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王都の空で竜王が泣いている。「わが子を返せ」と聞き取れるのは、婚約者に気味が悪いと言われたわたしだけでした

作者: 八咫烏葵
掲載日:2026/11/05



「シルヴィ。人前で二度と竜の話をするな」


 婚約者のアルフォンス様は、建国祭の衣装の仮縫いの最中に、鏡ごしにわたしをにらんだ。


「さっき、竜騎士団の厩の前で立ち止まっていただろう。竜に向かって何か言っていた」


「……あの子が、足が痛いと言っていたので」


「それだ」


 アルフォンス様は、仕立て屋の手を払ってこちらへ振り向いた。


「竜の声が聞こえるなんて気味が悪い。君の家の者は魔女の血だと陰で言われているのを知らないのか。ドルトハイム侯爵家の嫁になる娘が、竜とおしゃべりなんて冗談じゃない」


 わたしは膝の上で両手を握った。


 足が痛い、と言っていたのは本当だ。厩の奥の、灰色の若い竜。左の後ろ足の爪に、小石が挟まっていた。竜騎士たちは誰も気づいていなかった。


「建国祭の三日間はとくにだ。陛下も、竜騎士団も、それに百年に一度、竜王がお出ましになる祭りだ。何が聞こえても、聞こえないふりをしていろ。いいな」


「……はい」


 アルフォンス様は、ふん、と鼻を鳴らしてまた鏡のほうを向いた。仕立て屋が金の刺繍の上着の肩をぴんと整えた。


 わたしは窓の外を見た。


 王都の空を竜騎士団の竜が三頭、ゆっくりと輪を描いて飛んでいた。


 ――今日は風が気持ちいいな。


 ――祭りの肉、たくさん出るといいな。


 ――あの雲、羊みたいだ。


 竜たちの声が空から、ぽつりぽつりと降ってきた。


 わたしは聞こえないふりをした。


 窓硝子に映る自分の口もとが、少しだけ、笑いをこらえて引きつっている。


 建国祭の二日目の晩、わたしは、侯爵家の晩餐に招かれていた。


 食事のあと、屋敷の廊下を歩いていると、裏庭の方から、竜の声がした。侯爵家の、あの若い竜だった。


 ――あの倉、こわい。赤ちゃんの匂いがする。泣いてる匂い。


 わたしは足を止めた。


 赤ちゃんの、匂い。


 廊下の窓から、裏庭が見えた。月明かりの下で、アルフォンス様が、見知らぬ商人らしい男と、裏の倉の前で話している。商人は小さな瓶がたくさん入った木箱を荷車に積んでいた。


