十二話 惜別
昨日の夜の騒ぎが嘘のように静かな朝。
俺たちはすでに旅立ちの準備を整え、外へ出ていた。
僅か二か月という短い時間だったが、この『剣の聖地』で過ごした修業の日々は、まるで何年もいたかのように色濃く記憶に刻まれていた。
「『黒曜』、大事にしてくれよ」
「もちろんだ、師範」
朝が早いためか、他の剣士たちの姿はない。
俺たちを見送りに来てくれたのは、ただ一人、師範だけだった。
「师匠の奴……遅いな」
「アルケさん、何かあったんですかね?」
「あいつなら、そのうち来るだろう。それより――」
師範は師匠を待つ俺たちの様子を手で制し、そこで言葉を切った。
そして、フィデルとクラリスのほうへ、何かを軽く放り投げた。
「うわっ」
「え、なんですか、これ?」
反射的に受け取った二人の手には、それぞれ別の品が握られていた。
師範は口元を少し緩めながら、静かに言った。
「餞別だ。受け取れ」
クラリスの手に収まっていたのは、剣の柄に巻き付ける革。
ただの部品に見えるそれを、不思議そうに眺めるクラリスへ師範が説明を加える。
「それは『剣理の紐』だ。使いこむほど持ち主と馴染み、その握りが革に刻まれていく。嬢ちゃんには、これが一番ふさわしいと思ってな」
「ありがとうございます。大事にします!」
「それと、弓の兄ちゃんには――」
「これは……矢羽根、ですか?」
師範の言葉を遮るように、フィデルは自分が受け取ったものを手の中で確かめた。
「『月詠の羽』という品だ。昔、東の国でもらったんだが、生憎うちには弓使いがいなくてな。ちょうどよかった」
確かに矢羽根ではあるが、名前ほどの特別さはぱっと見では伝わってこない。
それに気づいたのか、師範は頭をぽりぽりとかきながら言い足す。
「それは夜にのみ力を発揮するらしい。詳しい理は知らんが……使ってみてくれ。いいものには違いねぇ」
「ありがとうございます」
フィデルは深々と頭を下げた。
和やかな空気が流れた頃、ただ一人、ルシアだけがまだ期待を込めた目で師範を見つめていた。
「そっちの嬢ちゃんには……特別なものはないんだがな」
珍しく気まずそうな師範が、正面からルシアと向かい合う。
「これから向かう東の島国には、神にまつわるものが多い。特に『祝福』を持つ者にとっては、学ぶことが山ほどあるはずだ。そこで励んでくれ」
「はい。頑張ります」
ものではなく、言葉そのものを餞別として贈る。
その言葉は、むしろ誰よりも温かく、未来を示すものだった。
俺たちは改めて、ここで師範に育ててもらったことを思い返し、深く頭を下げた。
「悪いな、待たせて」
そんな空気のなか、ようやく師匠が姿を見せた。
「遅かったな。何をしてたんだ」
「いや、ちょっとな」
「アルケ」
「ん? あ、はい。なんですかい」
ごまかすように笑う師匠へ、師範が低く声をかけた。
その瞳は、先ほどまでの柔らかさとは違い、鋭くも温かな真剣さが宿っていた。
「――頼んだぞ」
「はい。任せてくだせ」
短く交わされたその言葉は、まるで何か大切な約束を確かめるようだった。
「よし。そろそろ出発するか」
「アルケが遅かったからだろうが……」
「いいさ、フィデル。それじゃあ行こう」
荷物を背負い、俺たちは次なる旅へと歩き出す。
『剣の聖地』に背を向けながら、それでも胸の奥には確かに温かなものがあった。
俺は馴れない二振りの剣の柄を握りしめ、半身になって最後に後ろを振り返る。
「行ってきます」
「――ああ」
師範と短く視線を交わした瞬間、剣を通してその意志が確かに伝わった気がした。
ーーーー
それから俺たちは山を下り、これまでの旅をなぞるように道を戻っていく。
二度見た光景のはずなのに、二か月という時を隔てただけで、その景色はどこか新鮮さを残していた。
どれほど移動しただろうか。
ダムナを通り、ガルドとも顔を合わせた。
師範――剣聖の力を借りられることを伝えると、ガルドは嬉しさと感謝を噛みしめるように笑った。
住民たちと少しだけ飯を囲み、俺たちはまたすぐに出発した。
そうしているうちに、すでに神聖王国へ入っていた。
「あ、アルケさん! お久しぶりです。ちょうど渡したいものがあって……」
城門付近で顔見知りの住民に声を掛けられた師匠は、首を傾げながら立ち止まった。
渡したいものと言われて少し待っていると、大きな馬車のようなものが街の中央を通って姿を現した。
「渡したいものって、これか?」
「はい! 特別に手に入ったもので、これでも一応遺物なんですよ!」
「遺物? そんなもの、いいのか?」
「ええ。アルケさんに世話になったという商人の方が、実は相当な大物だったらしくて……絶対に渡してほしい、と」
馬車の遺物という聞き慣れない言葉に、俺たちは思わず首をかしげた。
その様子を見て、住民が補足説明を加える。
曰く、この遺物は昼は太陽、夜は月の力を得て走る――馬いらずの馬車。
その速さは馬の三倍。休むことなく走り続けられる。
説明だけでも常識離れしている性能を誇る代物だった。
「こんなもの、受け取れねぇぞ」
「そんなこと言わずに。アルケさんは、我々を救ってくれた英雄なんですから。商人の方からも必ず渡せと念を押されてます」
師匠は肩をすくめ、仕方ねぇなといった顔で受け取りを了承した。
ちょうど帝国へ戻るための移動手段を考えていたところでもあり、これはありがたい申し出でもあった。
俺たちはその厚意に甘え、遺物の馬車へ乗り込む。
街の出口へと動き始めると、通りの両側から住民たちが次々に声を上げた。
「アルケさん!」「我らが英雄!」
その声を背に、師匠はじっと景色を見ながら、どこか照れくさそうに、しかし誇らしげに口元をゆるめていた。
「やっぱ師匠はすごいな」
その姿に、俺の口は自然と動いていた。
「なんだ。ダレンはすっかりソーデン殿に染まったんじゃねぇのか?」
少し尖らせた唇で言う師匠に、俺は笑って返した。
「いつまでたっても、俺の師匠はあんただよ」
「へっ。わかりゃいいんだ」
互いに笑い合ったあと、フィデルが前を見据えたままぽつりと呟く。
「やっと会えるな。兄貴に」
「ああ。父様に――やっと」
馬車の揺れに身をあずけながら、俺たちは外の光景を仰ぐ。
長い道のりを越えて、ようやく帰るべき場所へと足を進めていった。




