倩兮女の戯
半死半生の蝉のように漠然とした不安を纏って生きています。
女は嗤っていた。
其処に居るのがさも当然のように、塀の向こう側から頭一つ覗かせて、踊るような仕草をしながら此方を見て唯嗤いながら歌っていた。
「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ、嗤うと負けよ、あっぷっぷ――」
女は更に目を細めた。
その薄気味悪い嘲嗤うような表情も、奇妙な踊りも、烏のような汚い歌声も、不愉快でしかなかった。
が、私は嗤っていた――嗤ったのだ。
※
昨日までは鳴いていなかった蝉が鳴いている。彼等は急にやってくるが、夏が来たら必ずやってくるものなので気にはならない。嗚呼、夏がやって来たのだなあと思うぐらいである。それでも側を通るときは少々緊張するものだ。精神をすり減らしながら、通りを歩く。通りを歩くときは必ず自分の爪先から一メエトル程先を見る。そして人が前方から接近して来ると、その人の視線を確認する――目が合う。
目が合っただけで酷く怯えた顔をする人もいる。だからといって私の人相が群を抜いて悪いという訳ではない。然し怯えた顔をされるのだ。怯えた顔をされ忌まわしいものを見たかのように視線を逸らされる。然し不快に思うことはなかった。
一番不快に感じることは、すれ違いざまに嗤われることだ。嗤いながら私の横を――吹き出しそうな顔のまま私の横を通り過ぎてゆくのだ。
また前から人が来た。 爪先の一メエトル先の地面から視線を相手に合わせる、目が合う、嗤われる(怯えた顔をされる)、視線を爪先の一メエトル先の地面に戻す。この繰り返しが常に行われる。私は人とすれ違う度に怯えられ、そして嗤われるのだ。
それは夏になると蝉が鳴くのと同じぐらい当然のことなのである。
※
その日の夜はやけに蒸し暑く、とても寝苦しい夜であった。縁側の戸を開け、蚊帳の中で横になる。夏の夜の虫がチロチロ鳴いている。昼間の蝉のような鳴き声ではなく、風情のある鳴き声なので私は夏の夜の虫の鳴き声を好んで聴き入る。虫の音色の傍らで夢と現を行き来する。暫くして、微睡みの最中聞き覚えの有る歌が一つ。
「だるまさん、だるまさん――」
幼い頃によくやった童歌。然し、どのようなものであったのか記憶の蔵をひっくり返してみるが思い出せはしない。唯何故かは分からないがとても厭な気持ちになるので、屹度良い記憶ではないのだろう。
「だるまさん、だるまさん――」
その童歌は、接近する緊急車両の音のなる装置のように益々明瞭になってくる。
「だるまさん、だるまさん――」
其処から先は歌われていないのか、聴き取れていないだけなのか分からない。
「だるまさん、だるまさん――」
童歌はすぐ側まで来ていた。そしてやっと私は記憶の蔵からそれを見つけた。
「にらめっこしましょ――」 気づけば夜の虫の音色は無く、今聞こえるものは童歌の外なかった。然し宵も深まったというのに、一体どこの幼子が童歌など歌うものだろうか。そして私の視線は、街灯に吸い寄せられる夜光虫のように、童歌の方を向いていた。月明かりが差し込む庭の松の奥に二メエトル程の塀が有る。
あの塀から内側は私の庭であり、私の領域なのである。あの塀が私と世俗とを切り離してくれているのだ。だから私は平穏無事に今の今まで過ごしているのだとも思う。
私には独りになる時間が人一倍必要なのかもしれない。気づくと童歌は聞こえなくなっていた。
どうやら幼子は家路についたのであろう。そのまま私は雲から顔を覗かせた、ぼんやりとした月を微睡みながら眺める。
夜の虫も眠りについたのだろうか、すっかり鳴かなくなった。私にもそろそろ睡魔が訪れるだろう。
時計を見やる。時刻は丑三つ時、暑さが和らぎ始めたのも手伝って夢と現の往来は途切れて、私はひたりと瞼を下ろした。
「だるまさん、だるまさん――」
それは威嚇する烏の鳴き声のような嗄れた女の声であった。
――厭な声だ。
「だるまさん、だるまさん――」
それは右から左から耳の穴の中にスルスルと入り込んできて、頭の中で反響し記憶の蔵の門を破る。私はそれを吐き出そうと度々嘔吐くが、それは絶間なく右から左から耳の穴に侵入して来る。
――厭な声だ。
「だるまさん、だるまさん――」
四肢に力が――痺れて動かない。私は唯嘔吐くことしか出来なかった。吐き出さなければ駄目な気がしたからだ。そう思案してる間にも絶間なくそれは右から左からスルスルと――
――やめてください。
「だるまさん、だるまさん――」
――許してください。
「だるまさん、だるまさん――」
「だるまさん、だるまさん――」
「だるまさん、だるまさん――」
「止めろ!!」
私は叫ぶのが早いか、蚊帳から飛び出した。それが聞こえる方に視線を刺す。
今宵の月は本当にぼんやりとしていた。そのぼんやりとした月明かりに照らされた松の奥の塀の向こう側に女が見えた。手招きをするような仕草で奇妙な踊りを踊っていた。そして女は――
