↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/15

第15話 外の七分

 空のクリアファイルは、ノートの角に引っかかるだけで音がした。


 かさり、と乾いた音がして、葵は鞄の中へ手を入れた。取り出すつもりはなかった。ただ、昨日からそこにあるはずのない軽さが、教科書の隙間でずっと主張していた。


 退部届が入っていた時は、もっと重かった。


 紙一枚でしかないのに、鞄の底に沈んで、歩くたびにそこだけが遅れてついてくる感じがした。今は違う。クリアファイルは空っぽで、軽い。軽いのに、なくなったわけではない。


 職員室前の廊下では、先生たちの声が何度も重なっていた。


 誰かが出席簿を抱えて通り過ぎる。別の先生がコピー用紙の束を片手で押さえながら、生徒の名前を呼んでいる。昼休みの終わりに近い廊下は、昨日の体育館とは違う種類の音でいっぱいだった。足音、笑い声、扉が開く音。普通の学校の音。


 その中で、四人だけが少し静かだった。


 梨花は壁際に立って、練習ノートの間から小さく折った紙を出したり、また挟んだりしている。仮リハーサルの紙から切り取られたわけではない。ただ、昨日から何度も目に入った数字を、いつの間にか自分で書いてしまった紙だった。


 七分。


 鉛筆の線は、少し濃すぎる。


 瀬奈はその紙を横目で見て、すぐ視線を職員室の扉に戻した。


「それ、持ってくる必要あった?」


「ない」


 梨花は即答した。


「ないけど、置いてくる理由もなかった」


「理由、重いね」


 千夏が言った。


 昨日よりは軽い声だった。でも、軽くしようとしていることがわかる声でもあった。


「七分って、持ち運びできるんだね。便利」


「便利ではない」


 梨花が言う。


「だって昨日からずっとついてくるし」


「それ、便利じゃなくてしつこい」


「七分、根性ある」


「時間に根性を持たせないで」


 瀬奈が短く言って、千夏が小さく笑った。


 葵も笑いかけた。けれど、声になる前に職員室の扉が開いた。


 真柴先生が出てきた。


 手には昨日と同じクリップボードはない。代わりに、薄い封筒を一つ持っていた。白い封筒で、何も書かれていない。中身の厚みもほとんどない。


 葵は、反射的に鞄の中の空のクリアファイルを押さえた。


 真柴先生は、その動きを見た。


 見たけれど、すぐに何かを言わなかった。


「来てくれてありがとう」


 先生の声は、昨日より少し低かった。疲れているのではなく、言葉の置き場所を決めてきた声だった。


「ここだと通行の邪魔になります。少しだけ、こっちへ」


 四人は、職員室の扉から少し離れた相談用の小さな机の前へ移動した。廊下の端に置かれた机で、進路希望調査の紙や忘れ物の連絡を受け取る時に使われる場所だ。特別な部屋ではない。壁に掲示物が貼ってあり、すぐ横を生徒が通る。


