閑話 アルケの独白
丘を降りていくダレンの背を、俺は後ろからそっと眺めていた。
風に揺れ、行き場を失っていたかつての小さな背中は、もうどこにもない。
そこにあるのは、確かな意思を宿した一人分の背中だった。
「……随分、遠くへ行っちまったな」
俺はただ静かに、その背を見つめていた。
もしあの時――
俺もあいつのように、自分と正面から向き合えていれば。
逃げずに、抗えていれば。
もう二度と叶わない未来が、今になってひどく恋しく思えた。
ーーーー
あれは若き日の頃――。
「兄貴……」
「アルケ。一旦、一人にしてくれ……」
いつも俺より前を歩いていた兄貴の背中が、
その時ばかりは、あまりにも小さく見えた。
ガキの頃から、ずっと一緒だった。
旅も、戦も、修羅場も越えてきた。
けれど――
あの日、初めて兄貴の“弱さ”に触れた気がした。
傭兵団の壊滅。
仲間を失い、責任をすべて背負い、それでも立ち続ける兄貴。
その背に、俺は何も言えなかった。
それとは反対に、俺の胸の内には、
怒りでも悲しみでもない、空虚なものだけが広がっていた。
「アルケさん……これから、どうするんすか……」
数少ない生き残りの仲間が、震える声で俺に尋ねた。
「死んじまったもんは仕方ねぇだろ。あとは……兄貴次第だ」
「そうやって、なんでもかんでも団長に背負わせるんすか!」
怒りに満ちた表情で、仲間は俺の胸ぐらを掴んだ。
――分かっていた。
言われなくても、分かりきっていた。
それでも、無性に腹が立った。
俺は静かに拳を握り、その顔面に叩き込んだ。
「喚き散らすな……!
そんなこと、分かってんだよ。
だが背負うと決めたのは兄貴だ。
俺は所詮、ただ見てるだけの傍観者にすぎねぇんだよ」
「それでも……兄弟なんすか……?」
その言葉が、胸に刺さった。
「元々、俺はこういうタチだ……
変わろうとしても、変われねぇもんがあんだよ」
そう吐き捨て、俺は仲間に背を向けた。
背中越しに感じる視線から逃げるように、
背を丸めて、その場を去った。
冷めきらない怒りと、
握りしめた拳の痛みだけが、やけに現実的だった。
――そうやって俺は、言い訳を重ねて生きてきた。
兄貴についていけばいい。
判断も、責任も、覚悟も、全部あいつに任せていればいい。
何も背負わず、
何も抱えず、
虚ろなまま生きることを、俺は選んだ。
やがて兄貴は、何かのきっかけで立ち直った。
傭兵団を再編し、再び前を向いた。
その姿は凄まじく、生気に満ち、
希望に溢れ、見る者の目を奪った。
「俺は……騎士になる。
アルケ、お前はどうする?」
変わってしまった兄貴。
以前よりもずっと強く、輝く瞳。
その大きな背から、俺は目を逸らすように背を向けた。
「俺は……騎士なんてごめんだぜ?
探索者にでもなって、適当に生きるわ」
そうして俺は、長年連れ添った兄貴と別れた。
何かに怯え、
責任から逃げるように、探索者として生き回った。
仲間も作らず、
死んだ目で剣を振るう俺を、人はいつしか
『虚剣』と呼ぶようになった。
やがて年齢の限界を感じ、
何も残らない生に、ふと立ち止まった。
そして、道場を始めた。
純粋に笑い、
汚れのない子どもたちに、剣を教える日々。
「……皮肉なもんだ」
夕暮れの丘を眺めながら、
俺は何度もそう呟いていた。
ーーーー
「――アルケ。少し、頼みごといいか?」
ある日、珍しく兄貴が改まって俺に頼んできた。
兄貴の子の剣術指導。
話を聞く限り、
子どもにしては、随分と拗らせているらしい。
そして、初めてダレンに会った。
小さな体。
それに似合わぬ、すべてを諦めたような目。
――どこかで、見覚えがあった。
「――初めまして。叔父様」
不相応な言葉遣い。
そして、歪な剣の構え。
「……歪んでいるな」
それは、俺が最もよく知っている剣の形だった。
だが、まだ死んではいない。
どこかで、必死に戦っている。
――俺とは、決定的に違う。
「今日から俺のことは師匠と呼べ。
先輩として、いろんなことを叩き込んでやる」
同情か。
それとも戒めか。
分からなかったが、
俺はその時、確かに誓った。
――同じ轍は、踏ませない。
この子だけは、
