一話 異郷の地
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暗闇のように、何も見えない視界の中で、騒がしい声が響いていた。
ーーあの後、俺はどうなったのだろうか。
自分の体から流れる血の匂いと、闇夜に輝く星を思い出す。
確かに、あのとき俺は「死」を感じたはずだった。
ーーだが、この感覚は……。
小さく重い瞼を持ち上げると、視界の端に異様な光景が広がっていた。
頭上から見下ろす、大きな男女の姿。
誰だ……この二人は。
病院の人間には到底見えない。バスローブのような衣服を纏い、そこから覗く表情は真剣そのものだ。
ここが病院ではないことだけは、すぐに理解できた。
咄嗟に声を出そうとしたが──
「あ、あう……」
口がうまく動かない。声も舌も、自分のものではないように言うことをきかない。
慌てて手足を震わせたとき、俺は見てしまった。
異様に小さく、柔らかく、白い手のひら。
まるで赤ん坊のような小さな手。
「……っ」
事実に混乱し、指先が震えた。
「~~~」
「~~~!」
大きな男女の会話らしきものが耳に届く。
しかし、それは「聞こえない」のではなく「理解できない」言葉だった。
異国の言語か、それとも……。
俺は呼吸を整え、あたりの状況をもう一度観察する。
女性は涙を浮かべながらも、嬉しそうに笑っていた。
男性は嬉しさと同時に、不安を隠しきれないような複雑な表情をしている。
まるで今にも壊れてしまいそうな宝物を、必死に抱きしめるかのように。
耳に入る言葉は、感覚として「呼びかけ」だと分かる。
だが意味はまったく分からない。
ここは夢か、走馬灯か。
理解できない光景に、現実感が揺らいでいく。
ーー生きている? 死んだはずじゃ……。
困惑し、身振りで何かを知らせようとする。
しかし、何を勘違いしたのか。女性が俺の体を抱き上げる。
「あ、あう。あう!」
必死に抵抗しようとするが、力をまったく出すことができず、俺はそのまま諦めた。
まずは状況把握のために、この場にいる人物を見た。
女性は外国人のような彫りの深い顔立ちに、長い茶髪と黒目。
誰が何と言おうと美人と呼ばれる類の人物であった。
対する男性は屈強な体に鋭い眼光。短い黒髪を携え、明らかに並の人物ではないことを悟った。
しばらく抱きかかえられた状態に甘んじていると、扉がゆっくりと開く。
そこにはメイドのような恰好をした若い女性と、その後ろに少女が立っていた。
「~~~」
何かを女性に話しかけると、母らしき人物は残念そうに俺を降ろす。
やっと解放されたと思ったとき、メイドの女性が慣れた手つきで俺の世話を始めた。
体を拭かれ、オムツのようなものを履かされる。
この異様な状態に慣れてきた頃、頭の中でようやく状況が整理されてきた。
──俺は、あの時、死んだ。
そして今、赤ん坊として転生している。
最初の男女は、この体の両親なのだろう。
だが、疑問は尽きない。
ここはどこなのか。なぜ俺は転生したのか。
死を「救い」だと感じた俺に与えられた二つ目の生。
ーーいわば呪いのようなものだった。
世話を終えると、メイドたちは礼を取り、扉を閉めて部屋から姿を消した。
「~~~」
透き通るような茶色の髪が揺れ、黒い瞳がまっすぐに俺を見つめている。
その眼差しには、優しさと慈しみが宿っていた。
言葉は分からない。
それでも伝わる温もりがあった。
その温もりに、俺の暗い考えは頭の隅へ追いやられる。
「あう、あう……ま……」
彼らと会話をしようとしても、言葉が届くことはない。
女性は無意味に声を発そうとする俺を見て、口元を緩ませて笑った。
傍にいる男性はその様子をじっと見つめている。
その力強い眼光は冷たさを感じさせ、俺の体は自然と震える。
だが、その瞳の奥には確かな優しさが垣間見えた。
やがて母は歌を口ずさみ始める。
不思議とその旋律に、瞼が重くなっていく。