 それが、少しだけありがたかった。


 完全に閉じた場所だったら、昨日の音をどう受け止めればいいのか、もっとわからなくなっていた気がした。


 真柴先生は机の前に立ち、封筒を机の上に置いた。


 封筒は軽い音を立てた。


 葵の喉が、少し詰まる。


「まず、はっきり言います」


 真柴先生は四人を順番に見た。


「退部届は、まだ預かりのままです」


 梨花の指が、練習ノートの角を押さえた。


 瀬奈はまばたきを一つした。


 千夏は、笑おうとした口を途中で止めた。


 葵は、鞄の肩紐を握ったまま息を吸った。


 戻ってこなかった。


 でも、受け取られたわけでもない。


 昨日と同じはずなのに、同じではなかった。


「一週間後、と言いました。でも今日は、退部届を受理するか返すか、その答えを聞くために呼んだわけではありません」


 真柴先生は続けた。


「続けるかどうかを、今ここで決めなさいとは言いません。やめる権利も、続ける権利も、君たちのものです」


 その言い方は、やさしいというより、まっすぐだった。


 逃げ道をふさがないために、まっすぐ置かれた言葉だった。


「でも」


 先生の手が、机の上の封筒に少し触れた。


「昨日の音を聴いて、私が黙っているのは違うと思いました」


 廊下の向こうで、誰かが笑った。


 それが遠くなるくらい、四人の間の空気が一度止まった。


「君たちに続けなさいとは言いません。でも、鳴らす場所があるかもしれないのに、隠す大人にはなりたくありません」


 葵は、先生の指先を見た。


 封筒の上に置かれた指は、動いていない。けれど、力が入っているのはわかった。


 昨日、先生は言った。


 昔、自分たちの音を守れなかったことがある、と。


 終わらせたくなかったのに、怖くなって、終わらせるほうを選んだ、と。


 その先を、先生は話さなかった。今日も、話さないのだと思う。


 でも、今の言葉は、その先から来ていた。


 葵たちのためだけの言葉ではない。先生が、昔の自分にも言っているような言葉だった。


「場所、ですか」


 梨花が聞いた。


 声はいつものように整えようとしていた。でも、最後だけ少し上がった。


「はい」


 真柴先生は封筒を開けなかった。


「学校の外です。名前は、今は言いません。正式な話でもありません。チケットや時間割や、そういう話でもありません」


「じゃあ、何の話ですか」


 瀬奈が聞いた。


 責める声ではない。


 ただ、線を引く声だった。どこからが自分たちの選択なのか、確かめるための声。


「話を聞くかどうかを選ぶための話です」


 真柴先生は、すぐに答えた。


「私の知っている音楽関係の人が、学生の短い演奏枠を探しています。大きな舞台ではありません。学校行事でもありません。けれど、外で音を鳴らせる場所です」


 葵の胸の奥で、外、という言葉だけが遅れて響いた。


 外。


 体育館の中ではない。


 別館の部室でもない。


 学校の廊下に残る拍手でもない。


 知らない人が、知らない距離で、自分たちの音を聴く場所。


「昨日の音を録ったり、勝手に誰かへ聞かせたりはしていません」


 真柴先生が言った。


「君たちの名前も、学校名も、曲のことも、何も出していません。ただ、私は昨日、ここに七分だけでも外で鳴らしてほしい音があると思いました」


 七分。


 梨花の手が、ノートの間の紙を押さえた。


「七分、なんですか」


 千夏が言った。


 冗談にしようとして、できなかった声だった。


 真柴先生はうなずいた。


「七分だけ、外で鳴らせるかもしれません」


 その言葉は、昨日の体育館の床よりも広かった。


 七分。


 終わるために決めた長さ。


