第15話 外の七分
空のクリアファイルは、ノートの角に引っかかるだけで音がした。
かさり、と乾いた音がして、葵は鞄の中へ手を入れた。取り出すつもりはなかった。ただ、昨日からそこにあるはずのない軽さが、教科書の隙間でずっと主張していた。
退部届が入っていた時は、もっと重かった。
紙一枚でしかないのに、鞄の底に沈んで、歩くたびにそこだけが遅れてついてくる感じがした。今は違う。クリアファイルは空っぽで、軽い。軽いのに、なくなったわけではない。
職員室前の廊下では、先生たちの声が何度も重なっていた。
誰かが出席簿を抱えて通り過ぎる。別の先生がコピー用紙の束を片手で押さえながら、生徒の名前を呼んでいる。昼休みの終わりに近い廊下は、昨日の体育館とは違う種類の音でいっぱいだった。足音、笑い声、扉が開く音。普通の学校の音。
その中で、四人だけが少し静かだった。
梨花は壁際に立って、練習ノートの間から小さく折った紙を出したり、また挟んだりしている。仮リハーサルの紙から切り取られたわけではない。ただ、昨日から何度も目に入った数字を、いつの間にか自分で書いてしまった紙だった。
七分。
鉛筆の線は、少し濃すぎる。
瀬奈はその紙を横目で見て、すぐ視線を職員室の扉に戻した。
「それ、持ってくる必要あった?」
「ない」
梨花は即答した。
「ないけど、置いてくる理由もなかった」
「理由、重いね」
千夏が言った。
昨日よりは軽い声だった。でも、軽くしようとしていることがわかる声でもあった。
「七分って、持ち運びできるんだね。便利」
「便利ではない」
梨花が言う。
「だって昨日からずっとついてくるし」
「それ、便利じゃなくてしつこい」
「七分、根性ある」
「時間に根性を持たせないで」
瀬奈が短く言って、千夏が小さく笑った。
葵も笑いかけた。けれど、声になる前に職員室の扉が開いた。
真柴先生が出てきた。
手には昨日と同じクリップボードはない。代わりに、薄い封筒を一つ持っていた。白い封筒で、何も書かれていない。中身の厚みもほとんどない。
葵は、反射的に鞄の中の空のクリアファイルを押さえた。
真柴先生は、その動きを見た。
見たけれど、すぐに何かを言わなかった。
「来てくれてありがとう」
先生の声は、昨日より少し低かった。疲れているのではなく、言葉の置き場所を決めてきた声だった。
「ここだと通行の邪魔になります。少しだけ、こっちへ」
四人は、職員室の扉から少し離れた相談用の小さな机の前へ移動した。廊下の端に置かれた机で、進路希望調査の紙や忘れ物の連絡を受け取る時に使われる場所だ。特別な部屋ではない。壁に掲示物が貼ってあり、すぐ横を生徒が通る。
それが、少しだけありがたかった。
完全に閉じた場所だったら、昨日の音をどう受け止めればいいのか、もっとわからなくなっていた気がした。
真柴先生は机の前に立ち、封筒を机の上に置いた。
封筒は軽い音を立てた。
葵の喉が、少し詰まる。
「まず、はっきり言います」
真柴先生は四人を順番に見た。
「退部届は、まだ預かりのままです」
梨花の指が、練習ノートの角を押さえた。
瀬奈はまばたきを一つした。
千夏は、笑おうとした口を途中で止めた。
葵は、鞄の肩紐を握ったまま息を吸った。
戻ってこなかった。
でも、受け取られたわけでもない。
昨日と同じはずなのに、同じではなかった。
「一週間後、と言いました。でも今日は、退部届を受理するか返すか、その答えを聞くために呼んだわけではありません」
真柴先生は続けた。
「続けるかどうかを、今ここで決めなさいとは言いません。やめる権利も、続ける権利も、君たちのものです」
その言い方は、やさしいというより、まっすぐだった。
逃げ道をふさがないために、まっすぐ置かれた言葉だった。
「でも」
先生の手が、机の上の封筒に少し触れた。
「昨日の音を聴いて、私が黙っているのは違うと思いました」
廊下の向こうで、誰かが笑った。
それが遠くなるくらい、四人の間の空気が一度止まった。
「君たちに続けなさいとは言いません。でも、鳴らす場所があるかもしれないのに、隠す大人にはなりたくありません」
葵は、先生の指先を見た。
封筒の上に置かれた指は、動いていない。けれど、力が入っているのはわかった。
昨日、先生は言った。
昔、自分たちの音を守れなかったことがある、と。
終わらせたくなかったのに、怖くなって、終わらせるほうを選んだ、と。
