十一話 迫る虚無
顔に日差しを受け、その眼を覚ます。
昨日のことが夢のごとく頭に浮かぶ。
しかし、隣を確認するとクラリスの姿がある。
あの『懺悔』も『約束』も夢ではない。現実だった。
俺は体を起こし、未だ寝息を立てるクラリスの前髪をそっと揺らした。
はがされた毛布を掛け直し、静かにその寝顔を一瞥してから、着替えて下へ降りる。
すでに宿のカウンターには、フィデルが朝食をとっているところだった。
俺も宿主に朝食を頼む。
「おはよう、フィデル」
「おう。昨夜はお楽しみだったようだな」
「なんのことだ……?」
「とぼけるなよ。クラリスの気持ちには、とっくに気づいてたさ。相談も受けてたんだ。『ダレンみたいな奴は押せば行ける』って言っておいた」
「……フィデルの入れ知恵か。なら納得だ」
クラリスにしては、あまりにも大胆すぎる行動だった。
確かにこれまでも何をするか分からない面はあったが、それでも彼女は騎士。場はわきまえていた。
「ちゃんと覚えておけよ。思いに向き合うことも、戦いの一部だぜ」
「わかってるさ」
「ほんとかねぇ。ルシアのこともあるが……」
「ルシアがなんだって?」
「なんでもねぇよ」
そう言ってフィデルは口を閉ざし、再び食事に集中した。
俺も宿主から皿を受け取り、対面に座る。
しばらくすると、まだ眠気を帯びたクラリスが姿を見せた。
「おはよう、クラリス」
「あっ……ダレン。お、おはよ」
昨日の大胆な行動が嘘のように、縮こまりながら小さな声で挨拶する。
その様子を見たフィデルの薄ら笑いを、俺は鋭い目で牽制した。
だがすぐに、俺の目は柔らかくなる。
ルシアが言ったように、俺の紡いできたものがこうして形になっている。
三人で並び、共に過ごすこの時間をーーどうしても守りたかった。
ーーーー
そうして月日は流れていく。
三人で修練を積み、ルシアの手伝いをし、ときにロウランと釣りをする。
まるで敵襲を待つ身であることを忘れるほど、穏やかで充実した日々だった。
そして、ついに襲撃が予想される日が訪れた。
時は幾ばくかすれば夕暮れを迎える時。ロイスたちとも短く言葉を交わすが、騎士たちは皆、気を引き締めている。
空気は静まり返り、緊張感が肌を刺した。
「ダレン君、頼んだよ。私たちも全力を尽くす」
「ああ」
ロイスの力のこもった瞳に、俺も短く返す。
彼はふっと笑みを浮かべ、口元を緩めた。
互いに視線を交わし、その場を離れる。
その背中には、確かな意思が宿っていた。
ふと、俺はあの白髪を思い出す。
体は自然と動き、湖のそばにそびえる展望台を目指していた。
彼女がそこにいると、確信するように。
道中、湖に向かって佇むロウランの姿を見つける。
だがいつもと違い、手に持つのは釣竿ではなく剣だった。
その刀身は湖の青を映し、静かな光を宿している。
ロウランは俺の気配に気づき、こちらへ振り向いた。
「珍しいな、ロウランが剣を持つなんて」
「次の戦いには、私も参加します。老いぼれといえど、隠居生活で世話になった街を守るために」
ロウランは湖に向かって構え、音を置き去りにするほどの一振りを放つ。
その剣筋は湖面を切り裂くかのように鋭く、力強かった。
とても前線を退いたとは思えない。
「彼女を探しているんでしょう?展望台に向かって歩いていきましたよ」
「やはり、そうか」
「先日はありがとうございます。彼女の中に迷いが生まれただけでも、それは良き変化です」
「感謝するのは俺の方だ。その迷いをどうするかは、ルシア次第だ」
ロウランはただ穏やかに笑みを返した。
俺も目でそれに応え、別れ、展望台へと向かう。
近づくにつれ、下から見上げた展望台には、白髪が風に揺れる姿が見えた。
俺は足に闘気を込め、体を低く屈める。
そして――跳ぶ。
宙に浮かんだ体は、そのまま展望台の上へ。
「え……?」
突然現れた俺に、ルシアは体勢を崩し、後ろへ倒れかける。
「おっと!」
咄嗟に展望台の中へ入り、彼女の肩を掴んで支えた。
「大丈夫か?」
「ありがとうございます……じゃなくて、ダレンさんが急に現れるからですよ!」