嗤っていた――
目を細め、口を裂けんばかりに開き、いやらしく嗤って――唯嗤っていたのだ。
私の中の激昂は月光が強まるにつれ薄れてゆき、唯呆然と木偶の坊ように立ち尽くしていた。
「だるまさん、だるまさん――」
私は何も出来なくなっていた。
「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ」
唯私は――
「嗤うと負けよ、あっぷっぷ」
嗤っていた。
※
目覚めると、私より早起きな蝉が夏の朝を告げていた。庭の松で鳴いているのだろう、ラジオのボリュウムを最大にしたようなその鳴き声は寝起きの頭には少々痛く感じた。倦怠感があった。とても気分が悪く私はそのまま横になっていた。
蚊帳越しに天井の杉板を眺める。棹で固定された杉板の四辺を目で数える。
左下から左上に向かって一つ、左上から右上に向かって二つ、右上から右下に向かって三つ、右下から左下に向かって四つ。杉板の四辺はきちんと四つ有った。その隣の杉板も同じように数えてゆく。そうして寝間にある天井の全ての杉板の四辺は四つ有ることを確認する。然し忘れがちなのだが、全ての杉板で構成された天井自体の四辺も確認しなければならない。 この寝間の入口の角から順に、上に一つ、其処から右に二つ――
全ての四辺を確認し終えると先程までの倦怠も幾分か和らいで来た。ふと時計が視界に入り、現在時刻が正午過ぎなのを確認すると、私は徐に立ち上がる。今日は知人と会う約束をしているのだ。支度をする為、床を立つ。
この時間は一番暑い。 暑さのせいで皮膚からは汗が滲み出ている。顔を洗う為に鏡の前に立つ。鏡に映った自分の顔を見るのが恐ろしかった。 私は決して人相が悪いわけではないのだ。それなのに、鏡を見るのは忌まわしく思えて仕方がなかった。生きていく中で一生拝むことが出来ないものは幾つか有るのだと思う。その一つは、屹度自分の顔なのだ。鏡を見れば自分の顔を確認することは容易いだろう。が、本当にそれは自分の顔なのだろうかと疑問に思う。間接的に映し出された像を見ることでしか自分の顔を確認出来ない。もし鏡の中の私だと思っている像が私ではなく、それが――
私は鏡を見ることなく蛇口を捻り、生温い水で顔を流した。
※
「久方ぶりだね。」
帽子をひらひらさせながら、知人の男はやってきた。彼と会うのは一年振りだ。彼とは学生の頃学年が一緒だというだけで、特別親しい仲であったというわけでもない。
唯こうして年に一度、丁度今日のような夏の盛りに顔を会わせるのだ。 茶でも飲みながら、たわいもないことを淡々と語り合うだけである。それに理由など必要ないし、彼も理由など求めていないだろう。そうでなければ、わざわざ年に一度私の家に訪れることなどないはずだからだ。私達は暫く語り合った。そして一息ついたところで、私は昨夜起こった出来事を彼に話してみた。
「なかなか奇妙な体験だね。でも夢なのだろう?」
私は肯いた。すると暫くの間をおいて、彼は宝物でも見つけた少年のように急に表情を輝かせて語り出す。
「塀の向こう側で奇妙な踊りで嗤う女――きっとそれは倩兮女だ! 間違いないぞ!」
云い終えると彼は 一気に湯飲みに残っていた茶を飲み干し、「妖怪だよ!」と云った。私は、突然出て来た妖怪やら倩兮女やらがよく解らないでいた。彼はというと。俯いて何をしているかと思えば、携帯電話を弄っているようで、急に凄い勢いで前のめりになり、握っている携帯電話の画面を私に向けてきた。その衝撃で湯飲みが畳にどすりと落ちた。
「これだよ! これ! こいつが倩兮女さ!」
握られた携帯電話の画面には「倩兮女」という名前とその説明書き、そして一枚の画像が表示されていた。私は落ちた湯飲みを拾い上げながら、然し視線は画面に釘付けになっていた。彼は興奮の余り饒舌になっているようである。
「倩兮女は鳥山石燕さんによる江戸時代の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にある日本の妖怪だそうだ。なんでも中国の文献から石燕さんは、『倩兮女』を多くの人を弄んだ淫婦の霊と述べているらしいぞ! よかったじゃないか!」
なにがよかったのか全く以て謎である。
「そのあれだ、君に――君を好いている人がいるという、御告げのようなものなのだよ! その夢は!」
そう云うとケラケラと嗤いだす彼は、置き直された湯飲みを持ち上げ「おかわり」と結ぶ。
私自身もよく解らないのだが、彼には幾ら嗤われようともうんともすんとも不快には感じないのだ。知りえた仲だからなのかもしれない。だから彼とこうして一年に一度、たわいもない話を続けているのかもしれない。そんなことを考えている私を見て彼は、湯飲みを持ち上げたまま上下に降り出して催促しだしたので、私は茶を汲みにその場を立った。
――日暮れで外は橙色に染まっていた。
「それじゃあ、また今度。」
