七話 制約
「さっきのは一体……?」
俺は、先ほどルシアがしていた行いについて尋ねた。
祈りを終えた彼女はゆっくりと立ち上がり、女神像を背に静かに振り向く。
「あれは懺悔です。皆、何かを抱えて生きています。それを吐き出し、赦しを与える場所なんですよ」
ルシアは俺を見上げる形で言った。肩にかかる白髪が淡く光を受け、まるで薄いベールのように輝いていた。
その光景に、思わず息を飲む。彼女は続けた。
「自分の罪で苦しむ人には、祈りを通して赦しを与えてあげるんです」
「祈ったところで赦しを得られるわけがないだろ……」
俺は、咄嗟に口走ってしまった。喉の奥から漏れた声は、低く掠れ、まるで唸り声のようだった。
けれどもう止められなかった。
「自分で苦しめて、痛みを感じても……その先に救いなんてない。人から与えられる『赦し』に意味なんてない……」
「ダレンさん……」
惨めにルシアの行いを否定する。
言ってはいけないと分かっていても、胸の奥に積もった黒い何かが勝手に口を動かしていた。
俺はうしろめたさに耐えきれず、うつむく。
その視界に、ルシアの紺碧の瞳が静かに映り込んだ。
「貴方も……多くを抱えて、苦しんできたんですね」
「え……?」
その声は、同情でも軽蔑でもなかった。
ただ静かに、俺の痛みを包み込むような『寄り添い』だった。
「貴方はずっと戦ってきた。罪と痛みに耐えてきた。でも、自分で赦しを拒んでいるんですね。“もっと苦しまなきゃいけない”って」
「そんな立派なもんじゃない……! 逃げ続けてきただけだ……!」
「もう罰は十分なんですよ。これ以上、自分で自分を傷つけないでください」
ルシアがそっと俺の手を取った。
その肌はまるで糸のように柔らかく、冷たい手のひらにじんわりと温もりが広がっていく。
「貴方のような方に赦しを与えるのが、私の役目です。
貴方の抱えているものを、聞かせてください……!」
その瞳は水面のように揺れ、見つめ返すほどに心が吸い込まれそうになる。
全てを預けてもいいと思ってしまうほどの、穏やかな光がそこにあった。
――だが、俺はその手を振り払ってしまう。
「俺は……」
言葉の続きを紡げず、ただ視線を逸らす。
そんな俺に、ルシアは微笑みながら首を振った。
「すぐじゃなくていいんです。貴方自身の中で赦しを得たいと思ったとき、私がいます。いつまでも……待っています」
その言葉が、静かに胸に沁み込んでいく。
俺はその光から逃げるように、礼も言わず教会を飛び出した。
振り返りたい衝動を必死に押さえ込みながら、沈む陽の街を無言で歩いた。
ーーーー
眠れぬ夜は過ぎ、無情にも朝が訪れる。
ロウランから、ロイス率いる神殿騎士団の精鋭が到着したと告げられ、俺たちは顔を合わせた。
「ダレン君たち、久しぶりだね。問題はないか?」
「ああ。『ペンタグラム』の狙いも把握できた。あとは襲撃を待つだけだ」
「私たちもだいぶ腕が鳴ってきた頃だよね」
クラリスが明るく笑い、肩の力を抜いた。
修練を重ねてきた日々が、ようやく形になってきたようだ。
ロイスは満足げに頷き、再び表情を引き締めた。
「奴らをよく知る君たちから、もっと詳しく話を聞きたい。こちらでも対策を練りたくてね」
「それならお安い御用だ。ならまずは――」
俺たちは知る限りの情報をすべて伝えた。
『ペンタグラム』の幹部、戦い方、遺物の性質、そしてキールの存在までも。
すべてを聞き終えると、ロイスは顎に手を当て考え込む。
「首魁はまだ出てきていないようだね」
「首魁の名はヴォイド。それしか分かっていない。ただ、今回は事前予告がある。想定外のことも多いはずだ」
「……そうか。こちらでも対策を整えておこう。君たちも、いつでも動けるよう準備しておいてくれ」
そう言い残し、ロイスは教会近くに設置された仮設の駐屯所へ戻っていった。
残された俺たちは、ひと息ついたのちに椅子から立ち上がる。
「また修練か?」
「うん。でももう大分、形になってきたよ」
「明日、ダレンに見せてやるさ」
「そうか、楽しみにしてる」
二人が俺に隠れて何かを磨いていることは分かっていた。
俺も俺で、自分の修練を重ね、新しい力の感触を掴みつつある。
互いに成果を見せ合う日を思うと、少しだけ胸が高鳴った。
クラリスとフィデルが出て行こうとしたとき、クラリスがふと立ち止まり振り返る。
「あ、そうだ。今日、ルシアと一緒に出かけるんだ。一緒に……来る?」
「……遠慮しておく。楽しんでこいよ」
クラリスの口から「ルシア」の名が出た瞬間、胸の奥が小さく疼いた。
けれど何事もないように答える。
クラリスは少し寂しげに、それでも優しく笑って言った。
「そっか。……じゃあ、また後でね」
その声を背に、二人は修練へと向かっていった。
部屋には俺だけが残り、静寂が落ちる。
手のひらに残る、あの温もりを思い出しながら、俺はただ深く息をついた。
ーーーー
しばらくして、落ち着かぬ体を動かすために、俺も宿を出ようとした。
「お出かけですか?」