その先を、先生は話さなかった。今日も、話さないのだと思う。
でも、今の言葉は、その先から来ていた。
葵たちのためだけの言葉ではない。先生が、昔の自分にも言っているような言葉だった。
「場所、ですか」
梨花が聞いた。
声はいつものように整えようとしていた。でも、最後だけ少し上がった。
「はい」
真柴先生は封筒を開けなかった。
「学校の外です。名前は、今は言いません。正式な話でもありません。チケットや時間割や、そういう話でもありません」
「じゃあ、何の話ですか」
瀬奈が聞いた。
責める声ではない。
ただ、線を引く声だった。どこからが自分たちの選択なのか、確かめるための声。
「話を聞くかどうかを選ぶための話です」
真柴先生は、すぐに答えた。
「私の知っている音楽関係の人が、学生の短い演奏枠を探しています。大きな舞台ではありません。学校行事でもありません。けれど、外で音を鳴らせる場所です」
葵の胸の奥で、外、という言葉だけが遅れて響いた。
外。
体育館の中ではない。
別館の部室でもない。
学校の廊下に残る拍手でもない。
知らない人が、知らない距離で、自分たちの音を聴く場所。
「昨日の音を録ったり、勝手に誰かへ聞かせたりはしていません」
真柴先生が言った。
「君たちの名前も、学校名も、曲のことも、何も出していません。ただ、私は昨日、ここに七分だけでも外で鳴らしてほしい音があると思いました」
七分。
梨花の手が、ノートの間の紙を押さえた。
「七分、なんですか」
千夏が言った。
冗談にしようとして、できなかった声だった。
真柴先生はうなずいた。
「七分だけ、外で鳴らせるかもしれません」
その言葉は、昨日の体育館の床よりも広かった。
七分。
終わるために決めた長さ。
最後なら耐えられると思った長さ。
四人で片付けるために、短く切った時間。
その同じ数字が、今度は外へ向いている。
「先生」
梨花の声が、少しだけ硬くなった。
「私たち、昨日ちゃんとできたわけじゃありません」
「知っています」
真柴先生は即答した。
梨花が言葉を詰まらせる。
先生は、続けた。
「ちゃんとできていないところも聴きました。ずれたところも、怖がったところも、止まりかけたところも、全部聴きました」
梨花の肩が、ほんの少し下がった。
「その上で言っています」
真柴先生の声は、昨日と同じように、逃げなかった。
「完璧だから外へ出るのではありません。まだ続きがある音だから、外で聴かれる可能性があるんです」
廊下の風が、掲示物の端を少し揺らした。
葵は、その紙の小さな音まで聞こえた。
「続きって言われると」
瀬奈が言った。
「それを聞きに行くだけでも、続けるってことになりませんか」
瀬奈らしい質問だった。
やさしさの形が、境界線になっている。
真柴先生は少しだけうなずいた。
「ならないようにします」
短い答えだった。
「話を聞くことと、出ることは違います。出ることと、続けると決めることも違います。全部、分けて考えていい」
「でも、分けられない時もありますよね」
瀬奈は視線を落とさなかった。
「一回聞いたら、知らなかったことにはできない」
真柴先生は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、先生が簡単に否定しないことがわかった。
「はい」
先生は言った。
「知らなかったことには、できなくなります」
葵は、息を止めた。
「だから、無理に聞かなくていい。でも、知らないまま終わることも、私は勧めたくありません」
先生の目が、四人を一人ずつ通った。
「終わりたいなら、終わることも選べます。でも、鳴らせる場所があることを知らないまま終わるのは、選んだことにならないと思います」
葵の胸の中で、昨日の言葉が重なった。
今日の音は、やめる音じゃありません。
まだ続きがある音です。
続き。
それは、決定ではなかった。
でも、知らないふりをするには、もう大きすぎるものだった。
「先生は」
千夏が口を開いた。
いつもよりゆっくりだった。
「先生は、それ、私たちに行ってほしいんですか」
真柴先生は、千夏を見た。
千夏は笑っていなかった。空いた手が、制服の横で少しだけ握られている。
先生は首を横に振った。
「私が行ってほしいかどうかで、決めてほしくありません」
それから、少しだけ息を吸った。
「でも、隠したくはありませんでした」
