第五日目 35
35
バスから降りてすぐ、南雲は僕の隣に立ち、囁いた。
「ということで、罰そうじ当番のことなんだけど、相談したいんだけど、いいかな?」
なにがいいかな、なんだ。僕が逆らえないのを知ってか。
空は気持ちよく澄んでいた。真夜中の雨がすっきり上がって、いかにも南雲に相応しい空の色をしている。風もほとんどない。この調子だと酔わないですみそうだとほっとしていた矢先のことだった。どうせ船に乗ったらすぐに寝るなり甲板に出るなりして気を紛らわそうと思っていたのにだ。なんで僕をそう、船酔いさせようとするんだろう。
南雲もそうだし、羽飛も、古川さんも、そして清坂氏も。
今回の旅行で一番の驚きは、本当だったら僕が一度も乗り物酔いしなかったことにつきるはずだったのだ。自分でも驚いていたんだから。いろんなことがあったけど、とりあえずは無事に片付いてほっとしていたのにだ。最後の最後に、よりによってだ。
「りっちゃん、目が死んでるよ、どうした?」
どこかでこの表情、見たことがあるような気がする。
僕はその人の名を混ぜて、南雲に答えた。
「本条先輩と同じ顔、するなよな」
やっぱりなぐちゃんは、本条先輩と同じ顔をしたまま、含み笑いを洩らした。
A組から船のタラップを進んでいった。銀紙を大量に海へ放り込んだような重たい青色が、海いっぱいに広がっていた。いくら凪いでいるとはいえ、やはり波間は揺れている。あえて見ないようにしようとしたけれども、どうしても目に入る。こういうのが弱い。すぐに胸にむっときてしまう。
「りっちゃん、どうしたのかな。顔色悪いよ」
「もともとそうなんだからしょうがないだろ」
「だから、乗ったらすぐに甲板に出ようよ。それの方がりっちゃんも、いいだろ?」
本当だったら僕は、そこで評議委員男子のみ集まって、最後の相談をするつもりだった。本条先輩からもらったノートにもそのあたりは詳しく説明されている。「どうせ旅行次の日は死んだように寝るか、一日中布団に潜ってストレス解消に励んでいるかのどちらに決まっている。やるべきこと片付けるべきことなどがある場合は、旅行中に目処をつけておくこと。どんなに前日、寝不足でもやっておくべきだ」とのことだ。全くその通りだと思って、集合かけておくつもりだったのにだ。最初に南雲の予定が入ってしまうと、もう身動き取れなくなる。
「そういえばさあ、俺もあまりりっちゃんと、この旅行中、話、しなかったもんなあ」
一応南雲とは三日目夜だけ、同じ部屋で寝泊りしたはずなのだ。しかしいろいろな事情があったらしく、その夜僕は一度も話をしないままに終わった。早い話、僕は霧島さんがらみの一件で疲れていたし、南雲は奈良岡さんのことでいろいろトラブルに巻き込まれていたらしいし。何が起こったのか、本当はD組評議委員として知っておきたいことだけれども、急ぐつもりはなかった。
「一時間じっくり、語ろうねえ、よろしく」
僕は返事をせずに塩分濃い空気を吸い込んだ。船に近づくにつれ、その匂いはガソリンだか油だかわからない、むかむかするものに変わる。なんだか南雲に聞かれそうなことを考えるだけで、めまいがしそうだった。背中に感じる羽飛・古川・清坂三人の視線もなんとなく、痛かった。
──どうやって、ごまかせっていうんだろう?
