十六話 形と成る
湖沿いを、柔らかな風を浴びながら歩く。
水面は穏やかで、光を受けてわずかにきらめいていた。
その静けさが、ここでの戦いの終わりと、やがて訪れる“次なる戦い”の大きさを静かに告げているように思えた。
やがて、展望台が見える位置まで来たとき――
湖面を背に、釣り竿を垂らすひとりの男の姿が目に入った。
その背中は、どこか懐かしい温かさを感じさせる。
「……今日は剣じゃないんだな」
俺は彼の隣に並び、横から声をかけた。
ロウランはゆっくりとこちらを振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。
「ダレンさん、ですか。そうですね。おそらく――今回が最後に握る剣だったのでしょう」
「そうか? まだ現役でもいけそうに見えたがな」
湖の風が二人の間を通り抜けていく。
ロウランは静かに息をつき、微笑の奥にほんの少しの寂しさを滲ませた。
「私のような老いぼれに、もうその運命を背負う資格はありませんよ。
これからを担うのは――あなたのような若者たちです」
彼の言葉はどこまでも穏やかだった。
だが、その声の奥には、戦いの日々を生き抜いた者だけが持つ静かな決意があった。
ロウランはすでに現役を退いて久しかったが、剣術は衰えていなかった。
この前の戦いでは、ロイスと共にヴォイドを封じ、街を守り抜いた。
満身創痍であったにもかかわらず、ルシアの『祝福』によって癒えたその体は、今では傷ひとつ見えない。
「……俺一人では、無理だ」
「ええ。――けれど、あなたは一人ではありません」
ロウランの穏やかな声が、湖面の静寂に溶けていく。
その一言は、剣の教えよりも深く、確かに俺の胸へ刻まれた。
長年の経験に裏打ちされた言葉の重みが、なによりも心に響く。
「だからこそ――彼女を、一人にはしないでください。
お願いします、ダレンさん」
短い言葉だったが、その眼差しは鋭く、真っ直ぐだった。
それだけで、彼の想いはすべて伝わった。
俺は静かにうなずき、短く応えた。
「ああ。わかっている」
ロウランは満足げに目を細め、そっと釣り竿を置くと、俺の前に立ち上がった。
そして差し出されたその手を、俺はしっかりと握り返した。
「では――あなた方の行く道に、光があることを祈っています」
その掌は、驚くほど温かかった。
その手を離した瞬間、胸の奥で静かに誓いが立ち上がる。
次にこの人と再会するときは、もっと誇れる自分でありたい――そう強く思った。
握手を終え、別れを告げて湖畔を離れる。
展望台へと続く坂道を登る途中、ふと視線を上げた。
太陽の光に照らされ、そこには――
金の髪が陽光を受けて輝き、白銀の髪が風に揺れて錦糸のように混ざり合う光景があった。
二人の姿を見上げながら、俺は歩みを止めた。
その光景は、まるで新たな始まりを告げる『祝福』のように見えた。
俺は前回同様、その上へと飛び乗っていく。
だが、前回とは違い——飛び上がった俺を見ても、ルシアは驚くことなく穏やかな微笑みで迎えてくれた。
その一方で、クラリスが腰を抜かしそうになり、後ろへ倒れかけるのを慌てて腕で支える。
「似たような展開ですね」
「そうだな……」
「ダレン、急に飛び出してこないでよ……」
「すまんな……」
ジト目を向けてくるクラリスに苦笑しながら手を貸す。
立ち上がった彼女は、なぜか俺の手を離そうとしない。首を傾げる俺に、彼女はそっと視線を逸らした。
「クラリス?」
「よし。私は下で待ってるね。積もる話もあるだろうし」
「お、おい、クラリスっ——」
俺の手を離すと、クラリスは階段を小走りで降りていった。
その背を見送る俺の耳に、背後からルシアの小さな笑い声が届く。
「ふふっ。やっぱり仲がいいですね」
呆れを含んだ笑みを返しながら、ルシアの隣に並ぶ。
欄干に手をかけ、静かな湖面を見つめると、風が髪を撫でていった。
その風音を裂くように、ルシアが口を開く。
「ダレンさんは、やりたいこととかありますか?」
不意の問いに、言葉がすぐには出てこなかった。
これまで俺は、過去に縛られ、ただ『今』を生きることで精一杯だった。
未来を思い描く余裕など、どこにもなかった。
けれど——
多くの人に支えられ、やっと自分の足で立てるようになった今。
