二話 破滅の一族
人里離れた山の奥――背の高い多くの木々が生い茂り、鳥の声さえも皆無な静寂に包まれ、日の登った朝の太陽の光は無数の葉と枝をかいくぐっては、まるで廃墟のようにひっそりと存在する小さな家を捉えていた。木造であろうそれは、所々が腐って穴が空き、窓ガラスにヒビが入っては蜘蛛の巣が張っている。とてもじゃないが人が住める様子ではないその家の中から、辺りの静寂をかき消す大きな音が響き渡った。
小さな二本の足を小刻みに揺らし、まん丸としたお腹にヒビの入った透明な壁、その奥には二本の小さな針がある。頭には二つの鐘があり、その中央では小さなトンカチが左右に激しく動いては鐘に当たって甲高い音を響かせている。騒音の主たるその小さな体の目覚まし時計は、包み込む大きな手によって無造作にその動きを止められた。
大きく膨らんだ薄汚れた一枚の布の中からは、目覚まし時計を止める腕だけが伸びている。手の主はゆっくりと被っている布を取り払うと、汚れた裸足を床へと着き、歩くたびにギシギシとうなる床の上を気だるそうに歩き出した。大きくあくびをするその後ろ姿は、くたびれた黒いTシャツに、穴の開いた黒のズボンを身に纏っていた。
ひび割れた鏡に向かってシャカシャカと歯磨きをする人物。その鏡に映るのは、少し長めの黒髪に一筋の銀色の髪、整っているともいないとも捉えられる抽象的な顔立ち、少し目つきの悪い真っ黒な瞳を持つ男の姿だった。
男は小さな仏壇のようなものに二度ほど大きく手を鳴らしては両手を合わせ、立て付けの悪そうな引き戸をガタガタと揺らしながら強引に開けると、水の入った手桶と一本の杓子を持っては外へと足を進め始めた。
膝くらいまでの高さのある不格好な石に上から水をかけると、目を瞑り両手を合わせている。大きな斧を持っては薪を割り、地面の上で腕立て伏せをし、家の中にある無造作に散らかった部屋では細い縄のようなものを結っていた。その傍らには藁で編まれたような草履や笠が転がっている。
男は藁で編んだ大きめの籠に草履を入れるなりそれを背負い、汚れた草履を履き、頭に傘を深く被っては家を後にした。
まだ昼前だというのに薄暗い山の中を下りる目的は、その遠く麓にある小さな街のようだった。
多くの人が行き交う街。そこには多くの建造物が立ち並び、街行く人々はみな洒落た衣服を身に纏っては笑顔を振り撒いている。そんな中で一人、その雰囲気にそぐわない男が街中を歩いていた。その男は人と通りすがる度に何度か肩をぶつけられ、去り際にまるで汚いものでも見るかのような視線を送られ、通り過ぎる人はみなその男に冷たい眼差しを向けていた。
「草履、草履いかがっすかぁ」
街の中央にある道の外れにしゃがみ込んだ男は、片手に草履を持っては目の前を行き交う人々に覇気の無い声で呼びかけていた。その場を通る人達は視線だけを向けては冷ややかな声を発し、まるでその男と関わらない様に差別しているかのようだった。
「いまどき草履なんていらねーよ」
「汚らしい」
「気持ち悪っ」
向けられた様々な文句に、男は一つ大きな溜息を漏らすと、街に着いてからいか程も経っていないのに帰り支度を始めた。
日が暮れて辺りは真っ暗な闇に包まれた頃、男は人里離れた山の奥にある家へと帰ってきたようだった。立て付けの悪い扉を強引に開け、草履を脱ぎ捨てては足で床を鳴らし、作業部屋へと向かうなり背の籠を無造作に床へと下ろした。男は頭に被っている傘をゆっくりと取ると、大きな溜息を漏らした。
「……今日も売れなったか」
肩を落とす男の元に、ふと一筋の強い光が舞い込んできた。それはどうやら外からのようで、首を傾げる男は家の外へと出ると、遠目からでも分かる強烈な光が天から地へと降り注いでるのが見て取れた。
足を進めた男が光の元へと辿り着くと、その光の中を天から一人の少女が舞い降りてきた。その少女は、自分の身長よりも長い艶やか黒髪を持ち、その瞳も黒く耳には滴の形をしたピアス、少し幼さがあるも整った顔立ち、淡い赤の衣を纏い下には黒のショートパンツ、手首と足首には水色のリボンを付けていた。そして一際目に付くのが――背中に生えた小さな純白の翼。それは、天使リトであった。
地面にある岩へとまるで羽のように舞い降りると、男はきょとんとした面持ちでただ見つめていた。
そんな様子の男を目にしたリトは、ふっと口元を緩めては軽い息を漏らし、男に微笑みかけた。
「驚くのも無理はありません。危害は加えませんので安心してください、私は天使ですから」
にこっと飛び切りの笑顔を向けるリト。男は表情を変えずにゆっくりと右腕を前へと出しては、リトの足元にある岩を指差した。
「いや、そんなことより汚い足どけろよ。ばあちゃんの墓なんだよ」
”汚い足”、そのフレーズにリトはこめかみに筋を走らせたが、若干顔を引きつらせる程度に笑顔をなんとか保ったようだった。そして体を少し浮かせては、岩から足を離していった。
「これは失礼しました」
「分かればいい」
「私にあんまり驚いてはいないようですね」
「あぁ、”知ってる”からな」
「そうでしたね。あなたはあの一族の末裔でしたね」
「まぁ実際に見るのは初めてだけどな。ばあちゃんから神様はいるって聞いてたし、神様がいるなら天使がいたっておかしくないだろ。で、なんの用?」
頭の後ろで手を組んでは呑気に話す男の言葉に、リトは若干目を細めると真剣な面持ちで向かい合った。
「あなたに使命を授けます。”隠れる神”、あなたの祖先を始末しなさい」
「……は? 神様殺していいのかよ。てか神様って死ぬのか」
「あなたも知っている通り、あなたの祖先である”隠れる神”は五百年前の災いをもたらした張本人です。私達が手を下すとなると色々と面倒なのですよ……。子孫であるあなたなら始末することが可能なはずですし、なにより祖先の行いによって人々から”破滅の一族”と長年忌み嫌われて今の生活を送っているのでは?」
「そりゃそうだけど、俺にはそんな力はないぞ」
「期間は三年です。この使命は、神の中でも強力な力を秘める宇宙を司る神からのものです。三年以内に始末出来なければ、神自身の手によってこの星が落ちることもありえましょう。では、確かに伝えましたよ~」
「お、おい! 待てよっ――」
使命を伝えるなり天へと上る天使に、男は手を伸ばして必死に叫ぶが、その声も空しく辺りはいつもの静寂な暗闇へと戻っていった。
下を向いては大きく肩を落とす男は、目の前の石へと語りかけるように小さく呟いた。
「ばあちゃん……なんか大変なことになっちまったよ」