俺のようにはさせないと。
ーーーー
それからのダレンの成長は、著しかった。
教えたことの吸収は早く、応用までも難なくこなしていく。
だが――やはり、根本的な部分は変わらなかった。
ダレンが十五を迎え、剣を交えた時のことだ。
「――本当の強さってのはな、弱さを隠すことじゃねぇ。
さらけ出せることだ。
他の誰かになんてなれねぇんだ。
少しでいい、自分を愛せるようになれ」
柄にもなく、俺はダレンにそう言った。
それは、教えであると同時に、
自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
結局、俺自身は何も変われないのだと、
どこかで決めつけながら。
ーーーー
すべてが壊れた、あの日。
炎に包まれ、人々の狂騒が街を満たしていた。
あれほどの惨劇。
幼き頃から共に過ごした使用人、友。
そして――愛する母親までも失ったダレン。
兄貴も、体を動かすことでしか、
この現実を越える術を見いだせずにいた。
ダレンの瞳は、闇を纏い、深く沈んでいた。
俺と並び、煙草を吸い込む。
似た者同士、嫌な煙が周囲に立ち込める。
「もう……何のために生きればいいのか――」
苦しみ、悩むダレンを、俺はただ見つめていた。
一体何が、どこまでダレンを縛りつけ、
押し潰そうとしているのか――俺には見えない。
だが、同じ末路を辿らせぬために、
贈れる言葉はあった。
「俺はな――」
気づけば、俺は語っていた。
ダレンのこれまでの境遇を、
そして、自分自身の心境を。
落ちていく灰が、
俺の中から何かを削ぎ落とすように、
ひらひらと舞っていく。
「痛みもなく生きていけるなら、そりゃ笑えるさ。
――だがな、救われねぇよ」
ダレンは、刻み込むように俺の言葉を聞いていた。
「痛みの先に、救いはある……俺はそう思う。
その痛み、大事にしろよ」
俺がすでに手放してしまったものを、
ダレンは必死に掴み、まだ離さずにいた。
どれほど偉そうな言葉を吐こうと、
俺の過去が消えることはない。
――ダレンに説教を垂れるなら、
俺自身も変わらなければならない。
すべてを振り払うように、
俺はゆっくりと立ち上がり、誓った。
「俺は……もう決めたぞ」
自分自身を好きでいられるように。
肯定できるように。
胸を張って、満足に生きたと言えるように。
ーーーー
そんなことを思い出しながら、
ダレンの背は、すでに視界から消えていた。
ダレンは強くなった。
剣も、心も、驚くほどに。
だが、俺は知っている。
その強さが、
最初からそこにあったものではないことを。
折れて、
削れて、
それでも立ち上がるたびに、
少しずつ形を変えてきたものだと。
「アルケ。今の生き方には満足か?」
ふと、横から兄貴が尋ねた。
幾度となく見てきた強い目は、
昔よりも少し垂れ、柔らかさを帯びている。
「俺の弟子が、あそこまで大きくなったんだ。
後悔はねぇさ」
「そりゃ俺の息子だからな」
「はっ! 親ばかがよ」
俺は笑いながら答えた。
あの兄貴の息子だ。
そうなるのも、当然だろう。
――なら、俺は?
俺は、兄貴の弟だ。
「俺は、自分に課したものは果たした。
それが形になって、羽ばたいている。
それだけで満足さ。
それに――
自分の生き方に責任を持てた。
背負った重みを、痛みを感じながら生きるのも、
悪かねぇ」
丘から街を見下ろし、俺は呟いた。
きっとこの先も、悩み、苦しむだろう。
だが、後悔はない。
それだけ、俺は生きたということだから。
「兄貴。ありがとな」
「なにがだ?」
困惑する兄貴を背に、俺は歩き出す。
変われたという確信はない。
だが――
逃げ続けていた俺は、もうここにはいない。
暗く、淀んだように見えていた道のりが、今では明るく照らされていた。
これにて第五章終了となります。
いかがでしたか。少し長くなり、マンネリもあったかと思いますが、ここまでご足労お疲れ様です。
最終章から最終話まで、ぜひお付き合いください。
さて、迫るはクリスマスに年末年始。
果たして、執筆を続け、順調に最終話を見届けることができるのか!?
次回!『バイトに捧げるクリスマス!』お楽しみに!