 最後なら耐えられると思った長さ。


 四人で片付けるために、短く切った時間。


 その同じ数字が、今度は外へ向いている。


「先生」


 梨花の声が、少しだけ硬くなった。


「私たち、昨日ちゃんとできたわけじゃありません」


「知っています」


 真柴先生は即答した。


 梨花が言葉を詰まらせる。


 先生は、続けた。


「ちゃんとできていないところも聴きました。ずれたところも、怖がったところも、止まりかけたところも、全部聴きました」


 梨花の肩が、ほんの少し下がった。


「その上で言っています」


 真柴先生の声は、昨日と同じように、逃げなかった。


「完璧だから外へ出るのではありません。まだ続きがある音だから、外で聴かれる可能性があるんです」


 廊下の風が、掲示物の端を少し揺らした。


 葵は、その紙の小さな音まで聞こえた。


「続きって言われると」


 瀬奈が言った。


「それを聞きに行くだけでも、続けるってことになりませんか」


 瀬奈らしい質問だった。


 やさしさの形が、境界線になっている。


 真柴先生は少しだけうなずいた。


「ならないようにします」


 短い答えだった。


「話を聞くことと、出ることは違います。出ることと、続けると決めることも違います。全部、分けて考えていい」


「でも、分けられない時もありますよね」


 瀬奈は視線を落とさなかった。


「一回聞いたら、知らなかったことにはできない」


 真柴先生は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、先生が簡単に否定しないことがわかった。


「はい」


 先生は言った。


「知らなかったことには、できなくなります」


 葵は、息を止めた。


「だから、無理に聞かなくていい。でも、知らないまま終わることも、私は勧めたくありません」


 先生の目が、四人を一人ずつ通った。


「終わりたいなら、終わることも選べます。でも、鳴らせる場所があることを知らないまま終わるのは、選んだことにならないと思います」


 葵の胸の中で、昨日の言葉が重なった。


 今日の音は、やめる音じゃありません。


 まだ続きがある音です。


 続き。


 それは、決定ではなかった。


 でも、知らないふりをするには、もう大きすぎるものだった。


「先生は」


 千夏が口を開いた。


 いつもよりゆっくりだった。


「先生は、それ、私たちに行ってほしいんですか」


 真柴先生は、千夏を見た。


 千夏は笑っていなかった。空いた手が、制服の横で少しだけ握られている。


 先生は首を横に振った。


「私が行ってほしいかどうかで、決めてほしくありません」


 それから、少しだけ息を吸った。


「でも、隠したくはありませんでした」


 同じことを、先生はもう一度言った。


 今度は少しだけ、昔の傷に近い声で。


「私は昔、隠したことで、終わらせたものがあります。言えばよかったことを言わずに、選ばせればよかったものを選ばせずに、終わったことにしてしまった」


 葵は、先生の声が揺れたと思った。


 ほんの少し。


 廊下の音に混じったら消えてしまうくらい。


「だから、君たちには隠しません」


 真柴先生は言った。


「七分だけ、外で鳴らせるかもしれない枠があります。話を聞くかどうかは、君たちが決めます」


 誰も、すぐには答えなかった。


 葵は、外という言葉をもう一度胸の中で触った。


 外で歌う。


 それは、体育館で歌うより怖い。


 校内ミニライブなら、まだ学校の中だった。失敗しても、終わっても、廊下を歩けば教室があり、別館へ行けばいつもの部室があり、職員室には退部届を預かっている先生がいる。