 ――あの人の手から、殻の匂いがする。


 若い竜の声が震えていた。


 わたしは窓から離れた。


 聞こえないふりをしていろ。


 アルフォンス様の声が耳の奥で響いた。母の声も重なった。聞こえないふりをしなさい。それがあなたを守るのよ。


 わたしは何も見なかったことにして侯爵家の馬車で家に帰った。


 その夜、寝台の中で、若い竜の震える声が、何度も耳の奥でよみがえった。赤ちゃんの匂い。泣いてる匂い。


 眠れなかった。




 竜の声が聞こえると気づいたのは五つのときだった。


 父に連れられて、建国の記念の行列を見に行った日。行列の先頭を飛ぶ竜騎士団の竜が、わたしの頭の上を通り過ぎるとき、言ったのだ。


 ――あの小さいの、帽子が曲がってる。


 わたしは自分の帽子を直した。竜が空の上でくつくつと喉を鳴らした。笑ったのだと、なぜか分かった。


 それから、竜の声はどこにいても聞こえた。厩の前を通ると、竜たちの愚痴が聞こえた。干し草が湿ってる。隣のやつのいびきがうるさい。騎士が鞍を締めすぎる。


 わたしはそのたびに、厩の竜番のおじいさんに伝えた。干し草を替えてください。あの子の鞍をひとつ緩めてください。


 竜番のおじいさんは最初は目を丸くした。それから、わたしの言うとおりにしてみて、竜たちの機嫌がよくなるのを見て黙って頭を撫でてくれた。


 でも母は青い顔をした。


 ――シルヴィ。そのことは誰にも言ってはだめ。


 母の祖母、わたしの曾祖母も、竜の声が聞こえたという。そのせいで、魔女だと噂を立てられて、まともな家には、どこにも嫁げなかった。


 ――聞こえても、聞こえないふりをしなさい。それがあなたを守るのよ。


 曾祖母の話を母は、一度だけ、くわしく話してくれたことがある。




 曾祖母は若いころ、竜騎士団の厩で竜の世話をしていたという。竜の声が聞こえる娘として団の中では大事にされた。でも、町の人々は、竜とおしゃべりする娘を気味悪がった。




 ある年、町で流行り病が出た。誰かが言いだした。竜の声を聞く娘が、竜の病を町に持ちこんだのだ、と。




 曾祖母は厩を追われた。それから一生、町の外れの小さな家で、同じく厩を追われた竜番の曾祖父と、ひっそりと暮らした。窓から、空を飛ぶ竜を毎日見上げていたという。




 ――竜たちはね、ずっと、おばあさまの家の上を遠回りして飛んでいたそうよ。おばあさまに、声を届けるために。




 母はそう言って少しだけ笑った。それから、わたしの手を握った。




 ――あなたには、そんな思いをさせたくないの。


 それから、わたしは、聞こえないふりを覚えた。


 十五になる年まで、ときどき、こっそり厩へ行った。竜番のおじいさんに、竜たちの言葉を伝えた。


 一度だけ、厩で、若い竜騎士に見つかったことがある。


 黒い髪の、背の高い、十七、八の青年だった。片目のまわりに、まだ新しい傷があった。その人の竜は黒い大きな竜でひどく気が立っていた。誰も近づけなかった。


 ――あの人、ぼくのことをお荷物だと思ってる。初めての戦でぼくがへまをしたから。


 黒い竜はそう言って厩の隅で丸くなっていた。


 わたしは青年に言った。


 ――この子、自分のせいであなたがけがをしたと思っています。お荷物だと思われていると、思っています。


 青年はわたしを見た。それから、黒い竜を見た。長いあいだ、黙っていた。


 それから、竜のそばへ行って膝をついた。竜の鼻先に、額を押し当てた。


 ――ばか。お荷物なわけ、あるか。


 黒い竜が喉をごろごろと鳴らした。


 青年は振り返ってわたしに何か言おうとした。でも、わたしは怖くなって厩から逃げ出した。名前も聞かなかった。


 あれから、七年。わたしは二十二になった。


 アルフォンス様との婚約が決まったのは二年前だった。


 ドルトハイム侯爵家は、急に裕福になった家だった。古い家柄の伯爵家との縁組で、家の格を上げたかったのだろう。父は借金の多いわが家のためにその話を受けた。


 最初のころ、アルフォンス様はやさしかった。わたしの好きな花を覚えてくれた。夜会では一曲目を必ずわたしと踊ってくれた。


 変わったのは婚約して半年たったころだった。


 侯爵家の屋敷に招かれた日、裏庭の厩の前を通りかかった。侯爵家が買ったばかりの、まだ若い竜が一頭、檻の中で鳴いていた。


 ――ここ、狭い。足が痛い。おうちに帰りたい。


 わたしは思わず、檻の前にしゃがみこんで言ってしまった。


 ――大丈夫。すぐに、竜番の人に言うからね。


 振り向くと、アルフォンス様が立っていた。


 あのときの目をわたしは忘れない。気味の悪い虫でも見るような目だった。


 それから、アルフォンス様は、夜会で一曲目を踊らなくなった。わたしの好きな花の名前を忘れた。




 建国祭の三日目はよく晴れていた。


 王都の中央広場には、朝から人があふれていた。広場の真ん中の大きな石の台に、王家の人々が並んでいる。その両脇に、竜騎士団の竜が、二十頭、翼をたたんで並んでいた。


 百年前、この王国を建てた初代の王は、北の山に住む竜王と、約束を交わした。竜王はこの国を空の災いから守る。人は竜を狩らず、竜の巣を荒らさない。


 その約束を確かめるために、百年に一度、竜王が、王都の上を飛ぶ。


 今日がその日だった。


 わたしはアルフォンス様の隣に立っている。ドルトハイム侯爵家の席は、石の台の、すぐそばにあった。


 ドルトハイム侯爵家は、この数年で急に裕福になった家だ。竜の鱗を削った粉を混ぜた、よく効く薬を遠い国に売っているらしい。どこで鱗を手に入れているのか、誰も知らない。


