小説家に恋をした話
僕は小説家に恋をした。
彼女がいつも座っているのは古書店の最奥にあるカウンター。そこは仄暗い店内で唯一、陽光が入る場所だった。小説家である彼女は古書店の経営者でもある。死んだ父親から受け継ぐことになり、作家業の傍ら古書店も経営していた。とはいえ出入りするのはたいてい出版社の人間である。古書だけでなく新刊の雑誌や文庫本も置いてあったが、近所にある大型デパートに客を取られているせいでその古書店まで買いにくる人間は珍しい。僕はそんな珍しい客の一人だった。
ちなみに新刊本が置かれている理由は、小説家である彼女がその新刊を読みたかったからであり、注文した際の余計な在庫を店頭に並べているのである。意外な事に小説家として大成している彼女も、小説の指南本を読むことがあるらしい。それが作家志望である僕の目に止まり、カウンターに持って行った時、彼女に言われたのである。
「もしかして作家志望なの?」
だったらこの本は止めておきなさい。と、彼女は店員にあるまじき発言をした。その時、彼女が自らの正体を明かしてくれたのは、僕が相当に嫌な顔をしたからだろう。そんな顔をしたのは気恥ずかしさと、努力をしようとする姿勢を否定された気分が混じったからだ。なんだこの失礼な店員は、と顔を見たとき、意外なほど美人で驚いた事を今でもよく覚えている。
彼女は有名な作家だった。あまり興味のない分野だったので顔は知らなかったが、それでも聞き覚えがあるくらい有名な人だった。僕は彼女に指南を頼み、彼女は「読んで感想を言うくらいなら」と承諾してくれた。
それから僕は週末になると必ず古書店へ行った。趣味の時間に書きためた原稿を持って彼女の元へ行き、その度に自信をポキポキと折られる。確かに今からすれば、その原稿は二目と見られぬほど酷い出来だったが、それでもその時の僕は自信作だと思って書いていたのだ。彼女はその幻想を綺麗に取り払ってくれた。
課題は毎週のように積み上がったが、そのどれもが直せるものばかりだった。彼女の助言は客観的であり、的確であり、明解だ。プロというのはこういうものなのだろうか。それまでの自分が如何に、間違った姿勢で創作に臨んでいたのかを教えてくれた。どういう狙いでその展開を書いたのか、どういう心境でその文章を書いたのか、そういった裏の部分まで見事に言い当てられた時などは彼女が魔法使いに見えた。
そういう交流を繰り返している内、僕は彼女に恋情を抱くようになっていった。いつから意識するようになったかは判然としない。ただ自分の趣味を理解してくれて、その努力を後押ししてくれる相手を嫌うような人間はいないだろう。必然的な恋だった。しかし同時に小説の先生として尊敬する心もあった。尊敬と恋心の同居。もし告白したら、その両方を手放す事になるかもしれない。僕は今の関係を壊してしまうのが恐ろしくて、何も言い出せないまま時間だけが過ぎていった。
ある日、僕は転勤する事になった。彼女のいる町に訪れた時と同じように、彼女のいない町へ去らねばならない。それを伝えても彼女は「そう」としか言わなかった。表情が変わったようには見えない。もし告白していたら、彼女の違う顔を見ることが出来たのだろうか。あるいは転勤の報告すら出来なかったのだろうか。
引っ越した後で、僕は新人賞に作品を一つ送った。内容は青年が小説家に恋をした話。もちろん自分の体験に基づいている。冷静に考えれば恥ずかしい限りだが、それは彼女に宛てたメッセージでもあった。もし新人賞をとって、もし彼女の目に留まる事があれば、僕の思いは伝わるだろう。でも結局、結果を待たずして僕は落選を知る。そっくりな内容の小説が出版されたからだ。
それは彼女の本だった。違いは登場人物の視点くらいで、粗筋を見る限り、盗作と疑っても仕方がないほど似ている。もちろん彼女の方が文章も洗練されていたが、似通っている点も多い。彼女もまた僕との体験を元に話を書いたのだ。
僕は苦笑する。その作品に託されたメッセージの内容まで、僕のそれと同じだったのだ。