「じゃあなあ、お前ら、さっさと寝ろよ! どうせ昨日は寝てないんだろうが! さあ、ほらほら一番眠そうな羽飛、その辺でどざえもんになってろ。それと、ほらほらそこの女子たちも、目の下に隈じゃあせっかくの美人も台無しだ。早く座れ。おい、南雲、立村、どうした」
一クラス一スペースという感じで、六等分の座敷が用意されている。もちろん二等客室だから贅沢なことはいえない。通路を挟んで三列にスペースが用意されていて、真ん中で荷物置き用の棚が備え付けられている。その中には合皮の四角い枕がたくさん詰め込まれている。自分のクラススペースについた連中はさっさと枕をひったくり、角に積み込まれた毛布を抱え、ごろんとひっくり返っている。みな、昨日は寝てないんだろう。僕だって本当だったらそうしたいが、目の前に天敵がいて顔を見下ろされ、下手したら寝顔を撮られる可能性のことを考えたらそんなことできるわけがない。ここで寝るなんて、絶対ありえないのだ。
「すんません、先生、ちょっと立村と、語り合いたいことがあるんで、甲板行ってまあす」
間の抜けた声だが、それでもさらっと答えるものだから、南雲の本心を誰も気付きはしない。
これから僕は南雲から何を聞かれるのか、何を言われるのか、どういう判決を下されるのか。
心配そうに見るのは一人だけ、清坂氏だった。僕の方を何か物言いたげに見つめるのだけれども、しゃべったら最後危険なものだから僕も無視するしかなくて申しわけなかった。古川さんは物凄い眼差しで僕を睨んでいる。きっと怒ってるんだろうな。僕がよりによってしくじったそのわけ、知りたがってるんだろうな。羽飛は僕よりも南雲の方ばかり睨んでいる。きっと旅行終わったらまた騒動が起こりそうだ。羽飛と南雲は天敵だからな。へたしたら僕と菱本先生よりも険悪かもしれない。
そうだ、だから僕しかいないというわけだ。
あのことを、うまく納めるためには、僕がなんとかしなくてはならないというわけだ。
「お前らも元気だなあ。立村、お前のことだ、さっさと寝てたんじゃないのか? 羽飛も寂しい夜だったろうなあ。こういう時こそ友情を語り合うとかだなあ……」
「そんなのいらねえって」
吐き捨てるように言う羽飛。まさにその通り。友情語り合うなんて暇がなかったんだ。しょうがない。枕を器用に両足裏で持ち上げて、サーカスの玉転がしみたいなことをやっている。当然、落ちる。近くにいた連中のうち誰かにぶつかり顰蹙かう。
「じゃあ俺は、これから立村と一緒に友情語りあってきますんで」
「おお、それもよいぞ。ほら立村、お前ももう少し、南雲に感謝しろ!」
この担任と僕とは、地球滅亡の日がやってくるまで、きっと天敵状態変わらないだろう。
明白なるその事実を心に刻み、僕は一礼し、南雲の後ろについていった。悪いが羽飛たちの姿を見ると船酔い状態に陥る可能性大なので、目をそらさせていただいた。
甲板に出ると、すでに他クラスの人たちが数人固まって水平線の向こうを眺めていた。さっき船出したばかりの陸地に向かい、なぜか手を振っている男子がいる。いきなりハーモニカを片手に「ドナドナ」を吹いている奴もいる。男女、仲良く記念撮影としゃれこんでいるカップルもいる。人それぞれだ。時折拭いてくるしぶき交じりの風に顔を向け、僕は南雲の言葉を待った。横顔をさりげなく覗き込んだ。
たぶん、だけど、ご機嫌は悪くないと思う。
僕はまだ、南雲が本気で怒鳴ったりわめいたりしたところを見たことがない。もちろん羽飛相手にあわや、一騒動か、そう感じて割り込んだこともあるけれど、大抵の場合南雲の表情は静かなままだった。基本として愛想は決して悪くないし、だからこそ女子からの人気もうなぎのぼりなのだろう。自然、さらりと、明るい。僕には真似の出来ない笑顔。そういう南雲だったから、昨日の朝に見せたむっつり顔には少々心ざわめくものがあった。見たことのない南雲の表情、というのは僕が感じただけではないのではと思う。南雲と仲のいい他の男子もかなり驚いていた。もっとも南雲の性格上、不機嫌を一日持たせるというのはまずありえないだろう。奈良岡さんとどういう事件に巻き込まれたのかは聞かないけれども、その関係の八つ当たりというのではなさそうだ。
どうせ向こうから何か言ってくるだろう。僕は白いペンキのはがれかけた壁にもたれ、水色の山々を眺めた。すうっとかすかに浮かんでいる、淡い景色だった。
「りっちゃん、朝のシャワーはどうだった?」
