王都の空で竜王が泣いている。「わが子を返せ」と聞き取れるのは、婚約者に気味が悪いと言われたわたしだけでした
「シルヴィ。人前で二度と竜の話をするな」
婚約者のアルフォンス様は、建国祭の衣装の仮縫いの最中に、鏡ごしにわたしをにらんだ。
「さっき、竜騎士団の厩の前で立ち止まっていただろう。竜に向かって何か言っていた」
「……あの子が、足が痛いと言っていたので」
「それだ」
アルフォンス様は、仕立て屋の手を払ってこちらへ振り向いた。
「竜の声が聞こえるなんて気味が悪い。君の家の者は魔女の血だと陰で言われているのを知らないのか。ドルトハイム侯爵家の嫁になる娘が、竜とおしゃべりなんて冗談じゃない」
わたしは膝の上で両手を握った。
足が痛い、と言っていたのは本当だ。厩の奥の、灰色の若い竜。左の後ろ足の爪に、小石が挟まっていた。竜騎士たちは誰も気づいていなかった。
「建国祭の三日間はとくにだ。陛下も、竜騎士団も、それに百年に一度、竜王がお出ましになる祭りだ。何が聞こえても、聞こえないふりをしていろ。いいな」
「……はい」
アルフォンス様は、ふん、と鼻を鳴らしてまた鏡のほうを向いた。仕立て屋が金の刺繍の上着の肩をぴんと整えた。
わたしは窓の外を見た。
王都の空を竜騎士団の竜が三頭、ゆっくりと輪を描いて飛んでいた。
――今日は風が気持ちいいな。
――祭りの肉、たくさん出るといいな。
――あの雲、羊みたいだ。
竜たちの声が空から、ぽつりぽつりと降ってきた。
わたしは聞こえないふりをした。
窓硝子に映る自分の口もとが、少しだけ、笑いをこらえて引きつっている。
建国祭の二日目の晩、わたしは、侯爵家の晩餐に招かれていた。
食事のあと、屋敷の廊下を歩いていると、裏庭の方から、竜の声がした。侯爵家の、あの若い竜だった。
――あの倉、こわい。赤ちゃんの匂いがする。泣いてる匂い。
わたしは足を止めた。
赤ちゃんの、匂い。
廊下の窓から、裏庭が見えた。月明かりの下で、アルフォンス様が、見知らぬ商人らしい男と、裏の倉の前で話している。商人は小さな瓶がたくさん入った木箱を荷車に積んでいた。
――あの人の手から、殻の匂いがする。
若い竜の声が震えていた。
わたしは窓から離れた。
聞こえないふりをしていろ。
アルフォンス様の声が耳の奥で響いた。母の声も重なった。聞こえないふりをしなさい。それがあなたを守るのよ。
わたしは何も見なかったことにして侯爵家の馬車で家に帰った。
その夜、寝台の中で、若い竜の震える声が、何度も耳の奥でよみがえった。赤ちゃんの匂い。泣いてる匂い。
眠れなかった。
竜の声が聞こえると気づいたのは五つのときだった。
父に連れられて、建国の記念の行列を見に行った日。行列の先頭を飛ぶ竜騎士団の竜が、わたしの頭の上を通り過ぎるとき、言ったのだ。
――あの小さいの、帽子が曲がってる。
わたしは自分の帽子を直した。竜が空の上でくつくつと喉を鳴らした。笑ったのだと、なぜか分かった。
それから、竜の声はどこにいても聞こえた。厩の前を通ると、竜たちの愚痴が聞こえた。干し草が湿ってる。隣のやつのいびきがうるさい。騎士が鞍を締めすぎる。
わたしはそのたびに、厩の竜番のおじいさんに伝えた。干し草を替えてください。あの子の鞍をひとつ緩めてください。
竜番のおじいさんは最初は目を丸くした。それから、わたしの言うとおりにしてみて、竜たちの機嫌がよくなるのを見て黙って頭を撫でてくれた。
でも母は青い顔をした。
――シルヴィ。そのことは誰にも言ってはだめ。