そう言って頬を膨らませ、ルシアは抗議する。
互いに体を支え合ったまま、しばし見つめ合い、そして同時に吹き出した。
「ふふっ……もう大丈夫そうですね、ダレンさん」
「ああ。ルシアたちのおかげだ。それに……戦いはもうすぐだ。自分との闘いは、これまでだ」
「よかったです」
ルシアの笑顔は、夕日と重なり眩しく輝いていた。
だが次の瞬間、彼女の表情にはわずかな影が差し、視線は湖へ向けられた。
「私も……戦いに加わります」
「え?なんでだ?戦闘になるんだぞ」
「私も迷いがありました。でも、今戦わなければ後悔します。そう思ったんです」
突然の言葉に、俺は思わず彼女の肩を掴んだ。
ルシアはそんな俺を見上げ、くすっと笑う。
「大丈夫ですよ。私は『祝福』で回復役に徹します。前線に出れば足手まといですから」
「激しい戦いになるぞ……」
「百も承知です。それに、ダレンさんたちも戦うんですよね? 私も、ご一緒します」
その言葉に、頼もしさと同時に不安が入り混じる。
だが俺は、彼女を守ると決めていた。
何かが起こるなら、俺が受け止める。
それでいい。そうやって一歩ずつ、『赦し』の道を歩めばいい。
「この前の返事は、戦いが終わってから返します。それまで、待っていてくれますか?」
「もちろんだ。どうであろうと、ルシアの選択を俺は尊重する」
その言葉に、ルシアは湖を背に微笑んだ。
ーー戦いが終わったら。
幾度となく『ペンタグラム』と戦ってきた。
結果的にはうまくいったが、どれも苦戦を強いられた。
きっと今回も、それ以上のものとなるだろう。
ーーそれでも。
見つけられた『自己』の形。
紡いできた『信頼』。
歩むことができるようになった『赦し』の道。
今の俺たちなら、きっとどうにかできる。
少しずつ落ちていく夕日を眺めながら、俺はそう思った。
ーーーー
日は暮れ、夜が訪れる。
教会の周囲は、事前に避難を呼びかけられた住民たちの姿もなく、どこか息を潜めたように静まり返っていた。
通りを照らす灯は消え、わずかな月明かりだけが石畳を淡く照らしている。
その静寂の中で、配置についた騎士たちがそれぞれ武器を握りしめ、闇の向こうに意識を張り詰めていた。
俺たち三人は教会の屋根の上、夜気を裂くように吹く風を感じながら、敵の出現を待つ。
ルシアは、教会から少し離れた臨時駐屯所に配置され、指揮の補佐についていた。
湖面を渡ってくる風はひどく冷たかった。
肌に触れるたび、ただの自然の冷たさではなく、何かが迫る前触れのような異様な気配を帯びている。
「冷たいね……」
「いやな風だ」
二人の声が夜の闇に溶ける。
俺は黙して、意識を研ぎ澄ませた。空気の震え一つ見逃すまいと、空間認識を最大限に広げる。
瞬間、強い風が吹き抜け、瓦の上に積もった砂埃が舞う。皆が一瞬だけ目を細めた、その刹那――俺だけは見た。
闇の奥、虚無の空間から滲み出るように、形のない影が姿を現す。
最初は靄のようだったそれが、やがて確かな輪郭を帯び、異形の人影へと変わっていく。
「……来たぞ」
呟いた直後、街の下で誰かが叫ぶ。
「敵襲だーー!!」
その声を合図に、全てが動き出した。
騎士たちは剣を構え、盾を鳴らし、緊張の空気を一斉に震わせる。
そして、教会の正面にそびえる建物の屋根の上――そこに、四つの影が浮かび上がった。
帝国を不死人で蹂躙した男、タナトス。
王国で相まみえた、闇を纏う剣士、テネブリス。
包帯に覆われた全身を黒いローブで隠す、キール。
そして、その三人をまるで従えるように中央に立つ、一人の仮面の人物。
冷たい月光を浴びたその姿は、人ならぬ威圧と狂気を孕んでいた。
白磁のような仮面の奥から、微かに笑みが漏れる。
「さあ――虚ろな夜を、赤き煌めきで満たそうではないか。」
その声は不気味なほど澄んでいて、まるで祈りのように街へ響き渡る。
次の瞬間、地の底から湧き上がるように、無数の不死人が闇を裂いて現れた。
その瞳が赤く輝いた時、静寂に包まれていた街は、一瞬で戦場へと変わる。




