第一日目 1
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「こずえ、こずえ」
バス休憩所のトイレ隙間から、私はこずえを呼んだ。さっきバスから降りて、二十分間の休憩だった。そんなに行きたいとは思わなかったけれどもやはりいける時には行っておかないと。そのくらいのつもりだった。こずえも同感ということで、私の次に入るのを待っているはずだった。返事は返ってこなかった。別のトイレが空いたんだろうな。他のクラスの子も五人くらい並んでいるので、私はあきらめて次の人に譲った。
修学旅行。朝、連絡船から降りた後、すぐバスに乗り込んだ。前日まで大雨だったのに、今日はしっかり晴れてくれていてちっとも揺れなかった。桟橋からすぐに乗り換えた青潟大学附属中学三年D組専用バスは、去年使った車よりもずっと大きくて、席もたくさんある。それになによりも嬉しいのは、思ったよりも揺れないということだった。今回、評議委員の私が決めたのは、「男子は前の方に固まって、女子は後ろ座席にまとまって」ということだった。三年相棒を務めている立村くんにもいぶかしがられたけれども、私の考えで押し通した。
──それにしても、こずえ、どこ行ったんだろう?
別のことで私はせっぱつまっていた。
とにかく、こずえを探さなくちゃ。
入れ違い他クラスの子とか、同じクラスの子たちと、「早く戻らないと置いてかれちゃうね」とか軽い話をしながら、私はもう一度ショートカットのくりくりした目の大親友を探した。すっかり汗ばんでしまって、ちょっと臭い。ちゃんとわきの下にしゅっしゅとするものも持ってきたのに、今用意してこなかったのは失敗だった。次の休憩所でかけよう。
「美里、ごめんごめん」
こずえが駆け寄ってきたのは、私がバスに戻ってから五分くらいしてからだった。やっぱり、他のトイレを使っていたんだそうだ。思いっきりぷん、と怒りたい。
「さっきトイレの中で呼んだんだよ!」
「だって、こっちだって都合があるじゃない。私、今朝、大の方済ませてこなかったから時間もかかったし」
──そんなおっきな声で言わないでよ!
私とこずえの席は、一番後ろの向かって右側だった。こずえが窓際だった。まだ席が二列くらい後ろにあまっているのだけれども、いろいろ荷物を置いたりしているのでそれなりに埋まっている。
「美里も今日は長丁場だし、ちゃんと控えてる?」
「もちろんよ」
朝はジュース一杯だけにしておいた。ちょっと咽が渇くけれど、ここでうっかり水分取りすぎたら去年みたいな騒ぎにならないとも限らない。巻き込まれたこずえもその辺はわかっているようすだった。珈琲とか、紅茶とか、いかにもトイレが近くなりそうなものは買わない。
「去年は多大なるご迷惑をおかけしました! 反省してるよもっちろん」
「もういいよそんなこと」
けろっとした顔でこずえは笑うけれど、去年の宿泊研修で起こった「女子あわやトイレピンチ」事件。バスが渋滞に巻き込まれて、女子たちが何人かトイレをがまんできなくなって、でもなんとか切りぬけたことがあった。ぎりぎりだった女子のひとりにこずえが入っていた。その時とっさに私が取った手段を、こずえはかなり感謝してくれているみたいだった。
「ちなみに、あいつには話していないんだよね、美里は」
「当たり前じゃない。向こうもしつこく聞いたりしないし」
あいつ、という人は今どうしているのかな、と前の座席を覗いてみる。ちゃんとトイレ休憩には起きたみたいで、車のそばで他のクラスの男子たちと話をしていた。今日もちゃんとブレザーを着ている。せめてシャツくらい半そでにすればいいのに。暑苦しい。
「じゃあ、女子たちと一部の男子たちの胸にそっと秘められているわけね」
「みんなだって思い出したくないよ、あんなこと。みんな紳士よね」
私も思い出したくなかったので、別の話に逸らすことにした。
「あのね、こずえ、ちょっと聞いていいかな」
まだ前の席の女子は戻ってきていない。もうバスの中はほとんどの同級生が戻ってきている。最後に立村くんがブレザーを着直して先生の真後ろ席についた。クーラーの風がくる真下だ。あの人、車に弱いからまた酔ったりなんてしないかな、とちょっと心配した。
「こずえって、あれ、もうきてるよね」
「あれってなによ」
「だから、あれよ」
心持スカートの下あたりを見つめてみる。うまく言えないのは、女子にもあんまり気付かれたくないことだから。たぶん、D組で来ていないのは、今のところ私だけみたいだから。
「あいまいな指示代名詞はわかりませーん」
「もう! だから、あの、あれ」
エンジンのかかる音が足下で響いた。バスガイドさんが「それでは、行きまーす」と声をかけてくれた。悪いけど今日の私はバスガイドさんを盛り上げる気になれない。後ろの席でよかったと、本当に思っている。
「ほら、いつも来るって言ってるでしょ、あれよあれ」
腰を何度か擦り付けてみた。
「美里ほんとにトイレ行ってきたの? 貧乏揺すりしてるんだもん」
「違うってだからあの」
鈍なこずえの耳に私は口を近づけた。
「せ、せいり」
こずえは無言で私の顔を見つめた。ゆっくり私のスカートひだを見つめた。
「だから、うん、それ」
片手をスカートの上においてみた。本当のことを言うと、なんだかお腹のあたりが冷たくなったり熱くなったり、ちょこっと痛くなったりと、変な感じだった。
「美里、まだだって、言ってたよね、この前さ」
──嘘言ってたんじゃないもん!