母の祖母、わたしの曾祖母も、竜の声が聞こえたという。そのせいで、魔女だと噂を立てられて、まともな家には、どこにも嫁げなかった。
――聞こえても、聞こえないふりをしなさい。それがあなたを守るのよ。
曾祖母の話を母は、一度だけ、くわしく話してくれたことがある。
曾祖母は若いころ、竜騎士団の厩で竜の世話をしていたという。竜の声が聞こえる娘として団の中では大事にされた。でも、町の人々は、竜とおしゃべりする娘を気味悪がった。
ある年、町で流行り病が出た。誰かが言いだした。竜の声を聞く娘が、竜の病を町に持ちこんだのだ、と。
曾祖母は厩を追われた。それから一生、町の外れの小さな家で、同じく厩を追われた竜番の曾祖父と、ひっそりと暮らした。窓から、空を飛ぶ竜を毎日見上げていたという。
――竜たちはね、ずっと、おばあさまの家の上を遠回りして飛んでいたそうよ。おばあさまに、声を届けるために。
母はそう言って少しだけ笑った。それから、わたしの手を握った。
――あなたには、そんな思いをさせたくないの。
それから、わたしは、聞こえないふりを覚えた。
十五になる年まで、ときどき、こっそり厩へ行った。竜番のおじいさんに、竜たちの言葉を伝えた。
一度だけ、厩で、若い竜騎士に見つかったことがある。
黒い髪の、背の高い、十七、八の青年だった。片目のまわりに、まだ新しい傷があった。その人の竜は黒い大きな竜でひどく気が立っていた。誰も近づけなかった。
――あの人、ぼくのことをお荷物だと思ってる。初めての戦でぼくがへまをしたから。
黒い竜はそう言って厩の隅で丸くなっていた。
わたしは青年に言った。
――この子、自分のせいであなたがけがをしたと思っています。お荷物だと思われていると、思っています。
青年はわたしを見た。それから、黒い竜を見た。長いあいだ、黙っていた。
それから、竜のそばへ行って膝をついた。竜の鼻先に、額を押し当てた。
――ばか。お荷物なわけ、あるか。
黒い竜が喉をごろごろと鳴らした。
青年は振り返ってわたしに何か言おうとした。でも、わたしは怖くなって厩から逃げ出した。名前も聞かなかった。
あれから、七年。わたしは二十二になった。
アルフォンス様との婚約が決まったのは二年前だった。
ドルトハイム侯爵家は、急に裕福になった家だった。古い家柄の伯爵家との縁組で、家の格を上げたかったのだろう。父は借金の多いわが家のためにその話を受けた。
最初のころ、アルフォンス様はやさしかった。わたしの好きな花を覚えてくれた。夜会では一曲目を必ずわたしと踊ってくれた。
変わったのは婚約して半年たったころだった。
侯爵家の屋敷に招かれた日、裏庭の厩の前を通りかかった。侯爵家が買ったばかりの、まだ若い竜が一頭、檻の中で鳴いていた。
――ここ、狭い。足が痛い。おうちに帰りたい。
わたしは思わず、檻の前にしゃがみこんで言ってしまった。
――大丈夫。すぐに、竜番の人に言うからね。
振り向くと、アルフォンス様が立っていた。
あのときの目をわたしは忘れない。気味の悪い虫でも見るような目だった。
それから、アルフォンス様は、夜会で一曲目を踊らなくなった。わたしの好きな花の名前を忘れた。
建国祭の三日目はよく晴れていた。
王都の中央広場には、朝から人があふれていた。広場の真ん中の大きな石の台に、王家の人々が並んでいる。その両脇に、竜騎士団の竜が、二十頭、翼をたたんで並んでいた。
百年前、この王国を建てた初代の王は、北の山に住む竜王と、約束を交わした。竜王はこの国を空の災いから守る。人は竜を狩らず、竜の巣を荒らさない。
