第二日目 14
14
八畳くらいの和室で、布団を全員分敷いて少し余裕がある程度。窓辺の椅子に更科が腰掛け、窓を半分閉め、カーテンをひらひらさせている。まだ十一時にもなっていない。部屋にテレビがないにも関わらず、会話が繋がっていくのは、やはりこのメンバーだからだろうか。僕は戸口の壁に背を当てて、茶碗で三杯目のオレンジジュースを飲んだ。
「そういうわけ。単純だろ」
難波は足下側の砂壁にもたれ足を投げ出したまま、「単純じゃねえだろ」と言葉を返した。
天羽は腹ばいになり枕を抱えた格好で、「ほう」とため息を吐いた。
「要するに、キリコは人に誉めてほしいの、すごいんだって言ってほしいの、そんだけ」
──単純な結論だよな。確かにな。
僕は頷いて、そのまま更科がたんたんとしゃべりつづけるのに耳を傾けていた。C組のクラス事情はあまり詳しく聞く機会がなかったし、男女の力差についても前から知りたいことがたくさんあったし、こういう時はただ黙っているに限る。更科は浴衣の帯を完璧にゆるゆるにさせ、前をかきあわせずに膝を組んでいる。難波と並ぶとどう見ても兄弟。同学年とは思えない。どこかでこんなでこぼこな組み合わせを見たことがあるような気がする。思い出せなかった。
「うちのクラスは女子上位の男子下位とか言われてるだろ。アマゾネスC組とかって。それはまあ、俺も狙っていたところだし、それはそれでいいんじゃないかって思うんだ」
「けどひどすぎるんじゃねえのか、あのいばりっぱなしって状況は」
難波が不機嫌そうに口を尖らせる。まあまあ、と更科は笑う。
「することはほとんど、女子が片付けてくれてるんだ。まず、食事の片付けとか、今朝はキリコが俺たちに命令なんぞしていかにもてきぱき行動させてたように見えるけど、あんなのみんな俺たちお見通し。ちゃんと取引してるからな」
「取引?」
僕が小さい声で問い返すと、更科はなんともないという顔で頷いた。
「女子が食いきれない納豆とか、魚とか、そういうもんあるだろ。それをちゃんと俺たちが頂戴して、うるさい先生連中に『やーい、お前ら食事残すな!』と怒鳴られないようにする。そういう仕事があるんだよ。女子たち、偏食児童ばっかだから、しょっちゅう怒られるんでキリコが交換条件持ってきたわけ。前もって、食事の席に付いたら、苦手なものをほしい男子に全部撒いて、処理してもらうってな。俺たちはいくら食っても食い足りないから嬉しいし、そんくらいだったら後片付けのお手伝いなんてちょろいもん」
──それってすごいことなんだろうか。
僕にはわからないので、まずはそのまま聞いた。
「それにさ、合唱コンクールあっただろ、二年の秋にさ。あんとき女子ばっかりがんばって、男子が全然やらなかったってキリコは思っているようだけど、これも大嘘」
──いや、それは言い訳にならないんじゃないかと思うぞ、更科。
つっこみを入れたいところ、天羽が代わりに、
「証明してみろ、信じられねえぞ」
「つまりさあ、うちのクラス、ほらC組は部活の弱い青大附中の中で、唯一部活動に燃える奴の多いクラスじゃないかよ」
「うんうん」
天羽の相槌に僕も釣られて頷く。
「運動部の連中、この時期秋の大会とかで、悪いけどクラスの行事にまで手を出している暇がないんだよね。俺みたいに評議一本って奴は珍しいよ。ま、部活に燃えてたって、弱いものは弱いからしょうがないんだけどさ」
──新井林が作った『青大附中スポーツ新聞』の一面を飾りたい奴らだな。
更科の言う通りではある。確かにC組の男子には部活動中心が多いと聞いている。
「けどうちの学校ではクラス一丸にならざるを得ないってことになると、さあどうする。男子連中としては頭を痛めるわけだよ。女子たちがヒスを起こす前に手を打っておかねばってね」
──あれでも十分なヒスだと思うんだが。
さっきの霧島さんを思い起こせば、身震いするのも無理はない。
「でだ。俺が何をしたかっていうと」
今まで秘められていた……たぶん難波は知っていたのかもしれない、小さく目を伏せたまま頷いているとこみると……裏技を公開しようとする更科。僕は知らないから耳をとがらせる。
「まずさ、女子たちをおだてあげたんだ。俺たち男子は音階もろくに取れない。それどころかどうしようもなく下手。社会の騒音。どうしようもねえ、って」
「そしたら女子だって言うだろうさ、『じゃあもっと練習しなくちゃいけない』って」
さりげなく聞いてみると、更科はもちろん、と言った顔で頷いた。
「そこで終わらないよ。だから、まず、合唱コンクールに使う曲をできるだけやさしい曲にしてほしいと、キリコに提案したんだ。このあたりは前もって結城先輩たちに相談して、曲を選定してもらって、三曲くらい選んで持っていったんだ。ほんとのところいうと、キリコとしては、難易度がめちゃくちゃ高い曲で、最優秀賞を狙っていたらしいけれど、そんなん選んだら、練習だけでも馬鹿にならないし、第一ついていけないよ」
がんばっても結局は二位だったC組。最下位のD組よりはましだろうが、話によると霧島さんはコンクール終了後相当荒れたらしい。男子たちにというよりも、そこまでひっぱれなかった自分自身にらしいけれど、それは更科からの言葉なのでよくわからない。
「そこで、俺たちとしては簡単な曲を最低限の努力でうまく見せかける努力をしようとしたわけ。一応は朝練にもみな参加して、女子たちにひっぱられる男子って演技をしまくったよ。けど、うちの学校の合唱曲、一番重要なパートはみな女子なんだ。女子は相当苦労したらしいけどね。結局、うちのクラスが合唱コンクールでこけたのは、男子よりも女子の音程が外れたせいなんだよね」
──なるほどな。
言われてみるとそうだ。評議委員男子はみな指揮者にまわされることもあって、一応は全クラスの唄を聞くことができたのだけれども、D組は別としてもB組の合唱は女子たちのパートがでしゃばりすぎていて、バランスが悪かったように記憶している。もちろん誰にも言わなかった。そんなこと口走ったら霧島さんに、「なにさ、D組なんてろくに音程取れないくせに、みんなやたらと楽しげにわめいていたから『特別賞楽しかったで賞』を受賞したんじゃないのさ!」と怒られること必至だ。