昼間来た時と同じように、帽子をひらひらさせながらそう言い残して背を向けた。
「また今度。」
私も続けて別れを告げる。引き戸に手をかけガラリと開けた彼が振り返り、帽子を被りながらまだ少し残っている少年のような表情で「なに、気にすることはないさ。君は君で有ることを忘れてはいけないよ。」といってニッと少年の顔で笑った。私には彼が何を云いたかったのか解らなかったが、少し鬱鬱とした気分が晴れたような、そんな気がした。彼は「それじゃあ。」と背を向けて言い残し、蜩の鳴き声と橙色の中に消えていった。私は久しぶりに気分が良いので、机に置きっぱなしなっている湯飲み二つと妖怪のいる携帯電話もそのままに、駅までの通りを歩こう。そう思うが早いか、通りに向かって爪先の一メエトル程の丁度自分の影の胸元辺りを見つめながら歩き出した。
※
宵が近いこともあってか、通りには人影が余りなかった。通りに面した、公園に続く石段に腰を下ろす。そして私は足元の舗装された通りのタイルの四辺を数える。左下から右上に一つ――
「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ笑うと負けよ、あっぷっぷ!」幼子達が公園で童歌を歌っている。私も昔よく遊んだものだ。そういえば私は、にらめっこで一度たりとも勝てた試しがない。然し母親にはよく誉められた記憶がある。嗤うことは良いことなのだ、嗤わなければならないのだ。と、幼い頃から私は理解していた。唯嗤われることは我慢ならない程不快だとも思っていた。 すると後ろの公園から女の怒ったようなヒステリックな声と、幼子の泣き声のようなのが聞こえてきた。暫くして、女と幼子は私の脇の石段を降りていく。 私は足元のタイルから視線を女と幼子に向ける。女は忌まわしいものでもみるような顔を――いつものことだ。私は暫くして足元のタイルの四辺を幾つか数え終え、徐に立ち上がり通りの脇に規則正しく並ぶ街灯達に見下されながら歩く。もう宵も深いので店なんかも殆ど閉まっていて、人の往来はなかった。有るのは、規則正しく並んだ街灯と通りの地面にみっしりと敷き詰められた正方形のタイルと、それから――
――童歌が一つ
「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ
笑うと負けよ、あっぷっぷ」
背後からそれは聞こえてきた。振り返るとそこには倩兮女がいたのだ。私の記憶の蔵から記憶がスルスルと抜け出してゆくのがわかった。私は愈怖くなり一目散に駆け出した。その間も絶間なく背後からそれは聞こえてくる。それでやっと私は理解した。視線が合う度に、忌まわしいものをみたような顔をされたり嗤われたりしたのは、屹度――否、倩兮女が私の背後にいたからに相違ない。
――彼にも見えていたのだろうか。
今日一年振りに顔を合わせた彼にも見えていたのだろうか。
家の門が見えてきた。引き戸を開けるが早いか、私は中に転がり込む。そして這うようにして机にある携帯電話を掴む。
「妖怪がでた! 彼に連絡せねば!」
独り言の範疇をこえた声で――まるで夏の終わりを告げる蝉の、最期の一鳴きのように呟いた。然し彼の連絡先が一向に分からなかった。それどころか彼の姿形さえ思い出せずにいた。唯彼の別れ際のあの言葉だけは覚えていた。私は私なのだ。
暫く静寂に包まれていたが、状況が悪化したのはそれが再び聞こえたからだ。
然もなんということかそれは塀を越えて私の領域の中から――そう耳元から聞こえてきた。
愈怖くなってきた私は家中のありとあらゆる四角形の四辺を数える。携帯電話の画面、机、杉板、塵紙の箱、本棚、本の背表紙、靴箱、――
一つを残して、家中の四角形の四辺を数えても私は生きた心地がしなかった。その間にも絶間なくそれは聞こえていた。私は意を決して最期の四角形の前に立つ。そう鏡である。
鏡の前に立った私は戦慄した。
鏡の中に、矢張り映っていたのだ。
――それは本当に忌まわしいものだった。――目をいやらしく細め、口は裂けんばかりに開いて
「だるまさん、だるまさん――」
嗤っていた。
倩兮女が嗤って――
それはどうみても私だった。
『――君は君で有ることを忘れてはいけないよ。』
「私は私だ!! 倩兮女などではない!!」
私は鏡の中で跋扈している妖怪を叩きつけた。矢張り鏡は忌まわしいものだった。真贋なんて解るはずがないのだ。
私は落ち着くために鏡の四辺を数える。
然し其処には――それはもう数えることができなかった。砕けて本来の姿を失った鏡には、唯不気味に嗤い続けている倩兮女が、ひび割れた中で童歌を歌っていただけだった。
(了)
今回初めて小説(小説とよべるかわからないもの)を投稿しました。稚拙な文章や文法だったりと、おかしな箇所が多々あると思います。
もし好ければ御指摘頂けたら嬉しいかぎりです。
此処まで読んでくださってありがとうございました。