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閑々諸行  作者: 夏実歓
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沈黙の塔

 男は一人、旅をしていた。

 それは長い道のりである。もうかなりの距離を旅してなお、先は長く続いているのだった。男は、頑丈そうな体で、背には大きな背負子を背負い若干薄汚れているが丈夫そうな袈裟をまとっていた。しゃんしゃんと錫杖突きながらもくもくと歩きつづけている。

 今、男が歩いているのは、この国では有名な山である。かつて、ここを通って異国の人々は彼の国にやってきたのだった。しかし今は、別の道が開かれ、人のあまり通わぬ地の果てのような山となっていた。おおよそ、そこは獣の類しかいないようなところだ。男はこれまでもいろいろな山や川、森を抜けて旅してきた。たまには、山賊に捕まりかけあわやということもあった、虎狼の叫びに縮み上がることも何度もあった。

 しかしこの山はそれとは違った恐ろしい雰囲気をかもし出していた。なんとも、不思議な所だ。あまり長居はしたくない。男はそう思った。

 すでに山の裾野に分け入って四半時、日が真上になる少し前にここに入ったのでそろそろ日も傾いてきたというのに、一行この山を抜ける手立てもわからず、絶えて人の通らないような道だから本来の道も今となってはその痕跡をわずかにとどめるだけだ。日が沈むまでに休むところだけでも何とかならぬものかと男の心は徐々にあせりだしていた。風が

 ひゅうひゅうと唸りをあげ、木々のざわつきは何か大きな生き物じみて、ゆく手の森に怪しい影を投げた。不意にウォーンと狼の遠吠えが響いてきた。

「これはいかんな。早く休むところを決めねば。」

 小さく口の中でつぶやくと薪になりそうな木を拾いながら、一晩休むことのできそうな場所を捜し歩いた。暫くゆくと昔の退避所なのだろうか擂り鉢状に石を敷いた窪みが見つかった。二、三人が座れそうなその窪地はうっすらと苔むした石が外に並びその中央に竈の跡を残していた。男は道々拾い集めた薪を組み懐から石と穂口を取り出すと焚き火をはじめた、先ほどの狼の声が気になっていたし何よりすでに日が落ち辺りがだいぶ暗くなってきていたからだ。男は食事はたいてい昼前に済ませると以降は食べない習慣であったし、食料は節約したかったので、辺りに警戒しつつはや寝ることにした。しかしその前に懐からなにやら一巻の書を取り出した。この書物こそ男が旅に出るきっかけとなったものだった。

 それは、男がまだ都にいた時のことだ。彼はそこで優秀な文士として、将来を期待され

 また自分もいずれは、人の高みに至るであろうという自負を持って勉学に励んでいた。書を一度読めばその内容を忘れず、言葉はまさに整然として淀みなく、彼が都で一番の僧院に入る頃には、もはや、彼と議論してそれを打ち破るものはいないほどであった。しかし、彼は悩んでいた。その頃になって彼は、何か大事なものを忘れているように感じていたからだ。本当に自分のような若造が立派なのか、これが本当に求めているものなのか?それから彼は、一人で書庫に篭って経典を研究する日が増えていった。そんな日が続くうちに次第に何日も何日も篭りっきりでいて余計に疑問は膨らんでいく、さらにそれから逃げるように経典を読み漁る。すると人は不思議とさらに自分を誉め称え敬う。賞賛はそのまま疑問に跳ね返り男を捕まえる。その循環に囚われていたある日の事だった。書庫の経典も半ば以上を読んだ頃、いつも使う机の上に見慣れない書物があった。

 薄く輝くその(かんばせ)は滑らかな手触りは薄絹を使ったかの様。どうしたことかほのかに香るミルラの香り。難解な経典の中にたおやかにおり、何処からか吹いてきたと言うのだろうか? 閉じられたこの塔の中に緩く螺旋を描いて空気の対流が起こった。

今までの静謐が破れ、まるで誘惑されたとでも言うのだろうか?

恐ろしく静かだった経典たちも、紙の物は衣擦れに心を震わせるごとく低く唸り、木簡や竹簡は高く乾いた興奮の音を立てるのだった。男は極度の緊張と静かなる興奮に確かに心を躍らせながら、今までの学識からこの出来事を見事推察して見せようと躍起になって頭を動かした。彼は今までの学問の成果と言うによって、心の動揺を自らの本質的な振る舞いから引き剥がす事に成功したはずだったが、その本の白い手弱女の指のような艶かしさに肉体的な強請を感じ、顔が紅潮するのだった。

「ああ! 恐ろしい恐ろしい 」

わっと嘆くなりその場に倒れ付してしまいたい!しかし、恐ろしいのはその意思すらもこの書庫に操られているかのごとくであり、情け容赦のない文字の群れの囁きに身をついばまれ、遥か遠く西に住む人々の最後の憩う沈黙の塔にて眠らんとするかの様に、知識に身を与え、少しずつ生の実感から引き剥がされていた事を思い知らされた。

“この化け物どもは俺を食い荒らし何処へ羽ばたくというのか?”

そして、あの悩ましい本は薄く緩い空気に感応するごとく、表紙を押し上げていく。まるで今自分が手に紙を繰る感触を思い、思わず喉が一つ鳴った。あの堅物もついには音を上げるぞと期待して恐る恐る覗き込む幻想の鳥達の好奇の視線を受け止めながら、一歩また一歩と机上の楽園に手を伸ばすべく彼は近づいていくのだ。哀れな囚われ人よ、あなたの腕は筋張って細く、あなたの頬は青白く扱けて少年の日を思い出すべくもなく。まるで犬の齧る骨のようにただ大きさだけがわかるそのやせた脚はきちんと身だしなみを整えた裾衣の際を浮かせている。悲しむべき品行。穏やかならざる心。どうして浮いて戸惑う心を知ろうか? それにくらべて、あのふとやかな匂い。かぐわしく凝脂滑らかに玉も羨むその腕に、薄く紅差す白き頬。あられなく解けている様で肌の離さぬその合わせには柔く線こそ出ても、窺い知れぬその躍動。少年少年、なにぞいたさん。とく取り給え、みそなわせ。あれとあが身を覗き込むがよい。我こそ王母の娘なる天人天女の化身。はたまた、夢の世界より使わされた一片の蝶々。さてはて、鳥共の女王やも知れぬ。汝めの目しいぬ内にこそまいらめ!

 男はもはや抗う事あたわず、繰っては舐め繰っては舐め溺れこむごとくに読みふけるのだ。その頁の軽やかな時は鴻毛にも劣らず余韻も残さず立ち消え名残を思わせる。動かぬ時は千斤より重く逃れんと欲すれども、総身に力込めてほうほうの態でひきあげずにはおかぬありさま。時のすぐるのも忘れて、その甘い懐に男は身を沈めた。

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