第二日目 15
15
女子評議四人部屋、もちろん和室なのだけど、男子の部屋と違っているのは外から見える夕暮れがきれいだったこと。それだけで私は旅行の神様からいい子いい子されているみたいな気分になった。なのに、、
「なんだか地球が破滅しそうな色よね」
とゆいちゃんに切って捨てられてから、なんだか口に出しづらくなった。ゆいちゃんってもともときれいな風景とか美術とか音楽とか、全く興味を持たない子だった。
「美しいとかきれいとか、そんなのは掃除の時だけあればいいのよ」
──うわ、ゆいちゃん、せっかくこんなに可愛いのに。
もちろん私もゆいちゃんと永年の付き合いだし、彼女に対して「可愛い」という誉め言葉を遣う場合は気をつけなくちゃと思っている。いつか十歳くらいのひらひらしたドレスを纏った点画のかわいらしい少女画を見たことがあるのだけれど、ゆいちゃんはまさにそれだった。誰かが「女の子は砂糖菓子で出来ている」ということを言っていたけれど、私みたいに煉瓦か粘土細工っぽいタイプと違ってゆいちゃんはお菓子屋さんのデコレーションケーキに乗っかっている薔薇の花みたいに、食べるのをためらってしまいたくなるくらいなのだ。今はお下げ髪にして地味にまとめているけれども、浴衣がまだ乱れることなく襟を逆三角形のままに保っているし、咽から流れる肌が真っ白い。私みたいに、浅黒い感じじゃない。ほっぺた触ったら、ぽろっとお菓子が壊れてしまいそうな可愛いお姫様。なのになんでゆいちゃんには「可愛いよ」って言えないんだろう。
戸口側から四枚川の字型に布団を敷かれていた。一応順番としては、ゆいちゃんが戸口側、隣が私、その隣がA組の近江さん、一番奥がB組の轟琴音ちゃん。本当は琴音ちゃんがゆいちゃんの隣に行きたかったらしくて、
「ゆいちゃんの隣は私だよね?」
と上目遣いににやにや見上げていた。なんだかわかんないけれど、ずいぶんおどおどした態度だと思う。最近私は琴音ちゃんの態度が勘に触ってならないのだけど、ずっと同じ女子評議同士、特に悪いことをしたわけでもないんだからってことで知らないふりをしている。
「いい、私、美里の側に行くから」
ゆいちゃんってその辺、感情がはっきり出る。近寄らないで、ってメッセージがほんの一言二言でびんと伝わってしまう。たぶん今の言葉、琴音ちゃんにもわかったんじゃないかな。
──ちょっと言い過ぎだよ、ゆいちゃん。
まあ私も、琴音ちゃんの隣に行くのはなんとなく気詰まりだったので、ゆいちゃんの言う通り二番目の布団をキープした。それはまあそうだろう。さっきこずえとけんかしたところ見られちゃったし、例のあのこと、だいぶおなかも楽になったのだけれども食欲はやっぱりないあれ。あとで鎮痛剤をくれると言ってくれたっけ。きっとゆいちゃんは、C組の男子の代わりになって、私に謝ってくれているんだと思う。こんないい子、なかなかいない。口がきついとことか、男子を罵る現場に居合わせなければみんな大賛成してくれるはずなのにだ。 琴音ちゃんは一瞬だけひょっとこみたいに頬と口もとを膨らませたけれど、ほんとにあっという間だった。すぐにまた、ゆいちゃんを目で追うようにして、両手をついて、
「寝る間だけだもんね。あとでおしゃべりするもんね」
ひくひくさせながら笑った。なんと言えばいいんだろうか。どうして私って今まで、この二年間、琴音ちゃんの態度に平気でいられたんだろう。原因がわからない。
「美里も、ねえ、そうだよねえ」
「私、やっぱりちょっと横になっていい?」
うまく角を立てないようにして私は横になった。浴衣の帯はとっくの昔に解いている。くっついていた紐を両脇の下から通して蝶結びにして、楽な格好になっている。襟はゆいちゃんとちがって、だいぶだらっとしている。男子がいなくってよかった。
「美里、まだ痛いの?」
優しい感じではなくて、だいぶきつい口調。ゆいちゃんが自分のおふとんから私の顔を見下ろした。立てひざになって、
「二日目だもんね」
「うん、ごめん」