とうとうひとこと、すかっとした笑顔と一緒に南雲は僕の方に問い掛けた。
「寝癖直し、結構使えただろ?」
──ああ使えたさ、完璧に頭のはねきったところが直ったよ。
いまいましくも、結局は僕の失敗なんだから、言い返すことができなかった。
「青潟についたら返す、ありがとう」
もうなんとでも言え、僕はできるだけ無感情になるよう返事した。
「けど、やっぱりどんな時でも清潔さを守るってところが、りっちゃんの性格だよなあ」
しょうがないだろうと言いたいが、これもいろいろと誤解を招くので口を閉ざす。どう思っているのかわからないけれども、南雲は楽しげに語りつづける。
「ひとつ、聞いていいかな?」
「答えられることと答えられないことがあるけど、それでいいなら」
「じゃあ聞くけど」
周りには他の男子女子誰もいない。下の機関室らしきところからごりごりと響いてくるうるさい音に負けないように、南雲ははっきりと尋ねてきた。聞かれたらどうするって文句も言えやしない。
「シャワー浴びなくちゃいけないようなこと、したの?」
答えだけだったら簡単だ。南雲の想像しているようなこと、しているわけないじゃないか。そのくらいはわかる。だけど、「じゃあなんで、シャワーをわざわざ浴びたわけ?」とたずね返されるともっと困る。だから僕は黙るしかない。うつむいて返事を選ぶしかない。
「あと、今のうちに言っとくけど、たぶんあのこと、俺以外にはばれてないと思うよ。保証はできないけど」
だから保証できないからあぶないんじゃないか。なによりも南雲、どこまで僕たち四人の事情を知っているのか、本当はそこのところを知りたい。今ここで南雲の側にいるのも、僕なりに状況を把握したいからだ。果たして古川さんが男子部屋からうまく脱出したことを知っているのか、それとも単純に僕が清坂氏の部屋にもぐりこんでいることに気がついたのか、その辺もよくわからない。聞きたいが、まずは南雲の質問に答えないと前に進めないだろう。
「最初の質問の答えだけど、してない」
目を向けず、単純な答えを返した。
「もったいない」
南雲の反応は僕の読みと違っていた。
「いや、別にいいんだけど、りっちゃん本当に、してなかったわけか?」
「あたりまえだろ。俺だって退学になりたくない」
「じゃあなんで?」
シャワーを浴びていたことだろうか、それとも僕が清坂氏の部屋に潜っていたことだろうか。
それによって答えは大きく変わる。いつもだったら「たかが女子の部屋で話をしていただけだってのに、なんでそんな妙なこと考えなくちゃならないんだ?」と言い返していただろう。説得力なくても、それなりに口にしただろう。できなくなったから、シャワーだったんだとは、今の僕に言えるわけがない。
「俺だったら絶対、逃さないけどなあ」
「そういう問題じゃないだろ」
南雲が何を聞きたいのかがだんだんつかめなくなってきた。南雲の性格上、僕を脅して何かの利益を得ようというところはないだろう。そんなに僕も使える人材じゃない。評議委員会と規律委員会の繋がりも取り立てて問題のあるところはない。唯一ひっかかりがあるとすれば、羽飛との天敵関係くらいだろうが、まさか僕を通してそういうつっこみをするとも思えない。単純に、「したの?してないの? だったらどんなことしたの?」という問いだけでいいんだろうか。
「じゃあ、証拠を拝見」
「なんだよ証拠って!」
「変なところ見たりしないから安心しろよ、りっちゃん。ほら、こういう時に使うものってあるだろ? それ使ってなんてないよなあ」
わざと手もみして笑顔で尋ねる南雲、こいつ、敵に回したら絶対怖いぞ。今後、規律委員会がらみでトラブルがあった場合は新井林たちにきつく言っておこう。僕ならもう、逆らえない。
「……わかった、見せればいいんだろ」
一応は「男子のたしなみ」……体育の先生がそんなこと言って配ってたがどんなもんだろう……として、生徒手帳には挟んでおいている。もちろん中身が何か見えないように、薄い和紙でくるんで扉のカバー脇に押し込んでいる。大抵他の連中も同じことしているはずだ。去年の夏段階ですでに、実用品扱いで持ち歩いている南雲とは違う。
生徒手帳をそのまま抜き出し、渡す。
受取る南雲は勝手知ったかのように扉を開き、溜息をつく。外したか、とでも言いたいのか。
「りっちゃん、あのさ」
少しだけ日焼けしたような南雲の顔には、相変わらずさらっとした笑みが浮かんでいた。