その約束を確かめるために、百年に一度、竜王が、王都の上を飛ぶ。
今日がその日だった。
わたしはアルフォンス様の隣に立っている。ドルトハイム侯爵家の席は、石の台の、すぐそばにあった。
ドルトハイム侯爵家は、この数年で急に裕福になった家だ。竜の鱗を削った粉を混ぜた、よく効く薬を遠い国に売っているらしい。どこで鱗を手に入れているのか、誰も知らない。
昼の鐘が鳴った。
北の空から、影が、近づいてきた。
最初は鳥の群れかと思った。それがみるみる大きくなった。
広場が静まりかえった。
竜王だった。
広場の竜騎士団の竜を十頭束ねても足りないほど大きかった。鱗は夕焼けの色。翼を広げると、広場の半分が影に入った。金の目が二つ、空から王都を見下ろしている。
人々がひれ伏した。陛下が石の台の上で両手を空に向けて上げた。百年前の約束の、挨拶の形。
竜王は広場の上で、ゆっくりと一度、輪を描いた。
それから、吼えた。
大地が揺れた。広場じゅうの窓硝子が、一斉にびりびりと鳴った。
でも、わたしの耳には、吼える声の奥に言葉が聞こえた。
――盗人がいる。
わたしの体が凍りついた。
――わが子の匂いがする。この都のどこかに、わが子の卵の匂いがする。盗んだのは誰だ。
わたしの指先が冷たくなった。
ゆうべの、侯爵家の裏の倉。若い竜の震える声。赤ちゃんの匂い。商人の荷車の、小さな瓶。
――知っていた。
わたしは知っていたのだ。聞こえていたのに、聞こえないふりをした。
膝ががくがくとふるえた。
竜王がもう一度、吼えた。
口から、炎がほとばしった。
炎は広場の東の、古い鐘楼の屋根をかすめた。屋根が燃え上がった。鐘楼の下で、祭り見物の子どもたちが、悲鳴を上げて逃げまどった。
広場が大混乱になった。
石の台の上で、黒い外套の背の高い男の人が、剣を抜かずに、両手を広げて前に出た。
竜騎士団長だった。
「下がれ! 竜騎士団、竜を空へ上げるな! 竜王を刺激するな!」
低い、よく通る声だった。
広場の竜たちがざわめいている。わたしの耳に、竜たちの声が、洪水のように流れこんできた。
――王さまが、怒ってる。
――卵だって。誰が盗ったの。
――こわい。こわい。
「シルヴィ」
隣で、アルフォンス様が、わたしの腕を強くつかんだ。
アルフォンス様の顔が真っ青だった。手が小刻みにふるえていた。
「何も聞こえないな? 聞こえないと言え」
「……アルフォンス様」
「聞こえないふりをしていろと、言っただろう!」
アルフォンス様の指がわたしの腕に食いこんだ。
わたしはアルフォンス様を見た。
どうして、この人はこんなにふるえているのだろう。
竜の鱗を混ぜた薬。どこで手に入れているのか、誰も知らない鱗。
竜王が三度目に吼えた。
――返さぬなら、この都を焼く。百年の約束は人が先に破った。
燃える鐘楼の下で、小さな男の子が、転んで泣いている。母親が人波にはばまれて近づけずにいた。
わたしはアルフォンス様の手を振りほどいた。
「聞こえないふりはもうできません」
アルフォンス様の口がぱくりと開いた。
わたしは人の波をかき分けて石の台へ走った。
石の台の下で竜騎士の一人に止められた。
「お嬢さん、下がって! 危ない!」
「団長様に、伝えたいことがあります! 竜王が、何と言っているか!」
竜騎士が目を見開いた。
石の台の上で、竜騎士団長が、振り返った。
黒い髪。背が高い。片目のまわりに、古い傷が一本、白く走っている。
見覚えがあった。