同じことを、先生はもう一度言った。
今度は少しだけ、昔の傷に近い声で。
「私は昔、隠したことで、終わらせたものがあります。言えばよかったことを言わずに、選ばせればよかったものを選ばせずに、終わったことにしてしまった」
葵は、先生の声が揺れたと思った。
ほんの少し。
廊下の音に混じったら消えてしまうくらい。
「だから、君たちには隠しません」
真柴先生は言った。
「七分だけ、外で鳴らせるかもしれない枠があります。話を聞くかどうかは、君たちが決めます」
誰も、すぐには答えなかった。
葵は、外という言葉をもう一度胸の中で触った。
外で歌う。
それは、体育館で歌うより怖い。
校内ミニライブなら、まだ学校の中だった。失敗しても、終わっても、廊下を歩けば教室があり、別館へ行けばいつもの部室があり、職員室には退部届を預かっている先生がいる。
外には、それがない。
歌った声は、学校の壁に戻ってこない。
どこかへ出ていく。
誰かに届くかもしれない。
届かないかもしれない。
届いたら、もう自分の中だけには戻せない。
「七分って」
梨花が言った。
声が少し低くなっている。
「昨日、最後にするための長さだったんです」
「はい」
真柴先生は、その言葉を受け止めた。
「最後なら、できると思った。短ければ、終われると思った」
梨花は笑わなかった。
「でも、昨日終われなかった」
葵は梨花を見た。
梨花は先生ではなく、机の上の封筒を見ていた。
「外でも七分なら」
そこで言葉が止まる。
続きは、誰にもわかった。
外でも七分なら、また終われなくなる。
外でも七分なら、今度は終わりではなく、始まりの形をしてしまう。
「聞くだけなら」
瀬奈が言った。
声は小さかったが、はっきりしていた。
「聞くだけなら、今日決めなくてもいいですよね」
「はい」
「聞いたあと、断ってもいいんですよね」
「もちろん」
「断ったら、退部届は」
瀬奈の言葉に、千夏がほんの少しだけ目を伏せた。
真柴先生は答えた。
「預かりのままです。今は」
「今は」
瀬奈が繰り返す。
「期限を延ばす約束は、ここではしません」
真柴先生はごまかさなかった。
「ただ、君たちが話を聞くかどうかを考える時間は取ります。昨日の音を、私が勝手に急がせたくない」
「急がせないために、急に外の話を持ってくるの、なかなか先生も攻めますね」
千夏が言った。
今度は、ほんの少し笑いが混じった。
真柴先生の口元も、少しだけゆるんだ。
「そうですね。攻めている自覚はあります」
「自覚ありだった」
「あります」
先生はまっすぐ答えた。
「でも、黙っているほうが、私には怖い」
千夏の笑いが、そこで止まった。
消えたのではなく、ちゃんと置かれた。
「怖いんですか、先生も」
葵は、気づいたら聞いていた。
自分の声が出たことに、少し驚く。
真柴先生は葵を見た。
葵は、視線をそらさなかった。
「怖いです」
先生は言った。
「君たちが外で傷つくかもしれないことも。私が余計なことをしているかもしれないことも。昔の後悔を、君たちに重ねすぎているかもしれないことも」
葵の指が、鞄の肩紐を握り直した。
「それでも、黙っているよりは、ちゃんと怖がって伝えるほうを選びます」
廊下の時計が、昼休みの終わりを知らせる少し前の音を立てた。
秒針が動く。
一つ。
二つ。
昨日の二拍目を思い出す。
次は、二拍目まで。
そこまでしか届かなかったはずの言葉が、七分になって、体育館になって、先生の声になって、今は外の話になっている。
葵は、空のクリアファイルを押さえていた手を離した。
「私」
言ってから、何を言うつもりだったのかわからなくなった。
続けたい、ではない。
やめたくない、でもない。
行きたい、と言えるほど強くもない。
でも、何も言わないまま、この話を机の上に置いて帰ることもできなかった。
「外で歌うの、怖いです」
やっと出た言葉は、それだった。
真柴先生はうなずいた。
「はい」
「学校の中だと、下手でも、怖くても、まだ戻る場所がある感じがして」
葵は言葉を探した。
梨花も、瀬奈も、千夏も、何も挟まなかった。
「外だと、戻ってこない気がします。声が」
真柴先生は、葵の言葉を急がせなかった。
葵は続けた。
「でも、昨日の音も、もう戻ってこない感じがしました」
言った瞬間、自分でも少しだけ驚いた。
昨日の音は体育館で終わった。
それなのに、戻ってこない。