「そういうこと、いつもこのパターンなんだよね、C組のクラス活動って」
「あいつががんばればがんばるほど、めためたになっていくっていい例なんだ」
注釈を入れてくれたのは難波だった。まだ恨み、覚めやらぬ。
「まあまあ、ホームズ」
腹ばいになったまま、天羽も片足をばたばたさせてなだめる。プールで泳ぐ格好に似ている。
「だってそうだろ、この三年間お前も知ってるだろ、天羽」
苛立ちはかんたんに納まりそうにない。難波は続けた。
「あいつ、頭悪いんだって。それもな」
あいつとはもちろん、霧島さんのことだろう。ここにいる男子たちがみな知っていて、決して女子たちの前では口に出せない真実を、難波はつぶやいた。
「人一倍努力してもどうしようもないくらい、あいつ頭悪いってこと」
更科が大きく一度頷いた。天羽はやけに真剣な顔をしたまま、枕に顎を乗せ真っ正面を見据えた。僕しか相槌を打てそうにない雰囲気だった。しかたない。
「人のこと言えない人間がここに、約一名いるんだけど。特に数学においては」
「立村は努力して、他の分野で結果出してるだろ」
一言却下。難波はどうしても、霧島さんを「頭が悪い」と決め付けたいらしい。全員に納得させたいらしい。否定できないことを知ってて、言う。
「あいつはな、どんなに努力しても、どんなに一生懸命クラスのために尽くそうとしても、結局迷惑をかけてしまう、どうしようもない奴だってこと、どうして誰も教えてやろうとしねえんだよ!」
「そうか、そうだよな、キリコはたしかに、おばかだよな」
──相棒を貶してどうするんだ、こいつら。
でも頷かずにはいられない部分もある。僕としては、ちょっとだけ天羽が古傷痛んでいるのではないかと心配だ。はたして天羽は、修学旅行出発前にカラオケボックスで話し合った恋愛事情の修羅場について、難波や更科に話したのだろうか。前もって聞いておけばよかった。
僕は決して青大附中で成績のいい方ではない。文系科目については人並みのレベルをなんとかキープしているつもりだけれども、結局のところ数学などの理系科目で足を引っ張られている。小学生の時に見つかった生まれつきの数理障害みたいなものがあって、今でも年に数回、学業状況の報告をしにそういう施設へ行く。今ではだいぶ開き直って、人前でも平気で口に出せるようになった。三年に入ってからは例の掃き溜めクラスと呼ばれる特別クラス『E組』で放課後、狩野先生につききりで補習してもらっているありさまだけど、僕としてはそちらの方が楽だし、だいぶわかりよくなっているし、それほど気にならなくなっている。
そんな僕だから、学校の定期試験の時などは数学がめちゃくちゃな成績で終わるなんて日常茶飯事だった。「いくら数学が出来ないとはいえ、立村よりはまし」というのが慣用句になりつつある青大附中、これは悲しい事実でもある。
でも、そういう僕でも何度か、霧島さんには何度か勝ったことがある。もちろんいつもではないし、たぶん霧島さんもあまり熱心ではないというだけなのだろう。霧島さんの問題というのは、数学以外の科目、すべてにおいて全く、最低ラインを突破しているという状態のことだろう。
「一言で言うと、授業についていってねえよあの女」
難波が吐き捨てるように言う。うんうんと更科も頷く。
「さぼってるわけじゃあないから、なおさらたち悪いよね」
「そうそ。努力したって無駄なんだよ」
ふたりが貶しあっているように聞こえるこの会話だけれども、僕も頷かざるを得ない。
「努力しても結果が悪いってのは、辛いことだよ、少し考えてやれよ」
「わかってる、その辺はかわいそうだって思うよ」
更科も返事する。天羽だけは動かずに黙って考え込んでいた。難波が後を引き取って続ける。
「数学、立村に負けるってのは、どうしようもないと思うぞ」
「それは俺に対して失礼だと思うんだが、難波?」
「そういうわけじゃねえよ、ただな」
難波がさらに悪口を吐き散らそうとしたところを、割り込んだのはやっぱり更科だ。このふたり、一年の時から微妙なバランスを取りつつ話し掛けてくるのが常だった。
「しょうがないよ。本当の意味でのコネ入学者なんだよ、キリコの場合は」
「え? けど、なんでC組にいるんだよ。コネ集団は俺らA組の代名詞じゃねえの」
天羽がとろとろと尋ね返す。
「なんでも、いろいろ事情があって、殿池先生が面倒みることに最初からなってたんだってさ。これ、キリコの弟から全部聞いた」
「霧島さんの弟?」
いることは知っている。今年の一年に、結構成績の素晴らしくよい男子が入っていることも。もちろんそいつはコネではないらしい。それにしてもずいぶんチェックの早いことだ。霧島さんも、自分の弟が青大附中へ入ったことをあまり話そうとしていなかった。難波と顔を見合わせて、「ああ、そうだな」と言いたげに合図しあっている更科。
「そ、キリオはキリコ姉ちゃんと違って、ウルトラスーパー秀才少年。そいつから話を聞いて、だいたい今までの謎が解けたぜ。立村、知りたいか?」
「知りたいけど、俺に話すっていろいろまずいことないのか?」
なんというんだろう、個人のプライバシーを暴露するというのはちょっとひっかかる。ためらうことなく更科は、
「いや、どっちにしても俺たちにも関係あることだし、立村にはいつか話しておかねばなんないことだし」
と、すでにしゃべる体制に入っていた。耳に入る、ってことならば、怒られないでもすむだろう。
「その前に、俺にジュース、もう少しちょうだいな」
「へえへえ」
しかたなさそうに天羽が這いつくばってジュース缶へ手を伸ばした。更科が椅子から動こうとしないので、天羽は思いっきり顔をしかめ、立ち上がりしずしずと注いだ。
「いつもなら自分で注げって一喝したいんだけどな、俺も気が弱くなっちまってるんだ」
「その辺もあとで詳しく、聞かせてちょーだいな」
おどけて更科が、また赤ん坊の笑顔を見せた。