 外には、それがない。


 歌った声は、学校の壁に戻ってこない。


 どこかへ出ていく。


 誰かに届くかもしれない。


 届かないかもしれない。


 届いたら、もう自分の中だけには戻せない。


「七分って」


 梨花が言った。


 声が少し低くなっている。


「昨日、最後にするための長さだったんです」


「はい」


 真柴先生は、その言葉を受け止めた。


「最後なら、できると思った。短ければ、終われると思った」


 梨花は笑わなかった。


「でも、昨日終われなかった」


 葵は梨花を見た。


 梨花は先生ではなく、机の上の封筒を見ていた。


「外でも七分なら」


 そこで言葉が止まる。


 続きは、誰にもわかった。


 外でも七分なら、また終われなくなる。


 外でも七分なら、今度は終わりではなく、始まりの形をしてしまう。


「聞くだけなら」


 瀬奈が言った。


 声は小さかったが、はっきりしていた。


「聞くだけなら、今日決めなくてもいいですよね」


「はい」


「聞いたあと、断ってもいいんですよね」


「もちろん」


「断ったら、退部届は」


 瀬奈の言葉に、千夏がほんの少しだけ目を伏せた。


 真柴先生は答えた。


「預かりのままです。今は」


「今は」


 瀬奈が繰り返す。


「期限を延ばす約束は、ここではしません」


 真柴先生はごまかさなかった。


「ただ、君たちが話を聞くかどうかを考える時間は取ります。昨日の音を、私が勝手に急がせたくない」


「急がせないために、急に外の話を持ってくるの、なかなか先生も攻めますね」


 千夏が言った。


 今度は、ほんの少し笑いが混じった。


 真柴先生の口元も、少しだけゆるんだ。


「そうですね。攻めている自覚はあります」


「自覚ありだった」


「あります」


 先生はまっすぐ答えた。


「でも、黙っているほうが、私には怖い」


 千夏の笑いが、そこで止まった。


 消えたのではなく、ちゃんと置かれた。


「怖いんですか、先生も」


 葵は、気づいたら聞いていた。


 自分の声が出たことに、少し驚く。


 真柴先生は葵を見た。


 葵は、視線をそらさなかった。


「怖いです」


 先生は言った。


「君たちが外で傷つくかもしれないことも。私が余計なことをしているかもしれないことも。昔の後悔を、君たちに重ねすぎているかもしれないことも」


 葵の指が、鞄の肩紐を握り直した。


「それでも、黙っているよりは、ちゃんと怖がって伝えるほうを選びます」


 廊下の時計が、昼休みの終わりを知らせる少し前の音を立てた。


 秒針が動く。


 一つ。


 二つ。


 昨日の二拍目を思い出す。


 次は、二拍目まで。


 そこまでしか届かなかったはずの言葉が、七分になって、体育館になって、先生の声になって、今は外の話になっている。


 葵は、空のクリアファイルを押さえていた手を離した。


「私」


 言ってから、何を言うつもりだったのかわからなくなった。


 続けたい、ではない。


 やめたくない、でもない。


 行きたい、と言えるほど強くもない。


 でも、何も言わないまま、この話を机の上に置いて帰ることもできなかった。


「外で歌うの、怖いです」


 やっと出た言葉は、それだった。


 真柴先生はうなずいた。


「はい」


「学校の中だと、下手でも、怖くても、まだ戻る場所がある感じがして」


 葵は言葉を探した。


 梨花も、瀬奈も、千夏も、何も挟まなかった。


「外だと、戻ってこない気がします。声が」


 真柴先生は、葵の言葉を急がせなかった。


 葵は続けた。


「でも、昨日の音も、もう戻ってこない感じがしました」


 言った瞬間、自分でも少しだけ驚いた。


 昨日の音は体育館で終わった。


 それなのに、戻ってこない。


 戻ってこないから、消えたのではない。


 どこかに行ってしまったような気がする。


 誰かの拍手の中に。


 真柴先生のペンの止まった時間の中に。


 千夏の持ち帰りの冗談の中に。


 梨花が折った七分の紙の中に。


 瀬奈が線を引いてくれる質問の中に。


「じゃあ」


 千夏が言った。


「もう、音だけ先に外出してるってこと?」


「外出届いる?」


 瀬奈が言う。


「先生、音の外出届ってあります?」


「ありません」


 真柴先生は即答した。


「じゃあ無断外出だ」


「指導案件」


 瀬奈が言う。


「音、反省文」


「七分で書ける?」


 千夏が言って、自分で少し笑った。


 梨花が、ようやく短く息を吐いた。


「反省するのは、たぶん私たちのほうでしょ」


「梨花、すぐ真面目に回収する」


「回収しないと散らかるから」


「七分、散らかってるもんね」


 千夏が言う。


 その言葉は冗談だったのに、妙に正しかった。


 七分は、もう机の上に収まっていなかった。体育館にも、仮リハーサルの紙にも、退部届の隣にも収まっていない。散らかって、廊下の空気にまで触れている。


 昨日は終わりにするために折った数字だった。今は、四人の足元まで転がってきて、外へ出るかどうかを待っている。


「先生」


 梨花が、もう一度顔を上げた。


「その話、聞くとしたら、四人で聞けますか」


 葵は梨花を見た。


 瀬奈も見る。


 千夏も、今度は何も言わなかった。


 真柴先生は、はっきりとうなずいた。


「四人で聞けます」


「一人ずつじゃなくて」


「四人で」


「途中で、やっぱり聞かないって言っても」


「言えます」


 梨花は、練習ノートの間の紙を一度だけ押さえた。


「じゃあ」


 言いかけて、止まる。


 葵は、その続きを待った。


 たぶん、梨花自身も待っていた。


 けれど、梨花は最後まで言わなかった。


 聞きます。


 行きます。


 続けます。


 どの言葉も、まだ大きすぎた。


 真柴先生は、封筒を葵たちのほうへ押し出さなかった。


 机の上に置いたまま、手を離した。


「この封筒には、今決まっていることだけを書いてあります。場所の名前はまだありません。相手の連絡先もありません。君たちが話を聞くと決めたら、私から先方に確認します」


