差異の深き海溝は死を運ぶ
私は今、自分がまともな『人間』であるか確かめる為、ここに書く。
私は知ってしまった。見てしまったのだ、自分が何者であるのか。そしてこの世界に生きる『人々』は真に人間であり、平和と平穏を愛する社会秩序の虫であるのかどうか。とても、平静ではいられない。あの日、私は逃げ帰ってきたのだ。あの忌まわしい故郷、生まれ育った地を。
事の発端は単純だ。
都会のマンションで父と二人で暮らす私は父方の祖父が亡くなったと、父の故郷の知人から手紙が届いた。しかし父は足を患っていて、山々に囲まれた故郷に帰るのは難しく、手紙が届いた翌日に息子である私が代わりに行くことになったのだ。
電車を乗り継ぎ、バスを幾本か乗って。時に本数が少ない田舎までの道のりは、この時代に相応しくない程に不便であり、故郷までの道のりや都会とは違う時間感覚などに不慣れな私は結局祖父の家に着くまで二日を要した。
だが、何も嫌なだけではなかった。道中の膨大な時間を、私は幼き日の薄靄の記憶と父の言葉を思い出すことに専念できたからだ。
父の故郷はいわゆる田舎の村で、今では『村』と呼べるかどうかすら怪しいほどに人の少ない場所だった。一応私もそこで生まれ育ったのだが、幼過ぎたあの日々は実感のない夢のようで、父から聞かされた幼い私の話はどこか空想めいて聞こえた。
特に、村の因習とも呼べる話が私には理解しがたく、それが余計に異世界の、空想の話に思える要因となっていた。事実、この早急過ぎる弔いの道のりも、言わば原因はその風習にある。
『死者を覚えてはならぬ。生者とは違えた世界の行く末は、忘れられた楽園なのだ』
この言葉を、父は私が立つ前に何度も言った。忘れるな。決して思わず、考えず、村に着いたら彼らに従うのだと。正直、その時こそ私は笑わなかったが、家を出て数分後に思い出して笑ってしまった。それは単に時代遅れな考えであったこと、その時の父の言葉や表情が迫真であったこと、そして先の風習などに対し父は元々懐疑的な意見であった人だったからだ。
今にして思えば、あの日の父の言葉は正しかった。
私の間違いだ。もう取り戻せない。車いすの父の表情は、今でも鮮明に覚えている。私に危険を伝える為、力の入らぬ足に力を込めんと全身を震わせ顔を紅潮させ、ぎょろっと目をこれでもかとひん剥いて話しかけてくれた。それなのに……。
「水が欲しい」
書いているうちに、心も凪いでくる。
徐々に理性を失いつつあった私の脳は、事実を単なる事実としてそれ以上の情報を与えず、感情の起伏はゆっくりと川のようになるのを感じる。
父は昔から言っていた。
村では死者は死んで一ヶ月で消える。葬式を終え、燃やして森に肥料として巻いた瞬間に霧散するのだと。だから彼ら村人にとって悲しむのも弔うのも燃やすその瞬間までで、人の形を失ってからは突如現れた肥料になるのだそうだ。
私にはそれらが全部理解できなかったし、父が村人の全員が本当に記憶を失ったように死者を忘れるのだと言っていて少々悪ふざけが過ぎるとも思った。
実際父は自らの母を、つまりは私の祖母のことを覚えている。
美人で派手好きだったらしく、紫の髪に紫の瞳をしていたのだとか。正直いつからカラーコンタクトがあるのかは知らないが、老いて死ぬ瞬間までそうした『若作り』をしていたのかと思うと祖母は村人達にいつまでも覚えていてほしかったのではと勘ぐってしまう。
いや、感傷に浸るべきではない。
書かなくては。そう書かざるを得ない程、私の理性は切迫している。焦りはない。微塵もないが、それこそが私が人外の類であると理性は語る。
村に着いた私を、村人は歓迎した。
村に外部から人が来るなど何年振りなのだろう。
雄大な自然は見るからに人の手に触れておらず、まるで未開拓の新天地のようにすら思え。聳える山。流れる川。深き森。ついさっきまで私は自分が人の通る道を歩んできたと認識しているが、村に入った瞬間に感じた感動は世界に数少なく残された神秘性によるものだろう。