「キリコの場合、当然青大附中に受かるような成績じゃなかったんだってさ。小学六年の段階でな。けど、いろいろ親も考えるところあって、寄付金とその他いろいろやって、無理やり押し込んだんだと。本来だったらそれこそ、天羽たちと同級生になるところだったんだろうけど、やっぱりキリコの性格を面接の時見抜いた殿池お嬢がな、面倒みるって約束しちまったんだと」
「殿池お嬢って、すげえ言い方だよなあ」
天羽が感慨深げにつぶやく。明らかに顔と服装が似合っていない摩訶不思議な女性教諭、C組担任の殿池先生。「お嬢」という言葉にすべての意味が詰まっているところが怖い。僕の母さんよりもずっと年上なのに、うちの母さんが子どもの頃でも絶対着なかったようなフリルのついたドレスを学校に着てくること自体、すごいと思う。
「けどなんで、弟がそういうことまで知っているわけなんだ? 計算してみると、三年前だろ、その話は。小学校四年の段階でそういう裏事情をなぜ、弟くんは知っているわけなんだ?」
僕なりに疑問をぶつけてみた。
「そりゃあそうだよ。キリオくん、すげえあいつは秀才だもん。ガキの頃からおばかな姉ちゃんのやることなすこと、みんなお見通しだったみたいだぞ」
──あとで霧島さんの弟について、調べておかないとまずいな。
別の頭の方でそんなことを考えつつ、僕はさらに尋ねた。
「それに、更科、なんで弟くんと話そうと思ったわけなんだ? 俺は初耳だよそれって」
「悪い、俺も一緒に付き合った」
少し黙り加減だった難波が、僕に謝った。なんでだろう。
「更科とふたりでな、あいつの弟から全部話、聞かせてもらったってわけだ。足で情報を集めないとってことでだ。けど立村にはあとで報告するつもりではいたんだ、悪い」
「いいよ、それより続き聞きたいな」
僕が怒っているではないかと恐れたのだろうか。そんなことないと安心させたかった。
「で、知ってるだろ。あそこのうち、キリオくんの出来がそりゃあもうばっちりなもんだから、キリコの立場は非常にかわいそうなもんだってこと」
「きわめて男尊女卑なうちだって聞いたことあるよ。確か、毎日お風呂は一番最後で、食事も父親と弟が揃わないと食べられないって」
「ああ、それはデマ、大嘘」
いきなり却下するのは意外だった。難波も更科に指で「そうそう」と合図している。
「確かにキリオくんの立場は、呉服屋の後継ぎってこともあってそりゃあもうしたにも置かない扱いらしいよ。それはほんと。だけどキリコもそれこそ呉服屋のお嬢さまだし、なによりも父親がキリコのことを溺愛しまくってるらしいんだ。あいつは全然そんなこと言わないらしいけど、とにかくキリコの望みは何でもかなえてやりたい、何でもほしいものをやる、そんな感じらしい。そのかわり、母親がきついらしいけどな」
ずいぶん詳しい。いったい何のためにこいつら、「キリコ・シークレット」を仕入れてきたんだろう。そのあたりの事情が読めない。僕にもいつか話すつもりだったと言っているし、何か裏があるのだろうが、今のところは全く想像がつかない。
「とにかく、キリコを見ていると全然甘やかされたように見えねえけど、実際はもう、真綿に包まれたお嬢さまそのもんなんだ。どうしてああいう性格になったのかは謎だけどさ。父親がキリコの願いをかなえるために寄付金を納めるなんて、なんの不思議もないことらしいんだ。ただな」
言葉を切った。更科が意味ありげに頬を引き締めた。
「当のキリコは、それを全く知らないんだ。家族内でもシークレット。キリオくんはお父上の行動やお母上のちょっとした言葉なんぞ、あとお姉さまのどう考えても青大附中には届かない成績、このあたりから見極めて判断したらしいけれども。キリコは現在にいたるまで、自分が実力でもって青大附中に入学したもんのかだと信じきっている」
「ちょっと待て、ということは、霧島は何にも知らないのかよ。弟に思いっきり馬鹿にされてるってことをさあ」
「その通り」
なぜ、天羽がそこで反応したのかはわからない。それが、という顔で更科は流したけれど。
「キリオくんはねえ、出来の悪い姉がみっともないやら恥ずかしいやらで、もう頭に来ているみたいだよ。お父様が頬ずりせんばかりに可愛がっているのに、あだで返すような態度とってるし、反抗期そのまんまで家出するわわがまま言うわで、腹立ってなんないみたいなんだ」
それはそうだろう。評議委員会での霧島さんの行動は、たぶん家でもっとパワーアップしているはずだし、僕もあの人の弟には絶対なりたくない。
「当然、キリオくんはその素晴らしい頭の回転および能力でもって、キリコおよび家族全員に自分の力がいかに上かってことを証明しているってわけなんだ。ホームズ、お前の論理がかなうかどうかは難しいところだって思っただろ」
返事をしない難波。悔しかったのだろうか。
「食事をなぜ全員揃ってからにするのか、キリコ姉さんが文句を言ったら瞬時に、『家族全員で暖かく食べることによって、家族の思いやりが深まるものじゃないか』と一発正論をかます。母さんが当然だと頷く。父さんも頷く、誰も味方になってくれない。お風呂に入る順番にしても『一番これから働かなくてはならない相手が最優先で、何にも努力をしていない、もしくは努力したといえない人間が後というのはおかしい。母さんが一番最後に入るのは、時間をたっぷりかけてほしいからであって、一番役立たずのキリコ姉さんが贅沢いうのはおかしい』と。これもお母さん納得、父さんもOK、キリコには味方なしってことだ」
「これは悲惨だな」
以前、清坂氏や天羽から聞いた時には、さもありなんと思ったのだけれども、更科の話を聞くと同情するしかない。
確かに弟君の言い分が間違っているとは言えないだろう。努力していても、その結果を出せない……たぶん、霧島さんの場合は成績なんだろう……でいる人と、成績をきっちり出しているらしい弟君とだったら、扱いが異なるのは仕方ないのかもしれない。それに、後継ぎ扱いされているのだったらなおさらだろう。
「去年の年末に、キリコにとって最大の屈辱を浴びせられたのがな、あの家出事件のきっかけとなった、あれだよ」
──あれってなんだ?
