん、受けてくれる?」
そのくらいお安い御用だ。簡単なことだ。要は羽飛に「頼むから今日のところは南雲と絡まないでくれ」と言い含めておけばいいだけのことだ。念のために清坂氏と古川さんにも、女子たちが騒がないようにしてやってくれ。とか言っておけばいい。弱み握られていて、へたしたら退学覚悟になるようなネタを黙っててくれるんだから、みな納得するに違いない。それに、素直に理由を説明してもいいじゃないか。南雲は単純に、自分の大切な人のところへ、一刻も早く駆けつけて、勇気付けたい、そう思っているだけなんだから。そういう気持ちを理解できない羽飛たちじゃない。
「俺はしくじってばかりいるから、もし、うまくいかなかったらごめん」
つい卑屈な気持ちが顔を出してしまう。
「俺もその辺はご迷惑かけないように、うまくやるつもりだから安心してちょうだいな、りっちゃん。ま、これでご破算ってことで」
南雲はそろばんをじゃらっとはじくような手まねをして、上手なウインクをひとつしてみせた。
「じゃ、俺、先に入ってるわ」
南雲が船室へ向かうと同時に、反対側からばたついた足音が聞こえた。振り向くと、羽飛と清坂氏、そして古川さんというオールメンバーが様子伺いありありの顔で、僕を見上げた。どうやら、僕と南雲が語りあっている様子をうかがっていたのだろう。たぶん、モータ−や波のしぶきで会話は聞こえなかっただろうが。僕は首を振ってまずは安心させようとした。
「なんでもないよ、たぶん、大丈夫だから」
「大丈夫って、ねえ、立村くん」
不安げに清坂氏が僕へ唇を動かす。さっき南雲から「リップクリーム」のお土産について話を聞いていただけに、ついつい気になってしまう。どんな顔して塗るんだろう。
「立村、あの野郎になに脅されてたんだあ? 言ってみろ! 別に俺ら悪いことしてたんじゃあねえからな」
いや、同じ空間に男女ふたりきりでいたのは事実だ。それはまずい。 「ったく、あんたはほんっと最後の最後までガキなんだから! 立村、いざとなったら全部あんたが責任取りなさいよ! ちょっと頭貸しな!」
意味がわからず頭を古川さんに近づけると、手加減なしに思い切りぼこっとやられた。かなり痛い。かなり頭にくるって、このことだ。けど先生がくるかもしれない場所で騒ぎを起こしたくない。僕はもう一度、首を振って説明することにした。
「南雲とは取引したよ。今日一日、もし南雲が何か言ったりやったりしても、俺たちは何も言わないでいる、ってことだけ。今日だけは大人しく、あいつのやりたいようにやらせてやってくれってことだけ。それさえ終われば、内緒にしてくれるって言ってるよ」
「あいつの言い分、素直に信じるのかこのぼけが!」
どうも羽飛の奴、南雲に対してだけは真っ黒い感情が煙のように立ち上ってしまうたちらしい。これはしょうがないことだとも思う。僕もそういう感情を、うちの担任へ感じているからして。
「ねえ、その、南雲くんのやりたいことってなに?」
清坂氏はあくまでも冷静に、聞きたいことを尋ねてくる。
「たいしたことじゃないよ。学校で整列している最中に、どうしても先に帰りたいから、そこのところだけ見逃してくれって、それだけだよ」
ほんと、口に出してみると、それだけ、先生にばれたって困ることではなさそうだ。清坂氏も同じように思ったらしく、髪の毛を耳にかけるような仕種をして頷いた。 「ね、貴史、よかったよね、それだけだったら大目に見てあげなよ。今日だけは!」
「あいつがそれだけで満足するかと思ってるのか? 立村、いいかげん気づけよ。お前もし、あのことがばれたらどうするんだ? 俺たちはいいけどな、いくらでも言い訳利くぞ、な、古川?」
「まあね、私たちはいつものことだからねえ」
誤解を招くような発言は慎んでもらった方がいいんだが、古川さん。
「けど、お前と美里はどうするんだ? 言い訳できるのか?」
「できるに決まってるでしょ!」
噛み付くのは清坂氏だ。羽飛が別の意味で僕に尋ねていることくらい、わかっている。あいつが言っているのは、直接行動に出たかどうかじゃない。ああいう気持ちでむらむらしたかどうかってことだ。それ尋ねられた時、僕は素直に「違います」なんていえるだろうか。あの夜を境に僕は、清坂氏相手に絶対悪いことを想像しないという自分を否定する羽目になってしまった。また同じシチュエーションにはまったら、きっと、今度こそ、行動してしまうかもしれない。そういう自分が見えている。
「まあまあ、羽飛、いいじゃんいいじゃん、いざとなったら立村にぜーんぶ、押し付けておけばいいのよ。朝一番、美里に会いに来ただけだってことにしとけば。南雲だって立村ひとりが罪かぶることになったら、一方的にけりいれたりしないよ。私たちだけと違ってさ。そうでしょが」
古川さんは非常に正しい読みをしている。まだ後頭部が痛いんだが、この人の案なしには無事に収まらなかったのもまた確か。僕はしばらく古川さんに頭が上がらない。
「とにかく、今日のところは絶対に、南雲の行動を見て見ぬ振りしてくれ。それだけ、頼む」
僕は深く頭を下げた。同時に足元がふらついて、思わず腰くだけして羽飛にもたれた。
