時給1200円の風景、時給100万円の影
小さなお金のことを毎日のように考えながら暮らす一人の男が、「時給100万円」という遠い数字を眺めたときに見えた景色の記録である。
「時給100万円」という言葉を、ニュースの見出しで見かけた。
企業トップの報酬を年収と労働時間から時給に換算すると、それくらいになるらしい。
一瞬、桁を見間違えた気がした。ひとつか、ふたつ多い。
そう思ってもう一度見直したが、間違いではなかった。
私の時給は1200円だ。
嘱託社員だから、ボーナスはない。朝は早い。かつての部下が、今は上司の椅子に座っている。
それについて、特に思うところはない。もう慣れた。
慣れたというより、馴染んだと言ったほうが近い気がする。
定年後の再雇用というのは、そういうものなのだろう。そう思っているだけかもしれない。
問題は、そこではない。
時給の差に腹を立てているわけでもない。
世の中にはそういう仕組みがあって、私はその仕組みの端のほうに座っている。
ただ、それだけのことだ。
それでも、「時給100万円」という数字を見ると、頭の中で勝手に換算が始まる。
100万円は、私の時給の800倍以上になる。
800倍。
その数字がどれほどの距離なのか、正直よく分からない。
分からないくらい遠い場所にある数字だ、ということだけは分かる。
スーパーの惣菜コーナーには、閉店前になると半額のシールが貼られる。
500円の弁当が250円になる。
それでも、簡単には手が伸びない。
財布の中身と相談しながら、今日は弁当にするか、
それとも半額のおにぎり一個で済ませるかを考える。
考えるというのも大げさで、もう体が勝手に計算している。
100円のおにぎりと250円の弁当。
その150円の差が、今日は許されるかどうか。
値引きシールが貼られる時間まで、店内をうろうろしたことも一度や二度ではない。
そうして選んだおにぎり一個を、次の日の昼、会社の休憩室で食べる。
窓の外は晴れていたり、曇っていたりする。
特に何も考えない。
ただ、包装のフィルムを剥がす音だけが、やけに大きく聞こえる。
向かいの席では、誰かが宅配の弁当を広げている。ふたを開けると、まだ湯気が立つ。
それを見ても、羨ましいとは思わない。
ただ、湯気の立たない昼が続いているな、と思う。
時給100万円の人たちが、こういう昼をどれくらい知っているのかは分からない。
知らないことを責めるつもりもない。
ただ、半額のシールを見つけたときの小さな喜びと、その喜びの底に沈んでいる、ほんの少しの惨めさ。
そういうものは、生活に余裕がある人には、見えにくいのかもしれない。
私の時給と、あの時給の間には、単純な数字の差だけではない何かがある気がする。
それは働き方の差でも、能力の差でもない。
たぶん、「悩む」という行為が、生活の中にどれだけ入り込んでいるかの差なのだ。
おにぎりにするか、弁当にするか。
今日は買うか、やめておくか。
たったそれだけのことを、毎日のように考える。
そんな小さなことにまで、いちいち値段がついている。
とはいえ、こんなことを考えたところで、時給が上がるわけではない。
明日もまた、惣菜コーナーの前に立つ。
半額のシールが貼られる時間を、なんとなく体が覚えている。
それだけが、今のところの唯一の技術と言えば、技術なのだろう。
誰に自慢するでもない技術だ。
おにぎりのフィルムを剥がす。
今日は、やけに具がしょっぱい。
それだけのことだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