天羽と難波に尋ねたいが聞けない。更科は少し呼吸をおいて、窓のカーテンを閉めた。小声で、
「呉服屋の後継ぎから外されたってこと。あれでぶちぎれて、キリコは殿池先生の所へ家出したってわけ」
──ああ、そういうことか。
やっぱり、直接そういう詳しい事情を聞かないとわからないものだ。
「あの頃からだろ? キリコがパワーアップしてヒステリックになりだしたのはさ」
「ごめん、自分のことで精一杯で全然気づかなかった」
去年の冬といえば、僕は本条先輩や新井林、杉本のことで忙しくてとてもだが霧島さんのことまで気が回らなかった。けど、言われてみればその通りだ。それまでは比較的、霧島さんは若干気が強いとはいえ、男子たちに普通の接し方をしてくれていたような気がする。天敵・難波とも、さほどかみ付き合うようなことはしなかったように思う。冬休み中の「奇岩城」が終わるまでは少なくとも。
「あいつ、ほんっと、ばかだよな」
頭を整理しながら難波の言葉を聞いていた。
「今までさんざんやらかしてきたことでもって、後継ぎになれなくなったってこと、あいついまだに認めてねえよな」
「わりいよく意味わからない、難波、もっとわかりやすく説明してくんろ」
天羽のリクエストに、難波はゆっくりと答えた。
「あいつ、自分が後継ぎの権利を奪われた原因を理解してねえんだよ! もっと人の手伝いして、もっと人に思いやりある態度とって、もっと自分から仕事して、もっと相手に人当たりよくしてって、やっていけばもしかしたらちゃんと認めてもらえたかもしれねえのにさ」「うう、やはりわからねえぞ。難波、つまりなにか? 霧島と弟との間で、後継者争いってのが行なわれていたってわけか?」
僕もその辺がわからないので教えてほしかった。やっぱり天羽は、しっかりしている。
「そ、そういうことだ」
「ホームズ、俺にまかせろ」
また後を引き取るのは更科だった。こういう時難波の理屈っぽい説明よりも、更科の柔らかい話方のほうが理解しやすいのもまた事実だ。
「つまりさ、キリコんちは呉服屋だろ? 女だと結婚して嫁に行くってのが前提にあるわけだよ、それはわかるよな、立村」
よくわかる。ちゃんと理解した合図をする。
「また男だと、家業を一応は継ぐってのが、頭の中にあるわけだよ。それもわかるよな、天羽」
「もちろん。けど弟って去年の段階だと、小六だろ? そんなこともう考えてるのかよ!」
僕も同感だ。まだ、将来の仕事のことなんて、いや、高校の進学のことだって本気で考えたことなんてない僕たちにとっては信じがたい。
「そ、俺もその辺わかんないけど、キリコはかなり早い段階で自分のうちの仕事を継ぐって決めていたらしいんだ」
「あいつが商売なんてできるかよ、だからあいつ馬鹿だっていうんだよ」
「ホームズ黙れ、混乱するから」
このあたりもほんと、バランスが取れている二人の息だ。僕と天羽は二人、感嘆中。
「要するに、キリコひとりが呉服屋のおかみさんになる気でいたんだけども、両親は現実を考えてさっさとキリオくんを後継ぎに決めちゃったってこと。商売人どころか基本的な接客マナーなんてないに等しいキリコに、腰の低い仕事なんてできやしないだろ? 俺も想像できないよ、なあホームズ?」
難波だけじゃない、僕たちも頷いているのがすべての答えだ。
「ただ、なあ、その言い方が他人ながらも、ちょっとまずかったんじゃないかって俺は思うんだ」
「どういうこと言ったんだ?」
天羽の問いかけにさらに、
「ほら、キリオくん出来が良すぎるだろ。また自分でキリコとのレベル差を不必要なほどに感じちゃってるだろ。だから、親が言えばそれほど角も立たなかったところをさ、キリオくんが言っちゃったんだよ」
弟君、何を言い出したのだろう? 気になる。
窓から風が吹き抜け、一斉に冷え冷えとした空気がみなぎった。
更科の言葉が続く。
「自分の始末もできないで、他人に迷惑ばかりかけて、結果も出せない人間が家を継げるわけないだろうってさ。まあ、その通りだよって俺も思うけど、口で言うのはちょっと、な」
──仮にも自分の姉さんにだぞ。そんなこと言っていいのかよ。
他人事じゃなかった。なんだか息苦しくなって、僕は膝を抱え直し、もう一度ジュースをなめた。茶碗を口元に当てたまま、身動きしないでいた。オレンジジュースの汁がゆれて、泣きたくなった。
もし今、ネタに上がっているのが霧島さんではなく杉本だったとしたら、もっと軽く悪口で盛り上がっていることだろう。こいつらも、杉本に対してはかなり辛らつな本音を抱えている。いなくなってすっきりした、いや、もういないからどうでもいい存在だ、そんなことを思っているに違いない。それこそ、「弟にこき下ろされてほしかった後継ぎの座まで奪われた、頭の悪い同期女子評議」の話なのだから、本当だったら「へへ、ざまーみろ!」とせせら笑ってもおかしくないのかもしれない。
そんな悪口では終わらない、そこに僕たちの繋がりがあるのだろう。
どんなに貶しあっても、ばかにしあっていても、切れない絆のようなものが。
同期でも、男女関係ないところで、確かに見える。
言った後の更科は、さっき天羽に注いでもらったジュースをこくこくと飲み干し、「はあっ」っと息を吐いた。
難波は足を細いハの字に開いて、股間を覗き込むような格好で動かずにいた。
天羽はやはり、うつぶせのまま枕を顎に載せて正面を見据えていた。
みな、黙りこくっているだけだった。
──今、みんな、霧島さんの気持ちのことを考えてるのかな。
考えるだけの余裕がある、考えることを選んでいる。霧島さんの立場にみな、身を置いているように僕には見えた。
そうするだけ意味のある、仲間だからだろうか。