顔が火照ってくる。バスガイドさんが男子たち……立村くんではなく、貴史の方だ……に乗せられて盛り上がっているのが聞こえる。ああやってくれたらいいんだ。今の私にはそれでいい。
「あの、あれって、始まりってどんな感じなのかなあ」
私は意地でも指示代名詞を使いたいので、そのまま続ける。
「ほら、お腹痛くなったりするっていうじゃない? それから、眠くなっちゃうとか、いらいらするとか、そういうのって、やっぱりある?」
修学旅行前、女子だけ集められて、時代遅れの怪しいビデオを見せられた。修学旅行中に生理になっちゃって、男子にからかわれたり、先生に泣きついたりする女子の話だった。私もほんとのところ、ああはなりたくないなって思っていた。たぶん大丈夫、そんな予告なんてほとんどなかったし、甘く見ていたのかもしれない。
──いや、それ以前の問題よ。私、まだ、なっちゃったってわけじゃないかもしれないもん。
こずえはまだ私の顔をまじまじと眺めている。窓を少し開けた。クーラーが利いてきているせいか、寒い。風が液体みたいに咽へ流れ込んでくる。
「美里、耳貸して」
吹き込まれたこずえの問いは、みっつだった。
「三日前からパンツ、やたらと黒くなってない?」
──いくら洗っても、きれいにならなくて焦ってる。うん。
「昨日から、トイレにやたらいきたくなってない?」
──青大附中に入って以来、昨日初めて授業中に「お手洗い行きます」って立っちゃった。立村くんと同じ教室の時は、絶対行きたくなかったのにな。ちゃんと休み時間に行ったのに、三十分も経たないうちに。あんなこと、初めて。
「今朝から右のお腹、やたらと張ってない?」
──盲腸かなって、今朝から心配。
すぐに答えられなかった。
急停車。前がつかえているみたいだ。がくりと揺れた。私もふらりとした。
「……どうなの?」
畳み掛けるこずえの言葉に、私はほんとのことを答えるしかなかった。
「うん、今も、そう」
厳しい顔していたこずえが、バスの動き出すのと同時ににやっと笑った。
私の膝を人差し指でつついた。
「とうとう美里も念願の女の子じゃん。奴とエッチなこと、できるじゃん」
──そんなんじゃないってば!
私はこずえの腕をつかんで思いっきりつねり返した。
「もうっ、こずえになんか聞かなきゃよかった! もう知らない!」
「羽飛に相談できることじゃあないもんねえ」
それでもまだにまにましている。入学してからずっと、「美里、生理なんていいもんじゃないから焦ることないよ」と慰めてくれていた。確か、こずえが初めてなったのが小学四年の冬だと話していた。ちっともそれっぽく見えないのに変だなと思った。クラスの子たちも中学二年くらいでどんどん、なっていったし、水泳の授業の時はかわるがわる見学をしていたりもした。生理になった時どうするか集会の時、養護の先生に「まだ生理の来てない人」ということで手を上げさせられたけれど、その時まだ三十人くらいいたのでほっとしたことを覚えている。もう十五歳にもなって、まだというのは遅いのかなと思わないこともなかったし、お姉ちゃんにもしょっちゅう「美里はまだ、はんぺんの使い方を覚えてないのねえ」といやみったらしくからかわれている。なによりも、妹に先を越されたのがちょっと複雑だったりもした。もっともお赤飯なんて炊いてもらって嬉しいものでもないし、トイレがやたらと血みどろのにおいで臭くなるのは勘弁してほしいかな、とも思う。
「で、冗談抜きでこれから質問ね。美里ってさ」
さらに耳に吹き込まれるこずえの質問。やっぱり、答えるのに時間がかかりそうだった。
「朝は平気だったの。たいてい、朝私とかだと気付くんだけどなあ、しみはなかったの」
──おろしたてのにしたんだもん。白いレースつきのにしたのよ。
「でさ、さっきちゃんと、あれ、持っていってつけたの?」
指でひし形を作るこずえ。意味はわかる。私は首を振った。
「どうしてさ! じゃあさっき、まだつけてないわけ?」
──だって、まさかそうなってるなんて思わなかったんだもん。それに、違っていたら困るじゃない。私四枚しか持ってきてないんだもん。
「四枚、って、美里本当に?」
かなり慌てているこずえ。でも、なんか心配そうだ。
──この前、くばられていたものと、あと一応念のために、専用の下着を持ってきているけど。
話をしている間にも、なんだか足の間が気持ち悪くなってきている。気持ち悪くなんてない!と暗示を掛けているんだけれども、自分の気持ちが伝わらないみたいだった。足をそっとつぼめてみた。
「あのさ、美里、まじでやばいと思うよ。今日のおろしたてのパンツは、分厚い?薄い?」
──モデルさんが着ているようなもの。フリルがたくさんあってシュミーズとおそろいなんだ!