未来という言葉が、遠い夢ではなく手を伸ばせるものに思えた。
「俺は……自分の世界をもっと広げたい。
多くを知って、見て、聞いて——そうだな。
あとは、波の音がさざめく場所で静かに暮らしたい」
自然と出た言葉に、俺自身が少し驚いた。
けれど、その未来を作りたいと思えたことが嬉しかった。
ルシアはそんな俺を見つめ、柔らかく笑った。
「ダレンさんは、本当にいい顔をするようになりました。
貴方の夢を、私も見たい——そう思いました」
少し俯いたあと、ルシアは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめる。
「私も……自分の生きたいように、生きてもいいんでしょうか?」
「——ルシアにその意志があるならな」
「もしかしたら、迷惑をいっぱいかけるかもしれません」
「——お互い様だ。俺もきっと、いっぱい迷惑をかける」
少し間を置いて、ルシアは小さく息を吸い込む。
「私も皆さんと一緒に、世界に飛び出してもいいでしょうか?」
「——ああ。もちろんだ。歓迎するよ、ルシア」
その瞬間、ルシアの瞳が潤み、雫が湖面に落ちて揺らめいた。
「ありがとうございますっ……! 私、楽しみです!」
「ああ、俺もだ。これからもよろしくな」
眩しいほどの笑顔に、自然と俺の口元も緩んだ。
その時、欄干にかけた俺の手を包むように、柔らかな光が差し込む。
それは、まるで祝福のように暖かく——
未来への訪れを静かに告げていた。
二人は共に湖を見つめ、穏やかな時間が流れた。
⸻
「二人はまだか?」
「ああ……もう少しかかるらしい」
俺たちは既に旅支度を整え、この街を発つ準備をしていた。
フィデルと並び、ルシアとクラリスを待つ間、町の人々が次々と声をかけてくる。
「ダレンも随分、顔が広くなったな」
「ルシアについて回ってたら、自然とな」
そう言って笑う俺に、フィデルは感心したように頷いた。
「それよりルシア、よく教会を出られたな。シスターって簡単に辞められねぇだろ?」
「ロウランが話を通してくれたらしい」
「なるほど、あのおっさん……思った以上に偉い立場だったんだな」
ロウランは、ルシアの願いを誰よりも早く察していた。
彼女の決意を知るとすぐに上層部へ掛け合い、旅立ちの許可を取ってくれたのだ。
「ダレンの師匠に会うのも楽しみだな」
「立派な人ってわけじゃないが……俺の人生を変えてくれた人だ」
最後の戦いを前に、俺は師の力を借りに向かう。
離れてからは一年も経たないが、それがずいぶん長く感じた。
今の自分を見せ、胸を張って「成長した」と言いたかった。
「最後の戦い、か……いまいち実感が湧かねぇな」
「それは俺も同じだ。けど——それを越えたら、本当に終わりだ」
二人して空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し、遠くに湖面がきらめいている。
「終わったら、ダレン。お前も二人に向き合わないとな。
今は仕方ないけど、いつまでも逃げられねぇだろ」
フィデルの言葉に、俺は息を吐いて頷いた。
未来を考えることなどなかった俺が、いまは“その先”を見ようとしている。
それは、共に歩む仲間がいるからこそ見える景色だった。
やがて、荷物を抱えたルシアとクラリスがこちらへ歩いてくる。
陽光を受けて、金と白の髪が風に揺れ、まるで絹糸のように輝いていた。
「二人とも、準備は大丈夫か?」
「うん。もちろん」
「はい、いつでも行けます」
二人の碧眼がまっすぐ俺を見つめ、胸の奥が熱くなる。
「それじゃあ——行くか」
俺は一歩を踏み出した。
その背に三人の足音が続き、やがて横に並ぶ。
ここまでの道のりは、短いようで、果てしなく長かった。
背負ったものは未だ消えない。むしろ、増えたと言ってもいい。
けれど今、その重さは苦痛ではない。
『生きている実感』として胸の奥で確かに光っている。
見上げた先の太陽は、これまででいちばん眩しく輝き、
俺たちの未来を照らしていた。
これにて第四章終了となりました。
そして繋ぎとして短めに五章を描いた後に、待ち受けるのは最終章。
今年中には終わりまで書きたいと思っております
ぜひお楽しみに