考えたいことは山ほどある。
諦めたはずの俺に再び与えられた二度目の生。
疑問は尽きない。
だが今は眠るしかない。
身体も心も、赤ん坊として委ねるしかないのだ。
俺は女性の温もりに包まれながら、静かに意識を手放した。
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赤ん坊として目を覚ましてから、すでに数か月が過ぎただろうか。
もう夢から覚め、元の世界に戻ることはないと悟っていた。
だが同時に、奇妙な興味が芽生えていた。
自分は誰で、ここはどこなのか。
その答えを知りたいという好奇心が、今の俺を辛うじて保たせていた。
「あう! あう、うう」
「~~~!」
俺はハイハイをしながら部屋の中を観察していた。
その後ろを、心配そうに追いかけてくるのはメイドの少女。
この構図は、もはや日常の一部となっていた。
ここはおそらくリビング。暖炉とテーブルがあり、壁際には火のついていないランプが規則的に並んでいる。
こうしてよく家の中を這い回っていると、ひとつ確かなことが分かった。
ーーこの家は、相当広い。
父は妙な威厳をまとった人物だ。
よく家を空けることが多いが、相当な地位にあることは明白であった。
そんな折、急に体を持ち上げられた。驚いて抵抗する。
「あう! ああう!」
「~~~」
「~~~!」
俺を抱き上げたのは、白髪の目立つ中年の男性だった。
彼は執事のような立場らしく、あのメイドたちを従える姿からして、この屋敷における筆頭であることは間違いない。
抱きかかえられたまま視線を巡らせると、母の姿があった。
彼女は俺を見つけると目を細め、優しく微笑む。やがて執事と入れ替わり、俺を抱き上げ、窓辺へと歩みを進めた。
窓の向こうには、一面に広がる草原があった。
開け放たれた窓から吹き込む風が、母の髪を揺らし、陽光を反射してきらめく。
「~~~」
母は俺に語りかけるように言葉を紡ぐ。
意味は分からない。だが、不思議と心に響いてくるものがあった。
俺は広がる草原を眺めながら考える。
これほど恵まれた環境に生まれたのは、いったい何の因果か。
偶然なのか、それとも神のいたずらか。
「あう……ああ」
問いかけるように声を出すも、答えなど返ってこない。
それでも何かを感じ取れるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
母の体温。風に触れる肌。遠くで響く足音。
「ああう……」
そのときだった。不思議な「エネルギー」を感じ取ったのは。
言葉にはできない。だが確かに、体の奥底に流れ込むような力。
ーーまさか……ここは。
考えが浮かびかけるが、首を振って振り払う。
それは俺にとって「希望」であると同時に「逃げ」にも思えたからだ。
やがて夜が訪れる。ランプに火が灯り、屋敷の中を柔らかく照らす。
夕食を終え、眠りの時間がやってきた。
結局、今日も父は帰ってこなかった。
母に抱かれ、寝室へ向かう。
いつもなら、俺を寝かしつけたあと再び部屋を出ていく。
だが珍しく今日は違った。
母は俺の寝たふりに気づかず、一度消したランプに再び火を灯す。
そして椅子に腰を下ろし、一冊の本を読み始めた。
ーー本、か。
盲点だった。
言語を早く覚えるのであれば、本こそが最適だ。
「あう! あえ、あう!」
気づきを得て声を上げると、母が顔を上げてこちらを見た。
寝ていたのを起こしたと思ったのだろう。母は本を閉じて、そっと近寄ってくる。
優しく腹を叩かれるうちに、徐々に赤ん坊の体は瞼を閉じ始めた。
額に温かな感触。ランプの火が消え、闇が広がる。
謎だらけのこの世界。
この世界の言葉を学べば、きっと何かに辿り着ける。
ただし、その答えが俺にとって救いか呪いかは、まだ分からない。
俺は静かに目を閉じ、意識を手放した。
赤ちゃん言葉のバブさん、書くの難しい