「ああ、もう最悪じゃないのよ、美里」
こずえはゆっくりと大きなため息をついた。さっきまでにやついていたくせに、私の肩を引き寄せて、
「いい、美里。今日は私の言う通りにしな。立村の前で恥をかきたくないでしょ」
──なんで、そんなにいきなり脅すのよ!
「とにかく、次に降りる時まで、あんたの持っているはんぺんを全部、ポケットの中に押し込んでおきなさい! あーあ、一応私も持っているけど、四日間も持たないよ。ほら、出して」
リュックの中をごそっと捜し、そっと取り出した。ピンク色の可愛いポーチだった。両手で納まるかどうかという大きさだった。ただ容量はあまりないので、四枚がやっとだった。かしゃかしゃと音が鳴らないように、注意深く制服のスカートに押し込んだ。
「あのさ、美里。ほんっとにこれしかないわけ」
「うん、だってまさか」
「とにかく! 修学旅行なんだからね」
こずえがなぜそこまで、力強く私にお説教するのか、その時はわからなかった。
次の休憩所でトイレに入るまで。
──こずえの言う通りだわ。
可愛い下着なんて、意味がなかったんだ。
まだ本当のところ、私が本当に生理なのかどうかすらわからなかった。こずえの投げかけた質問には当てはまっていたけれども、それって先生たちもお姉ちゃんもお母さんも、あまり教えてくれたことではなかった。 確かに、下着がこの三日間くらい、取り替えるので大変だったのは認める。
小学校以来、ショーツだけはいつも自分で洗うようにしていたけど、洗濯の量が増えてしかももみ洗いで大変だった。石鹸で落ちない汚れみたいで、お湯を使ってしまったのがまずかったらしい。せっかくお気に入りのピンク花柄ものが茶色いしみで台無しになってしまった。新品なのにこんなことってめったになかった。
確かに、昨日からお手洗いにいきたくてうずうずしていたのは認める。
三時間目、数学の時間。トイレに行き忘れたわけじゃない。催してしまったのはだいたい十分くらいたってからだった。四十五分くらいならがまんできなくもなかった。けど、立村くんの前でその、前を押えるなんてことをするくらいなら、さっさと「すみません、お手洗い行かせてください」の方がいい。小学校の時ならともかく、中学で静かな教室……なにせ狩野先生の授業だし……、手を上げて立ち上がって、もじもじしながら教室を出て行くのは恥ずかしい。もしかしたら今年に入って、初めてじゃないかな。トイレに授業中行ったのは。
確かに、ちょこっとお腹が引っ張られる感覚なのは認める。
家族、みな、盲腸経験者というのもあって、残りの私がいつ盲腸にならないかはわからないという恐怖がある。つい、盲腸のある下っ腹を触れてしまいたくなるのだ。今回もきっとそれかなと思っていた。
言い訳なんてどうしようもない。気が付いたら後ろの方にちょびっと、赤茶色のものがくっついていた。慌ててこずえの言う通りに、ポケットから持ってきたナプキンを一枚開いた。かしゃかしゃと軽い音がする。バスを降りる時、立村くんのそばを通ってつい、音に聞き耳立てられたらどうしようと思ってしまった。なんも考えないで寝ていたみたいだけども。
「清坂氏、あのさ、今日のことなんだけど」
またぴくぴく引っ張られるお腹のそば。押えながら私はバス側の立村くんに向いた。
「なあに?」
言いかけて、立村くんは物言うのをやめた。
「ほら、古川さんと羽飛のことだよ、でも、今はいいや」
「途中でなぜやめるのよ」
しばらく立村くんは、私の顔をじっと見詰めた後、
「もし車酔いの薬がほしかったら、声かけてくれていいから」
とそっと笑ってくれた。はにかむように、少しうつむき加減で。こんな一歩間違えると失礼な表情も、今の私には慣れっこ。えくぼを眼一杯作って頷くことにした。
「うん、ありがと。立村くんも無理しないでね」
本当は、すぐに酔ってしまうからすぐにバスの中で寝てしまう人なんだって、分かっている。貴史が隣りの席というのは心配だけど、まあいっか。
「美里、あんたさ、大丈夫? ちゃんと、当ててきた?」
「うん、大丈夫ついてから着替える」
「あんたの持ってきたもの見せてよ」
私のポケットから少しはみ出しているナプキンを、こずえは許可なく引っ張り出した。
「なによ! もう人前で」
「出しっぱなしにして戻ってきたわけ。もう美里、あぶなっかすぎる! それになんか、調子悪いってこと顔に出すぎ!」
こずえがそっとナプキンの薄さを指で計っている。こずえがもともと猥談好きなのはいつものことだから、誰も驚かない。
「一枚しかしてないわけ?」
「うん。もったいないじゃない」
「ばっかねえ、ほら美里、耳かして」
──今日は次の見学するお寺に行くまで、ずっと座りっぱなしなんだよ!