隠蔽。隠匿。神秘とは見えず分からず、全貌の底知れぬ隠れた存在だからこそ。
まさにこの村はそうであった。道中で話しかけた人々は村の名を聞いても分からず、むしろ私を心配する者さえいた始末だ。確かに、ここを知る者は物理的にも環境的にも少ないだろう。私もここへ来るまでの道は文明的な恩恵を受けていないと感じていたし、村が見えた時は疲労が見せた幻なのではとすら思った。
「水だ。水に在らねば」
早く。早く書くのだ。
疲れている場合ではない。文字で自分を奮わせろ。誰か人類が気付いてくれるかもしれない。これは自分に残された最後の人間性だ。奉仕と自己犠牲。書け。思い出せ。恐怖と狂気を。負けてはならない。
出迎えに来た村人は数名。全員がかなりの高齢で、頬はこけ、眼窩は筋肉の緩みと共に広がり、世間では馬面とでも言うのだろうが、私には魚の顔のように思えた。
「駄目だ」
それから、私は村人と共に祖父を葬りに父の実家へと向かう。
点々と建つ村の家々は、路傍の石のようで、そこに在ると知らなければ自然の一部にしか思えない。もはや自然と溶け込む、なんて表現より自然に取り込まれている。
山の洞穴。苔むす石。巻き付く蔓植物。かなり古い時代の神殿や、そういった神秘性すら感じる巨樹や巨岩のそれらが彼らの家であった。
しかし私の生まれ育った家だけは現代的であり、確かに年数を感じさせる古い木造の家であったが間違いなく人工物だと理解できる。確か祖母はかつてその美貌が故に秘境の人魚と呼ばれ、当時の村に外部の人を招くだけの力があったそうな。だからこの家も、ある意味で村の神秘性を隠すための隠れ蓑だったのかもしれない。
などと、そんな不気味な好奇心を高ぶらせる私の前に、村人たちは父の家から祖父の死体を運んできた。
まるで狩りで奪った動物を運ぶが如く、手足の首を縛った状態の祖父。
私は思わず怒りを覚えた。人の尊厳を踏みにじる行為に思えたのだ。決して私は信心深くもなく、自らを取り巻く宗教や伝統を旧い考えだと切り捨て、それでありながら死者を弔おうと伝統と文化に則り生きる。私は、自らの都合で伝統や文化や宗教観など、人々の生活において根源的な部分を無意識の領域だと直視せず生きてきた人間だと自白する。その点で彼らを責める権利はない。だが、それでも目の前で行われた行為に憤りを覚えた私の感情は誉れであり、当然の権利であり、人間性の主張だ。
けれど、私の態度は何故か不思議と穏やかで、むしろ明らかに人としての在り方が違う彼らへの少しの恐怖が先程の好奇心をより燃え上がらせた。
きっとあの時の私は愚かにも彼らと似た非人道的な倒錯に陥っていたのだ。つまるところ、ここは老人ばかりで、かつ人目に付くこともない秘境。怒りに任せて殺したとしても、誰も私を裁けない。罰せない。むしろ彼らの理論では消えたのだから、私の罪も当然消える。
そのような邪な考えが、結果彼らの営みを深く知ろうと、まるで夏休みの自由研究のような、彼らを対象実験の道具に思わせたのだ。
結局私は祖父の弔いを終えた翌日に帰る予定を変え、数日をこの村で暮らすと決めた。
最初こそ多少の心配や外来の私に対する疑いの目があるかとも思ったが、すべて杞憂に終わる。村人達は快く私を受け入れて、父の広く大きな実家で豪勢な食事を振る舞ってくれた。特に山菜の天ぷらは美味で、あれだけの品を都会で食べようと思ったらいくら金が必要か。
「違う。告発するんだ」
ただ、心残りがあるとすれば魚料理だ。
あの川魚の丸焼きなどは至上の一品であったろうに、私の身体は昔から魚類を食べられない。いわゆるアレルギーの類なのだろう。実際に医者にかかった事は無いが、食べると胃に多大な不快感が走り、次に嘔吐。それから脳が熱く朦朧とし始め、謎の罪悪感と不安が悪寒となって全身を巡り、痺れさせる。