さっき、男子評議の部屋に行って口げんかして戻ってきたのだろうか。途中で立村くんに途中退場を命じられて女子評議は、ゆいちゃんを残してもどってきたのだけれども、私としてはかなり心残りだった。旅行始まって以来立村くんの態度には、かなり毅然としたものがあるんじゃないかなって気がするし、私も不必要に逆らいたくなんてない。けど、ゆいちゃんがたった一人、男子たちの中で、理屈っぽい難波くんを相手にするなんて、ほんと大変だったんじゃないかなって思う。
「それにしてもさ、この部屋どうしてテレビ、ないのかな?」
ご機嫌を伺うような口調でまた、琴音ちゃんがきょろきょろし、ゆいちゃんに話し掛ける。もし小春ちゃんがこの場にいたらすぐ、琴音ちゃんとふたりで話を合わせていたのだろうけれども、A組女子評議が近江さんに替わっている現在はそれも望めない。
「昨日だってそうじゃないのよ!」
いらいらしているのが、よくわかる。ゆいちゃんはぺたんと座ったまま、まだ私の頭後ろにいた。きっとゆいちゃんも、琴音ちゃんのへりくだった態度にうんざりしていたんだろう。あとでふたりになった時にでも聞いてみたいなって思った。
「ところで、A組はどこに?」
さんざん冷たくあしらわれてもまだ琴音ちゃんはめげない。私の左隣にいるはずの、近江さんの布団をぽんぽん叩きながら尋ねた。
「そうね、近江さんどこいったんだろう」
私の手を引いて戻ってきた後、何かを思い出したらしく、反対側のロビーへと向かった。聞けばよかった。まだ戻ってきていない。近江さんの場合だと、決してA組の女子がいる部屋に遊びに行くとは考えにくい。かといって男子部屋に向かったとも思えない。
ゆいちゃんは少し首をかしげるようにして、
「他の部屋にさっさと行ってくれればいいんだけどね」
これまた、はっきりきっぱりした言葉を吐いた。
──ゆいちゃん、いくらなんでもそれはきついよ。
おなかよりも、右側の背中がずきずき痛い。私は寝返りを打ちゆいちゃんに話し掛けた。
「けど、今夜は戻ってくると思うよ」
「それにしても立村もなんでこんなむちゃくちゃな部屋構成したんだろうね!」
「ゆいちゃん、そろそろ近江さんも戻ってくるし聞かれてしまったらまずいよ」
もちろん私も、ゆいちゃんが怒りを爆発させたい気持ちが伝わらないわけではない。二年終りまで一緒だった、評議仲間の小春ちゃんが、近江さんと天羽くんの陰謀……と、ゆいちゃんは信じきっているけれど、ほんとはかなり違うと思う……により言葉をなくしてしまうくらい傷ついたこと。もともとゆいちゃんと小春ちゃんはとりわけ仲良しだったからなおさら腹が立つんだろう。あんな気の強いゆいちゃんが、小春ちゃんの黙りこくった様子を確認したとたん、抱きつくようにして「ごめんね、ごめんね」って泣いていたのだから。
小春ちゃんを傷つけた張本人があの、A組現女子評議・近江さんということになっている。
──けど、近江さんも悪い人じゃないって思うよ。小春ちゃんのことはともかく。
「美里、ちょっと起きてよ」
「え?」
関係ないことばかり考えていたら、いきなりゆいちゃんが私の両腕を取り、ぐいと引き起こした。外の窓は半分空いていた。ゆいちゃんはちらっと琴音ちゃんの顔を見て、目で窓を閉めるようにと合図した。こくこくと過剰なくらい頷きながら、琴音ちゃんが笑顔で立ち上がる。とにかく、ゆいちゃんにかまってほしいっていうのが見え見えだ。
「ずっと前から思っていたんだけど、ちゃんと言わないと気持ち悪いし、裏表あるのっていやだから言わせてもらうね。ほら、ちゃんと座ってよ」
「な、なに?」
ゆいちゃんもきちんと座りなおした。なぜか帯はまだゆいちゃん解いていなかった。後ろの方から、
「ねえどうしたのどうしたの」
と覗き込もうとするのだけど、ゆいちゃんは片手で、「くるな」の合図を送っていた。私だったら素直に後ろに引っ込んでいる。でも琴音ちゃんは気付かない振りして、また頷きを顎で何度も繰り返しながら、ゆいちゃんの隣に座った。私と一対一。その脇に琴音ちゃん。なんだか親にお説教されているような図だった。
「つまりね、さっきのことだけど」
「難波くんのこと?」
「あんな馬鹿のことで私怒るわけないじゃない!」
──怒っていたくせに!