 昼の鐘が鳴った。


 北の空から、影が、近づいてきた。


 最初は鳥の群れかと思った。それがみるみる大きくなった。


 広場が静まりかえった。


 竜王だった。


 広場の竜騎士団の竜を十頭束ねても足りないほど大きかった。鱗は夕焼けの色。翼を広げると、広場の半分が影に入った。金の目が二つ、空から王都を見下ろしている。


 人々がひれ伏した。陛下が石の台の上で両手を空に向けて上げた。百年前の約束の、挨拶の形。


 竜王は広場の上で、ゆっくりと一度、輪を描いた。


 それから、吼えた。


 大地が揺れた。広場じゅうの窓硝子が、一斉にびりびりと鳴った。


 でも、わたしの耳には、吼える声の奥に言葉が聞こえた。


 ――盗人がいる。


 わたしの体が凍りついた。


 ――わが子の匂いがする。この都のどこかに、わが子の卵の匂いがする。盗んだのは誰だ。


 わたしの指先が冷たくなった。


 ゆうべの、侯爵家の裏の倉。若い竜の震える声。赤ちゃんの匂い。商人の荷車の、小さな瓶。


 ――知っていた。


 わたしは知っていたのだ。聞こえていたのに、聞こえないふりをした。


 膝ががくがくとふるえた。




 竜王がもう一度、吼えた。


 口から、炎がほとばしった。


 炎は広場の東の、古い鐘楼の屋根をかすめた。屋根が燃え上がった。鐘楼の下で、祭り見物の子どもたちが、悲鳴を上げて逃げまどった。


 広場が大混乱になった。


 石の台の上で、黒い外套の背の高い男の人が、剣を抜かずに、両手を広げて前に出た。


 竜騎士団長だった。


「下がれ! 竜騎士団、竜を空へ上げるな! 竜王を刺激するな!」


 低い、よく通る声だった。


 広場の竜たちがざわめいている。わたしの耳に、竜たちの声が、洪水のように流れこんできた。


 ――王さまが、怒ってる。


 ――卵だって。誰が盗ったの。


 ――こわい。こわい。


「シルヴィ」


 隣で、アルフォンス様が、わたしの腕を強くつかんだ。


 アルフォンス様の顔が真っ青だった。手が小刻みにふるえていた。


「何も聞こえないな? 聞こえないと言え」


「……アルフォンス様」


「聞こえないふりをしていろと、言っただろう!」


 アルフォンス様の指がわたしの腕に食いこんだ。


 わたしはアルフォンス様を見た。


 どうして、この人はこんなにふるえているのだろう。


 竜の鱗を混ぜた薬。どこで手に入れているのか、誰も知らない鱗。


 竜王が三度目に吼えた。


 ――返さぬなら、この都を焼く。百年の約束は人が先に破った。


 燃える鐘楼の下で、小さな男の子が、転んで泣いている。母親が人波にはばまれて近づけずにいた。


 わたしはアルフォンス様の手を振りほどいた。


「聞こえないふりはもうできません」


 アルフォンス様の口がぱくりと開いた。


 わたしは人の波をかき分けて石の台へ走った。




 石の台の下で竜騎士の一人に止められた。


「お嬢さん、下がって! 危ない!」


「団長様に、伝えたいことがあります! 竜王が、何と言っているか!」


 竜騎士が目を見開いた。