七年前、厩で、黒い竜の鼻先に額を押し当てていた青年。
団長の目も、わたしを見て大きく見開かれた。
「……厩の、あの娘か」
覚えていた。
「竜王は、卵を盗まれたと言っています」
わたしは石の台を見上げて叫んだ。
「この都のどこかに、竜王の子どもの卵の匂いがすると。返さないなら、都を焼くと。百年の約束は人が先に破ったと」
広場の、まわりにいた人々が、ざわめいた。
竜の声が聞こえる、だって? あの娘、魔女か。
ささやきが背中に刺さった。足がふるえた。
でも、団長は、ささやきには目もくれなかった。
団長は石の台から、ひらりと飛び降りた。わたしの前に立った。
「七年前、あなたは、私の竜の声を伝えてくれた。あれから、私は、竜騎士団の誰より、竜と話せるようになった。……あなたの言うことを疑わない」
団長はわたしに手を差し出した。
「ヴォルフガング・ローエンシュタイン。竜騎士団の団長だ。竜王と、話してくれないか。あなたの声なら、届くかもしれない」
わたしは団長の黒い竜の背に乗った。
七年前、厩の隅で丸くなっていた竜。今は広場の竜たちの中でいちばん大きく、翼の縁が銀色に光っていた。
――久しぶり、小さいの。帽子は曲がってない?
黒い竜が喉を鳴らした。わたしは思わず、泣き笑いしそうになった。
「覚えてくれてたの」
――忘れるもんか。あの日から、こいつ、毎晩、ぼくの鼻に額をくっつけて寝るんだ。暑苦しい。
団長がうしろで手綱を握った。わたしの腰に、片腕を回して支えた。
「しっかりつかまっていろ」
黒い竜が空へ舞い上がった。
王都の屋根がみるみる小さくなった。燃える鐘楼の煙が、下で渦を巻いている。
竜王の金の目が近づいてきた。
大きすぎて、目の玉ひとつが、わたしの家の窓より大きかった。熱い息が頬を焼くようだった。
わたしは両手を口に当てて叫んだ。
「竜王さま!」
金の目がこちらを向いた。
――人の子が、竜の言葉で呼ぶ。
竜王の声が頭の中に、直接響いた。体の芯まで震えるような、低い声だった。
――百年ぶりだ。おまえは竜の声を聞く者か。
「はい。……卵を盗んだ者を必ず見つけます。だから、どうか、都を焼かないでください。あの鐘楼の下に、子どもがいます」
竜王の目が燃える鐘楼を見下ろした。
しばらく、沈黙があった。
それから、竜王は、大きな翼をひと打ちした。強い風が鐘楼の炎を吹き消した。
――匂いは、あの屋敷の、裏の倉からだ。
竜王の声がふいに、低く沈んだ。
――あれはわたしの最後の子だ。つがいは五十年前に死んだ。あの卵を産んですぐに。
わたしは息をのんだ。
――五十年、北の山の巣で温めてきた。……三年前の春の嵐の夜に、巣をあけた。ほんの少しのあいだ。戻ったら、なかった。三年、山という山を探した。人の都の上を飛ぶのは、百年に一度と約束している。だから今日まで、ここには来られなかった。
金の目が少しだけ、細くなった。
竜王の声はもう、怒っていなかった。
わたしの目から、涙がこぼれた。風にさらわれて空に散った。
「必ず、お返しします。……わたし、知っていたのに、黙っていました。ごめんなさい」
――おまえが謝ることではない。
竜王は静かに言った。
――だが、次に聞こえたときは黙るな。竜の声を聞く者が黙れば、竜は人を信じなくなる。
竜王の金の目が王都の西の、ひとつの屋敷を見た。
高い塀に囲まれた、新しい石造りの屋敷。屋根の上に、金の紋章の旗がひるがえっていた。
ドルトハイム侯爵家の、屋敷だった。