戻ってこないから、消えたのではない。
どこかに行ってしまったような気がする。
誰かの拍手の中に。
真柴先生のペンの止まった時間の中に。
千夏の持ち帰りの冗談の中に。
梨花が折った七分の紙の中に。
瀬奈が線を引いてくれる質問の中に。
「じゃあ」
千夏が言った。
「もう、音だけ先に外出してるってこと?」
「外出届いる?」
瀬奈が言う。
「先生、音の外出届ってあります?」
「ありません」
真柴先生は即答した。
「じゃあ無断外出だ」
「指導案件」
瀬奈が言う。
「音、反省文」
「七分で書ける?」
千夏が言って、自分で少し笑った。
梨花が、ようやく短く息を吐いた。
「反省するのは、たぶん私たちのほうでしょ」
「梨花、すぐ真面目に回収する」
「回収しないと散らかるから」
「七分、散らかってるもんね」
千夏が言う。
その言葉は冗談だったのに、妙に正しかった。
七分は、もう机の上に収まっていなかった。体育館にも、仮リハーサルの紙にも、退部届の隣にも収まっていない。散らかって、廊下の空気にまで触れている。
昨日は終わりにするために折った数字だった。今は、四人の足元まで転がってきて、外へ出るかどうかを待っている。
「先生」
梨花が、もう一度顔を上げた。
「その話、聞くとしたら、四人で聞けますか」
葵は梨花を見た。
瀬奈も見る。
千夏も、今度は何も言わなかった。
真柴先生は、はっきりとうなずいた。
「四人で聞けます」
「一人ずつじゃなくて」
「四人で」
「途中で、やっぱり聞かないって言っても」
「言えます」
梨花は、練習ノートの間の紙を一度だけ押さえた。
「じゃあ」
言いかけて、止まる。
葵は、その続きを待った。
たぶん、梨花自身も待っていた。
けれど、梨花は最後まで言わなかった。
聞きます。
行きます。
続けます。
どの言葉も、まだ大きすぎた。
真柴先生は、封筒を葵たちのほうへ押し出さなかった。
机の上に置いたまま、手を離した。
「この封筒には、今決まっていることだけを書いてあります。場所の名前はまだありません。相手の連絡先もありません。君たちが話を聞くと決めたら、私から先方に確認します」
「まだ、何も始まってないってことですか」
瀬奈が聞いた。
「はい」
真柴先生は言った。
「でも、始められるかもしれないところまでは来ています」
始められるかもしれない。
その言葉は、続ける、よりも少し手前にあった。
手前にあるのに、終わる、よりずっと遠かった。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
廊下の音が、急に動き出す。
生徒たちが教室へ戻っていく。先生が職員室から顔を出し、まだ廊下にいる生徒に声をかける。普通の時間が、四人の横を通り過ぎていく。
真柴先生は封筒をもう一度手に取った。
「今日は持っていかなくていいです」
そう言って、封筒を自分の手元へ戻す。
「君たちの退部届と同じように、これも私が預かります。必要になったら、渡します」
千夏が目を丸くした。
「預かり、増えた」
「増えました」
「先生、預かり屋さんになってる」
「仕事が増えました」
「残業代、出ます?」
「出ません」
「じゃあ音で支払い」
千夏が言ってから、少しだけ自分で黙った。
真柴先生は、その沈黙を責めなかった。
「音で支払うかどうかも、君たちが決めてください」
千夏は小さくうなずいた。
「はい」
その返事は、ふざけていなかった。
先生は、最後にもう一度四人を見た。
「授業に戻ってください。今日、答えはいりません」
「明日も、いらないですか」
瀬奈が聞いた。
先生は少し考えてから答えた。
「明日は、話を聞くかどうかの返事だけください」
「それは、答えです」
瀬奈が言う。
「はい。小さい答えです」
真柴先生は、まっすぐ言った。
「大きい答えの前に、小さい答えを一つだけ」
小さい答え。
葵はその言葉を胸の中で繰り返した。
続けるかどうかではない。
やめるかどうかでもない。
外の話を聞くかどうか。
それだけ。
それだけなのに、廊下の向こうが急に広く見えた。
四人は、真柴先生に頭を下げた。
職員室前を離れる時、葵は一度だけ机を振り返った。封筒はもう先生の手元にある。退部届と同じように、どこか見えないところへ預けられていく。
手元には何も戻ってこない。
でも、手ぶらになったわけではなかった。
教室へ戻る途中、梨花は何度もノートの間の紙を触った。