「更科、いいか」
首だけ亀のように上げて、難波がくぐもった声で口を切った。
「なんだホームズ」
「それって間違ったことだと思うか?」
いきなり、意味不明なことをホームズ難波は問う。ついていけずおたおたする僕は、そんなとこ見られたくないのでそのまま茶碗の縁をなめていた。天羽がやっぱり代わりに質問してくれた。
「何がだよなにが。『それ』って指示代名詞はどこに繋がるのか、言え」
「あいつの弟が言ったことって、間違ったことだと思うか?」
──難波、お前そこまで……。
さすがに僕も口を挟みたくなったけれども律した。
「俺も、更科と同じ場所にいて話を聞いたし、大体の流れはつかんでいる。実際、あいつがどうしようもなくばかで、成績の結果も出せねえで、周りからはみんなばればれのコネ入学者で、家族からも軽蔑されてるってこと、あいつだけが知らないんだろ? それを教えてやったってことは、正しいことなんじゃないのか?」
難波は決して、霧島さんを「あいつ」としか呼ばない。僕はおずおずと言葉を発する。
「いや、本当のことを言うだけが能じゃないと俺は思うけど」
「もちろん時と場合によるさ。本当だったら、思いやりもってごまかしてやるのもいいかも知れない。けどさ、さっきあの女が俺たち相手にさんざんわめき散らしていったところ見ると、あいつ、自分が周りからどう評価されているかなんて気付いてねえぞ。自分は正々堂々と青大附中に入学して、努力もたっぷりしている、クラスの評議として活躍してます、だからえらいでしょ、後継ぎになったっておかしくないでしょ、当然でしょ、そう思い込んでいるわけだよ。当たり前だよな」
──そりゃあまあ、そうだけどさ。
たぶん、一切気付いていないと僕も断言する。
「更科の言う通り、シュチュエーションおよびもう少し言い方はあったかもしれない。けどな、弟の言っていたところによると、そうとう限界に来ていたってことも確かじゃないのか? 自分は後継ぎです、当然のことですっていう態度がな。学校の評議だったら、所詮クラスのことなんだ、どうにだってなるけれども、呉服屋のおかみになるって決めて家の中でいばりくさっていたとしたら、弟の立場、相当むかついてたんじゃないかと思うぞ」
「ということは、難波、お前は霧島の弟の肩を持つわけだな」
「そういうわけじゃねえよ!」
いや、そう言われても否定できないと思うんだが。妙にきつい言い方だった。髪の毛を両手でかき回すようにし、額を何度も撫でるようなしぐさをした。絶対、髪の毛、落ちまくっていると思うんだが。心配だ。
「納得させたいんだったら、見せ付けてやればいいんだ。あいつの頭が救いようないほど悪くて、どんなに徹夜で勉強したって成績が上がらない見込みのない奴で、アマゾネスC組とか言われて浮かれているようで実は更科の掌で転がされているだけだとか、呉服屋のおかみになんて逆立ちしたってなれるわけないとか、本当は親が涙涙で金を包んで青大附中に押し込んでやったんだとか、あいつが家出とかやらかして大騒ぎしたことによって、なおさら自分が跡取の資格なんてないんだってことが証明されたんだってこととかさ、いろいろあるだろ。本当のことを全部どうして言ってやんないわけなんだ? 弟の言い方はな、そりゃあ悪かったかもしれないけど、いつか誰かが本当のことを言わないと、あいつあのまんま勘違いして、他人さまに迷惑かけまくるぞ」
「じゃあ言った後でだ、誰が責任取る?」
更科の合いの手に、難波は黙った。
「ホームズの言い分は正論だよ。でも、もし他の奴らがキリコに説教しても、あいつ聞く耳持つと思うか? 俺もやんわりとこの二年間、匂わせるようにしてみたけど、キリコが耳を傾けるとこったら、『私はC組の女酋長・馬鹿な男どもをひっぱっているすごい人なのよ』ってことくらいだ。一度さあ、外見のことで若干、本気も交えて誉めたことあるけど、かえって怒られちまった」
「外見のことって、あのなにか? 霧島さんはきれいだとか、そんなことか?」
思わず口に出てしまう。僕以外の三人、困りきった顔を合わせているのはなぜだろう。なんか、僕、悪いこと言っただろうか。
「立村、お前それ清坂にだけ言ってやれ」
天羽が近づいてきて、思いっきり僕の頭をはたき、また元どおりうつぶせに横たわった。文句言う暇もなかった。
「キリコは自分の外見誉められても喜ばないんだよ」
更科はやんわりと、かすかに唇をゆがませながらつぶやいた。
「あいつ、見かけしか誉めてもらえないんだって思いこんでいるからな」
妙にしみじみした口調なのは難波だった。
「つまり、霧島は自分の能力を誉めてほしいけど、かんじんかなめの能力がすっからかん。本当に誉められてもOKなものはなんの価値もないって思ってるんだ。わかったか立村。気を付けろよ」
なんで僕が責められるんだか。天羽を軽くにらんでおいた。でもだいたい、意味はわかった。
女子たちが自分の見かけ、容貌に対して異常とも思えるくらい気を遣うのには気が付いていた。なにせ清坂氏の洋服に対するこだわりをちょくちょく拝見していたし。同時に、なぜ一部の女子たちが奈良岡さんに対して「あんな不細工な子がなぜ南雲の彼女になるわけ?」とブーイング活動をしていたことも違和感もって感じていた。南雲の好みと、多くの男子好みとは違うだけであって、別にそんな騒ぐことではないだろうと思っていた。
──きっと、そうなんだな。
清坂氏たちから聞いた、C組女子たちの、奈良岡さんブーイング事件。
霧島さんも南雲に告白して振られ、しかも存在そのものを覚えてもらえずにいるという。