 石の台の上で、竜騎士団長が、振り返った。


 黒い髪。背が高い。片目のまわりに、古い傷が一本、白く走っている。


 見覚えがあった。


 七年前、厩で、黒い竜の鼻先に額を押し当てていた青年。


 団長の目も、わたしを見て大きく見開かれた。


「……厩の、あの娘か」


 覚えていた。


「竜王は、卵を盗まれたと言っています」


 わたしは石の台を見上げて叫んだ。


「この都のどこかに、竜王の子どもの卵の匂いがすると。返さないなら、都を焼くと。百年の約束は人が先に破ったと」


 広場の、まわりにいた人々が、ざわめいた。


 竜の声が聞こえる、だって? あの娘、魔女か。


 ささやきが背中に刺さった。足がふるえた。


 でも、団長は、ささやきには目もくれなかった。


 団長は石の台から、ひらりと飛び降りた。わたしの前に立った。


「七年前、あなたは、私の竜の声を伝えてくれた。あれから、私は、竜騎士団の誰より、竜と話せるようになった。……あなたの言うことを疑わない」


 団長はわたしに手を差し出した。


「ヴォルフガング・ローエンシュタイン。竜騎士団の団長だ。竜王と、話してくれないか。あなたの声なら、届くかもしれない」




 わたしは団長の黒い竜の背に乗った。


 七年前、厩の隅で丸くなっていた竜。今は広場の竜たちの中でいちばん大きく、翼の縁が銀色に光っていた。


 ――久しぶり、小さいの。帽子は曲がってない?


 黒い竜が喉を鳴らした。わたしは思わず、泣き笑いしそうになった。


「覚えてくれてたの」


 ――忘れるもんか。あの日から、こいつ、毎晩、ぼくの鼻に額をくっつけて寝るんだ。暑苦しい。


 団長がうしろで手綱を握った。わたしの腰に、片腕を回して支えた。


「しっかりつかまっていろ」


 黒い竜が空へ舞い上がった。


 王都の屋根がみるみる小さくなった。燃える鐘楼の煙が、下で渦を巻いている。


 竜王の金の目が近づいてきた。


 大きすぎて、目の玉ひとつが、わたしの家の窓より大きかった。熱い息が頬を焼くようだった。


 わたしは両手を口に当てて叫んだ。


「竜王さま!」


 金の目がこちらを向いた。


 ――人の子が、竜の言葉で呼ぶ。


 竜王の声が頭の中に、直接響いた。体の芯まで震えるような、低い声だった。


 ――百年ぶりだ。おまえは竜の声を聞く者か。


「はい。……卵を盗んだ者を必ず見つけます。だから、どうか、都を焼かないでください。あの鐘楼の下に、子どもがいます」


 竜王の目が燃える鐘楼を見下ろした。


 しばらく、沈黙があった。


 それから、竜王は、大きな翼をひと打ちした。強い風が鐘楼の炎を吹き消した。


 ――匂いは、あの屋敷の、裏の倉からだ。


 竜王の声がふいに、低く沈んだ。


 ――あれはわたしの最後の子だ。つがいは五十年前に死んだ。あの卵を産んですぐに。


 わたしは息をのんだ。


 ――五十年、北の山の巣で温めてきた。……三年前の春の嵐の夜に、巣をあけた。ほんの少しのあいだ。戻ったら、なかった。三年、山という山を探した。人の都の上を飛ぶのは、百年に一度と約束している。だから今日まで、ここには来られなかった。