七分。
さっきまでより、紙の角が少し丸くなっている。
「明日、小さい答え」
千夏が言った。
「小さいって言われると、逆に難しい」
「大きい答えよりは小さい」
瀬奈が言う。
「瀬奈、単位の問題にしないで」
「七分よりは短いかも」
「返事、七分かかったらどうする?」
「長い」
梨花が言った。
「返事に七分は長い」
「演奏なら?」
千夏が聞く。
梨花は歩きながら、少しだけ黙った。
「短い」
その答えに、四人とも黙った。
七分は、返事には長い。
演奏には短い。
終わるには、足りない。
外へ出るには、たぶんもっと足りない。
でも、足りないからこそ、次を考えてしまう。
放課後、四人は別館へ行かなかった。
行かないと決めたわけではない。今日は委員会や補習や家の用事がばらばらに入り、昨日の疲れも残っていた。真柴先生からも、今日すぐ練習しなさいとは言われていない。
それでも、校門までの道で自然に四人は一緒になった。
校舎の中の足音が後ろに遠ざかる。
外へ出ると、夕方の空気が少しだけ湿っていた。昨日の体育館の熱とは違う。学校の外へ向かう空気は、音を持っていないようで、どこかで全部待っているようでもあった。
百段坂の上に出る手前で、梨花が立ち止まった。
葵も止まる。
瀬奈と千夏も、少し遅れて止まった。
坂の下は見えすぎない。見えすぎると、今からどこまで行かなければならないのか数えたくなる。だから葵は、少しだけ視線を上げた。校門の向こうの空を見る。
「七分なら」
梨花が言った。
誰に言うでもない声だった。
「どこからやるか、考えないと」
瀬奈が梨花を見た。
「話、聞く前提?」
「違う」
梨花はすぐに答えた。
でも、少しだけ遅れて、言い直す。
「違う、と思う」
「思う」
千夏が繰り返す。
「梨花の中の七分、だいぶ外向いてる」
「向いてない」
「じゃあどっち向き?」
梨花は、手の中の紙を見た。
七分。
濃すぎる鉛筆の線。
「わかんない」
梨花は言った。
その声は、悔しそうだった。
でも、昨日までの「わからない」とは少し違った。
逃げ場を失ったわからなさではなく、道が増えてしまったわからなさだった。
瀬奈が、坂の下を見ずに言った。
「話だけなら、聞いてもいいと思う」
千夏が目を丸くした。
「瀬奈が先に言った」
「先にじゃない。小さい答えの話」
「それ、けっこう大きく聞こえた」
「大きくしないで」
瀬奈の声はいつも通り短い。でも、目は少しだけ真剣だった。
「聞かないで終わったら、あとでずっと考える」
葵は、瀬奈の横顔を見た。
瀬奈がそんなふうに言うのは、珍しい。
言葉を小さく置く人が、小さい答えを選ぼうとしている。
「私も」
千夏が言った。
いつもの速さで続けるかと思ったら、少し間があった。
「聞かないで終わったら、たぶん、七分が枕元に立つ」
「怖い話にしないで」
瀬奈が言う。
「でも、いるでしょ。夜中に。七分です、って」
「時間が自己紹介してくるの嫌すぎる」
梨花が言った。
千夏は笑った。
笑ってから、坂の向こうを見た。
「だから、聞くだけなら、聞きたい」
今度は、冗談ではなかった。
葵は、自分の手を見た。
マイクはない。
歌詞もない。
譜面もない。
退部届も、封筒も、外の場所の名前も、何もない。
それでも、喉の奥に昨日の音が残っている。
怖い。
外で歌うのは怖い。
でも、怖いからやめる、と言うには、昨日の音がまだ胸に残りすぎている。
「私も」
葵は言った。
三人がこちらを見た。
葵は、校門の外を見たまま続けた。
「聞くのは、したい」
続けたい、ではない。
行きたい、でもない。
でも、聞かずに終わることは、もうできない。
梨花が、小さく息を吐いた。
「じゃあ、明日」
昨日と同じ言葉だった。
でも、向いている場所が違った。
「明日、小さい答え」
瀬奈が言う。
「小さいわりに、重い」
千夏が言った。
「音より重い?」
葵が聞くと、千夏は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「同じくらい」
「袋、いる?」
瀬奈が言う。
「いる。外用だから、防水で」
「外用の音袋」
梨花が言った。
「商品化しないで」
千夏が返す。
四人は、少しだけ笑った。
大きくはない。
でも、百段坂を下り始めるには足りる笑いだった。
葵は、最後に一度だけ校門の内側を振り返った。
学校の中には、まだ部室がある。