「ああ、少し街を回ろうと思ってな」
「ご一緒してもよろしいですか?」
ロウランにそう尋ねられ、少し不可解に思いながらも了承した。
彼と連れ立って街に出る。これから戦場になるとは思えぬほど、街は賑やかだった。笑い声や商人の掛け声が入り混じり、風が祭りの余韻のように心地よく通り抜けていく。
「この街の人々はどうするんだ?」
「狙いは教会にある『爆槍』。その付近は避難を呼びかけますが、それ以外の方々が知ることはありません」
「なぜだ? 危険が及ぶ可能性は十分に高いだろう」
「ここまで生活を続けてきた住民たちに、それを強いるのは酷です。だからこそ――我々が完全に相手を防ぎます」
ロウランの声には確かな覚悟があった。
年齢を重ねてなお、その眼には一切の衰えが見られない。むしろ、その瞳の奥には長年の経験と責務が積み重なった強い光が宿っていた。
やがて足は湖のほとりへと辿り着く。水面は青く輝き、いくつかの釣り竿が静かに揺れていた。
「釣りでもやりますか?」
「できるのか?」
「道具を借りることはできますよ」
そう言うとロウランは湖畔の小屋へ向かい、中にいた男へ声をかけた。どうやら旧知の仲のようで、笑い声が絶えない。
やがて釣り竿を二本携え戻ってきた。促されるまま俺も湖面へ糸を垂らす。この世界で釣りをするのは初めてだったが、手の中の感覚はかつてのそれと変わらなかった。
隣ではロウランも釣り糸を垂らし、二人でしばし青く澄んだ水面を見つめる。
やがてロウランが、不意に切り出した。
「ルシアさんと、何かありましたか?」
唐突な問いに、俺は思わずロウランの顔を見た。
脈絡のない話題――だが、あまりに核心を突いていた。
「図星のようですね」
「勘が鋭いどころじゃないな……あんた、何者だよ」
「ただの隠居した年寄りですよ。それより――」
ロウランは微笑を浮かべ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
彼がこの街に来て以来、ルシアが幼いころから教会に身を置き、シスター見習いとして尽くしてきたことを語り始めた。
「彼女は孤児院出身なんですよ。親元はなくても、背負った『祝福』に込められた期待はあまりに大きかった」
その言葉に、俺は昼間のルシアの横顔を思い出す。
静かな微笑の裏に、孤独と義務が滲んでいたことを思い出していた。
「きっと、これからも彼女はこの街に尽くすでしょう。そして教会でさらに立場を築いていく。……けれど、それはあまりに酷だと思いませんか?」
「ルシアは、それが自分の役目だと言っていたが……?」
「それは役目であり、責務です。ですが、彼女は本当はもっと世界を見て回りたい。……ただ、背負っているものを手放せないだけですよ」
ロウランの声は、どこか遠くを見るように静かだった。
きっと彼自身も、責務を終えて初めて見えた“自由の意味”を知っているのだろう。
「一度、背負ったものを外すだけで、見える世界は変わります。だからこそ――ダレンさん、あなたにそれを頼みたいのです」
「なんで俺なんだ? その口ぶりからすると、あんたの方がよほど付き合いが長いんだろう。ロウランがやればいいじゃないか」
「ダレンさんが適任です。私はもう退いた身ですし……それに、あなた方は似ている。互いに欠けたものを補い合える関係になれると思っていますよ。――お、かかりましたね」
ロウランは俺を見もせず、竿を軽く引いた。
水飛沫を上げ、脂の乗った大きな魚が吊り上げられる。
結局、俺はロウランの言葉に返す間もなく、釣りでも何も掴むことができなかった。
釣り竿を返し、宿へと戻る道を歩く。ロウランは釣った魚を素手でぶら下げたままだった。
教会の前を通りかかると、ちょうどロイスの姿が見えた。
こちらに気づくと、彼は慌てて姿勢を正し、深く礼を取る。
「ダレン君、ロウランさん。お久しぶりです」
「ロイス殿、そんなにかしこまらなくて結構ですよ」
「いえ、それはいくら何でも……」
「二人はどういう関係なんだ?」
妙にロウランに対して礼儀正しいロイスの様子に、俺は首を傾げた。
二人は顔を見合わせ、苦笑を交わす。
「ロウランさんは、元神殿騎士団長だよ。私の先代でね」
「……そう、だったのか?」
「もう隠居した身と申し上げたではないですか」
思わず息を呑む。
ただ者ではないと思ってはいたが、まさか元団長だったとは――。
ロウランはただ静かに笑みを浮かべるだけで、誇示する様子もなかった。
いくらか近況を話し、別れ際までロイスは姿が見えなくなるまで礼を取り続けていた。
「ロウラン、いい性格してるな」
「そうでもありませんよ」
そんな軽口を交わしながら宿へと歩く。
その道中、絹のように輝く白髪と、光を受けて淡く煌めく金髪が視界をかすめた。
はっとして顔を上げる。碧眼がこちらを見つめ返していた。
「……ダレン?」
クラリスが小さく名を呼ぶ。
その眼差しがまっすぐ俺を射抜く。
俺は、目を逸らすこともできぬまま、その瞳を見つめ返していた。