以下、約十分くらいの間、私はゆいちゃんのお説教を聞くことになった。もちろんゆいちゃん隣にいる琴音ちゃんは、背を丸くして、顔にぴったりくっつくボブヘアを何度も振っていた。頷き過ぎで目障りだけど、ゆいちゃんが無視してしゃべるから、私も無視してうなだれていた。その通り、ごもっとも。ごめんなさい。
砂糖菓子だと思って食べようとしたら実は硝子で口を怪我した。そんな感じのゆいちゃんだった。
「あのね、美里。あんた初めてのあれだってことで、相当いたい思いしていたのはわかっているわよ。私だってあるし、女子は大抵分かっているはずよ。けどね、こずえちゃんに対して、あれはないでしょ、あれは!」
まず一発目、がちっときた。言い返せない。
「さっきもお風呂でこずえちゃんに会ったけど、もうさらっと流していたわよ。私だったら思いっきり一発二発ひっぱたいていたかもしれないけど、明日こずえちゃんたちと一緒に自由行動だし、すぐに仲直りしなくっちゃって笑っていたのよ。私ね、お風呂でほんっと、こずえちゃんてえらいなって思ったのよ」
──わかってるってば。
いつもそうだ。ゆいちゃんはこずえと較べて私の方が赤ちゃんみたいだって扱いをする。ちょっとむっときたので黙っていた。
「ナプキン集めてくれて、うちの殿池おばちゃんに交渉してお風呂の準備までしてもらってだよ、ふつう友だちだっていっても、そこまで丁寧にやってくれる子、普通いないよ」「うん、わかってる」
「わかってないわよ、美里!」
また雷が落ちた。そっと後ろを振り返った。誰もいない。ちょっと前に見上げた空には星がまんべんなく散らばっていて、黒いところが少なくなっていた。こんな空みたことないって、話逸らそうかと思った。できなかった。
「で、さっきはなに? 八つ当たりしてたわけ? こずえちゃんが優しいのをいいことにしてわがまま放題って、あれなに? ああいうことして許されるってわけ? だからあんた、男子に馬鹿にされるのよ!」
「ゆいちゃん、ごめんなさい」
つい謝り文句が口を出た。立村くんみたいで自己嫌悪。
「それにもっと言いたいんだけど、最近の美里、なんか変だよ」
ゆいちゃんはさらにヒートアップしていく。たぶん、難波くんとの口げんか、負けたか五分五分かのどちらかだったのだろう。八つ当たりしているのはゆいちゃんの方じゃないって言いたいのをこらえた。
「男子に妙に媚びているみたいでさ。もちろん意識なんてしてないって思うよ。美里のほんとのところは私も知ってるもん、けどね」
「私、媚びてなんていないけどな」
やっと反論のチャンスあり。冗談じゃない。ゆいちゃんもそんなこと言う権利ないはずだ。
「だって、さっき荷物、立村が持ってきてくれたじゃないの」
「それは、今朝立村くんが勝手に」
そうだった。重たい方の荷物を、朝バスに乗り込む前、立村くんは自分の方に引き寄せて部屋に到着するまでずっと預かってくれていた。私のあのことが男子全員にばれているってこと聞いて、私を辛かったら半殺しにすると男子たちを脅して、私を守ってくれようとした。いつもの立村くんじゃないみたいだった。うまくいえなくて、つい「ありがとう」とも言えずじまい。
──あとで、お礼言っておこうかな。
思いかけたところにまたゆいちゃんがきつい言葉を落とす。痛い。
「荷物を持ってくれた時、私見ていたんだけど、美里、いつものように軽く流さなかったでしょ。なんで?」
「何でって言われても、ただ」
言いかけたところにまたゆいちゃんがばっちりと切り裂くようなことを言う。血が流れそうだ。
「美里って、羽飛たち他の男子だと、ああいう時『いいよいいよ、私平気だから』って言ったよね。男子になんて頼りたくないって堂々としていたよね。けど、立村にだけは違うよね。やたらと顔色を見てさ、立村ごときの弱弱しい男子に対して、顔赤らめちゃってさ。いつも見てて、私ほんっと腹立ってたのよ。別に私、評議委員長として使えない馬鹿って言っているわけじゃないわよ。美里だってああいうひよわなタイプが好きなんだったらそれは止められないなって思ってたし。それにすぐ、別れると思っていたし、だからみな祝福したのよ。カップルになった時」
──だからそんなのわかってるって!