竜騎士団が侯爵家の屋敷に踏みこんだのは、それから一時間もたたないうちだった。
裏の倉の、いちばん奥。鍵のかかった鉄の扉の向こうに、それはあった。
人の背丈ほどもある、夕焼け色の卵。
卵の殻の表面がところどころ、薄く削られていた。削った粉を小さな瓶に詰めてずらりと棚に並べてあった。竜の鱗の薬、と札が貼ってあった。
鱗ではなかったのだ。
まだ生まれていない竜の子の、殻を削っていた。
わたしは卵の前に膝をついた。
削られた殻に、そっと手を当てた。ひやりと冷たかった。五十年、竜王の胸の下で温められていた卵が、倉の石の床の上で冷えきっていた。
耳をすませた。
――……さむい。
小さな、小さな声が、殻の奥から聞こえた。
生きている。
わたしは肩にかけていた祭りの肩掛けを外して卵に巻きつけた。薄い絹の肩掛けではとても足りなかった。
そのとき、うしろから、厚い黒い外套が、卵の上にかぶせられた。ヴォルフガング様だった。それから、竜騎士たちが、次々と自分の外套を脱いで卵を包んでいった。
黒い竜が倉の入り口から首を伸ばして、卵の上に、温かい息をゆっくりと吹きかけた。
――……あったかい。
殻の奥の声が少しだけ、眠そうになった。
わたしは外套の山に額を押しつけて泣いた。
侯爵家の当主と、アルフォンス様が、竜騎士たちに囲まれて中庭に引き出された。アルフォンス様は、わたしの姿を見つけると、真っ青な顔で叫んだ。
「シルヴィ! 君が告げ口をしたのか! 婚約者の家を竜に売ったのか!」
「売っていません」
わたしはアルフォンス様の前に立った。
「聞こえないふりをしていろと、おっしゃいました。だから、ずっと、そうしていました。……でも、竜王さまは、子どもを返してほしいと泣いていました。子どもが泣いているのに、聞こえないふりはできません」
アルフォンス様は、口をぱくぱくとさせた。
ヴォルフガング様が、わたしの隣に立った。
「ドルトハイム侯爵家は、百年の約束を破り、竜の卵を盗み、王都を危険にさらした。陛下の裁きを待て」
侯爵家の当主がその場に膝をついた。
アルフォンス様は、竜騎士の手を振りほどいて、わたしの足もとにすがりついた。
「シルヴィ、頼む。陛下の前で言ってくれ。竜の声なんて聞きまちがいだと。あの卵は山で拾ったんだ。盗んだんじゃない。君が言えば、陛下は信じる」
わたしはアルフォンス様を見下ろした。
二年前、夜会で一曲目を踊ってくれた人。わたしの好きな花を覚えてくれた人。若い竜の檻の前で、気味の悪いものを見る目をした人。
「アルフォンス様。わたしに、聞こえないふりをしていろと、おっしゃいましたね」
「そ、それは……」
「今度は、聞こえたことを聞こえなかったことにしろとおっしゃるのですか」
アルフォンス様は口を開いて、閉じた。
「竜王さまは言いました。竜の声を聞く者が黙れば、竜は人を信じなくなる、と。……わたしは、もう、黙りません」
わたしはアルフォンス様の手をそっと足もとから外した。
アルフォンス様は、そのまま、石畳の上に座りこんだ。
夕方、竜王の卵は、竜騎士団の竜たちに抱えられて王都の空へ運ばれた。
竜王は広場の上で待っていた。卵を大きな前足でそっと包んだ。
――竜の声を聞く娘。名は。
「シルヴィです」
――シルヴィ。百年の約束をおまえが繋いだ。次の百年もこの都を守ろう。
竜王は卵を抱いて、北の空へ帰っていった。
夕焼けの空に、夕焼け色の鱗が、溶けていった。
広場に、歓声が上がった。
さっきまで、魔女か、とささやいていた人々が、わたしに向かって頭を下げていた。