「まだ、何も始まってないってことですか」


 瀬奈が聞いた。


「はい」


 真柴先生は言った。


「でも、始められるかもしれないところまでは来ています」


 始められるかもしれない。


 その言葉は、続ける、よりも少し手前にあった。


 手前にあるのに、終わる、よりずっと遠かった。


 昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。


 廊下の音が、急に動き出す。


 生徒たちが教室へ戻っていく。先生が職員室から顔を出し、まだ廊下にいる生徒に声をかける。普通の時間が、四人の横を通り過ぎていく。


 真柴先生は封筒をもう一度手に取った。


「今日は持っていかなくていいです」


 そう言って、封筒を自分の手元へ戻す。


「君たちの退部届と同じように、これも私が預かります。必要になったら、渡します」


 千夏が目を丸くした。


「預かり、増えた」


「増えました」


「先生、預かり屋さんになってる」


「仕事が増えました」


「残業代、出ます?」


「出ません」


「じゃあ音で支払い」


 千夏が言ってから、少しだけ自分で黙った。


 真柴先生は、その沈黙を責めなかった。


「音で支払うかどうかも、君たちが決めてください」


 千夏は小さくうなずいた。


「はい」


 その返事は、ふざけていなかった。


 先生は、最後にもう一度四人を見た。


「授業に戻ってください。今日、答えはいりません」


「明日も、いらないですか」


 瀬奈が聞いた。


 先生は少し考えてから答えた。


「明日は、話を聞くかどうかの返事だけください」


「それは、答えです」


 瀬奈が言う。


「はい。小さい答えです」


 真柴先生は、まっすぐ言った。


「大きい答えの前に、小さい答えを一つだけ」


 小さい答え。


 葵はその言葉を胸の中で繰り返した。


 続けるかどうかではない。


 やめるかどうかでもない。


 外の話を聞くかどうか。


 それだけ。


 それだけなのに、廊下の向こうが急に広く見えた。


 四人は、真柴先生に頭を下げた。


 職員室前を離れる時、葵は一度だけ机を振り返った。封筒はもう先生の手元にある。退部届と同じように、どこか見えないところへ預けられていく。


 手元には何も戻ってこない。


 でも、手ぶらになったわけではなかった。


 教室へ戻る途中、梨花は何度もノートの間の紙を触った。


 七分。


 さっきまでより、紙の角が少し丸くなっている。


「明日、小さい答え」


 千夏が言った。


「小さいって言われると、逆に難しい」


「大きい答えよりは小さい」


 瀬奈が言う。


「瀬奈、単位の問題にしないで」


「七分よりは短いかも」


「返事、七分かかったらどうする?」


「長い」


 梨花が言った。


「返事に七分は長い」


「演奏なら?」


 千夏が聞く。


 梨花は歩きながら、少しだけ黙った。


「短い」


 その答えに、四人とも黙った。


 七分は、返事には長い。


 演奏には短い。


 終わるには、足りない。


 外へ出るには、たぶんもっと足りない。


 でも、足りないからこそ、次を考えてしまう。


 放課後、四人は別館へ行かなかった。


 行かないと決めたわけではない。今日は委員会や補習や家の用事がばらばらに入り、昨日の疲れも残っていた。真柴先生からも、今日すぐ練習しなさいとは言われていない。


 それでも、校門までの道で自然に四人は一緒になった。


 校舎の中の足音が後ろに遠ざかる。


 外へ出ると、夕方の空気が少しだけ湿っていた。昨日の体育館の熱とは違う。学校の外へ向かう空気は、音を持っていないようで、どこかで全部待っているようでもあった。


 百段坂の上に出る手前で、梨花が立ち止まった。


 葵も止まる。


 瀬奈と千夏も、少し遅れて止まった。


 坂の下は見えすぎない。見えすぎると、今からどこまで行かなければならないのか数えたくなる。だから葵は、少しだけ視線を上げた。校門の向こうの空を見る。