「これはまずいよ。肝心要の時に使えないじゃん」
「使うもなにも」
「学校でよっぽどのことがないと使うことないだろ。こういう時はだいたいさ、ズボンのポケットに入れておくとかさ、専用のケース使うとか、そちらの方がいいと思うなあ」
いったい何を言い出すんだ、こいつは。なぐちゃん、本当に何を僕にしたいんだ。
「それに一番の問題はさ、こうやって持ち歩くと、袋が擦れるだろ。りっちゃんは紙に包んでいるけど、やっぱりさ、肝心な時に破れてしまったら、意味ないじゃん、そういう時のために三ヶ月に一回は交換した方がいいと思うんだ」
いったいどこで、そういう知識を身に付けたんだよなぐちゃん。羽飛たちも、天羽だって言ってないぞ。
ここで僕がどういう反応しめせば満足なんだろう。
「ま、だいたいのところはわかった。じゃあさあ、せっかくだし、もう少し詳しい事情を教えてほしいんだけどさ」
完全にまずい状況に陥ったような気がした。なんとか雰囲気変えて話を逸らしたいのに、できそうにない。かといって僕なりにどうすればいいのかわからないのもまた事実だ。南雲の表情には悪意なんてひとつも感じられないし、たぶん僕ひとりのことだったら素直に白状して反省するだけだろうし。でも、今回のことは他の人間が絡んでいる。女子もいる。南雲を信用しないわけではないけれども、羽飛との以前から絡んでいる問題なども考えると、そう簡単に口を開くわけにはいかない、そういう気もする。
どうしようか。深呼吸した。ゆっくり吐き出し、南雲をもう一度見た。
「事情聞いてどうする?」
「いや、俺だけの楽しみにしたいかなあと。ほら、修学旅行中いろいろあったからさ、ひとつくらい他人の話を肴に盛り上がるのも乙なものかなと思っただけであって」
もし天羽の言葉だったら、「ふざけるな!」くらい言えるだろうが、南雲に対してはそれができないのが不思議だ。
「自分のことを棚に上げてかよ」
「それはお互い様、そうかあ、じゃあさ、こうしよう」
別に頼んでもいないのに、南雲は自分の後ろ髪を軽くかき混ぜるようにして、空の鳥を目で追いながら、
「俺の質問に答えられるとこだけでいいからさ、穴埋めをよろしく。そのくらいならば、いいだろ? イエスノーだけでいいからさ」
なんでそんなに執拗に知りたがるんだか、僕には理解できない。規律委員長としての制裁を下したいのか、それとも羽飛の弱みを知りたいのか、それとも。
「わかった、そんな中途半端なことするくらいなら、俺から話すよ。けどひとつだけ条件あるんだ」
「なになに?」
疑ってるなんて思われないだろうか。だんだんべとついてきた髪の毛と服の感触が気持ち悪かった。危うく胸がむかつきそうになる。まずい、酔う前兆だ。しかたない、しゃべって自分の気をそらすしかない。
「このことは俺ひとりが悪いんであって、他の奴は関係ないんだ。だから、関係した人たちにはこのことで一切、話を振らないでほしいんだ。あとはほんとに、全部白状する」
「そうか、かばうときたか」
「そういうわけじゃないけどさ。ただ、このことは全部俺の責任だし、それでまた、誰か、退学になったりしたらいやだから」
なんだか南雲の表情がまぬけっぽく見えたかと思いきや、すぐにきりりと引き締まった。
「いいよ、りっちゃん、まずは俺に、ざんげしなさいや」
相変わらず、悪意なき笑みのまんまだった。横目で他に人がいないことを確かめると、僕は「人生において最大」の恥さらしを語ることにした。いや、別に南雲との間には何もなかったんだから、恥かしがることは一つもない。ただ、僕個人においてはすべてを白状するなんてことは、全くもって自分のプライドをずったずたにするしかないことでもある。
もう二度と、旅行前に持っていた自分の像と重ならないことを覚悟して。
菱本先生の各部屋訪問でねちねちしたいやみを言われ続けて僕が頭に来たことについてはあっさりと流した。南雲も僕が以前から菱本先生との間に不協和音を鳴らしまくっているのは知っている。羽飛と古川さんが同じ部屋で一晩過ごしたのも飛ばした。要するに僕ひとりのネタにすればいいわけだ。
「だから、本当はすぐに向こうへ話をして、それから部屋に戻るつもりだったんだ。けど、タイミングがずれて、いろいろ話しているうちに、眠くなってさっさと寝てさ」
このあたりもあまり深くつっこまれたくない部分だったので飛ばしたかったが、規律委員長はさすがに鋭い。「ストップ」と軽く合いの手を入れた。