奈良岡さんを恨む筋合いはないと思うのだが、悔しいことは悔しいだろう。変な言い方だけれども、霧島さんと奈良岡さんをふたりならべてみたとしたら、たぶんほとんどの人は霧島さんに見とれるだろう。外見というのはそのくらいの差だ。
でも、南雲は霧島さんのアリス風な雰囲気に一切目を留めず、ためらうことなく肝っ玉母さんの奈良岡さんを選んだ。
奈良岡さんには選ばれるだけの魅力があったしそれは当然かもしれない。それに南雲は女子に対して外見よりも気持ちを優先したがる性格だ。どんなに霧島さんが努力しても、無駄といえば無駄だ。あのきつい性格だったら、どんなに見かけがよくても僕も逃げる。怖い。うちの母さんみたいな性格の女子に告白されたとしたら、僕も速攻断るような気がする。
「ひとつ聞いていいか。ここだけの話なんだけどな」
僕は茶碗のはしをちろちろなめながら尋ねた。
「霧島さんのことって、南雲のこともからんでいるのか」
また沈黙。どうしてみな、黙り込むのか。僕は本当に地雷を踏むようなこと、言っているのだろうか。しかたないから一人で尋ねる。
「霧島さん、もしかしてさ、自分の外見が南雲に受け入れられなかったことを、かなり恨んでいるのかな」
「立村わりい、もっとわかりやすく言ってくれ」
天羽にも関係あることだし、ゆっくり言ってみた。
「ほら、うちのクラスの奈良岡さんを南雲、選んだだろ? で振られた女子が多数でただろ? 変な話、奈良岡さんと霧島さん、どっちがアイドル歌手にスカウトされやすいか考えると、大抵の場合霧島さんの方がってなるだろ? 性格を抜きにして考えれば」
うまく言えない。これぞ女性蔑視って怒られそうだ。
「俺自身はどっちがどっちって言えないけれども、ただ、霧島さんくらいの外見だったらいくらでも、そういう対象の奴っていそうな気するんだよな」
「ああ、性格さえ抜けばな」
吐き出すような難波のつぶやき。
「俺もその辺わからないから想像だけど、女子たちはきっと、奈良岡さんよりは自分の方が上だって思い込んでたんじゃないかって気がするんだ。もちろん霧島さんも同じくさ。でも、外見ではずっと評価が高い霧島さんが記憶にもとどまらない形であっさり振られたってことは、そうとうプライド、傷つけられたんじゃないかな」
また沈黙。天羽だけだ。しかも恐る恐るってのはどういうことだ。
「それに今聞いた、後継ぎの話と、あと成績のことか。俺、これは自分の中で思うことなんだけど」
小さい声でつぶやこうとしたらまた天羽に注意された。
「もう少しでかい声で話してくれよ、立村ちゃんよ」
「俺よりも数学の点数が低いってのは、かなり落ち込むと思うよ。クラス違うからなんとも言えないけど、霧島さんって勉強も運動も人一倍努力しているって聞いているんだ。ほら、放課後『E組』で補習してもらっている時も、霧島さん来て、一生懸命質問していくんだ。参考書とか教科書とか、ノートとか抱えて。あの姿みていたら、どう考えたって勉強していないとは言えないよ」
「らしいよ。キリオくんも言ってた。勘違いしたとこばかりヤマかけて勉強して自滅してるって」
根本的になんか間違っている勉強方法なんだろう。僕は続けた。
「俺も、数学関係で小学校の頃から、努力しても普通の人に追いつけないって経験山のようにしているし、最近も、まあ評議委員関係のことでごたごたしたし、落ち込むことがないってわけじゃないさ。けど、俺は運よく、周りから認めてもらえたり、誉めてもらえたり、それこそ自分に不釣合いなものとかたくさんもらったりしてやってこれているんだよな。どうしてかわかんないけどさ」
みな、なぜそこで頷くのだろう。ちょっとむっとくる。
「けど、霧島さんはどんなに努力しても、どんなにがんばっても、自分のほしいものが手に入らないんだよな。それは本当に辛いと思うよ。言い訳できないよな。どんなに見かけがよくたって、それって使えない外国の札束、ほら、マルクとかドルとか元とか、そういうもんばっかりで、いくら差し出してもガム一個買えないっていうのかな。うまくいえないけど、こんな悔しいことってないと思うよ。その一方で、奈良岡さんとか弟君とか、そういう人たちが軽々とほしいもの手に入れててさ、本当にほしいものに手を伸ばしていたら、あっという間にさらわれて、『お前にはそんなもの手に取る資格なんてない!』ってののしられるわけだよ。これは辛いよな」
──本条先輩みたいになりたい。新井林みたいになりたい。
──完璧な評議委員長になれれば、きっと本条先輩は俺を認めてくれる。
不意に、身体が氷で包まれたような感触を覚えた。頬の痛み、耳鳴り。
気のせいだった。誰も側にいないし、目の前には評議三人衆がそれぞれちらばっているだけ。外から流れる風は夏初めのもの。冷たくなんてことはない。なのに、奥からひゅるひゅると冷たく凍りつくような、かちかちとした音が響いてくる。目を閉じると、半年前の自分が見える。闇の中で、ちょうど今くらいの時間帯だった。わめき散らして目と咽が飛び散らんばかりに泣き喚きつづけている自分のシルエットが見える。金縛りという言葉はたぶん、今の僕のためにあるのだろう。唇をかみ締めた。
「立村、どうした」
「ごめん、悪い」
天羽がうつぶせていた半身を起こし、僕の方をけげんそうに見る。
「いつものくせだ。気にしないでくれ」
無理やりかっこつけてごまかした。天羽がもう一度僕の側へやってきて、軽く僕の頭上に手を置いた。
「お前も苦労したもんな」
一言だけ残し、そのまま天羽は大きく息を吸い、いつもの調子で、
「今の話、一通り聞いてな、やっぱこれは俺もしゃべんないとまずいわなって思ったわけっす。てかさあ、俺、霧島の弟の気持ちが非常によくわかるっていうか、それとおんなじこと、つい最近やっちまったもんでさ」