「七分なら」


 梨花が言った。


 誰に言うでもない声だった。


「どこからやるか、考えないと」


 瀬奈が梨花を見た。


「話、聞く前提?」


「違う」


 梨花はすぐに答えた。


 でも、少しだけ遅れて、言い直す。


「違う、と思う」


「思う」


 千夏が繰り返す。


「梨花の中の七分、だいぶ外向いてる」


「向いてない」


「じゃあどっち向き?」


 梨花は、手の中の紙を見た。


 七分。


 濃すぎる鉛筆の線。


「わかんない」


 梨花は言った。


 その声は、悔しそうだった。


 でも、昨日までの「わからない」とは少し違った。


 逃げ場を失ったわからなさではなく、道が増えてしまったわからなさだった。


 瀬奈が、坂の下を見ずに言った。


「話だけなら、聞いてもいいと思う」


 千夏が目を丸くした。


「瀬奈が先に言った」


「先にじゃない。小さい答えの話」


「それ、けっこう大きく聞こえた」


「大きくしないで」


 瀬奈の声はいつも通り短い。でも、目は少しだけ真剣だった。


「聞かないで終わったら、あとでずっと考える」


 葵は、瀬奈の横顔を見た。


 瀬奈がそんなふうに言うのは、珍しい。


 言葉を小さく置く人が、小さい答えを選ぼうとしている。


「私も」


 千夏が言った。


 いつもの速さで続けるかと思ったら、少し間があった。


「聞かないで終わったら、たぶん、七分が枕元に立つ」


「怖い話にしないで」


 瀬奈が言う。


「でも、いるでしょ。夜中に。七分です、って」


「時間が自己紹介してくるの嫌すぎる」


 梨花が言った。


 千夏は笑った。


 笑ってから、坂の向こうを見た。


「だから、聞くだけなら、聞きたい」


 今度は、冗談ではなかった。


 葵は、自分の手を見た。


 マイクはない。


 歌詞もない。


 譜面もない。


 退部届も、封筒も、外の場所の名前も、何もない。


 それでも、喉の奥に昨日の音が残っている。


 怖い。


 外で歌うのは怖い。


 でも、怖いからやめる、と言うには、昨日の音がまだ胸に残りすぎている。


「私も」


 葵は言った。


 三人がこちらを見た。


 葵は、校門の外を見たまま続けた。


「聞くのは、したい」


 続けたい、ではない。


 行きたい、でもない。


 でも、聞かずに終わることは、もうできない。


 梨花が、小さく息を吐いた。


「じゃあ、明日」


 昨日と同じ言葉だった。


 でも、向いている場所が違った。


「明日、小さい答え」


 瀬奈が言う。


「小さいわりに、重い」


 千夏が言った。


「音より重い?」


 葵が聞くと、千夏は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「同じくらい」


「袋、いる?」


 瀬奈が言う。


「いる。外用だから、防水で」


「外用の音袋」


 梨花が言った。


「商品化しないで」


 千夏が返す。


 四人は、少しだけ笑った。


 大きくはない。


 でも、百段坂を下り始めるには足りる笑いだった。


 葵は、最後に一度だけ校門の内側を振り返った。


 学校の中には、まだ部室がある。


 体育館がある。


 職員室がある。


 預けた退部届がある。


 預けられたままの、名前のない外の封筒もある。


 何も解決していない。


 続けるとは、まだ誰も言っていない。


 それでも、七分はもう、終わりの長さだけではなくなっていた。


 四人は校門を出て、百段坂へ向かった。


 夕方の光が、長い坂の段差を一段ずつ薄く照らしていた。


 上る時は、いつも息が切れる坂だった。朝、校門へ急ぐ足を引っ張る。帰りに下る時は、部室で鳴らした音や、言えなかった言葉を背中に乗せて、町へ戻る。千夏が数えて、途中で飽きて、瀬奈が「百段ない」と言い、梨花が「数え直さない」と止める。そんなふうに、何度も通ってきた坂だった。