だから私は断るしかなく、しかし彼らは三日間常に魚料理を振る舞おうと食卓に並べてきた。恐らくは『アレルギー』という存在を正確に理解していないのだろう。大人が使う好き嫌いの隠語。適当な外国語に聞こえる音でもって逃げる社交の言葉。あるいは自らが信じる物に対する絶対的な価値観による、上質な物であれば克服できる類の何かに思われているのかもしれない。しかし私は部外者で、同時にもてなしを受けている身なので強く抗議することはなかった。
まぁ単に、老いと変わらぬ日々を繰り返し続けて丸く磨かれた彼らの脳には私の言った言葉の意味と意図を保存し引き出すだけの隙間もノブもないのかもしれないが。
ともかく、私はその日も断った。
連日に渡る嫌がらせのようにすら感じる彼らの善意に対し、遂に私ははっきりと、今まで伝えるまでもないと封じていた症状の詳細なども含めて言ってやったのだ。
すると、爺とも婆とも分からぬ村人がぽつりと、しかし私にははっきりと聞こえる声で言ったのだ。「あぁ、お帰りになられた」と、確かにそう言った。
直後、他の誰かが懐から隠していた小刀を抜き、私が恐怖と驚愕に喘ぐよりも先に近くにいた別の村人の首を切断した。あまりの出来事に私は絶句し、その手際と切れ味に思わず「おお」と声が漏れる。この時点で私は狂っていた。それか村の神秘性に飲まれていたと言える。ただ、あの場の私には認識できなかったのだ。途中までの恐怖や驚きを覚えているのに、何故そう思ったのかを思い出せないのだ。
そして私は愚かにも聞いてしまった。
村の過去に興味を示した私に、彼らは別人のように語り出す。私には何か、過去を聞けば先程の恐怖の理由を思い出せる気がしたのだ。だが、出てくるのは村の繁栄期における伝説的な話ばかり。特に祖母の話などは珍妙にすら感じ、それ以上に私はやはり死者を忘れるだなんて嘘だったのではないかと話半分に聞いていた。
楽しかった。
私はこの村に来た瞬間と同じ喜びを感じている。そう実感した時、何かが私の足にヒヤリと触れ、おもむろに下を見る。
そこには魚がいた。
大きさにして小柄な人間程。外来種にしても川の魚とは思えない。だが床に倒れた魚は調理の途中だったのか、頭を切られている。溢れた血は私の足にヌルヌルとした不快感を与え、それ以上に調理の途中にしても床に放っておくだなんてと村人に言った。
しかし彼らは不思議そうに首を傾げる。
まるで見えていないか、そもそも存在しているのに気付いていないのか。
様子がおかしい。私は霊能者か、妄想に取りつかれた患者にでもなったのだろうかと、おもむろに顔を手で覆う。再び見た時、そこにはまだ魚がいた。
頭が白く、二本の鰭と、やけに長く細い二股の尾鰭。
背鰭は極端に短く、小山の山脈のようで。特に私が不快だったのは、その深海魚が如き萎んだ弾力の、肌色の表面であった。
「嫌だ。もう書くな。やめろ」
私は私自身の声を聴いてなお、強い決心に動く手を止められない。
もはやどちらが自分なのか。本心がどちら側なのか……いや、それも終わる。
私は逃げたのだ。
食事を終え、村人が帰った後、見送りの玄関から私はあの気味の悪い魚を捨てようと戻った。そこで、私は人魚を見た。いや、構造はむしろ魚人と言うべきか。青緑の鱗に紫の背鰭。澱んだ水の中で見る赤にも似た、深い紫の瞳。それらを携えた何かが部屋に入ってきた私を見て、目が合った。
「お帰り」
瞬間、私は突然の恐怖と狂気に突き動かされ、発狂しながら走り出す。
「私は走る! もう駄目だ! やっと終わった! 私は走り、雨が降っていた! 背後で土砂崩れの音がして、私は運よく川の下流にあった町の人に救われた! ありがとう。ありがとう。ありがとう! 君達も一緒か!?」
「…………」
「あぁ父さん。そんな顔をしないでおくれ。足は見ない。もう何も見たくないし、知りたくないんだ。そのブランケットの下がどうであろうと、私は人間なんだ。尊厳ある人間なんだ! ああ! 神よ! この世界があなたの創った計画ならば、私を楽園へ! 光の射す方へ! 窓は開けた! 私の勝ちだ!」




