文豪
「先生、どうか」
編集の吉本は深く頭を下げて懇願する。
膝を突き合わせた目の前には荘厳な雰囲気をたたえた老人が腕を組み、あぐらをかいて押し黙っていた。
老人。作家、田子ノ浦には執筆スタイルにある特徴があった。
「書き出し、その最初の一文で全てが決まる」というものである。
何故かは分からない。だが事実としてそうなのだ。
田子ノ浦が「書く」と言い出せば、それは彼の中で物語の9割は既に構想が出来上がってる。しかしそれを生かすも殺すも最初の一文なのだ。ここさえ書き上げれば、その後の執筆速度はすさまじい。早ければ1週間もあれば長編小説が1冊仕上がる。逆に言えば、その最初の一文を書き出すまでにかなりの時間を要するのだ。
しかし今回の状況はかつてないほどに切迫していた。半年前に設定された締め切りのその日まで、あと5日。今すぐ書き出してもかなりきわどい。
「先生…」
吉本は一瞬逡巡し、そして言葉を飲んだ。
――書き出しは置いておいて構想の出来上がってる部分から書けばどうでしょう
……それは言えなかった。吉本も理解しているからだ。書き出しを定めずに無理に作った彼の作品は、例外なく駄作となる。当然売れない。出版社としてそれは出来ない。これはジンクスなどではない。過去2作、無理を押して書かせた作品は著名な作家の新作でありながら各誌で酷評されてしまった。かくいう吉本自身、その2作についてはまともに読みきることが終ぞ出来なかったものだ。もちろん会社が抱える大作家の作品である。手放すことはしなかったが、1冊は鍋敷きになってるし、もう1冊はこの前自宅でフライドポテトを揚げた時に油を吸わせる紙にするべく破いて有意義に利用した。ヤフオクの荷物の梱包の緩衝材にも使った。カバーが残っていればセーフとしよう。
「先生、とにかく何でもいいですから書き出しを並べてみるのはいかがでしょう。その中から光るものが見つかるかもしれません」
改めて頭を回転させ、吉本は田子ノ浦に提案した。
「そうか……」
田子ノ浦が重い口を開く。
「そうだな、そうしてみよう。では、君。今から色々書いてみるから、その中から君の心の琴線に触れるものがあったら教えて欲しい。」
「私が選ぶのですか?」
提案に対する予想もしなかった返しに、吉本は少し驚いて返す。
「私は読者の感性に訴えかける作品を書かねばいかん。君はパートナーだが、同時に私にとって最初の読者だ。その君の感性に響くものがあれば、それはもしかすると使えるやも知れぬ」
成程、一理ある。吉本は思った。
「分かりました。では、先生」
「うむ」
田子ノ浦は筆をとり、枠線のみで構成された原稿用紙の上にそれを走らせる。
『我輩は猫である。』
「ストップ」
「合格か!」
「何でそう思ったんですか。駄目ですよ丸パクリじゃないですか」
「温故知新と言ってな」
「故きを温めるのは存分にお願いしますがせめて何かしら新しきを知るところまで行っていただきたいかと」
「む、分かった。丸パクリでは駄目なのだな。では」
田子ノ浦は再度筆をとり、原稿用紙の上にそれを走らせる。
『親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている猫である。』
「ストップ」
「合格か!」
「そんなわけないでしょう。漱石丸パクリを混ぜただけじゃないですか」
「君もドリンクバーでコーラとコーヒーを混ぜたりしてオリジナルテイスト気取ったものだろう」
「してませんし、それ大抵クソ不味いです」
「炭酸+コーヒーは意外と既に開拓されつくした分野でな」
「話を逸らさないでください。なんですか損ばかりしている猫って」
「今流行のゆるキャラ」
「だいぶ手垢ついてますんで今更新たな投入は避けたほうがよろしいかと」
「やり直し?」
「やり直し!」
「厳しいなぁ…」
田子ノ浦は再々度筆をとり、原稿用紙の上にそれを走らせる。
『我輩はカリカリより缶詰派である』
「キャラ設定じゃないですか、不合格」
「合格か!」
「話を聞いてください。これただの猫の好みですよね。この猫、今作ではそんなに重要な存在なんですか?」
「猫出ないけど」
「なんで入れた」
「可愛いじゃん、猫」
「分かりました、では次」
「ほんと色々と厳しいなぁ君」
田子ノ浦は再々々度筆をとり、原稿用紙の上にそれを走らせる。
『にゃ~ん』
「何か言うことは?」
「…すいませんでした」
「思い浮かばないのは仕方ないにしてもふざけないで下さいよ!」
「そんなにカリカリするな」
「缶詰派だってさっき書いてたじゃねえか!!」
「え!?」
本格的に錯乱してきた吉本に危険を感じた田子ノ浦は、何とか(ねこじゃらしで)吉本を宥めた。数分後、(ねこじゃらしにじゃれて)疲れきった表情の吉本は諦めたように提案した。
「もう今までの、全部混ぜちゃいましょう…。」
「いいのかね?ドリンクバーで全種類のボタン少しずつ押して混ぜるようなものではないか」
「奇跡の化学反応に期待します。でも『にゃ~ん』だけは無しで」
こればかりはどう転んでも良い方向に働かないと吉本は判断した。
「よかろう、ここまでの長き討論は奇跡を生むに相応しいエネルギーがあった。…奇跡か。君は何を望む?」
「帰りたい」
「じきに叶うさ」
田子ノ浦の筆が、ここまでの白熱した言葉の闘争を形にするべく文字を躍らせる。
『我輩は親譲りの無鉄砲でカリカリより缶詰派である。』
3日後、氏の生涯の作品の中でもっとも評価され、出版社に莫大な利益をもたらした小説「文豪」は締め切り前に無事出来上がった。吉本も家に帰ることができた。
「出だしの一文が内容にまるで関係ない上に意味不明だが」を枕に、誌面、ネット、テレビと各媒体で絶賛され続け、日本中にブームを起こした同作は数々の賞を受賞したが、その全ての受賞式に田子ノ浦は一度として現れることは無かった。
初版のみ付属した小説の帯に筆者のコメントとして印刷されていた「猫アピール忘れた」という暗号めいた一文が関係しているという噂がまことしやかに語られているが、真相は定かではない。