その歓声の中で、わたしは、空を見上げたまま、動けなかった。
殻の奥の、小さな、眠そうな声が、まだ耳に残っていた。……あったかい。
ヴォルフガング様が、隣に来て黙って立っていた。
「……孵るでしょうか」
「竜王が、五十年温めた卵だ。ひと冬、あと少しだけ温めれば、きっと」
ヴォルフガング様は、北の空を見たまま、言った。
「孵ったら、見に行こう。北の山まで私の竜で」
ドルトハイム侯爵家は、爵位を取り上げられた。
アルフォンス様との婚約は陛下の命で解かれた。
わたしの家には、毎日、知らない貴族の家から、手紙が届くようになった。竜の声を聞く娘をぜひ一度、我が家の夜会に。
母は届いた手紙を全部、火にくべた。
「……わたしのおばあさまは、魔女だと言われて、町の外れで、ひっそり暮らすしかなかったのに」
母は暖炉の前で泣きながら笑っていた。
「シルヴィ。もう、聞こえないふりは、しなくていいのよ」
わたしは母の背中を抱きしめた。
次の朝、わたしは、七年ぶりに、竜騎士団の厩を訪ねた。
厩の入り口で、腰の曲がった竜番のおじいさんが、干し草を運んでいた。七年前よりずっと小さくなっていた。
おじいさんはわたしの顔を見て干し草を取り落とした。
「……帽子の曲がった、お嬢ちゃんか」
「はい。帽子はもう、まっすぐです」
おじいさんはしわだらけの手でわたしの頭を撫でた。七年前と同じように。
「団長が、ずっと探してたよ。毎年、祭りのあとに、ここに来て、今年もいなかったと言って肩を落としてな」
わたしの顔が熱くなった。
建国祭から、ひと月がたったころ、竜騎士団の使いが、家に来た。
団長がわたしに会いたいと。
竜騎士団の厩には、干し草と、革と、竜の鱗の、少し焦げたような匂いがこもっていた。
黒い竜が厩の奥で、わたしを見つけて喉を鳴らした。
――来た来た。こいつ、朝から三回も髪を撫でつけてる。
「……聞こえていますよ」
わたしが言うと、黒い竜の横で、ヴォルフガング様が、ぎくりと肩をこわばらせた。
黒い竜がくつくつと喉を鳴らした。
「あいつは、余計なことしか言わない」
ヴォルフガング様は、竜の鼻先を軽く小突いた。
それから、わたしに向き直った。
「シルヴィ。竜騎士団に、竜の声を聞く役を置きたい。竜たちの痛みや、恐れや、ささいな愚痴を聞いて伝える役だ。……七年前、あなたがここでしてくれたことを毎日」
「わたしが、ですか」
「あなたしかいない」
ヴォルフガング様は、厩の窓から差しこむ光の中で少しだけ目を伏せた。
「七年前、あなたが逃げていったあと、ずっと探していた。竜番の老人に訊いても、名前を知らないと言う。毎年、建国祭の行列で、空の上から、帽子の曲がった娘を探していた」
わたしの顔が熱くなった。
「……帽子、もう曲がっていません」
「知っている。祭りの少し前、空の上から、仕立て屋の窓に、あなたに似た人を見た。帽子はかぶっていなかった。婚約者の隣で、聞こえないふりをして、笑いをこらえていた。……まさかと思った」
ヴォルフガング様が、わたしをまっすぐに見た。
「窓の外の、竜の羊の雲の話で笑っていただろう。……あれを私の竜も言っていた」
黒い竜が横で得意そうに鼻を鳴らした。
その日の午後から、わたしは、竜騎士団の厩で働きはじめた。
最初の日、竜騎士たちは、遠巻きにわたしを見ていた。竜の声を聞く娘。噂は聞いていても、信じきれない目だった。
わたしは厩をひと回りして竜たちの話を聞いた。
それから、いちばん奥の、赤茶色の竜の騎士のところへ行った。髭の濃い、大柄な騎士だった。