「本当に、寝ること、できたのかなあ、りっちゃん」
「寝たにきまってるよ」
このあたりはごまかしだけれど、見られたわけじゃないからいいのだ。
「だってさあ、仮にも自分の彼女がだよ、隣にいるんだよ」
「いたって関係ないよ」
嘘つけ、結局ずっと、呼吸ひとつにしても布団の擦れる寝返りらしい音にしても、びくびくしてたのはどこのどいつなんだって自分に言いたい。幸い誰にも気付かれていないはずだ。
南雲は話をさらにひっぱる。
「俺もまさかなあとは思ったんだ。朝いきなり、りっちゃんの部屋から古川さんが出てきた時にはさ、それもものすごいスピードで駆け抜けてったんだからさ。何かあるぞと思わずにはいられないよな。あのホテル、内側ロック形式だったから中に入ってない限り、開かないだろ?」
そうか、だんだん事の発端が見えてきた。すなわち古川さんが僕から「女子全員脱出完了」の合図、ベル二回、鳴らした段階でまだ男子は部屋から全員出ていなかったってわけだ。でも他の男子には気づかれていないはずだ。南雲ひとり、どうして気づいたのか、その辺がわからない。
「一応、これでも規律委員だからさ、部屋の点検とかなんとかしたほういいかなってのもあったのと、まあ白状するとひとりでいろいろと片付けたいものもあったりしてさ、たとえばあの写真とか」
なんもいやらしさのない笑顔で言われると、僕も何も言えない。
「りっちゃん、ちゃんとあれ、処分した? ほらあのきれいなおねーさんの写真」
捨てるタイミングを失ってしまったとは言えない。
「まあいろいろとばたばたやってたわけっすよ。髪の毛もまとまらなかったしさ」
またここでにこっと笑うのはなぜなんだ。
「そろそろ出ようかなと思っていたらいきなり古川さんの大移動じゃないですか。俺も変だなあと思ったんだけどさ、なんとなくひらめくものがあってさ」
いや、違う。たぶんだけど南雲はきっと早い段階で気づいているんじゃないか。なんとなくそういう気がしてならない。僕は黙っていた。風がさらに水っぽく触れた。
「だから四階まで行ってみたってわけ。いや、ほんとこれ直感。まさか俺だって、りっちゃんが髪の毛ぬらしてさ、せっけんの香りに包まれて現れるとは思ってなかったしさ」
最大の失策かつどうしようもないボケと言われてもしかたあるまい。
「なんで朝っぱらからシャワー浴びるのかなとも思ったけど、それが必要なことしたあとだったならしょうがないかなと思うわけであって。ただ、なんかなあ、もしこれみたのが本条先輩だったらどういうこと言ってるかな、とふと思ったんだ」
──本条先輩?
ずきり、と刺さる名前。結局僕は本条先輩の指示通りに動けずしくじりまくった奴だ。目に塩水が入ったのだろうか。ちくちくとまぶたが痛くなる。
「俺、本条先輩にも言われてたんだ、りっちゃんのことよろしくってさ、だから、かなあ」
ここまで南雲はよどみなく、にこにこしたまま続けた。たぶんあいつの顔だけ見ていたら、こんな鋭いことを口走ってるなんて思いもしないだろう。南雲だってきっと僕に、とどめを刺しているなんてこと、気づいていないのかもしれない。いや、確信犯なのかもしれない。先生に言いつけるとかそういう低次元のところでないところが怖いのだ。南雲という奴は。本条先輩の名を出されると、今だに心の奥底で骨抜きになる自分がいる。それを知られているのはきっと、南雲だけなのだろう。「南雲のことをこれからは頼れ」と本条先輩にも「遺言」されたし、実際南雲は本条先輩からも高く評価されているのだ。たぶん、誰よりも上。
だからこそ落ち込んでしまう。僕はやっぱり弱いのかと。
どんなに完璧に後片付けしようとしても、結局は本条先輩、南雲によって面倒を見られてしまう自分のふがいなさ。情けないったらない。もしももう少し自分が完璧だったなら、うまく切り抜けられたことだってあるはずなのにだ。どうして南雲や羽飛や古川さんのように、何もなかったようにできなかったんだろう。
「じゃあもっかい最初の質問に戻るけど」
返事をせずに僕は空を見上げた。
「今、すっごくストレスたまってない?」
「え?」
「だから、何もなかったんだったらさ」
このあたりの答えは難しい。「たまっている」と答えれば今の段階でもうがまんの限界だと思われるだろうし、「たまってない」と言ったら嘘つきだと思われるだろう。実際、僕も朝が来た時は本当にどうしようかと思うくらいだったなんて、言えっていうんだろうか。