 金の目が少しだけ、細くなった。


 竜王の声はもう、怒っていなかった。


 わたしの目から、涙がこぼれた。風にさらわれて空に散った。


「必ず、お返しします。……わたし、知っていたのに、黙っていました。ごめんなさい」


 ――おまえが謝ることではない。


 竜王は静かに言った。


 ――だが、次に聞こえたときは黙るな。竜の声を聞く者が黙れば、竜は人を信じなくなる。


 竜王の金の目が王都の西の、ひとつの屋敷を見た。


 高い塀に囲まれた、新しい石造りの屋敷。屋根の上に、金の紋章の旗がひるがえっていた。


 ドルトハイム侯爵家の、屋敷だった。




 竜騎士団が侯爵家の屋敷に踏みこんだのは、それから一時間もたたないうちだった。


 裏の倉の、いちばん奥。鍵のかかった鉄の扉の向こうに、それはあった。


 人の背丈ほどもある、夕焼け色の卵。


 卵の殻の表面がところどころ、薄く削られていた。削った粉を小さな瓶に詰めてずらりと棚に並べてあった。竜の鱗の薬、と札が貼ってあった。


 鱗ではなかったのだ。


 まだ生まれていない竜の子の、殻を削っていた。


 わたしは卵の前に膝をついた。


 削られた殻に、そっと手を当てた。ひやりと冷たかった。五十年、竜王の胸の下で温められていた卵が、倉の石の床の上で冷えきっていた。


 耳をすませた。


 ――……さむい。


 小さな、小さな声が、殻の奥から聞こえた。


 生きている。


 わたしは肩にかけていた祭りの肩掛けを外して卵に巻きつけた。薄い絹の肩掛けではとても足りなかった。


 そのとき、うしろから、厚い黒い外套が、卵の上にかぶせられた。ヴォルフガング様だった。それから、竜騎士たちが、次々と自分の外套を脱いで卵を包んでいった。


 黒い竜が倉の入り口から首を伸ばして、卵の上に、温かい息をゆっくりと吹きかけた。


 ――……あったかい。


 殻の奥の声が少しだけ、眠そうになった。


 わたしは外套の山に額を押しつけて泣いた。


 侯爵家の当主と、アルフォンス様が、竜騎士たちに囲まれて中庭に引き出された。アルフォンス様は、わたしの姿を見つけると、真っ青な顔で叫んだ。


「シルヴィ! 君が告げ口をしたのか! 婚約者の家を竜に売ったのか!」


「売っていません」


 わたしはアルフォンス様の前に立った。


「聞こえないふりをしていろと、おっしゃいました。だから、ずっと、そうしていました。……でも、竜王さまは、子どもを返してほしいと泣いていました。子どもが泣いているのに、聞こえないふりはできません」