「この子、左の奥歯が痛いそうです。三日前から。だから、ご飯を右側でしか噛んでいないって」
騎士はぽかんと口を開けた。それから、半信半疑で竜の口をのぞきこんだ。
左の奥歯の隙間に、鹿の骨のかけらが、深く刺さっていた。
騎士が、骨を抜いてやると、赤茶色の竜は、ほうっと大きく息を吐いて、騎士の頭に鼻先をすりつけた。
――ありがとう。ありがとう。この人、ちっとも気づいてくれなくて。
「……ありがとう、と言っています。それと、ちっとも気づいてくれなかった、と」
厩じゅうの騎士たちが、どっと笑った。髭の騎士は真っ赤になって頭をかいた。
その日から、竜騎士たちは、わたしを遠巻きに見なくなった。
次の陽の日の夕方、ヴォルフガング様は、わたしを黒い竜の背に乗せて王都の空へ連れ出した。
夕焼けの空だった。下に、王都の屋根が、オレンジ色に光っていた。広場の、新しく葺き直された鐘楼の屋根も見えた。
風が頬に冷たかった。ヴォルフガング様の腕が、うしろから、わたしの腰を支えていた。
「シルヴィ」
「はい」
「竜騎士団の役だけではなく、もう一つ、頼みたいことがある」
風の音の中で、ヴォルフガング様の声が少しだけかすれていた。
「私の竜は、私のことを全部あなたにしゃべってしまう。朝、何回髪を撫でつけたか。夜、何を考えて眠れなかったか。……それなら、いっそ、隠さずに言ったほうがいい」
黒い竜が喉の奥でくつくつと笑った。
――早く言え。こっちは翼がくたびれる。
ヴォルフガング様が、竜の首を軽く叩いた。
「……私の妻になってほしい。竜の声も、私の声も、一番近くで聞いてほしい」
夕焼けの空の真ん中で、わたしは何も言えなかった。
胸が痛いくらいに鳴っていた。
聞こえないふりを二十年近く続けてきた。竜の声も自分の声も。
――ほら、答えてやれ。こいつ、心臓の音がうるさくてぼくの背中まで響いてる。
黒い竜が言った。
わたしは笑ってしまった。笑いながら、涙がこぼれた。
それから、うしろを振り向いて、ヴォルフガング様の顔を見上げた。
「はい。……聞こえないふりはもう、しません」
ヴォルフガング様の腕が、わたしを強く抱き寄せた。
遠く北の空から、低い、深い声が、風に乗って届いた。
――ようやくか。百年待つかと思ったぞ。
竜王の声だった。
わたしとヴォルフガング様と、黒い竜は、夕焼けの空の真ん中で同時に笑った。
春の終わり、北の山から、竜王の使いの若い竜が、王都に飛んできた。
――孵った。シルヴィに、見せに来いと、王さまが。
ヴォルフガング様の黒い竜に乗って北の山の巣へ飛んだ。
岩棚の上の、大きな巣の真ん中で、竜王が、翼を広げて待っていた。その翼の下から、夕焼け色の、小さな竜の子が、よちよちと這い出してきた。
殻を削られたところの鱗だけが、少しだけ色が薄かった。
竜の子はわたしの前まで来ると、首をかしげてわたしを見上げた。
――……あったかいの、ひと。
わたしは膝をついて、竜の子の鼻先にそっと手を当てた。竜の子はわたしの手のひらに、温かい鼻を押しつけた。
――この子の名は、おまえがつけよ、シルヴィ。
竜王が言った。
わたしはうしろのヴォルフガング様を振り返った。ヴォルフガング様は黙ってうなずいた。
わたしは竜の子の、色の薄い鱗を指先でそっと撫でた。
「……春、という名前はどうでしょう。ひと冬、外套にくるまって春を待っていた子だから」
竜の子がきゅう、と鳴いた。
北の山の風が雪の匂いと、若葉の匂いを一緒に運んできた。
(完)