「だからさ、シャワー浴びたくなるのもそりゃあ当然だなって思っただけ。俺もそうしただろうし。ちなみに彼女が出て行った後だろ」
全くもってその通りだ。嘘をついてもしょうがないので頷いた。
「そっか、以上大体わかりました」
なにがわかったんだか。南雲が僕に何を聞きたいのか、何を知りたがっているのかがよくつかめないまま、僕はぼんやりと細長い雲を目で追った。しょうがないじゃないか。本能を爆発させたままで下に降りていくわけいかないと思っただけなのに、なんでそうもねちねち言われるんだかわからない。
南雲はしばらく僕の方を横目で見た後、同じ方向を眺めるようにした。遠くの水平線に小さな白い船体らしきものが浮かんでいた。少し揺れが大きくなったような気がしたけど、まだ吐き気とかはしなかった。たぶん酔っていないんだ。きっと。
清坂氏が目を覚ます前に本当はトイレを済ませたり身支度したかった。でもよく考えれば服も荷物も全部、三階に置きっぱなしだったってわけだ。朝一番で古川さんの「荷物を交換して持ってきて、遅刻ぎりぎりで部屋から脱出する」という案を勧められ即飛びついたのは、これ以上いい方法なんて見つからないと思ったからだった。
実際、古川さんは今のところ南雲以外には気づかれていない。完璧な案だったはずだ。
「あのさりっちゃん、ひとつ聞いていい?」
「なんでもどうぞ」
どうでもいい、と思いながら僕はあっさりと答えた。
「女子ってさ、どうなんだろう? 朝、目覚ました時、何するのかわかるか?」
「顔洗ったりするんじゃないのか、あと着替えしたり」
今朝はたしかそうだった。清坂氏は僕がずっとベッドに顔まで潜らせて寝ているあいだ、バスルームに篭っていた。テレビの音と換気音をうるさくさせながら。
「やっぱり、おめかしは、最優先なんだなあ、わかる、わかる」
「けどシャワーは浴びてなかったよ」
「必要ないからなあ」
「そうかあ、衣擦れの音とかも響くわけなんだなあ。それはつらいよな」
つらいってなにがだ、そう言い返そうとして僕は息を呑んだ。これ以上嘘をつけない。
「ああ、そうだよ、よくわかるよな」
なんで「先に立村くん、顔洗ったりしないの?」と聞かれた時に「いいよ、清坂氏が先で」と答えたのは身体がどうしようもなかったからだなんて言えるわけない。一晩寝て少しはおさまるかと思ったのに全く落ち着きやしない。自分のあさましさに腹が立つけど、こういう時どうすれば一番いいかだけは知っているから、まずは清坂氏がいなくなった後にすべて片をつけようと思っていた。
「そうかそうか、じゃあすなわち、りっちゃんは彼女がいなくなった後に、着替えなりシャワーなり浴びたってわけっすね」
「そこまでわかればいいだろ」
そうだよ、どうせそういうことだ。トイレの中でするべきことをして、僕のいた形跡をすべて消して、髪の毛も全部拾って、全部着換えてとにかく身体の芯を落ち着かせようとした、ただそれだけのことだって。そういうことを一切考えないですむ僕だったらどんなに楽だったか、つくづく思ったなんて言えるものか。たとえ、南雲にだって。
「りっちゃん、よくわかりました。ほんと、よくこらえたなあ」
悪意はない、とわかる笑い声を立てた。
けど馬鹿にされているって感じるのもまた事実だ。
「それなら聞くけど、なぐちゃん」
一矢報いてやりたかった。
「お前、経験したことあるのかよ」
南雲は真顔に戻った。明らかに「なぜそんなことを聞く?」と言いたそうな顔だった。
「けいけん、って、すなわちりっちゃん、いわゆるそのあのそれですか?」 全く持って冷静沈着なんだかなんなんだか。すぐに元に口許を戻した後、
「いや、チャンスがあればそりゃあ、なあ。でも世の中なかなかそううまくいくものじゃないよ、りっちゃんみたいに」
「俺は至りつくせりのチャンスがあってもできない奴なんだよ、悪かったか!」
南雲に八つ当たりしてどうするっていうのか。冷静に戻れと叱る自分がいるのに、それが押えきれない。目の前の南雲は少しびっくりした顔をしたまま僕を見つめていた。困ったように後ろ髪をかきながら、
「りっちゃん、あのさ、あの、ひとつ誤解しないでほしいんだけどなあ」
僕がやっぱりガキなんだってことを思わせるひとことを続けた。
「俺、ちょっとだけりっちゃんをからかいたかっただけ、って前もって説明しなかったのが、間違いだったかなあ」
──そんなの気づくかよ!
本条先輩と同じだ。結局僕は、いつまでたっても誰かの弟分なんだ。