 アルフォンス様は、口をぱくぱくとさせた。


 ヴォルフガング様が、わたしの隣に立った。


「ドルトハイム侯爵家は、百年の約束を破り、竜の卵を盗み、王都を危険にさらした。陛下の裁きを待て」


 侯爵家の当主がその場に膝をついた。


 アルフォンス様は、竜騎士の手を振りほどいて、わたしの足もとにすがりついた。


「シルヴィ、頼む。陛下の前で言ってくれ。竜の声なんて聞きまちがいだと。あの卵は山で拾ったんだ。盗んだんじゃない。君が言えば、陛下は信じる」


 わたしはアルフォンス様を見下ろした。


 二年前、夜会で一曲目を踊ってくれた人。わたしの好きな花を覚えてくれた人。若い竜の檻の前で、気味の悪いものを見る目をした人。


「アルフォンス様。わたしに、聞こえないふりをしていろと、おっしゃいましたね」


「そ、それは……」


「今度は、聞こえたことを聞こえなかったことにしろとおっしゃるのですか」


 アルフォンス様は口を開いて、閉じた。


「竜王さまは言いました。竜の声を聞く者が黙れば、竜は人を信じなくなる、と。……わたしは、もう、黙りません」


 わたしはアルフォンス様の手をそっと足もとから外した。


 アルフォンス様は、そのまま、石畳の上に座りこんだ。


 夕方、竜王の卵は、竜騎士団の竜たちに抱えられて王都の空へ運ばれた。


 竜王は広場の上で待っていた。卵を大きな前足でそっと包んだ。


 ――竜の声を聞く娘。名は。


「シルヴィです」


 ――シルヴィ。百年の約束をおまえが繋いだ。次の百年もこの都を守ろう。


 竜王は卵を抱いて、北の空へ帰っていった。


 夕焼けの空に、夕焼け色の鱗が、溶けていった。


 広場に、歓声が上がった。


 さっきまで、魔女か、とささやいていた人々が、わたしに向かって頭を下げていた。


 その歓声の中で、わたしは、空を見上げたまま、動けなかった。


 殻の奥の、小さな、眠そうな声が、まだ耳に残っていた。……あったかい。


 ヴォルフガング様が、隣に来て黙って立っていた。


「……孵るでしょうか」


「竜王が、五十年温めた卵だ。ひと冬、あと少しだけ温めれば、きっと」


 ヴォルフガング様は、北の空を見たまま、言った。


「孵ったら、見に行こう。北の山まで私の竜で」




 ドルトハイム侯爵家は、爵位を取り上げられた。


 アルフォンス様との婚約は陛下の命で解かれた。


 わたしの家には、毎日、知らない貴族の家から、手紙が届くようになった。竜の声を聞く娘をぜひ一度、我が家の夜会に。


 母は届いた手紙を全部、火にくべた。


「……わたしのおばあさまは、魔女だと言われて、町の外れで、ひっそり暮らすしかなかったのに」


 母は暖炉の前で泣きながら笑っていた。


「シルヴィ。もう、聞こえないふりは、しなくていいのよ」


 わたしは母の背中を抱きしめた。


 次の朝、わたしは、七年ぶりに、竜騎士団の厩を訪ねた。


 厩の入り口で、腰の曲がった竜番のおじいさんが、干し草を運んでいた。七年前よりずっと小さくなっていた。


 おじいさんはわたしの顔を見て干し草を取り落とした。


「……帽子の曲がった、お嬢ちゃんか」


「はい。帽子はもう、まっすぐです」


 おじいさんはしわだらけの手でわたしの頭を撫でた。七年前と同じように。


「団長が、ずっと探してたよ。毎年、祭りのあとに、ここに来て、今年もいなかったと言って肩を落としてな」


 わたしの顔が熱くなった。


 建国祭から、ひと月がたったころ、竜騎士団の使いが、家に来た。


 団長がわたしに会いたいと。


 竜騎士団の厩には、干し草と、革と、竜の鱗の、少し焦げたような匂いがこもっていた。


 黒い竜が厩の奥で、わたしを見つけて喉を鳴らした。


 ――来た来た。こいつ、朝から三回も髪を撫でつけてる。


「……聞こえていますよ」


 わたしが言うと、黒い竜の横で、ヴォルフガング様が、ぎくりと肩をこわばらせた。


 黒い竜がくつくつと喉を鳴らした。


「あいつは、余計なことしか言わない」


 ヴォルフガング様は、竜の鼻先を軽く小突いた。


 それから、わたしに向き直った。


「シルヴィ。竜騎士団に、竜の声を聞く役を置きたい。竜たちの痛みや、恐れや、ささいな愚痴を聞いて伝える役だ。……七年前、あなたがここでしてくれたことを毎日」


「わたしが、ですか」


「あなたしかいない」


 ヴォルフガング様は、厩の窓から差しこむ光の中で少しだけ目を伏せた。


「七年前、あなたが逃げていったあと、ずっと探していた。竜番の老人に訊いても、名前を知らないと言う。毎年、建国祭の行列で、空の上から、帽子の曲がった娘を探していた」


 わたしの顔が熱くなった。


「……帽子、もう曲がっていません」


「知っている。祭りの少し前、空の上から、仕立て屋の窓に、あなたに似た人を見た。帽子はかぶっていなかった。婚約者の隣で、聞こえないふりをして、笑いをこらえていた。……まさかと思った」