──天羽、お前。
息を呑む気配がした。隣の部屋からただはしゃぐだけの声が響く。僕たちのいる四人部屋だけが、不思議な静けさに支配されていた。なんでかわからない。僕も、きっと他の奴らもわからないだろう。この四人で部屋を共有して、いろいろな馬鹿話ヨタ話で盛り上がっていたことは何度もあるけれども、カーテンが揺らぐ音すらも聞こえそうな程に空気がしんと鳴っていたのは初めてだった。きっとこの四人では、一度もない。
難波も更科も、僕の前に立ちはだかる格好の天羽をじっと見据えている。
──きっと、話していなかったんだなあのことを。
──きっと、西月さんとのことをだ。
かばわれる形で僕は首を竦め、浴衣をかきあわせる格好で膝をかかえきった。
「更科が今言ったようにさ、本当のことをしゃべっちまうと、後始末が大変だってのはすげえよくわかるんだ。実際、修学旅行が始まるまでこの後始末、時間がかかったし、たぶんまだ終わってねえよ。けど、難波が言ったろ?」
更科、難波、交互に見ている様子だ。後ろから、首の動きでよくわかる。
「本当のことを、いつか誰かが言わないと、相手が勘違いしまくるってのも、確かにそうだって思う。お前ら知ってると思うけど、俺が以前の評議委員コンビ組んでいた相手との関係も、まさにその通りでさ。立村には面倒かけたよな」
僕の方を振り返り、頷く。返事しなくていい、と首を小さく振った。
「けど、俺としては、言わねばきっと前に進めなかった。結果として相手を救いようないくらいに傷つけて、一生償わねばならないくらいのことをやらかしてしまったけど、いつかは本当のことを言わねばならなかったんだ」
「西月に、か」
更科のか細い声が、途切れ途切れに聞こえる。
「そ。けどそれは、さっきの霧島の話とおんなじことでさ、相手に受け入れられるかどうかは別だっての。霧島はまだああいうぶっ千切れた奴だからさっさと行動して発散したけどさ、俺の場合はだめだった。俺がどんなに努力されても、相手のことがへど出るくらい嫌いだって気持ちが変わらなくてさ。どうやったらおっぱらえるか、もう二度と顔なんて見たくない、そんな気持ちでいるなんてこと、本当のことだからって伝えようとしても受け入れてもらえなかった。けどそれはしかたねえよな。受け入れてもらえるわけがねえっての」
「けどお前が西月にされてたことは、確かにそうだな」
難波は両腕を組んで、しみじみと頷いた。
「だから、修学旅行前にな、立村に頼んで最後の話し合いをカラオケボックスでさせてもらったわけなんだけどな。なっさけねえことに俺、思いっきりわんわん泣いちまったよ。もちろん相手の前じゃあねえよ」
──泣いた?
僕も意味がわからず、天羽の背骨に目を走らせた。
「俺が西月に口走ったこと、あれは大嘘で、単に近江ちゃんのことが気にいっちゃって、うまく表現できなくて、暴力的な表現になっちゃったこと、ごめんって、まさに言い訳だよな。気持ちとかは全然変わってねえんだぜ。西月みたいな偽善女なんて今でも一番嫌いなタイプだってこと、全く変わってねえよ。社交辞令を本気に取られてしつこくされて、親切の押し売りされてもうたくさんだっていうのが、俺のきったねえ本音。全く変わっちゃあいねえ。なのにな、それを全くの嘘だって否定して、『小春ちゃん』なんぞと大嘘言ってまとめたんだ。結果、どうなったかっていうと」
──知ってるよ。見ていたんだから。
「どんなに俺が本心本音で語ってもあきらめてくれなかったのが、まろやかあな言葉でしゃべったとたん、あっさり別の男に鞍替えしてくれて、それっきり近寄らないでくれるようになったんだ。俺がいやなこと言わなくてもいいように、別の奴と一緒にくっついてくれるようになった。なんでかわからないけどな、俺、あの時のショックはすごかった。もちろん相手の奴が西月のことを心から惚れてるってこと知ってたからできたことだけど、でもな」
たぶん、西月さんを迎えにきたA組の男子のことだろう。名前はええっと、誰だか忘れたけど。
「狩野先生にも言われた。『誠意を持った嘘』を持って接しろってさ」
「『誠意を持った嘘』?」
難波が繰り返した。
「そ、俺からしたら嘘ばっかり並べて、奇麗事ばかりで、あの女のしてきたことと同じじゃねえかって思ったけどさ。でも、相手を不必要に傷つけないためには、嘘も方便なんだなって、思った。負けちまったって感じながら思った。つまりさあ、俺が早い段階でやんねばなんなかったのは、本当のことを並べて、わざわざご丁寧にテープに取って渡すことじゃねえ。嫌いな相手でも、ちゃんと思いやりもって嘘を吐いて、遠ざけることなんだってさ」
「けどそれはまずいんじゃないかよ!」
なぜか難波の声がとんがる。更科が「ホームズ、落ち着け」となだめようとしているが聞かない。
「確かに、その通りかもしれない。天羽、俺も西月の行動については不愉快きわまるものあったし、お前が近江を選んだのも納得する。けど、お前ははっきりと本当のことを伝えた、それは間違ってないと俺は思う。お前が覚悟を決めて、全部伝えたことが、間違ってると俺は思わない」
「そう思ってたよ、俺もさ。けど結果は、西月はしゃべれなくなってしまった、これが全てだ。俺はその責任が取れなかった。傷つけるだけ傷つけて、逃げ出して、結果大事になっちまった」
一呼吸置き、天羽は難波にもう一言、やさしく告げた。
「けどさ、難波。お前なら覚悟あるだろ。たとえ霧島に罵詈暴言吐き散らされて、首の骨折れるくらい文句言われても、とことん言いつづけるだけの覚悟、あるだろ?」
──え、難波、どういうことだ? あの、天羽も?