わかっていますわかっています。立村くんが私に似合わない男子だってこと。ひょろひょろしていて、言葉もはっきりしていないし、暗いし、数学は出来ないし、唯一英語が得意で、女の子に生まれた方が絶対幸せなタイプなんだって馬鹿にされているってこと。そんな男子を選んだ私も一緒にまぬけのお馬鹿なんだってこと。わかっているけど、今のところ私、自分から別れる気さらさらないんだから、しょうがないじゃない。立村くんと付き合い出してこの六月で一年になるけれど、いろいろなことがあったし、けんかもしたし、振られそうにもなった。ひっぱたきそうにもなった。でも、それでも私にとってはたったひとり、違うことをいえる人。そういう人だから、付き合いたい。それだけのことなのに。
「けどね、この一年ずうっと見てきたけど、美里はだんだん立村にひっぱられて、すっごく甘ったれになっているような気がするんだ。女子にいい影響を与えていないって言えばいいのかな。初めて会った時の美里は、間違っていることは絶対間違っている、納得いかないことは絶対納得行かない、先生だろうが馬鹿男子だろうが、嫌われようがぶつかっていく、そんなとこがあったじゃないのよ。なのに今は何? 立村の言いなりじゃないの! さっきだって!」
また話が飛んだ。ゆいちゃんの場合、話の着地点がほんっといろんなところに飛んでしまい、ついていくのに苦労することが多い。どうしてかわかんないけど、たぶんゆいちゃんの中ではすべて細い糸で繋がっているんだろうけれど。テグスの糸って遠くからは見えない。ゆいちゃんに見える糸が、私には聞いている間、皆目見えないままだ。
「なにびっくりしてるのよ。ちゃんと聞いてよ。私、美里だから言うんだからね!」
──単に八つ当たりしてるだけでしょ。
ここで本音を言ってしまったらまずい。小学校時代、いや去年までの私だったらためらうことなく噛み付いて取っ組み合いの喧嘩になってしまったような気がする。なのになぜか、素直に聞いている。やっぱり、このあたり立村くんの真似している。
ゆいちゃんはお下げ髪を肩の後ろにぽんと放った。
「あのね、私が言いたいのは、立村なんかに美里のいいところを変えてほしくないの。今日のことだってそうだけど、美里、自分が女子だから、頼って守ってもらえるなんて甘えた根性、持っているような気がしてならないのよ」
「そんなことないよ、ゆいちゃん、私は甘えたくないもの」
隣で首を振ったり頷いたりしている琴音ちゃんを見たくなくって、ゆいちゃんにだけじっと視線を向けた。ゆいちゃんならば、このあたりわかってくれると信じたかった。いつもきついことばかり言って、男子たちからは煙たがられているけれど、なぜか嫌われないとこがある。
「じゃあどうして、今みたいに生理のことくらいで騒ぎ立ててしまうのよ。私も美里の気持ちはわかるってさっき言ったよね。それを責めたりなんてしないよ。けどね、男子にちょっと見え見えの優しさ押し付けられたくらいですぐに、ころっと男子を許してしまう、その態度が私は許せないの。腹が立つなら腹が立つ、いいかげんにしてほしかったらいいかげんにして、そうはっきり言いなさいよ。でないと、男ってね、ちょっと甘い顔するとすぐつけあがって、女子を押さえ込もうとするのよ。最低の人間なんだから。許せないんだから!」
「違うよゆいちゃん、それとこれとは違うよ。私、そりゃ傷ついたよ、けど!」
きっとゆいちゃんは、C組男子経由で知れ渡った、あのことについて、もっと私が怒るべしって訴えているのだ。ゆいちゃんの性格、正義いっぱい、気持ちは伝わる。ありがとうって本当に言いたい。けど、ゆいちゃんの言うように、「せっかく紳士になってくれた男子たち」にまで「許せない!」と怒る必要はないんじゃないかって気がした。今朝の食事時間でも、彰子ちゃんが南雲くんからいろいろ教えてもらい、そのお礼に自分たちだけで食卓の片付けをしようと申し出たってこと、なんだか気持ちが変になって口がうまく動かなくなってしまった。もちろんありがとうって言う言葉が一番いいんだろうけど、それがうまくつりあいとれなくて、変になってしまった。