体育館がある。
職員室がある。
預けた退部届がある。
預けられたままの、名前のない外の封筒もある。
何も解決していない。
続けるとは、まだ誰も言っていない。
それでも、七分はもう、終わりの長さだけではなくなっていた。
四人は校門を出て、百段坂へ向かった。
夕方の光が、長い坂の段差を一段ずつ薄く照らしていた。
上る時は、いつも息が切れる坂だった。朝、校門へ急ぐ足を引っ張る。帰りに下る時は、部室で鳴らした音や、言えなかった言葉を背中に乗せて、町へ戻る。千夏が数えて、途中で飽きて、瀬奈が「百段ない」と言い、梨花が「数え直さない」と止める。そんなふうに、何度も通ってきた坂だった。
今日は、その坂を下りる。
一段目で、校舎の音が少し遠くなった。
二段目で、職員室前の机が見えなくなった。
三段目で、預けた退部届と、名前のない封筒が、学校の中に残っていることを思い出した。
残してきたものはある。
でも、置いてきただけではなかった。
先生が預かっている。
だから明日、戻れる。
だから明日、聞きに行ける。
坂は、学校から町へ下りていく道だった。けれど今日は、学校から離れるだけの道には見えなかった。一段下りるたびに、預けたものと、まだ名前のない外の話との間に、細い線が引かれていく。
梨花は、練習ノートを胸の前で抱え直した。
「明日」
短く言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。
「四人で、聞きますって言う」
その言葉は、続けます、ではなかった。
行きます、でもなかった。
それでも、葵の胸の奥で、何かが小さく灯った。
「うん」
瀬奈が言った。
「四人で」
千夏が続ける。
「聞くだけ、だけどね」
「だけって言うには重い」
瀬奈が返す。
「じゃあ、聞くだけ重量級」
「階級を作らないで」
梨花が言って、少し笑った。
笑ったまま、足を止めなかった。
百段坂は、下りでも短くはならなかった。
段差はまだ多い。途中で足元を見なければ危ないし、少し先を見すぎると、どこまで続くのか数えたくなる。けれど、四人で下りていると、一段ごとに怖さだけが増えるわけではなかった。
梨花の歩幅が、少し前に出る。
瀬奈が、その横に並ぶ。
千夏が一段だけ軽く跳ねようとして、梨花に見られてやめる。
葵は、その後ろで笑って、すぐに追いついた。
歩幅が、揃う。
ぴったりではない。
でも、離れない。
坂の途中で、町の音が下から上がってきた。
車の走る音。遠くの信号の音。駅のほうへ流れていく人の声。学校の中では聞こえなかった音が、少しずつ混ざってくる。
その向こうに、夕方の海が細く光っていた。
葵は、思った。
外は、怖い。
でも、外は怖いだけではない。
歌った声が戻ってこないなら、どこかへ行けるということでもある。
昨日の七分も、たぶんそうだった。
体育館で終わったはずの音は、先生の言葉になって、名前のない封筒になって、今は百段坂の下から吹く風になっている。
葵は、喉の奥に残っていた音を、少しだけ吸い直した。
吸った息は、学校の中へ戻るためのものではなかった。
明日、何かが決まるわけではない。
明日、全部がよくなるわけでもない。
それでも、明日には小さい答えがある。
その小さい答えの先に、まだ名前のない七分がある。
百段坂を下りきる前に、千夏が振り返った。
「ねえ」
「何」
瀬奈が聞く。
「この坂、上る時は地獄だけどさ」
「言い方」
「下りる時は、ちょっとだけ始まりっぽい」
梨花が、千夏を見た。
いつもなら、すぐに言い返すところだった。
でも、今は言い返さなかった。
「……ちょっとだけなら」
梨花が言う。
「わかる」
葵も、わかった。
この坂は、学校へ向かう坂だった。
終わるために上ってきた日もある。
逃げるみたいに下りた日もある。
でも今日は、違う。
四人は、学校から離れているのに、昨日より少しだけ同じ場所へ向かっている。
百段坂の下から、知らない風がまた上がってきた。
葵はその風を吸って、一段先へ足を下ろした。
学校で終わるはずだった音は、四人より少し先を、外へ向かって歩いていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。
そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