とまどい、ゆれる。ぐらぐらと目の前の映像が変わっていく。自分の想像していなかった言葉が、僕も消化できない。悔しいことに更科は冷静に天羽の言葉を聞いている。どうしてだ、なぜなんだ。
「さっき立村が言った通りさ、霧島はかわいそうな立場にいると思うんだ。俺は西月より霧島の方がはるかにおもろいやっちゃって思うけど、今言ったみたいに言いたいことを全部言って、責任取るだけの覚悟はねえよ。だから、更科の意見に同意する。俺たちの方に害が及ばないように、うまく機嫌を取ってごまかしていく方があと半年間乗り切っていく上では問題ねえと思うんだ。けど、今立村が代弁しまくってくれたようにさ、霧島はかわいそうだよ。なぐっちゃんには全くアウトオブ眼中だしさ、せっかくのべっぴんもあの狂犬的性格が災いして、男っ気もなし。弟くんだっけ? あったまいい奴だったらなおさらだろうな。役立たずだって思ってるさきっと。だから、都合よくC組で利用されまくっているのを、自分のこと必要なんだっておめでたく解釈してるんだろうな」
うん、うんと三人で頷く。こうやってみると僕たちはずっと、誰かの言葉に相槌を打ち合うことしかしていないのかもしれない。
「けど、今の俺は霧島に対して、同じ評議同士って連帯感以外のなーんも感情がねえよ。それは更科も一緒だろ。だから、もし俺たちがそういうことを正義感面して言ったとしても、西月の時の二の舞になっちまう可能性が大だ。俺たちが迷惑するから、頼むから現実見ろよってこと言うだけだしさ。立村なんてそんなこと、言えると思えないし、こいつだったらかえって丸め込まれるよな。もし、本気で霧島のことを考えて、どんな文句言われても、何されても、覚悟していて、それこそ霧島が手首切るかもしれないくらいの時に命賭けて止めてやるって気持ちがなければ、そういうことって言えねえと思うんだ」
──命賭けて、止めてやる、か。
天羽は僕をちらっと見た。意味があるのだろうか。
「難波、まだ今のところ時間があるし、考えてみる余裕もあるだろ」
今度は難波へ視線が集まった。いつもだったら「うるせえなあ、何いきなり俺に説教するんだよ天羽!」と怒鳴りそうな難波なのに、腕組みした手は動かなかった。ずっと、股間のところを覗き込むような格好で、考え込んでいる。
「あと、更科、霧島の弟とはあとどういう話したんだ?」
そうだった、僕もそれは聞きたい。僕に伝えなくてはならない話があったはずだ。なんで忘れてしまうんだろう。あわてて僕は天羽の影から顔を出した。
「ああ、あれね。そのウルトラ秀才キリオくんなんだけど」
少し痺れてしまったような難波を無視して、更科はまた赤ん坊的笑顔を向けた。
「どうやらさ、この秋、生徒会に参加したいみたいなんだよ。評議委員は姉貴の馬鹿さ加減をいやというほど見るはめになるから参加最初からする気なかったんだって。けど、これから先は生徒会の時代だよって教えてやったらさ、やる気満々。だから立村も何気なく目をかけてやってくれると助かるなあ。ほんっと頭いいぞキリコの弟は。姉貴と大違い」
しばし僕は絶句していた。天羽がかわりにたずねてくれた。
「そんなん、すごいのか、奴って」
「あれじゃあキリコなんて、相手にされねえよなあ。俺としては、キリオくんの生徒会希望の話を立村評議委員長に伝えておいて、俺が怖い姉貴の面倒を見ることを交換条件に、言っといた」
「何をだよ」
なんか面倒なことになりそうだ。せっかく更科にも感謝したい気持ちでいたのに、いらいらしてくる。
「少し、家の中でキリコのこと、持ち上げてやれよって。まあ無理かもしれないけど、せめてさ、二歳早く生まれてきたんだから、その分の敬意はお世辞たっぷりでもいいから、用意してやれよってさ。ほんと、簡単だよ。キリコは。他の女子たちに対してべたべたのお世辞を言うよりも、ほんの少しだけ『キリコさんあなたは天才!』って誉めてやるだけで、すぐ舞い上がっちまうんだ。ほしくてほしくてなんないんだよ。うそでもいいから、誉め言葉がほしいんだよ。顔じゃなくて頭を誉めてほしいんだよ。あそこまでよだれたらしてちょうだいコールしているのを見るとさ、あきれるのを通り越して、可愛いよな。ペット」
思わず笑いをかみ殺した。その通り。難波と天羽は遠慮なく腹を押えて笑い転げていた。
「更科、ナイス! 名言!」
「これからあいつの暗号は、『ペット』だな」
それからの流れは、真面目な会話が一転、下ネタのオンパレードとなるのはしかたのないことだ。
隠し持ってきたグラビア写真を布団の上に広げ、それぞれの好みを語り合いつつ僕は、目の前の三人衆を眺め、考えた。
──もし、本気で霧島のことを考えて、どんな文句言われても、何されても、覚悟していて、それこそ霧島が手首切るかもしれないくらいの時に命賭けて止めてやるって気持ちがなければ、そういうことって言えねえと思うんだ。
難波を見つめて天羽が告げた科白。なんの疑問もなく見つめていた更科。反論せず考え込んでいた難波。
──難波、もしかして、お前、そういうことだったのか?
「日本少女宮」の千切ったグラビア水着写真を食い入るように見つめる難波の視線を追った。ごくごくふつうのアイドル写真に興奮しているだけに見える。でもその奥に、僕が今まで見ようとしなかったものが隠れていたのだろうか。ただの舌戦、気が合わなくなった評議委員同士、口喧嘩の陰には、難波の覚悟のようなものが、確かに潜んでいたのだろうか。