けど、それを頭ごと「違う」って言い張るのって、なんか違う。
ゆいちゃんはまた話を別の方向へ向けた。ほんっとゆいちゃんの言葉ってわかりづらい。困る。怒りたくても的を絞れない。
「さっきだって! 立村は何をしたと思う? 私と難波の馬鹿との言い合い、うんざりしたんだろうね。早く片付けたくてならないって顔をして、女子たちだけ追い出したんだよ! 女子だけよ! もし公平にあいつがジャッジをしてくれるっていうんだったら、男子もあいつだけ残して全部追い出すとか、もしくは美里と立村が残ってなんとかするとか、いろいろあったじゃないのよ。なのに、ずっと私、男子の中でひとりっきり、誰も味方がいないまま、男女同権を叫んでいたのよ」
──ああそっか。ゆいちゃんってば。
ゆいちゃんには踏んではいけない地雷が隠れていた。
難波くんも、立村くんも、そして私も。今日三連発で、思いっきり踏みにじっちゃったのだ、きっと。
隣の琴音ちゃんはずっと頷き続けている。どこか冷めた目で私は、
──首、痛くなんないのかな。
と思ってしまった。最後に歯を見せて、声を出して
「えへへ」
と笑い顔を作られた時には、思いっきりひっぱたいてやろうかとさえ思った。
ゆいちゃんのうちが呉服屋さんで、何一つ女性を大切にしてもらえていないうちなんだということは、前から聞いていた。
特に最近は、「女だから」という理由ひとつで、将来の跡継ぎの権利を奪われたとも。
後継ぎって、今から決めるのは変だし、これから先何があるかわからないんだからと私や小春ちゃん、琴音ちゃんは慰めたけれども、ゆいちゃんは親指を静かに下げ、
「もしあいつが跡継ぎになっちゃうっていうんだったら、私はどんな汚い手を使っても奪い取ってやるんだ。うちの店は私のものだって、子どもの頃から決まってたのに!」
と言い放った。大人の世界のことだし、まだまだ希望はあると思う。ゆいちゃんの弟だって二歳下だし、もしかしたらお店なんて継ぎたくないと言い張るかもしれないのにだ。
「あんなわけのわからないことばかり言って、うちの親たちもなぜ逆らわないのよ。私が頭悪い? ふざけないでよ。これでも私、青大附中に受かるだけの頭はあったんだから! 今は成績悪いかもしれないけど、まだ本気だしてないだけだもん。本気でやったら絶対、青大附中の文系トップは狙えるんだから! 公立だって、青大附中に受かるってことは、高校も青潟東には受かるはずなんだもの!」
小春ちゃんもそうだけど、ゆいちゃんは頑張りやだ。どんなに評議委員の仕事が忙しくなっても、ちゃんとテスト勉強や予習復習しっかりやっている。私なんて時々こずえや立村くんに英語のノート見せてもらったりしているのに。けど、結果で言えば私の方がゆいちゃんよりも上だった。きっと、要領が悪いのかな、と思っていた。
「でも、学校の勉強と店の運営とは違うのよ。絶対に違うの。だから私がうちを継ぐの!」
口癖のように言いつづけてきたゆいちゃんにとって告げられたという、「家は弟に継がせる」という言葉、どう受け止めたのだろう。少なくとも今見る限りだと、ゆいちゃんは全く、跡継者になる道をあきらめていない。やはりゆいちゃんは強い。負けず嫌いというには言葉が弱すぎるような気がする。私には真似できないこと。
そんなゆいちゃんからしたら、私のここ最近取っている態度は、許しがたいものに映るんだろう。
たかがおなかが痛くなって下着が汚くなっちゃうくらいでヒステリー起こして、友だちに八つ当たりなんて、もし呉服屋の跡を継ぐような人格者だったら決してしないことなんだろう。男子たちに負けるなんてもってのほかなんだろう。私のように、つい甘えて立村くんに荷物を預けてしまうなんて、とんでもないことなんだろう。
ゆいちゃんは続けた。