 ヴォルフガング様が、わたしをまっすぐに見た。


「窓の外の、竜の羊の雲の話で笑っていただろう。……あれを私の竜も言っていた」


 黒い竜が横で得意そうに鼻を鳴らした。


 その日の午後から、わたしは、竜騎士団の厩で働きはじめた。


 最初の日、竜騎士たちは、遠巻きにわたしを見ていた。竜の声を聞く娘。噂は聞いていても、信じきれない目だった。


 わたしは厩をひと回りして竜たちの話を聞いた。


 それから、いちばん奥の、赤茶色の竜の騎士のところへ行った。髭の濃い、大柄な騎士だった。


「この子、左の奥歯が痛いそうです。三日前から。だから、ご飯を右側でしか噛んでいないって」


 騎士はぽかんと口を開けた。それから、半信半疑で竜の口をのぞきこんだ。


 左の奥歯の隙間に、鹿の骨のかけらが、深く刺さっていた。


 騎士が、骨を抜いてやると、赤茶色の竜は、ほうっと大きく息を吐いて、騎士の頭に鼻先をすりつけた。


 ――ありがとう。ありがとう。この人、ちっとも気づいてくれなくて。


「……ありがとう、と言っています。それと、ちっとも気づいてくれなかった、と」


 厩じゅうの騎士たちが、どっと笑った。髭の騎士は真っ赤になって頭をかいた。


 その日から、竜騎士たちは、わたしを遠巻きに見なくなった。




 次の陽の日の夕方、ヴォルフガング様は、わたしを黒い竜の背に乗せて王都の空へ連れ出した。


 夕焼けの空だった。下に、王都の屋根が、オレンジ色に光っていた。広場の、新しく葺き直された鐘楼の屋根も見えた。


 風が頬に冷たかった。ヴォルフガング様の腕が、うしろから、わたしの腰を支えていた。


「シルヴィ」


「はい」


「竜騎士団の役だけではなく、もう一つ、頼みたいことがある」


 風の音の中で、ヴォルフガング様の声が少しだけかすれていた。


「私の竜は、私のことを全部あなたにしゃべってしまう。朝、何回髪を撫でつけたか。夜、何を考えて眠れなかったか。……それなら、いっそ、隠さずに言ったほうがいい」


 黒い竜が喉の奥でくつくつと笑った。


 ――早く言え。こっちは翼がくたびれる。


 ヴォルフガング様が、竜の首を軽く叩いた。


「……私の妻になってほしい。竜の声も、私の声も、一番近くで聞いてほしい」


 夕焼けの空の真ん中で、わたしは何も言えなかった。


 胸が痛いくらいに鳴っていた。


 聞こえないふりを二十年近く続けてきた。竜の声も自分の声も。


 ――ほら、答えてやれ。こいつ、心臓の音がうるさくてぼくの背中まで響いてる。


 黒い竜が言った。


 わたしは笑ってしまった。笑いながら、涙がこぼれた。


 それから、うしろを振り向いて、ヴォルフガング様の顔を見上げた。


「はい。……聞こえないふりはもう、しません」


 ヴォルフガング様の腕が、わたしを強く抱き寄せた。


 遠く北の空から、低い、深い声が、風に乗って届いた。


 ――ようやくか。百年待つかと思ったぞ。


 竜王の声だった。


 わたしとヴォルフガング様と、黒い竜は、夕焼けの空の真ん中で同時に笑った。


 春の終わり、北の山から、竜王の使いの若い竜が、王都に飛んできた。


 ――孵った。シルヴィに、見せに来いと、王さまが。


 ヴォルフガング様の黒い竜に乗って北の山の巣へ飛んだ。


 岩棚の上の、大きな巣の真ん中で、竜王が、翼を広げて待っていた。その翼の下から、夕焼け色の、小さな竜の子が、よちよちと這い出してきた。


 殻を削られたところの鱗だけが、少しだけ色が薄かった。


 竜の子はわたしの前まで来ると、首をかしげてわたしを見上げた。


 ――……あったかいの、ひと。


 わたしは膝をついて、竜の子の鼻先にそっと手を当てた。竜の子はわたしの手のひらに、温かい鼻を押しつけた。


 ――この子の名は、おまえがつけよ、シルヴィ。


 竜王が言った。


 わたしはうしろのヴォルフガング様を振り返った。ヴォルフガング様は黙ってうなずいた。


 わたしは竜の子の、色の薄い鱗を指先でそっと撫でた。


「……春、という名前はどうでしょう。ひと冬、外套にくるまって春を待っていた子だから」


 竜の子がきゅう、と鳴いた。


 北の山の風が雪の匂いと、若葉の匂いを一緒に運んできた。




(完)


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