九話 不離一体
見事に『闘志』を練り上げることに成功したクラリスは、水しぶきを上げながら滝下から這い上がってきた。
華奢な身体を伝う水滴が光を受け、まるで宝石の粒のようにきらめく。
その姿に、思わず息を呑む。
クラリスはふらつきながらも、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「おめでっーー!?」
称賛の言葉を口にするよりも早く、その身体が俺に飛び込んできた。
冷たい水に濡れたままの腕が、俺の背に強く回され、ぎゅうっと抱きしめられる。
「ダレン! やったよ、私! ちゃんと見てた!?」
「あ、ああ……見てたさ。確かに、この目で。」
クラリスは顔を俺の胸元に押し付けて、離れようとしない。
腕は震えていた。寒さのせいか、感情の昂りか、そのどちらもだろう。
「ク、クラリス。風邪をひく。体を拭こう。」
「……もう少しだけ。」
拒むというより、ただ離れたくないと願う子供のような声音。
俺は観念し、そっと彼女の背に手を回した。
冷えた体へ、自分の熱を分けるように。
ようやく満足したのか、クラリスは息を整えながら俺から離れた。
すぐにルシアが手拭いを差し出す。
しかし、その顔にはわずかなむくれと、ほんの少しの嫉妬が見えた。
俺は苦笑するしかなかった。
「おめぇも大変だな……」
「これも俺が背負ったものだからな」
師範が肩に手を置き、俺は小さく息を吐いた。
「よし。嬢ちゃんもよくやった。『闘志解放』を身につけた以上、あとは——実戦のみだ。」
手を叩いた師範の口元には、愉悦にも似た笑みが浮かんでいた。
ーーー
それから俺たちは、土台が固まった段階で、師範との一対一へと移行した。
幾度も、何度も、俺もクラリスも地に伏せさせられる。
立ち上がっては挑み、また倒れる。
だが『闘志』を戦いの最中で扱うには、まだ精度が足りなかった。
滝では目を閉じて、意志を一点に沈めることができた。
しかし、実戦では違う。相手は剣の極みに立つ『剣聖』の師範だ。
一瞬の迷いが即、敗北に直結する世界。
膝をつきながら、俺はルシアの『祝福』を受けた。
「クラリスの方が、俺より戦えている気がするな……」
「元より、意志の強さは誰よりもありましたから。」
クラリスが師範と渡り合う姿を見ながら、ルシアと息を整える。
確かにクラリスは俺よりも善戦していた。
俺の『闘志』は、まだ濁りがある。
未練、後悔、迷い——その影が、決着の瞬間にわずかな遅れとなる。
だがクラリスは違う。
彼女の闘志は、まっすぐだった。
「やっぱクラリスはすごいな……」
「ふふ。それに惹かれたんですよね?」
「え?」
ルシアの問いに、俺は呆けた顔になった。
「会ったときから、ダレンさんの目を見ればわかりますよ。」
「……俺の中じゃ、まだ整理はついてないんだがな。」
紺碧の瞳は、まるで全てを見透かすように俺を見ていた。
俺は息を吐き、認めるように肩を落とした。
「——じゃあ、私のことはどう見ていますか?」
真正面から向けられるルシアの瞳。
逃げることはもうしない。そう決めたのだから。
俺は静かに答えた。
「俺にとって、ルシアは恩人だ。それはクラリスも同じだ。
だけど……それと同時に、守りたい存在だ。」
それがすべてではない。
まだ揺れている。未完成だ。
だが、それでもいいとルシアは微笑んだ。
「ふふ。それが聞けただけで十分です。はい、次はダレンさんの番ですよ。」
促されて前を向くと、ちょうどクラリスが倒れ、立ち上がるところだった。
「ルシアー、直して……あれ、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「なんでもありません。はい、次はダレンさんです。」
「頑張ってきてね、ダレン。」
二人の視線が俺の背を押す。
「ああ。行ってくる。」
俺にはまだ欠けているものがある。
でも、それでも前に進める理由がある。
帰るべき場所があるからだ。
俺は師範へ向け、一歩、踏み出した。
ーーーー
「よし! おめぇら。今日が最後だ。この短い間で叩き込んだ全てを俺にぶつけてこい。
そして――紡いできたその意志を、俺に見せてくれ。」
剣聖の地に足を踏み入れてから、すでに二か月が経っていた。
過酷で、濃密で、息もつけないほどの日々。
気がつけば、旅立ちはもう明日だった。
そして今日が、師範との修行の最終総括となる。
場は初日に訪れたあの道場。
木の床には稽古の傷跡が刻まれ、壁際では他の剣士たちが息を潜め、俺たちを見守っている。
「それじゃあ、まずは嬢ちゃんからだ。」
「はい。」
クラリスが一歩進み、道場の中央に立つ。
その背に宿る気配は、もう二か月前の彼女ではない。
細い身体の内側に燃える光が、確かな強さとして形を持ち始めていた。
「ダレン、クラリスはどれくらい強くなったんだ?」
隣で腕を組むフィデルが、目を細めながら問う。
「それはもう、比較にならないほどだ。」
「……負けてられねぇな。」
その声は冗談めいた調子を保ちながらも、内側には闘志が灯っていた。
「フィデル、この二か月どうだった?」
「それはもう、充実しかなかったさ。ここまで修行に打ち込んだのは初めてだ。
……今度、俺の力を見せてやるよ。」
「そうか。楽しみにしてる。」
互いにわずかな笑みを交わし、再び視線は中央へ戻る。
道場には静寂が落ちた。
師範とクラリスが相対する。
かつては不安の影を背負っていたクラリス。
だが今、その碧眼は金色を纏い、澄んだまま迷いなく師範を捉えている。
立ち姿だけで、その意志の強さが伝わる。
「――始め!」
号令と同時に、空気が爆ぜた。
ぶつかり合う光。
火花のような闘気が道場を満たし、観る者の息を奪う。
かつてとは比べものにならない、真剣と真剣、意志と意志の衝突だった。