「立村のことはどうでもいいのよ。たぶん美里だってもっといい男と出会ったらさっさと別れると思うしね」
──別れないってば。
目をきょときょとさせて琴音ちゃん、もうこちらを見ないでさっさと寝てほしい。
「けど、立村みたいなぼおっとした奴が、美里のあのことを知ったとたん、なに? いきなり『もし美里に手を出したら半殺しにする?』ですって? なに気取ってるのよ馬鹿って言いたくなるよね。あんな奴に守られて何が嬉しいのよ。美里はむしろ、同等になるか、立村より上に立ってこき使う方が合っているのよ。男っていつもそう。ちょっと女子の弱いところを見つけたとたん、ガキははやし立て、ちょっと大人になると『守ってあげる』なんて言葉で白々しく守り立てようとするの。ふざけないでよ。あんたみたいな汚い毛だらけの腕やすねに守られたってどこが嬉しいってのよ」
──立村くん毛深くないと思う。
「いい、美里。今はちょっとちやほやされているだけでもいいかもよ。成績で評価してもらえるもの。頭がいいとか評議委員の仕事ができるとかで。顔とかそんなくだらないもので評価なんてされないからね。男子とも平等で今は、いられるの。けど、それはあくまでも学校にいる間。社会に出たとたん、一気に『男尊女卑』みたいな扱いをされちゃうのよ。どんなに優秀な女性でもそうなのよ。エリートだとか女子総合職だとか言われても、結局は、男の手下、召使。冗談じゃないわよ」
「うん、わかる、わかる」
胸に、ちくりと針がささったみたい。素直に思いっきり頷いた。
「わかってくれた? そうよね、美里そういうの大嫌いだもんね。本当の美里だったらね」
「本当の美里」というところにかなり強いアクセントを置いた。続けた。
「けど、最近は女性も賢くなったから、どんどん言い返せるのよ。そのために私だって毎日勉強してるの。男子が勘違いしたことしでかしたらすぐに抗議するようにしてるの。今後大人になって、社会に出て、総合職になって、男をこき使う時のためにね。でもそうすると今度、男子たちはもっと酷い手を使うのよ」
「酷い手って?」
「嘘ばっかり言って、お世辞ばっかり言って誉めるのよ。あなたはきれいだ、あなたは美しい、あなたは仕事ができなくたって顔さえよければいい、ってね。第一聞きたいんだけど、顔の美しさって、そいつの好みで決まるもんよ。私のことを勘違いして、うちで小さくなって三つ指ついてお迎えする性格だなんて思う奴いるけど、そういう奴こそ反省してほしいもんだわ。人間の価値はね、顔や外見じゃないの。頭なの、頭が一番必要なの。男にかなわない頭が必要なの。そうやって見下せば、必ず男たちは私たち女子の下で非常識なことをしたりしない。美里があれになったからって言っても、傷つけたりしないし、もちろん知らん振りしてくれるし、むしろそういう意味で親切にしてくれるわよね」
「だったら立村くんも、きっと、そうしてほしかったんじゃ」
思わず口を挟もうとしたとたん、またゆいちゃんの言葉が別の方向へと飛んだ。だから疲れる。
「なに勘違いしてるのよ美里! 立村はね、あれは違うのよ」
女子同士の部屋にいると、かならず一回は立村くんのこき下ろしが始まる。覚悟していたけど、辛い。ゆいちゃんはびんと張った背筋をげんこつで数回叩いた。また正座しなおした。
「立村は要するに、美里の弱さを見つけたとたん、勘違いして踏み台にしようとしたのよ。最低じゃないのよ」
「踏み台、ってどういうこと?」
どきどきする。私の背を踏みつけるってことだろうか。部屋で心配そうな顔をして見送ってくれた、立村くんの浴衣姿が思い出された。似合っていた。ずっと、他の男子よりもきちんと着ていて、まるでゆいちゃんの男子版みたいに。
「いい、立村ってね、今まではずうっと、踏まれつづけてきたのよ。男子連中はおろか、美里にも。美里を好きになって告白したってことは、かなりの身分違いの行為よ。美里、断って当然だったのよ」
「ゆいちゃんお祝いしてくれたじゃない!」
