弟、遂に発狂する
SAN値がゴリゴリ削られました。
よろしくお願いします。
ジョロジョロ
家人は皆寝静まったはずの深夜。
どこからともなく水が流れる音が聞こえてくる。
吐水口から水が出ているのである。
この家の住人が締め忘れたのか?
否、この家で最後の人物が就寝した時、蛇口は確かに締まっていた。
では一体誰が?と思ったそこのアナタ、教えてあげよう。
よく耳を澄ましてみるといい。
水温に混じってもう一つの音―いや、声が聴こえてくるでしょう?
え?聴こえない?
ちゃんと聴いてみてくださいよ。
ホラ、聴こえたでしょ?
「絶対にこれで最後…」
「終わ…」
ジョロジョロ…
「り!」
「うるさい!!!」
ね?聴こえた。
真夜中だというのに、台所の手洗い場の前に立って謎の言葉を叫んだ結果、母親に叱られているこの少年…奴の名は本庄照。
私の弟である。
―――――――――――――――――――――
私は本庄灯里。華の高校二年生。
容姿はちょっと可愛いんじゃないかな…とか思ったり、え?何この顔婆ちゃんちの金魚じゃんと思う日もある位のレベル。
髪型はセミロングが似合うと思っている。
コミュ障とかでは決してないし、成績もそれなりに良い(と思っている)。
学校はそこそこ楽しいし。
ある一点を除いては…
「ゲボォ゙…」
本庄家に巨大かつ低い咳の音が響く。
皆さんは風邪をひいた時咳が止まらなくなったという経験はあるだろうか?私はある。
何回も咳を繰り返すと、最初のゲホゲホという音からゲボゲボォ゙という物凄く低音の咳が出るのだ。
私の弟、本庄照の発する咳もその類いの咳だった。
あら可哀想に。弟さん風邪を引いていらっしゃるの?と思われたかもしれないそこのキミ!奴は風邪なんぞひいていない。
常習的に咳を繰り返したためそのような音が出るようになったというだけである。
別に病気で咳が止まらない可哀想な少年ではない。
なぜ彼はそのような生産性のない行動を繰り返すのか…?それは姉である私にもとんと分からぬ。
しかし、照曰くそれをするとスッキリするらしい。
例えるなら、痒いのを我慢していた人が遂に我慢を辞め、痒い場所をポリポリとかく、あの快感みたいなものだろうか。
そんな行為で幸せな気分になったことなど私は無いので分からないが。
しかし、生まれたときからずっとこうだったわけではない。
生まれた時は確かに、誰でもそうなのかもしれないが…可愛い奴だったのだ。
ちょっと太り気味だったような気がせんでもないけど。今やガリガリなのに。
とにかく愛い奴めとかいう感じだったのだ。
私の弟に向けた気持ちは。
しかし中学校に上がってからその認識は全て崩壊していった。
いや、崩壊させられたと言った方が良いかもしれない。
深夜、トイレに行く途中確かに見たのだ…!
奴がジョロジョロと水が流れる手洗い場の前に立ち、その流水で手を濡らしながら
「これで最後くん!終わ…」
とか言ってるのを。
というか最後くんって何?
くん?え、お前人間だったの?概念的なものじゃなくて?新たな事実の発見に驚きを隠せず足の小指を押さえて悶える私。
あ、間違えた。
普通に小指をぶつけただけだったわ。
別に驚きすぎて突然痛みだしたわけじゃなかった。
照は頭を―というか上半身を大きく上下させ水を止めた。
一連の動きはまるで曲が始まる前、指揮者が1234…と奏者に向けて送る合図の4の時に上半身を大きく揺らすあの動きにそっくりだった。
あれより遥かに激しかったが。
しかし、やはりというかそんなに激しく体を揺らしたら絶対どこかに頭をぶつける。
案の定、ガン!という音がした。
割とでかい音だったので勢いよくぶつけたのだろう。私は痛さのあまり奴が泣き出すのではないかと思ったが、しかし奴は意外なことに襲い来るあまりの痛みに泣き出すのではなく、自分の行動が阻害されたことにキレ始めた。
「スッキリできないじゃん!このばか!アホマヌケ◯◯◯◯◯◯◯!!」
次第に放送できない単語も混じってきた。
俗に言う放送禁止用語とかいうやつだ。
ちなみに彼は大の下ネタ好き。
というか照に限らず、我が家は父親を除いて全員下ネタに詳しい。
父親はその話が始まるとそそくさと逃げていく。
話を戻そう。
一通りキレ散らかした照は再び一連の動作を繰り返すことにしたらしい。
さっきよりもさらに大きな声で
「終わ…」
とか叫び始めた。
がしかしそんな近所迷惑になりかねない行動を我が家のトッププレデターにであるオカン、本庄翔子が見逃すはずがなかった。
というか見逃してもらえる確率なんてナッシングである。
あっという間に捕獲された弟は母によって布団まで引き摺られていった。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
ついさっきまでぐっすり眠っていたにも関わらず、弟のあまりのうるささのせいか、あるいは自分の息子がご近所迷惑行動をしようとしたことを本能で感知したか。
からくりは分からないが彼女は弟の奇行を止めることに成功したのだった。
そう、この時は。
一時間経過した頃、私はあまりのうるささに目が覚めた。
辺りをうかがっていると、聞き覚えのある水の音。
台所には奴のシルエットが。
なんと弟は懲りることなく同じ行動を繰り返そうとしていたのだ。
なんなら頭をぶつけるところまで。
―流石にそこまで再現するつもりはなかっただろうが…
ふぅ…
実にいい朝だ。
今なら勇者になれる気もする。
―あ、魔王を倒す方じゃなくて公共の場で奇行を繰り返す人たちのことね―
あの後マイ・リトル・ブラザーはマイ・マザーによって再び連行されていった。
弟の部屋から説教と泣き声が聴こえたのはご愛嬌(?)ということで…
ただ正直な所、母も私もそこまで気にしていなかった。照ももう中学二年生。
来年からは受験生なのだ。
ストレスの一つ二つあったって可笑しくない。
ここはひとつ、姉として、人生の先輩として、生温かく大笑いしながら見守ってやろう、とか思っていた。
そう、思っていた。
過去形である。
当時の私は何も知らなかった。
これが某英国産ファンタジー並みの長い長い戦いの始まりになろうとは…
ありがとうございます!
弟面白いって思っていただければ幸いです。