「それがまずいの?」
「だから!」
こずえはさらにいらいらしながら続ける。
「あんた体重何キロ? 四十五キロ切ってる?」
「うん、ぎりぎり」
「その体重とお尻で、あんた、濡れたスポンジをつぶしていると考えてみなさいよもう」
──変なこと想像させないでよ!
「あんた、血ってね、ずうっとで続けてるのよ! 今も、ずうっと! こんど着いたらすぐにトイレよ!」
こずえの言うことは、見事に当たっていた。
最初の見学地、お寺に着いてから私は、もうこずえの言葉に逆らわないようにしようと決めた。自分の意志なんて、生理には関係ないんだということをいやと言うほど思い知らされてしまったから。それに、お腹がだんだん張ってきて痛い。胸もむかむかしてきた。
立村くんと貴史がまた近づいてきて、
「清坂氏も車に酔うことあるんだなあ」
と感慨深げにつぶやいていった。
「美里、大丈夫? ほら、この袋使って!」
──もう、最悪!
エチケット袋を口に当てていた。実際吐くものはなくって、ただ胃液ばっかりが競りあがってくるだけなのだけれども。去年のバスはもっと小ぶりで揺れたのに、平気だったのに。今日は朝から体調が最悪というのもあってか、胸がむかついてしまった。
「清坂、大丈夫か?」
他の男子たちも声をかけてくれる。立村くんに私の様子を実況中継してくれている奴もいた。前の席にいる奈良岡彰子ちゃんがわざわざきてくれて、お茶をついでくれた。
「少し飲むとすっきりするよ」
──けど、トイレ行きたくなっちゃったら困る。
こずえに少し背をさすってもらった。だいぶ良くなった。
「あんた、生理痛が結構きついタイプかもねえ。私は平気な方なのよ。だからこういう時でも平気なんだけど、ほんとしんどそう」
こずえにしか、今の私が生理痛で苦しんでいることを気付かれていないはずだ。女子にもあまり知られたくない。むしろ、酔っている振りをしたほうがいいと思っていた。でも実際、こんなに横っ腹が痛くて、胸がむかむかすると頭がおかしくなりそうになる。
──車には強かったのに! もう悔しい!
立村くんはどうしているんだろう。いつもこんな感じなんだろうか。
私はこずえに頭をもたせかけながら、ささやいた。
「立村くんどうしているか、見て」
なのに頼もうとしてないことまで勝手にやってしまうのはやめてほしい。
「ちょっと、立村、あんた生きているんだったら来なさいよ。美里の側にいてやんなよ」
貴史の声で返答あり。
「こちらも死にかけてるから無理!」
──当たり前じゃない!
立村くんの車酔いは私なんか眼じゃないらしい。寝ている間は大丈夫だけれども、起きるともう十分くらいでつらそうな顔をしてくるんだから。いつもこんな思いしているんだったら、私もさっさとねんねしたくなる。
生理がこんなにきついものだなんて、思わなかった。
こんなに汚いものだなんて、こんな臭いものだなんて。
こんなに痛いものだなんて。こんなにむかむかするものだなんて。
きっと家に帰ってからお母さんに告げたら、お赤飯作ってくれるんだろうけれど。
──こんなのなくなっちゃえばいい!
また競りあがってきた胃液を必死に押えながら、私は涙目で咳き込んだ。