二十九話 居場所
「はぁー。帰ってきたー」
「なんか懐かしい感じするよな」
帝国へ帰り着くと、開口一番にクラリスとフィデルが口をそろえて言った。
二人は手を組んで体を伸ばし、久しぶりの空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
「ありがとな、セイド。ここまで」
俺は船を下りると、舵のそばに立つセイドへ向き直った。
「へっ。なんてことねぇさ。俺にとっちゃ、いい経験になっただけだ」
「これからはどうするんだ?」
俺の問いに、セイドは鼻先を指で軽くこすった。
「船夫に戻るさ。やっぱり俺の居場所は海だって、はっきり分かったからな。
あとは……仲間や、嫁さんでも見つけるとするか」
そう語る目は、最初に出会った頃の荒んだものではなかった。
波の先を見据えるような、確かな未来を映した澄んだ眼差しだった。
「あんたらにも、為すべきことがあるんだろ?」
「ああ」
「互いに頑張ろうな」
そう言って、俺たちは拳を軽く合わせた。
「元気でな! セイド」
「船旅には気をつけるんだよー」
皆が手を振り、セイドと別れを告げる。
次に会えるかどうかは分からない。
だが、この出会いだけは、決して忘れない――そう確信できた。
ーーーー
それから俺たちは港町を後にし、故郷へと馬車を走らせた。
車輪の音が規則正しく響き、その一つ一つが“その時”の接近を告げているようだった。
「おかえり、ダレン」
屋敷に到着すると、まるで待っていたかのように父様が姿を現した。
「ただいま」
こうして言葉を交わせる日々が、これからも続くように。
祈るような思いを込めて、俺はその一言を口にした。
「その様子なら、よき旅だったようだな」
父様は穏やかに微笑み、心から安堵した様子だった。
「残るは、ペンタグラムだけだね」
横から顔を出したクラリスがそう言う。
揺れる金髪が、ふと俺の肩に触れた。
「すでに各国で話はまとまり、討伐に向けて準備が進んでいるそうだ」
「そろそろ……か」
敵の首魁、ヴォイド。
あの宣言から時は経ち、刻一刻と決戦は近づいていた。
だが、それ以降、奴らは目立った動きを見せず、まるで世界の裏へ溶け込んだかのように姿を消している。
考え込んだその瞬間――
ドン、と背中を叩かれ、体が一歩前へ押し出された。
「師匠……」
「そう重い顔するな。俺たちがいるだろ」
「……そうだったな」
ここ最近の平穏な日々が、戦いの現実を一時忘れさせていた。
だからこそ、今あるこの日常を失うことが、無性に怖くもあった。
「少し休め。幾日かしたら……例の場所へ向かうぞ」
父様の言葉に、皆が静かにうなずいた。
こうして俺たちは、
嵐の前の静けさのような時間を、束の間、胸に刻むことになる。
決戦の時は、確実に近づいていた。
ーーーー
丘から見下ろす光景は、何もかもが小さく見えた。
人も、家も、道も――争いも悲しみも、すべてが掌に収まるかのように。
だが同時に、そこに確かに「守るべき人」がいて、「帰ってくる場所」があるのだと、胸の奥へと静かに染み渡ってくる。
無垢森を抜ける風が、その事実を俺の心へ運んできた。
「思えば……あれから、早かったな……」
隣で、父様がぽつりと呟いた。
どの時点から思い返しているのかは分からない。
幼い頃か、家族を失った日か、それとも俺が剣を取った瞬間か。
けれど、その声音には、確かに“積み重なった時間”の重みがあった。
「あれから幸せを得て、失って……それでも、俺の手にはまだ残るものがあった」
「兄貴も、ずいぶんとしおらしいこと言うじゃねぇか」
「アルケ……お前も変わったな。いい方向に、だ」
互いをよく知るからこそ、言葉は少なく、それでも十分だった。
肩を軽く叩き合い、確かめるように笑い合う。
「ダレン」
父様が、俺の名を呼ぶ。
丘の風が止んだように感じた。
「お前は、自分が俺たちのおかげでここまで来たと思っているようだが……逆だ」
「……」
「お前がいたからこそ、俺たちも変われた。
救われた者は、多い。それだけは、忘れるな」
逃げ場のないほど、真っ直ぐな言葉だった。
「もちろんです。
それに――もう逃げることはありません」
俺は、はっきりと言い切った。
「守りたい居場所が、俺にはあります。
それを……もう、失いません」
父様は、満足そうに微笑んだ。
だが次の瞬間、何かを絞り出すように、わずかに険しい顔を作る。
昔は、その表情が苦手だった。
何を考えているのか分からず、距離を感じていた。
――だが今は違う。
その顔すらも、俺にとっては確かな安心だった。
言葉を待ち、俺は父様を見つめる。
父様は一歩踏み出し、真正面から俺に向き直った。
「生きて帰れ、とは言わん」
静かな声だった。
「だが――
自分を捨てるな。それだけは、守れ」
胸の奥が、強く打たれた。
俺は背筋を伸ばし、あの時よりも、さらに強い声で応えた。
「もちろんです。
――『約束』です」
次の瞬間、父様の固い手が、俺の頭に触れた。
久しぶりの感覚だった。
もう互いの身長は変わらない。
それでも父様は、昔と同じように、ただ真っ直ぐ手を伸ばし、託すように、優しく俺の頭をなでる。
「……いつまで経っても、子は子かねぇ」
その空気を破るように、師匠が呟いた。
父様は少し照れたように、手を離す。
「ダレン。俺からも言わせてもらうぞ」
師匠は、珍しく改まった表情で俺を見た。
普段の飄々とした姿からは想像できないほど、真剣な眼差し。
「これで……本当に、もう教えることはねぇ」
「それは……」
これまでは、どれだけ成長しても、教え、教えられる関係だった。
だが師匠の言葉は、その線を静かに引くものだった。
「だがな」
師匠は、続ける。
「背中を預けることはできる」
「……」
「後ろは任せろ。
お前は、ただ前へ突き進め」
その言葉は、いつも俺の背を押してきた、あの大きな掌のようだった。
重く、確かで、逃げ場のない力。
――初めて、対等になれた。
そんな感覚が、胸に広がる。
「ああ。任せた」
長い言葉はいらなかった。
短く、しかし全てを込めて答える。
師匠も、父様も、それ以上は何も言わず、ただ丘の向こうを見つめた。
最期の決戦に向けるかのように、太陽が煌めいている。
何度も壊れ、
何度も誤魔化し、
何度も逃げてきた。
何度も間違い、
何度もつまずいた。
――それでも。
今の生に、悔いはない。
いつかこの広い空を、
この果てしない大地を、
自分の手で掴める。
そんな確信が、今はあった。
見上げた乾いた空は、どこまでも広く澄み渡り、
どこまでも飛んでいけるような気にさせる。
――さあ。
行こうか。
最後の旅へ。
今までの自分を、
これからの自分を、
証明するように。
俺は空へ手をかざし、天を仰いだ。