隣の琴音ちゃんの頷きへらへら笑いに文句を言うつもりだったけど、ゆいちゃんをなじった形になってしまった。動じないゆいちゃん。
「仕方ないわよ。美里が好きになっちゃったんだから。けどね、美里。立村がずっと、美里を見上げてきたのはいいけど、いきなり美里が弱いところを見せ付けられて、がぜんはりきっちゃったんじゃない。こうなったらきっと、自分の方が強くなれるはず。美里を踏み潰して自分が上になれるはずってね」
「そ、そんなことない」
絶対に、ない。私のプライドを持って言いたい。立村くん、そんな人じゃない。ゆいちゃん、誤解している。
「立村のように人の顔をいつもおどおど見上げて、顔色ばっかり見て、もしかしたらこうやった方がいいんじゃないか、こうやった方が喜ばれるんじゃないか、って自信なさげにおびえているとこ。見てて腹立つのよ。ほんっとに。こういう奴って、いつも下手に出て、へらへらして、わざとらしい笑い声立てて、受けを狙うの。そうでしょ」
「違う、立村くんそんな奴じゃない!」
思わず声が立った。また隣の琴音ちゃんがひょっとこの顔をして、雰囲気を和まそうとしたのか、それとも笑わせようとしたのかわからないけれど、おどけてみせた。ゆいちゃんが言うのは、むしろ琴音ちゃんのことだ。いえないけど、そう言いたい。
「でも、自分の土下座していた相手がいきなり弱いところ見せてしまったとたん、下克上を狙っちゃうのよ。男っていつもそう。なにかあればいつも、女子より上になろうとするチャンスを探しているの。そして、ちょっとほっとして心許したら最後」
ずきずきずき、言葉が突き刺さる。
「『君を守ってあげる』とかいう言葉でもって、自分の行動を正当化するのよね。私少女漫画とか、そういうもの大嫌いなんだけどね。いつも男は女を守るもの、って決め付けようとするのよ。ふざけないでよ。女は守られることによって、男に踏んづけられるだけじゃないのよ。そんなことされるくらいなら、私、一生結婚なんてしたくないわよ。結婚したらその段階で、男の足元に死ぬまでひれ伏すのよ。家族を守る、とか、大切なものを守る、とかいう言葉で家庭の中に押し込めて、最後に馬鹿にするの。所詮女は、何もできない。守ってやらないと、なーんもできないんだって」
はあはあ、激しい息遣い。また頷き、にやにや笑いと、「はは」と言葉の発音がはっきりした笑い。
──ゆいちゃんが言ってるのはね、琴音ちゃんのことだよ。
──立村くんは、絶対、ゆいちゃんの思っているような人じゃない。
それに、と私は、もうひとつ言いたかった。
「ゆいちゃん、去年まで、そんなこと、言わなかったじゃない。どうして今になって?」
咽からぐわっと、熱いものがこみ上げてきて、泣きそうになりながら。
「ゆいちゃんも、南雲くんのこと、今でも好きでしょ」
「振られたんだからしかたないわよ。そこまで私も汚くないわ」
──わかってないよ、ゆいちゃん。
自分の右肩越しに、私はもう一度、窓の夜空を眺めた。距離があって星までは見えなかった。きっとゆいちゃん、私をあの夜空と同じくらいの距離で見つめて、怒っているんだと思う。言いたいことは、途中納得することもある。男女平等でありたいのに、なぜ女子だからという理由でやらせてもらえないのかとか、そういうものはたくさんある。けど、立村くんを、ここまで叩きのめすのだけはやめてほしかった。私はずっと、窓枠、もっと近いところから立村くんを観察しつづけてきた。ぶきっちょなところ、様子見ばかりして勘違いしてばかりいるところ、目の前にいる琴音ちゃんみたいなことをしていること、みんな、見つづけてきた。
それでも、私は立村くんでなくちゃ、いやだった。
他の男子、貴史ですらも、立村くんの代わりにはなれなかった。
「あ、あのねゆいちゃん」
──男子だからってすべて決め付けるのはよくないよ。男子だって、いい人ちゃんといるのに。
──立村くんをろくにみないで決め付けるのだけはやめてよ!