 今日は、その坂を下りる。


 一段目で、校舎の音が少し遠くなった。


 二段目で、職員室前の机が見えなくなった。


 三段目で、預けた退部届と、名前のない封筒が、学校の中に残っていることを思い出した。


 残してきたものはある。


 でも、置いてきただけではなかった。


 先生が預かっている。


 だから明日、戻れる。


 だから明日、聞きに行ける。


 坂は、学校から町へ下りていく道だった。けれど今日は、学校から離れるだけの道には見えなかった。一段下りるたびに、預けたものと、まだ名前のない外の話との間に、細い線が引かれていく。


 梨花は、練習ノートを胸の前で抱え直した。


「明日」


 短く言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。


「四人で、聞きますって言う」


 その言葉は、続けます、ではなかった。


 行きます、でもなかった。


 それでも、葵の胸の奥で、何かが小さく灯った。


「うん」


 瀬奈が言った。


「四人で」


 千夏が続ける。


「聞くだけ、だけどね」


「だけって言うには重い」


 瀬奈が返す。


「じゃあ、聞くだけ重量級」


「階級を作らないで」


 梨花が言って、少し笑った。


 笑ったまま、足を止めなかった。


 百段坂は、下りでも短くはならなかった。


 段差はまだ多い。途中で足元を見なければ危ないし、少し先を見すぎると、どこまで続くのか数えたくなる。けれど、四人で下りていると、一段ごとに怖さだけが増えるわけではなかった。


 梨花の歩幅が、少し前に出る。


 瀬奈が、その横に並ぶ。


 千夏が一段だけ軽く跳ねようとして、梨花に見られてやめる。


 葵は、その後ろで笑って、すぐに追いついた。


 歩幅が、揃う。


 ぴったりではない。


 でも、離れない。


 坂の途中で、町の音が下から上がってきた。


 車の走る音。遠くの信号の音。駅のほうへ流れていく人の声。学校の中では聞こえなかった音が、少しずつ混ざってくる。


 その向こうに、夕方の海が細く光っていた。


 葵は、思った。


 外は、怖い。


 でも、外は怖いだけではない。


 歌った声が戻ってこないなら、どこかへ行けるということでもある。


 昨日の七分も、たぶんそうだった。


 体育館で終わったはずの音は、先生の言葉になって、名前のない封筒になって、今は百段坂の下から吹く風になっている。


 葵は、喉の奥に残っていた音を、少しだけ吸い直した。


 吸った息は、学校の中へ戻るためのものではなかった。


 明日、何かが決まるわけではない。


 明日、全部がよくなるわけでもない。


 それでも、明日には小さい答えがある。


 その小さい答えの先に、まだ名前のない七分がある。


 百段坂を下りきる前に、千夏が振り返った。


「ねえ」


「何」


 瀬奈が聞く。


「この坂、上る時は地獄だけどさ」


「言い方」


「下りる時は、ちょっとだけ始まりっぽい」


 梨花が、千夏を見た。


 いつもなら、すぐに言い返すところだった。


 でも、今は言い返さなかった。


「……ちょっとだけなら」


 梨花が言う。


「わかる」


 葵も、わかった。


 この坂は、学校へ向かう坂だった。


 終わるために上ってきた日もある。


 逃げるみたいに下りた日もある。


 でも今日は、違う。


 四人は、学校から離れているのに、昨日より少しだけ同じ場所へ向かっている。


 百段坂の下から、知らない風がまた上がってきた。


 葵はその風を吸って、一段先へ足を下ろした。


 学校で終わるはずだった音は、四人より少し先を、外へ向かって歩いていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。