「おいおい、お前、甘えるのはこっちだろ、ほら、古川、こういう二人は無視していくぞ」
悪い、と謝る間もなく、僕の背中は清坂氏の胸元へ押し付けられた。あ、あ、という間もなく、僕と清坂氏はへらへらしながら手を振る羽飛と古川さんを見送るだけだった。
──甘えるっていったい。
「立村くん、寝てないんでしょ」
ちっとも怒らずに、清坂氏は僕の腕を掴み、安定させるように押えていてくれた。
もう一度僕は、デッキの向こうを眺めた。だんだん青潟の方の景色がうっすらと近づいてきているのが見える。そろそろ船室へ戻って下船準備した方がいいのかもしれないと思ったけれども、何かこのままでいた方がいいような気もした。
うまく言えないのだけど、たぶん清坂氏はこうした方が喜ぶんじゃないかと感じた、それだけだ。
「うん、でもちゃんと寝たけどさ」
「ほんと?」
全くの大嘘だ。隣で清坂氏の寝息聞きながら、冷静な状態で眠れるわけがないじゃないか。
僕は静かに隣で揺れている髪の毛を見つめてみた。すっとまっすぐに光り、そよいでいた。もし僕が南雲のような性格だったら、それなりにすることもあるのだろうがなぜかできない。もう一度海に向けて波が揺れるのを眺めた。
「ごめんね」
不意に、清坂氏が僕の方を見つめてこくんと頭を下げた。
「別に謝られることないと思うけどさ、なに?」
「あのね、立村くん」
覚悟したような黒々とした瞳が、細く揺らいでいた。訳がわからなくなって思わず背筋を伸ばした。
「だから、なんだよ」
「なんにもさせてあげなくて」
唇をまっすぐに結んだまま、僕をまっすぐに見上げた。風に前髪が揺らいでいるようだった。
自律神経がどこかおかしくなったみたいだ。ぐらっと船が転覆しそうなほど傾いたような気がして、すっころびそうになった。意味が通ったとたん、目の前が白い雲で覆われたみたいに見えた。
「き、きよさか……」
「だって、貴史が言ってたもの!」
いささか怒っているような口調で、清坂氏は畳み掛けた。謝りたいっていうよりも、むしろ攻め立てたいって感じだ。やましいところありありの僕には何も言い返せない。
「だって、がまんしてるのって、苦しいのにって」
──いったい羽飛、なに吹き込んだあの馬鹿がっ!
「だから、ほんとは、そういうこと、すればよかったのかもしれないけど、けど」
とどめだった。
「私、そういう人じゃないって立村くんのこと、思ってたんだもん。そう思ったら、いけない?」
清坂氏がもともとまっすぐ潔癖な性格だということは、三年近くの付き合いで重々承知していた。羽飛が一体何を吹き込んだのかはあとで締め上げるなりしておかないといけないが、とにかく、誤解だけは解いておかなくてはいけない。
もちろんそういう欲望みたいなのを感じなかったなんて言えないし、一歩間違ったらほんと理性を本能が凌駕してしまう可能性だってないわけじゃない。けど、そうしないように、そうしたくない、清坂氏に軽蔑されるようなことだけはしたくないって、それだけを必死に唱えて僕は一晩、あの部屋にいた。一緒の部屋にいるだけで押し倒したり、それ以上のことをしたりして当然だとか、そんなことは絶対に思っていやしない。手を出さなかったのはゴムを持ってなかったからとかそういうんじゃない。苦しかったけど、でも、一瞬だって、死んでも絶対にしないって、誓っていた
「清坂氏、違う、違うって!」
全身全霊で言い訳することに徹しようと決めた。
「どう違うの?」
「羽飛が何言ったか知らないけどさ、俺はそんなこと、しようなんて思ってない。本当だよ。清坂氏が嫌がるようなこと、わかってるのに、そう思うの当たり前だろ!」
僕が必死に否定しているのを、清坂氏は素直に聞いてくれた様子だった。
「そうなの? 本当なの?」
「当たり前だって!」
評議委員会では、いつか「清坂氏が嫌がるようなこと」を実行しなくてはならない。帰ったらすぐ、交流会の準備をすすめなくてはならないし、轟さんおよび男子評議たちと密談をしなくてはならない。清坂氏を外に置く形で話を進めることは、もう決定事項として僕の頭にある。
このままだと清坂氏をとことん評議委員会の枠の中で傷つけることになる。迷惑かけるなという男子の発想でもって、枠から外す形となる。その枠から外れた形で、僕が精一杯信頼しているんだってことを伝えるやりかたってないのだろうか。その時が近づいているとわかっているから、だから自分の幼さが許せない。本当は菱本先生の無神経な言葉を罵倒するため、清坂氏とふたりきりになる予定だったのに、どうしようもない衝動でおたおたする自分が許せない。
僕が清坂氏にできることって、今みたいに言い訳したり、謝ったりしてご機嫌取りをするだけなんだろうか。
南雲みたいに精一杯、奈良岡さんを想うような気持ちで、どうして僕は清坂氏を守ってあげられないんだろう。
「だから清坂氏、こんど二人きりになっても、俺は絶対に変なこと考えたりしたりしないから、安心していいから、本当に!」
海上で誓った。
一刻も早く、清坂氏を僕なりに守る方法を探すのだと。
一刻も早く、大人になるんだと。