のろけてる、そう言われたとしても、私はきっぱりとゆいちゃんに言い切るつもりだった。
「ねえ、清坂さん、お取り込み中悪いんだけど、ちょっと明日の自由行動のことで話したいことあるんだけど」
ふすまの向こうから声がした。ゆいちゃんと琴音ちゃんが私の両脇から向こうを覗き込んだ。
めんどうくさそうに、退屈をもてあましているような、たるたるした女子の声。
「ちょっと何よ、あの人」
ゆいちゃんの言葉は荒々しい。琴音ちゃんがまた、小柄な体を猫背にして、指を差してはゆいちゃんの顔を見て頷いている。
「入ってきなさいよ」
「じゃあお邪魔するわ。清坂さん、ちょっと、いい?」
まだ帯をしっかり締めたまま、片方にチラシのような赤い文字の印刷物を持った近江さんが立っていた。柱にもたれるようにして、ショートカットのすっきりした頭を振り、私にだけ、声をかけてきた。
「え、いいけど」
「ちょっと待ってよ美里、話まだ」
金切り声を出すゆいちゃんに、ごめんの一言を言おうとした。近江さんが片手をひらひらさせ、ゆいちゃんを見下ろすようにして、
「悪いけど、男女同権を気に入っている男子って、誰も霧島さんのこと好きにならないじゃないの」
と一言継げた。その後に、
「むしろ、霧島さんを見下したい相手にしか好かれてないこと、いいかげん気付けば?」「ちょっと、なによ! あんたこそ、私、小春ちゃんにあんたと天羽がやったこと、許してないんだからね!」
──だからなぜそういう話になっちゃうのよ!
だからゆいちゃんは論点が固まらなくて話するのが疲れるのだ。割って入ってくれればいいのに、琴音ちゃんはまた、ゆいちゃんの隣で頷きつづけているだけ。味方だってことをアピールしているだけだ。
「ああ、あのことは旅行終わってから詳しく話そうと思っていたけど、しょうがないわね」
近江さんはきらきら光っている爪を一本立てると、額に当てた。唇を左にゆがめて笑った。
「委員長はただ、清坂さんのことを『宝物』のようにして守りたいだけなのにね。守られたことのない人にはわからないんだから、これ以上話すのは時間の無駄よ。清坂さん、廊下の自動販売機のところに行きましょうよ」
また、指先を絡めるように繋がれた。「ああ?」といやらしい声でもって、琴音ちゃんが指を差す。なんでこういう子になっちゃったんだろうか。ぶちぎれそうなゆいちゃんよりも、私はむしろ、琴音ちゃんの伴奏をやめさせてほしかった。
「それに、もうひとつ聞きたいんだけど」
「なによ」
「『女だから』という理由で差別は確かにあるけれど、今までどのくらい霧島さん、あなたが『女だから』という理由で差別されたのかな、って思っただけよ。むしろ、霧島さんが『霧島さん』自身だから、そうされているだけなんじゃないのかなって今までのこと見てて思うんだけど。委員長も同じじゃないかしら。『女だから』ってことではなくて『清坂さんだから』って、どうしてそう考えられないのかな、ってふと思ったのよ」
「あんた最低、むかつく!」
「私は別になんとも感じないけど、ただ、男とか女とか意識するのって、だるいわよね」
ぶっきらぼうに答えるゆいちゃんに、近江さんはさりげないひとさしをした。
絡めた指はそのままだった。大人っぽく長い爪は私のまんまるいものよりもずっときれいだった。
「ゆいちゃん、ごめんね、ちょっとだけでるね。またあとでね」
かなり強い腕の力で引っ張り出され、私はスリッパを履いた。目と目が合って、近江さんがさりげなくウインクしてくれた。
──似合ってる。
帯を締めたままにしておけばよかった。すらっと背の高い近江さんの着物姿は、足首がちょこっとでていて男の子っぽく見えるけれど、帯がひし形を背負っている形のせいか、高校生っぽく見えた。私だったらやっぱり、つりあわない。